はてなキーワード: 無責任とは
「あなた専門家ではあるんだろうけど、分野は微妙に違うでしょ」という人が私この分野の専門家なんですけど(どや)って感じで語りだす光景を個人的にこう呼んでる。
大体そういう人は「聞き齧った知識で微妙にから結構間違ったことをいうんだけど、無責任に断言したり世論に媚びる意見をいいがちだから専門家の権威がほしい人だけの素人にめちゃくちゃうける」という光景をTwitterあたりではよくみる
あまりメディアや本人たちが語らないし、当事者たちしか知らないような法律なんだけど、りゅうちぇるの離婚って性別変更の法律のせいだったんじゃないかなって。話題になってる今だからちょっと話そうと思う。
自分は性同一性障害特例法で戸籍の性別変更した身なんだけど、りゅうちぇるが離婚して「新しい家族の形」についてバッシングされているときに、まず性別変更要件が思いついて、すぐに「今の法律だと仕方ないよね」と納得した。性別変更したいときって、実は手術だけじゃダメで、結婚してても未成年の子どもがいてもダメなんだよ。あんまり知られてないけど。
だから、離婚したくなくても、書類の性別を変えるためには、離婚しないといけなくて、子どももいないことにしないといけない。実態は、何も変わらず家族として暮らしていても、ただ離婚したことだけを無責任だってバッシングされるなら、なんかつらいなぁって、あのとき思った。実際のところは本人たちが語ってないからわからなくて、自分の想像だけど。
第三条 家庭裁判所は、性同一性障害者であって次の各号のいずれにも該当するものについて、その者の請求により、性別の取扱いの変更の審判をすることができる。
一 十八歳以上であること。
二 現に婚姻をしていないこと。
今までこの要件を変更するための裁判がいくつかあって、とにかく子どもがいたらNGだったのが、子どもが成人したらOKにするとか少しは変わったけど、同性婚や同性カップルで子どもを持つことが法律や社会で認められてないから結婚や子どもの要件は無くなりはしなかった。同性婚の話はこういうところにも繋がってくる。自分は戸籍の性別が違うことによる苦労が多すぎて、色々諦めてやりたくなかったことも法律の要件に合わせて、裁判して戸籍変更したけど、この要件が変わるといいなって今も思ってる。書類の性別が違うと本当に苦労するんだよね…。昔の当事者の人たちが苦労して法律を作ってくれて、未来の自分たちが生きやすくなったから、自分も後世にそれを繋いであげたい。もう性同一性障害で戸籍変更した人って、1万人以上いる。当事者以外のみんなにも少しは知ってほしいかも。そしたら少しは世界が変わりやすくなるかもしれない。
参考:令和2年(ク)第638号 性別の取扱いの変更申立て却下審判に対する抗告棄却決定に対する特別抗告事件
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/733/090733_hanrei.pdf
嘆かわしいことだ。
子供向け漫画雑誌のウンコの話や、少女雑誌のイジメの話、老若男女の悪口を毛嫌いして、それを止めさせれば世の中が良くなると思い込んでいる。
何を勘違いしているのだろうか。
モラルを強制することにより社会が改善すると本当に信じている?
下品な表現を抑圧し始めればそれはヒートアップして、いずれはより穏当な表現までも表に出すなと求めるようになる。
最後には体制側に反対する表現はすべて秩序を乱すとして規制対象になり健全な民主主義が崩壊する。
わずかな例外が蟻の一穴となって表現規制への道へと転がり落ちていく危険があるからだ。
犯罪ではない行為をモラルの名のもとに断罪して抑圧するのは、近視眼的な正義感を満足させるだけの幼稚な道徳心の発露だ。
そうやって安易に他者の表現を封殺する行為に対して、悪い表現に触れた人間は感化されて悪い行いをするようになるだとか、価値観のアップデートが必要だとか、やたら根拠の薄く優先度も低い想像上の危険性を持ち出して、過剰にその行為を肯定するのをやめろ。
悪い表現を虱潰しに叩いていけば世の中は今よりもマシになるなんてのは、ワテクシにとって不快な表現を排除すればワテクシが不快になることもなくなるという極めて浅はかな短絡思考でしかない。
それに気づかずひたすらに表現への攻撃を続ければ、いつかは誰も何も思ったことを自由に表現できない世界に辿り着く。
そこに待つのは権力者が自らに逆らう者の口を塞ぎ支配体制を確立した完全な独裁と、さんざん理想としてきたはずの「上品な表現」すら自由に発言することのできない暗黒の時代である。
表現への抑圧は無責任なチキンレースでしかなく、そこに本当のモラルや道徳が生まれることはない。
表現の自由への攻撃を社会の進歩に必要なことと偽って推し進めようとするのをいい加減やめろ。
それがどんなに危険なことなのか、あらゆる表現はその内容の優劣に関わらず、最大限に守っていかなければならないという理念をなぜ理解できないのだろうか?
