はてなキーワード: 耳をすませばとは
https://anond.hatelabo.jp/20180124221748 を読んで現場は大変なんだなと同時にそういうものを書き込んでくださった増田さんに感謝している。
大変そうだけれど、無理しすぎず、ほどほどのところで過ごして欲しい。
それだけじゃ何なので、掲題通りである。
一時期入り浸っていたことがあるので記憶のある限り書いてみる。
小学校は何回か転校していたため、正直各学校の独特の匂いとやけにじめっとした、あるいはやたら日当たりの良い図書室の壁に添って作られた本棚を思い出す。図書カードの置かれたあのカウンターだとか。おとなしそうな図書委員だとか。似たような雰囲気だなあと思っていた。
低学年の頃は授業時間に行く以外では寄り付かず、気が向けば学級文庫か自宅にある本を読んでいた。
その頃好きだったのは大判で、フルカラー写真が多く載っていたこまごましたものが特集されていた本だった。
ただ眺めているのが楽しかった。シリーズで何冊かあったが、色で分類されていたと思う。漢字で書かれていたテキストの部分も気が向けば適当に読んでいた。
不遜な子どもだったので、およそ感想文の類を提出したことがなかった。課題図書もふーんと眺め一度だけ気になったものを借りたか買ったかした程度だった。
自宅では主にオカルトに凝っていた時期だったと思う。魔女とか怪談とかそういうものを読み漁っていた。
なんとなく耳をすませばを思って、半年かけて図書室の本を全部読んでみた。伝統ある学校に比べたら冊数はそれほどでもないと思う。普通教室3部屋程度。読んでみたが読んだはずの本でもおぼえていない本が結構ある。
きっとその頃は読み切ることが目標だったのだろう。それでもいまだにその頃出会った作家で読み続けていたり、何冊も装丁違いで購入した本があることはひとつの宝物だと思っている。
あとすべり止めで受けた私立高校の入試で読んだことのある作品が題材だったのも愉快だった。
そこから高校までで多いときは一晩に文庫8冊。一番かかったのが篠田節子氏のハルモニアで2日だったと思う。
なんとなーく早く読めるようになったりもした。あの数年間は登下校時にも本を手放さなかった。
勉強はあんまりしなかったけれど、勉強せずに中学2年で漢字検定2級が受かる程度には知識も増えた。
当時は図書カードがあったので、誰がどの本を借りたのか分かるのも面白かった。天沢聖司にも月島雫にも出会えなかったけれど。
ここ数年で文庫化された書籍も当時はハードカバーで、月に10冊前後は購入されていた。それを片っ端から読みつつ、すでにあった蔵書も読んでいた。
多感なお年頃なので、性描写のあるものに出会うと成人指定の境界ってどこやねんと思ったりしながら読んだ。(し、本屋に行けば女性向けのBL小説は性描写があっても普通に買えた。謎だ。凝り性なものでそちらもだいぶ読んだがこちらは卒業したかもしれない)(コバルト文庫でも結構あると思う)(基準が謎だ)
野中柊氏のダリアとか、ドキドキしながら読んだ。今思えばかわいいものだ。
後宮小説なども読んで良いのかなと思いながら読んだ。
地元の公立高校で初めて、司書さんという存在を校内に認識した。いつも白衣をまとった女性で、図書館以外にもいるんだなと思った。その学校では希望があればCDなども購入していた。
アングラっぽい写真集や当時走りだったライトノベルを一式入れてくれたりもした。(その後、メディアミックスされた各作品の初版本が揃っていたため、数年後盗難にあったそうだ。嘆かわしいと同時に初版本に価値を見出す感覚がまだあるのだなと感じた)
同時に、遠野物語をはじめとする民俗学やら薔薇の名前やらを借りまくっていた。
学業に励む生徒にとっては、赤本がずらりと並んだ赤本専門の小部屋があるのも魅力だったかもしれない。
その頃は読んだなあというほどは読んでいないと個人的には思っている。
ただ、気になっていた本たちをするする入れてくださった司書さんには当時も今も感謝している。
森博嗣氏のシリーズもいくついれてもらっただろうか。講談社ノベルスがやたら充実していた。
お小遣いでは追いきれない本たちをあの時期に読めたことには感謝しかない。
ちらほらある小説もだいぶ前で時が止まっている。
大型書籍は比較的充実していたが、借りるには重いので閲覧のみとなる。
専門書も同じく時が止まっていた。
半地下で静かで独特の雰囲気が好きだったけれど、およそ学業のための空間ではなかった。
卒業後も利用できるということだったが、生憎地域の図書館の方が便利であった。
今につながる本の思い出。
急接近したり、離れたりしつつも、どんな格好であれ図書室・図書館は存在してくれればいいなと思う。
読む子は何をしても読むし、読まない子は読まない。
ひどいようだがそんなもんだよなと思う。
あるときブログで家族から勧められた本が という記事を見て、自分の家ではない習慣だなと思った。
家の中にある本は読みたいだけ読んだ。隔離されているような本も気になればこっそり読んだ。
教育機関にあったら驚かれるかもという本もリクエストして入れてもらえれば読んだ。
面白かった本を教えてと訊かれたら100冊くらい列挙できた(今はどうだろう?)
