はてなキーワード: 自己承認とは
「なんでも調べられること」に疲れた (https://anond.hatelabo.jp/20210119234225) を書いた増田です。
思ったより大きい反響があって、その後リアルでもいろいろあって1つ気づいたことがあるのでここに書き留めておきたい。
タイトル通りである。どうやら私は、人生に、正解があると思い込んでいたみたいだ。
例えば、就職。今いる会社は自分なりに考え、納得して入った会社だ。やりがいもあるし、待遇も良い。
ただ、それでもやっぱり不満を覚えることがある。それは、中小企業であったり、考え方が古かったりなど、ありがちな不満だ。
そんなとき、100%満足することなんてないとわかっていながら、誰でも知っている大企業に同級生が勤めていると聞いたとき、
「あ、人生の正解はこっちだったかな」と思ってしまう自分がいた。
正直、その大企業の事業に興味はないし、自分の興味がある分野はちょっと特殊なため、そもそも業界内に大企業が存在しない。
そこまでわかっていながら、インターネットで「大企業の総合職は勝ち組」なんて記載を見ると、もやもやと妬んでしまう。
おそらく、自己承認欲求の方向と興味の方向が一致していないのだろう。興味がないのだから、今の私が何度就活をやり直したところで私が大企業に行くことはない。
自分の興味のある分野で、そこそこ良い待遇で働けているのだから、そこで今の状況に納得すればいいのに、私は「みんなに羨ましがられるような企業に興味を持つのが正解なんだろうな」と思ってしまう。
理由は、多くの人が、インターネットでもリアルでも、大企業の素晴らしさを説いているから。
そんなどうしようもない後悔や妬み、嫉みがぐるぐるしているときに、「あ、私は、『正解』に縛られているな」と思った。
インターネット上で私がよく見るまとめサイトでは(そもそもソースがまとめサイトな時点で間違っているのは重々承知の上で、これは麻薬みたいなもので読むのをやめられない)、とにかく【コスパ】のいい人生が賛賞されているように思う。できる限り少ない努力で、できる限り「羨ましがられるような」生活を送る。テンプレとして上げられるのが、都会の大学→大企業だと思う。
私は、自分の意思でそれとは違う道を歩んだにもかかわらず、「大多数が望む進路」に興味をもてなかったことに、後悔しているのだと気づいた。
大多数が望むことこそが、「正解」ではないかと思うようになってしまっていたからだ。
だから、そんな「正解(のようなもの)」が多く見える、現代の、「なんでも調べられる生活」に疲れていた。
でも、それは、「正解」じゃないんだなと、今更ながら気がついた。
アラフィフおじさんだが台本付きチケット80枚の彼のnoteでの独白が他人事に思えない。
私はいわゆる「マジメ系クズ」「意識だけ高い系クズ」と言われる属性の人間だ。
彼と同じく承認欲求からの不安で、35歳から会社の外のネットワークづくりにハマり、さまざまなコミュニティに出入りした。
人と会ってる俺すごい!人脈すごい!自己承認爆上がり!みたいな感じになった。麻薬だった。ワークショップ中毒になった。
やってる感しか無い事実に気がつかず、全能感が上がり、すごい(ような気がする)周囲の人たちに囲まれている中で「俺すごい!自己承認満たされた!」と感じるも、オフ会後に自分は何もしていない・できない・単なるワナビーでモブキャラに過ぎないことを感じて落ち込んでいた。
彼とまったく同じだ。そして私と似たようなマジメ系クズ属性の人達も、たくさんいた。みな一様に自己評価が低く、去勢を張る勇気もないので意識高い系のコミュニティに属して自分の評価を高めよいともがいていたように思う。
そしてみんなコミュニティからいなくなった。というかマジメ系クズ属性の人間は自分でも周囲からも場違いを感じとり自己消滅していった。コミュニティジプシーになった挙句、お金の法則にも引きづられそうになった(入口で立ち止まって引き返したが)