嘆かわしいことだ。
子供向け漫画雑誌は相変わらずウンコの話をしていて、少女雑誌はイジメの話をずっとしている。
老若男女が誰かの悪口を言い合い、それを健康的な雑談だと思いこんでいる。
何が楽しいのだろうか。
モラルに縛られることを拒否することにより自己効力感を回復しようとしている?
下品さそのものを求めればそれはヒートアップしてより過激で非常識なことを求めるようになる。
全裸で人前に出るのは犯罪だが、ピアノで股間を隠してチンコで鍵盤を叩くのならば許されることをビッグアイディアとして褒めたたえる幼稚な遊びだ。
そうやつてギリギリを攻める行為に対して、禁忌だとか挑戦だとかのやたら仰々しい価値を持ち出して過大評価をしあうのをやめろ。
度胸試しなんてのはそれをするぐらいしか価値を証明する手段を持たないワテクシへの自己憐憫でしかない。
そんなことをすればかえつて自分達が傷つくだけだ。
その傷への癒やしを下品さに対する賞賛で補おうとすれば、いつかは裁判所に辿り着く。
そこに待つのは法による裁きと、さんざん持ち上げてきたはずの人間からの冷笑軽蔑嘲笑侮辱である。
下品さの高めあいは、無責任なチキンレースでしかなく、そこに本当の友情や尊敬が生まれることはない。
イッキ飲みで人を殺したり、パワハラで人を殺したり、ネットリンチで人を殺したり、そうやって殺し合うことの何が楽しいのだろうか?
「下品なのはテメーの方だーヒャッハー」とコメント欄で下品な袋叩きにあったので、最後の一行を削りました。
子供が出来るのを知らないとか、子供が出来たら責任が生まれるとか、そんな諸々を知らないから
生中出ししてるわけじゃなくて、シンプルにしたいからしてるだけなんだよな
けど基本的にはそうなんだよ
『ジョジョの奇妙な冒険』における正義の定義。
◆目の前の恐怖に屈しない勇気
◆弱者を思いやる優しさ
◆悪質・卑劣・無責任な言動や思想を批判・糾弾する誇り高い意思
https://dic.pixiv.net/a/%E9%BB%84%E9%87%91%E3%81%AE%E7%B2%BE%E7%A5%9E#h3_0
弱みに付け込み他の積極的自由で得られた思想の押し売りをして選ぶのは自由だからという無責任な自由
しかし聞かれたら答え、思想を共有し今ある自由についても常に懐疑的な姿勢
数年前に経営していた会社でクーデターが起こり私は会社を辞めざる得ない状態になった。
私が会社を追い出された理由は、税理士の指示に従って仕事場兼自宅であった物件を会社の経費で5割ほど支払っていたことと株主配当を受け取っていたということだった。
取引先との会食やタクシー利用などで必要だった経費が一般社員からすると贅沢に映ったこともあっただろう。
当時の私は資本金を100%出資しており、それ相応のリスクを背負って会社を成長させて社員を雇用していたつもりだったが、社員として雇用していた人たちにとっては役員である私の家賃の一部が会社から支払われていることや配当を受け取っていることが不平等に感じたようだ。会社としての歴史もまだ浅かったので会社のキャッシュを増やし経営を安定化させるために節税対策として行っていたのだが、それが使途不明金の横領扱いとして取り上げられ全社員の前で弾劾裁判をされるような状態になってしまった。
当然私のそれらの経費が横領などにあたるはずもなく合法かつ常識的な範囲であることや、出資者や役員と正社員雇用されている人達とは立場や条件が違うということも説明したのだが、私以外に役員や出資者はおらず、株式会社の仕組みや税についての知識をほとんど持ち合わせていない人達が徒党を組んでクーデターを起こしたこともあって、取り付く島もないまま会社は運営不可能な状態となってしまった。