それだって、きっかけは耳をすませばだ。(個人的な気質はあるにせよ)
こういう本が読んでみたいなと思って書いたこともある。
作文はからきしだけど、幸か不幸かある程度蓄積があるので大学教員には高評価だったりもした。
もうちょっと器用だったら桜庭一樹氏のようにアウトプットにも使えたかもしれないが、そこに愛が足りなかった。
ルールのあるなか、大変苦しんでらっしゃる元増田さん越しに、学生時代、本を介してお世話になった司書さん司書教諭の先生方には感謝を伝えたい。
思えば、落ち込んで図書室にこもっていたような日もあったと思う。
期限通り返せなくてお手間を取らせたこともある。申し訳なかった。
これを読んでというわけないじゃないが、最近(でもないが)ハッピーエンドとかバッドエンドとかがわからなくなった。
例えば、『秒速5センチメートル』とか、私はハッピーエンドだね~と思ったけれど、世の中では胸糞らしいし、『かぐや姫の物語』も私はすごい上級のハッピーエンドじゃん……!と感動していたら、ツイッターでものすごいバッドエンドって言っている人がいて驚いた。
というか、見る側にとっての、ハッピーエンドになるための目標スコアが高まりすぎていて、なんでもバッドエンド扱いにしすぎじゃないのか?という。
で、結局、思ったのは、私の思う"ハッピーエンド"ってハッピーどうこうよりただの私の"好きエンド"なんじゃないかってことだ。
物騒な言い方だが、私は人の死ぬ話が好きだ(スプラッタものとかではなく)。報われない話が好きだ。結ばれない恋の話が好きだ。
で、そういう要素があると、私的には"ハッピーエンド"になるのである。
逆に、たぶん世間的にハッピーエンドなんだろうなあと思っても、個人的に好きではない話とかももちろんある。そりゃ誰でもそうだろって話ではあるが。
例えば、『ゆりかごを揺らす手』とかは、ベビーシッターの金髪美人の思うままになって終わったらそれはそれで好きかもと思うし、『耳をすませば』も『秒速~』みたいにウダウダして何もないまま終わってたらもっと好きだった気がする。
ただの、アンチハッピーエンドなのかもしれないが、とにかく、個人個人でハッピーとかバッドとか変わる基準ではなく、これからは「私が好きなエンド」基準で生きていこうと思った。
「この漫画がすごい!」はもう飽きたんですよ。
一発ネタが限界だったんです。構造的に問題があるんですよ。何故なら、この漫画がすごい!が主観に基づいていればそれはもう単なるオナニーだし、この漫画すごい!を客観に基づいたものにしょうとすればそれはメジャー作品を再評価するだけのオナニーじゃないですか。もうね審査員がシコシコしてる音が聞こえてきますよ。ほら耳をすませば聞こえるでしょう。
じゃあどうすれば俺は満足なのかというね。この漫画がすごいと言われている理由がわからない!を選ぶべきなんです。でも今更ワンピースやハンターハンターを叩いてもそれはオナニーでしょう?セックスにはなりえませんよ。セックスにするにはリアルタイム性がいるんです。そこでその年ごとにやたらと評価されているけど何かおかしくね?って作品を選んでそれを評価するのが正しいのかを語り合うんですよ。
たとえば今年ですと「僕たちは勉強ができない」なんて中々のものですね。とはいえランキングだと9位ぐらいでしょうか。1位や2位に選ぶような作品はすぐには思いつかないものです。パっと思いつくようでは駄目なんです。ただのワンピース批判で終わってシコシコっとなるだけです。僕勉(僕たちは勉強ができないの一般的な通称。はがないと略されるのを狙ったはずの作者の思惑をぶち壊す辺りに漫画読みの陰湿さが現れてますね)はですねえ……何ていうか漫画として未熟なんですよ。未熟だからこその荒削りな面白さを評価している人も多いんでしょうが、むしろそれは未熟さを愛してしまっているんだと思うんです。漫画として面白すぎないことに安心感を覚えている層がいるんだと思うのですよ。稚拙さへの愛好。たとえばフェラチオはたどたどしい方が良いっていう気持ちわるい話ですね。そういう気持ちの悪い童貞的な、相手が垢抜けていないことに対するフェチズムによってこの漫画は支えられているわけです。同じジャンプだとヒロアカも似たような方向性ですよね。