私はどのコミュニティにも居続けることができずひとり孤独になった。
意識高い系クズとして挫折して、挫折し続けて約10年が経った。友人はいない。やりたいことも見つからない。いかなるコミュニティにも属していない。
仕事をなんとか誤魔化してやり過ごして、ご飯を食べてネット見て寝る。10年前の私でじゃは考えられない意識の低い生活。
アラフィフでコレだ。取り返しのつかないところに来てしまった。その一方で無理しない自分に心地良さを感じることもある。
マジメ系クズというと酷いゴミクソ人間のように思えるが、マジメ系クズだと思わなければ、普通の生活ではないか。
身の丈や置かれている環境に沿ってひっそりと生きるのも、否定も肯定もしなければ、生きてはいける。比較や競争、承認欲求から距離を置ければ、目をつむって生きることはできる。
いくら金があっても足りない
地方は地方で楽しみはある。まぁでも都会的な楽しみが大好きな人には地方は受け入れ難いのはわかる。
とある地方に住んでたときは市民でも町民でもない、村人になった。むらびと
村人なんて昔話の世界しか知らなかったから自分が村人になったときはウケた。
○○村っていう村に住んでた村人やってたんだよーって人にはなすときの良いネタにしてる。
セックスが体の良い娯楽で、肉欲に飢えてる人を相手にしてセックスを楽しんでいた
村人やってたときの最大限の娯楽がセックスだったな。自己承認欲求や自己顕示欲、性欲等色々と満たされる。人肌は癒し。人肌セラピー
東京は人口が多過ぎて、人混みが苦手な人には地方が良いよ。落ち着いてるよ。
価値観は人それぞれ
元の増田を書いたものです。こんなネットの片隅の独り言に反応があってちょっと嬉しいです。
で、教えてもらった前作を読んでみたんだけど、確かに、あれはミノリさんの物語だね。
「『チェイサーゲーム』のプロデューサー編は完全に悪の負荷として描いていてこの後の倍返しに繋がる展開というか手法ですからね。『例の漫画』はどちらかというと『映像研』的な覚悟と信頼の物語だと私は思いました。
https://twitter.com/PIROSHI_CC2/status/1316677343117602818
この評価が正しいと思う。
第1話においては、カナメ社長によるミノリさんへの信頼とミノリさんによる自己承認の物語。
で、第2話においては、カナメ社長によるチヒロさんへの信頼とチヒロさんによる自己発見(途上)の物語。ミノリさんはどちらかというと読者視点だけど、ある種のバランサーでもあって、また、チヒロさんから刺激を受けて発奮するという三者間コミュニケーションの一員ともなっている。
そんな風に思うよ、僕は。
あと、チヒロさんがどういう人かって話だけど、自負もすごいけど、他者から評価されたい人でもあるんだと思うよ。「自分で自分を評価するから他者の評価はどうでもいい」ってタイプじゃ全然ない。ある種の生真面目も相まって、「他者から求められたい。他者の求めに応えたい」というタイプ。だから、チヒロさんはカナメ社長に「お前の望みはなんなんだ」と思ってた。
カナメ社長に言わせれば、「見たこともない景色を見せてくれ」ということであり、「見たこともない景色ってなんだ」と言われてもそれ以上答えようがない。だって、見たこともないんだから。ただ、完全に突き放しもせず、「欲しかったら助け船だすけど?(でも、要らないでしょ?)」という態度。この辺が信頼だよね。
で、チヒロさんはカナメ社長の真意をそこまでわかってないんだけど、じゃあなんで、それでも頑張ったのって、いうのは、負けず嫌い=難しい課題ほど燃える、という性格なんですよ。「わたしたちにできないことをやって欲しいとうのが要求だ」と言われ、「よし、やってやろうじゃん」って思ったわけですよ。そこに山があるから挑戦したいんですよ。