給与は世間の同規模の会社と同じか少し上くらい、休みは年間120日くらいだろうか。その上で会社の売上規模や雇用数、社歴のバランスを見て設計していたつもりだが、それでも不満が噴出し、現在の給与に対しても自分たちはもっと貰うべきだという主張や、平均以上貰っている人間から「まだ実績と社歴が浅い人間も期待値を込めて実力以上に上げるべきだ」と一部上場企業の給料水準のグラフを見せられながら語られることもあった。高い給料を払うことが大事だということも社員の幸福度を上げることの重要さも重々に知っているが、私の運営していた会社は小さな町の零細企業だ。可能な限りの背伸びはできても理想論だけで無責任に数年後にリスクを孕む経営を計画することはできない。
その後、弁護士や会計士に間に入ってもらいながら会社法や株式の仕組み、業績と比較して社員から搾取を行っているわけではないということを数字と共に説明したが、社員たちが持つ感情的な「会社を私物化した裏切り者の社長」という印象は固定化されており状況が改善することはなかった。そんな状態が長引き始めた頃、クーデターを起こした本人が会社の売上を支えてくれている営業のキーマン数名を連れて退社して独立し競合会社を作るという話になった。その時になって初めて私は社員全体の給与改善のための動きではなくその人が会社を乗っ取ろうとしていたことに気づいた。
零細企業の経営者の情けない話になってしまうが、営業のキーマンが抜ければ会社としての売上の安定性は失われ、バックオフィス業務などを担当してくれていた社員たちだけでは売上はあげれず露頭に迷ってしまうことになる。なんとかしなければと思ったが残念ながらそのバックオフィスの人達も問題が勃発したときの感情論に飲まれたまま私を大悪人のような目で見てくる者ばかりだった。
このような人間トラブルに対して上手く捌けなかったのは私の経営者としての実力不足であることは否めない。
だが、理論的な考えに対して数が集まった感情論というのは何の対抗手段にもならないことを知った。正義というのは法ではなく人が作り出す空気だ。会社を経営するための知識と一般社員が感じる感情というものには大きな差があった。知識を共有してどういったルールで世の中が回っているのかを伝えることの大切さ。誤解が起こらないように丁寧に説明する大切さ。皆が自分と同じ常識を持っていると勘違いし大事になる前に行動に移せなかった自分。そのあたりを読みきれなかったのも敗因だったと思う。
しかし私も人間だ。それ以来完全に心が壊れてしまって今まで一緒に働いていた仲間の目を見れなくなってしまった。皆が私のことを自分たちの信用を裏切った者だと思っている。
毎日死ぬことばかり考えた。自分には会社も仲間も何もかもなくなったと思った。地方なのですぐに噂がまわったのか私のまわりから離れていく人間が増えた。
死ぬ前に何を精算するかを考えた。
彼らの生活を守るには私だけが会社を去り、他の人間はそのまま会社に残って新しい社長を立てて今まで通り継続して仕事を続けていってもらうことが残された選択肢だと思った。
多くの社員に嫌われていたとしても雇用主としての責任は果たす、といえば格好をつけているように聞こえるかもしれないが、せめて今まで付き合ってくれた人達の生活を守るために自分ができることはそれくらいしかなかった。
キーマン以外の残った社員達を捨てようとしたのはクーデター発起人なのに、その人は私を追い出した後にヒーローになるだろう。
自分がなぜそこまで背負わなければいけないのかという気持ちも正直あった。この偽善のような行動をとったところで私がいない世界で私は新しい政権を運営するために悪人として語り継がれているのだろう。
恨みを募らせクーデターの発起人に本気で復讐を考えたこともあった。ただその人にも家族はいる。それで不幸に巻き込まれ涙を流すのは無関係なパートナーやその子供だ。そんなことをすれば私は本当の悪人に堕ちてしまう。