おっとっと語りすぎました。あまり長く語ると長いというだけで読まれなくなってしまう。それはたとえばゴルゴ13やこち亀が長すぎて手に取られなくなってしまうようなあの現象です。今回はここら辺で終わりにします。いつかまた機会があったらもう少し先の話をしましょう。
小学一年生の時だったと思うが、通学路の途中で赤くて艶のある小さな巾着袋を拾った。今思うとサテンの生地でできたアクセサリーか何かの入っていたただの袋なのだが、その時は魔法の宝物の見つけたような気がして、こっそり持ち帰った。
「耳をすませば」の雫が猫を追いかけるうちに素敵なお店にたどり着いたような、特別な出来事の始まりだと思った。選ばれた人にだけ天から落ちてくる魔法の道具じゃないかとか色々想像を巡らせていたのだけど、そのうちビー玉をしまったりするようになった。
学校での出来事はほとんど覚えてないのに通学路の出来事の方が色々覚えているのはなぜだろう。
歩道橋を渡るよう親や先生に言われていたのに歩道橋の下の横断歩道もないところを渡る友達に付き合ってしまった時のドキドキ感とか。ある男子との仲を冷やかされてその男子を上靴入れで思いっきりぶん殴ってしまったこととか。水の無い用水路に出没する狸に給食のパンの残りをあげたこととか。
学校での出来事と言えば3年生の頃クラスメイトのA君がいないと先生が探し始め、教室の後ろのランドセル入れの棚にA君が入り込んでいたことは覚えている。発達障害の話を耳にする度に、彼は発達障害だったのだろうなぁと思い出す。
努めて何かの仲間の中に入ろうとしていた学生時代から何年もたつけれど
そもそも、学生時代のころも心の底から楽しんだことがあったろうか
誰かに好かれなければいけないという、
今日、かつて自分が背中を預けた友人から、1年ぶりの食事の誘いが来た時に
「面倒くさい」
そう思った自分がいた事に驚いている
友達ってなんだろう、
"理由もなく会えるのが友達で、理由がないと会わないのが知合いで、理由をつくって会いたくなるのが好きな人。"
なんてあるけれど
理由もなく会いたいと思う事もなければ、人と会う理由も考えつかないし、理由を作って会いたい人もない
人に会わずに一人で生きたい
一人で美しい自然を見つけた時に充実感を覚えて
自分一人で出来ることが増える喜びが
人と喜びを分かち合う事より大切で
人恋しさをもう何年も感じていない
大人になってもまだ、子供のようなわがままをいう人々にうんざりしているのか
自分のわがままに、うんざりしながら付き合ってもらうつもりもない
自分勝手にやるために、誰も関わらないところに行って、自分一人で味わいたい
人と会いたいと思う人はぜひ教えてほしい
また会いたいと思う仲間達には何を望んだら良いのか、そして何を望むのか
私は退屈したくない、退屈させたくない
もちろんあるよ。
デビュー作は荒削りで良かったのにそこから変にまとまっちゃってダメだとかね。
最初は売れなかったけど路線転換してヒットした作家のその初期作が好きだったのに、とかあるよね。
逆に売れ線描いてた頃は好きだったけど趣味に走ってダメになった、とかね。
他の作品はダメだけど、この作品だけ奇跡的に自分好みの要素を詰め込んでいる、みたいなパターンもある。