その後私は会社の譲渡手続きをし、持っていた全ての株を最低限の値段まで下げて新しい経営陣に譲った。その際に何故タダで株や権利を置いていかないのかという言葉を社員から吐きかけられた。もう何も言い返す気力は残っていなかった。何かを理論的に説明したとしても感情論と数には勝てないことを私は知ってしまった。社内にわずかにいた私の理解者たちも新体制となる中で長いものに巻かれることを選びすぐに疎遠となった。心が張り裂けそうだったが私のような敗者に寄り添ったとてその人達の未来を保証してあげることはできない。これが現実だ。その人達にも人生はあるし誰も責めることはできない。
そして私は今もこの世界のどこかで自分のことを恨み嫌っている人がいると思いながら日々無理やり生きている。
なぜ生きているのかはわからないが、いつか自分がとった最後の行動が誰か一人にでも理解され報われる日が来るのをどこかで期待してるのかもしれない。気を抜くと希死念慮に飲まれるので毎日必死だ。頑張る。
語り手が逆になれば物語も大きく違った印象を持つだろうことはわかっている。
都合の良い解釈をして悲劇のヒロインを演じている馬鹿だと思われるかもしれないことも重々に承知している。
うちは片親だった。
母親は離婚してから、還暦で働けない祖母(母の母)と三兄弟(姉1姉2自分)を女手一つで育ててくれた。
母親は子供に仕事の愚痴を言わなくて、男と食事に行ったりもしなかった。
母親はよく「おばあちゃんがいて兄弟がいて十分幸せでしょ?」って言ってた。
「男なんていないほうが楽」とも言ってた。
自分もそう思ってた。
旦那はお金に苦労したことがない。両親共々ブルーカラーだけど大企業勤め。子供の頃は年1で家族旅行に行ってて、外食で蟹を食べたりしてたらしい。
結婚してからはスーパーで値札見ずに買い物してくるのでよく叱ってる。
子供っぽいとこもあるけど、優しい人だ。一緒にいて落ち着く。
この前親と電話した時、子供の話になった。お金の面とか、旦那の会社の安定性とか不安でしばらくは子供を考えていないって話をした。
その時に、「いざとなったら離婚して帰ってきたら良いよ!男なんて家にいないほうが楽でしょ!」と言われて、素直に受け取れない自分がいた。
片親が幸せなんて嘘だよ。両親がいる子は自分なんかよりよっぽどいい生活してたんだ。
普通の家は、お年玉は何万円単位で貰えるらしい。ゲームだって買ってもらえるし、塾にだって通わせてもらえる。学用品は当然親のお金だってさ。
友達が父親の愚痴を言ってる時や父親いなくて寂しくない?なんて聞かれた時、父親なんていてもいなくても変わんないよ、なんて言ってた自分は、今思えば馬鹿だったんだ。現実は、父親がいる家はウチの家より裕福だったのに。
大学だって親の金の子もいるんだってね。『なんで大学行かなかったの?奨学金あるじゃん』って聞かれて、高校も奨学金借りてたから返せなくなると言うと、みんな思いもよらなかったみたいな顔をする。
自分が信じてた幸せは全部嘘で、実家の暮らしは世間一般的には下の方だった。それがショックでたまらなかった。
母が『いざとなったら離婚すればいい』なんて、どうしてそんな無責任なことが言えるのかと怒りを覚えた。両親が揃ってる環境を知ってしまったから、受け入れられなかった。
でも、母親の言葉に言い返すことはできなかった。だって母は本当に大変だったと思う。朝から晩まで睡眠時間削って働いて、でもきっとお金に余裕がなかったからずっと神経をすり減らしてただろう。母は全力で子供を育ててくれてた。
そんな母の人生を否定するような言葉を言えなかった。言ったところで母が一生の傷を負うだけで、なんの意味もない。
自分の中では、父親がいたらもっと幸せだったと思ってしまっている。
今まで母親には全部話せてたけど、嘘をついてから、母親との心の距離が空いてしまった。価値観の合わない人間になってしまったと、そうはっきり感じた。
きっと母親には一生言わない。実家は貧乏だったけど幸せだったよと、そのスタンスで母には一生接するつもりだ。でもどこかにぶつけずにはいられなくてこれを書いた。
読んでくれてありがとう。
山下達郎氏がサンデー・ソングブックで語ったジャニーズ関連の意思表示について、いろいろな意見があるだろう。