個人的にはガンダムSEED DESTINYなんかがその枠。
うーん、まあGODにコアなファンが付いてるのは分かるけど俺は違うし、他の大多数のラブライバーも違うと思うぞ…
たとえば「耳をすませば」が好きでも「近藤喜文の作品が好き」とは言わんよね。
最近観た映画だとBvSが好きなんだけど、じゃあザック・スナイダーが好きなのかと言われれば別に…
DCEUの雰囲気は全体的に好きだけどね。
ゲームだとか、まあ中にはプロデューサーが前に出てきてるのもあるけど、
ヒット作品、何かの賞を受賞してる作品、クリエイターがよく挙げている作品、ネームバリュー等々……要するに「よく語られてる作品」をリストアップしていたらあっという間に100を超えてしまったので、ちょっと手を加えて100作品に調整してみた。正直なところ100だと枠が全く足りない。映画だけで絞ってもだ。
オールタイムベストではないので、ここに載ってるから優れているとかそういう意図はないです。
男子は女の子の漫画とか見てはいけないし、語ってはいけない風潮があった。
セーラームーンもそうだ。
自分は当時エアガンとかいわゆるミリタリーのことにしか興味がなかったが、あずきちゃんだけは別だった。エアガンの話をできる友達はいたが、あずきちゃんの話をできる友達はいなかった。あずきちゃんを観たいし、話し相手も欲しい。
結局その願いはかなわず、高校生になり耳をすませばに出会ってそこからは耳をすませばになったが、相変わらずこの手の話ができる友達はできなかった。
そして大学生になり、科学者を目指し大学院にすすみ、博士課程まで行ったがついぞあずきちゃんや耳をすませばの話ができる相手は見つからなかった。
国際学会では日本好きな外国人のオタクもいるのでその話をしようかとおもったが変態扱いされるのを恐れ、言えなかった。
社会人になり、30超えたのでもうあずきちゃんの話はできない。下手すれば小学校・中学校あたりの同級生ならそれぐらいの子どもがいてもおかしくないぐらいだ。
どこだ。どこで俺は選択を間違えのだ。
地味めのシーンから始まって、ブワーッと世界が広がった時の快感は得難いものがあるのも確かだがな。
冒頭に見せ場のシーンを持ってきて作者の技量のほどを見せつけて、先のシーンを予告して読者の期待を煽るのと同時に、作品の方向性を示す重要性は増していると考えねばなるまい。
無論、アクションシーンでなければならないという事はない。
要は、先まで読めば面白くなるのに早めに見切りをつけてしまって結果的に損してしまう事を避け、
また逆に、合わない読者が先まで読んだ時に「期待したのと違って時間のムダだった」と思わせない効果が見込めるシーンであればいいのだ。
なお、ちょっと意味合いは違うが、耳をすませばのポスターみたいに本編の方向性と関係ないファンタジックな画で期待を煽るようなのは詐欺なので良くない。
ラストではなくてペジテのアスベルのセリフ「火と水に調和を 敵意はない」に集約されているのではないか
墓所の存在は『浄化した世界到来の暁に人類という種を生きながらえさせるための希望』といいながら、
墓所はカーバ神殿のようにも見えるが、実際のところ、原子力発電所のようにも見えなくもない。
ナウシカの連載が始まったのは1982年2月から幾度かの休載を挟んで1994年3月に完結しているが、
そのあいだ、1986年4月にはチェルノブイリの爆発事故が起きており、
1995年には毒にも薬にもならない『耳をすませば』と同時上映で『On Your Mark』が発表されている。
3.11の後は「原発ぬきの電気で映画をつくりたい」の横断幕で物議を醸したが、
原子力発電所は火と水に調和をもたらさない。でも、自身はどうしようもなくミリタリオタクで