この日は彼の旧いアルバムの再リリース特集でもあり、あの発言の後にかけた「潮騒」がとても印象的だった。
今回の問題は、山下達郎からしたらあまり好きでも無くなった松尾さんとの契約解除は普通のことであり、何が悪いのか、ということだ。
ジャニー喜多川氏についても、その芸能的な功績を認めることを今更否定できないし、そのことと性犯罪に関することも比較してどうこう考えることは出来ない。自分の中で全く違う次元のものを結びつけて考える気もないし、その立場でもない。
全ての事象は個々のことだ。ただそれだけ。
違和感を持つ多くの人は、性加害によって奪われてしまった音楽や芸能があるだろう、と考える。だから分けて考えることは、無責任では無いのかと感じる。
だがそれは非難する側の勝手な希望でもある。彼はそういった責任を持つことを考慮しない。
ジャニー喜多川氏によって消されてしまった才能やアートが物悲しい。山下達郎の心にもそのことは違和感として残っているだろう、そしてあの意思表示の直後にかけた「潮騒」。この曲はそれらの気持ちへの鎮魂歌として響く。
まだ完全に成功しているとは言えない時代、自分名義の最後のアルバムかもしれないという不安感もあるそういった時期の曲が、消えていったアーティストに少し重なる。
特集のアルバムと偶然に重なったからの潮騒だが、あの発言の後に「さよなら夏の日」も「蒼氓」も「FUTARI 」でさえも合わない。「潮騒」がとても上手く重なる。だからあの曲をかけたことを山下達郎の気持ちとして受け取ろうと思う。
山下達郎氏がサンデー・ソングブックで語ったジャニーズ関連の意思表示について、いろいろな意見があるだろう。
この日は彼の旧いアルバムの再リリース特集でもあり、あの発言の後にかけた「潮騒」がとても印象的だった。
今回の問題は、山下達郎からしたらあまり好きでも無くなった松尾さんとの契約解除は普通のことであり、何が悪いのか、ということだ。
ジャニー喜多川氏についても、その芸能的な功績を認めることを今更否定できないし、そのことと性犯罪に関することも比較してどうこう考えることは出来ない。自分の中で全く違う次元のものを結びつけて考える気もないし、その立場でもない。
全ての事象は個々のことだ。ただそれだけ。
違和感を持つ多くの人は、性加害によって奪われてしまった音楽や芸能があるだろう、と考える。だから分けて考えることは、無責任では無いのかと感じる。
だがそれは非難する側の勝手な希望でもある。彼はそういった責任を持つことを考慮しない。
ジャニー喜多川氏によって消されてしまった才能やアートが物悲しい。山下達郎の心にもそのことは違和感として残っているだろう、そしてあの意思表示の直後にかけた「潮騒」。この曲はそれらの気持ちへの鎮魂歌として響く。
まだ完全に成功しているとは言えない時代、自分名義の最後のアルバムかもしれないという不安感もあるそういった時期の曲が、消えていったアーティストに少し重なる。
特集のアルバムと偶然に重なったからの潮騒だが、あの発言の後に「さよなら夏の日」も「蒼氓」も「FUTARI 」でさえも合わない。「潮騒」がとても上手く重なる。だからあの曲をかけたことを山下達郎の気持ちとして受け取ろうと思う。
りゅうちぇるに対して「死んで当然」なんて言ってる人、本当に存在するの?
もしはっきり目にした訳じゃないのなら藁人形叩きはやめて欲しいんだけど。
少なくとも私はそんな事絶対に言っていないし思ってない。
りゅうちぇるに対して思うのは「死ぬなんて無責任」「許せない」であって、死んで当然だのざまあだのだなんて絶対に思うもんか。
つくづく思うけれどりゅうちぇるが死んだのは彼自身の意思だ(自殺が誤報でなければ)
「人を死に追いやる行為」だなどと言って、彼自身が負うべき責任を他人に押し付けるのをやめろ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20230712/spp/000/006/087000c