はてなキーワード: 仏教とは
君は「どう思われたい」というのが強すぎる。
どう思われたいというのは、順調にいってる時は、自分を奮い立たせるガソリンになるが、順調に行ってない時は無駄に自分を苦しめる要因。仏教で慢の感情という。
更に苦しんでいる状態では疲労が強い。疲労が強いと自分自身の行動を変えれない。
まず、休め。そして、どう思われたいという感情を消して、どう思われてもいいと一度思い直すんだ。
その上でできることを積み重ねていったらいい。
所詮人生なんて起きて稼いで食って寝て、後は死ぬのを待つばかり(一休)だぞ。どう思われるかなんて些細な問題だ。
なお、猛烈にどう思われたいと思い、廻りに迷惑をかけまくったが落ち着いた僧侶がいてな。そいつらの本も役に立つだろう。小池龍之介、草薙龍瞬だ。
まず、君はいろいろ考えすぎて疲れている状態だ。なおかつ、考えることが多すぎて疲れやすい状態だ。例えていうなら、激しい筋トレをして、その翌日ぐらいの状態。
だから、その疲れを取るのが最優先。何も考えずに休むこと。次に、やるべきこと、考えるべきことを最小限にすること。
今なら、極力短時間で働ける仕事をして、後はできるだけ休むことだ。
いろいろ疲れすぎて次から次から考えないとならないことが浮かぶ状態。
マインドフルネスや禅が休む手法、禅、仏教などがやるべきこと、考えるべきことを最小限にする方法。
本としては久賀谷亮の最高の休息法などがおすすめ。禅、仏教側は小池龍之介や草薙龍瞬の考えない練習、反応しない練習などがおすすめ。
本であれば弱いやつをたらしこんでの勧誘はないから、図書館でいくらでも読んだらいい。
しかし、霊魂だの、精神世界などは微塵も関係ない。そんな文があったらその本はだめな本だ。徹頭徹尾、休み方と、余計な思考の止め方のみだ。
セミナーは、マインドフルネスとか宗教は弱まってるやつが関心を持つ。だから残念ながらたらしこんで永久に会費を取って不幸や不安を煽る連中が多い、原則おすすめしない。
そもそも仏教とは、本来は簡単に出家と還俗を行き来できる宗教である。
出家とは、信者が僧団(仏教集団)に属して共同で修行生活を営む状態である。出家信者は基本的に外界との関係を持たない。在家信者から幾ばくかの支援を受けながら修行を続けるのだ。在家信者は出家信者への支援により徳を積むため、相互に関係が成り立つ。
つまりは出家信者とはアウトサイダーの集団である。社会から放逐された人が出家する話は仏典にいくつも存在する。ただし、在家信者との関係が良好でなければ集団を維持できないため、僧団は過激・排他的にはならない。また、出家信者はいつでも還俗して在家信者に戻ることができる。(だいぶ変容している日本仏教でも、出家と還俗はしばしば行われてきた。おんな城主直虎とか)
このシステムはとてもよいと思う。俗世で生き辛さを感じた人間が仏教に救いを求めると、俗世から遮断された集団で戒律のもとに生きることができる。修行が合わなければ還俗して在家信者として生きることができる。そしてどちらにせよ徳を積むことになるので、世間的に格好がつく。外面が良いというのは救いにもつながる。
日本仏教は葬式仏教化して久しく、熱心な在家信者も少なくなっており、このような古典的な僧団が成り立つ余地はないのかもしれない。だが今の社会だからこそ、気兼ねなく僧団に参加できるようにできないだろうかと思う。俺もそういう救いがほしい。
マインドフルネスはまだ科学になりきれていない。もともとの瞑想について、脳内の血流計測や組織観察ができるようになったから実は科学的にも効果があるんじゃないか?と
言われだしてるぐらいのだんかい。
かつ、弱い人間が関心を持つから、弱い人間を騙して依存させる連中が跋扈している。そもそも仏教に近い領域だからね。霊感商法と近い。
一方、ただの瞑想だけでは不足で、思考の自動操縦を止める練習も必要。だけど、こちらになるとほとんど仏教の知識の領域になってくる。
と言っても、役に立つのは、僧侶自身が苦しんで解を出した人の書物だとは感じる。
各々が読んで、判断して、自分の思考の制御方法を身につけないとならないものだ。もう科学ではない。
科学にしようと思えば、大人数を集めて条件を整えて統計処理をするか、実際に現象を観察するかだ。
だけど「思考がどうか?」なんて条件を整えるとか、思考内容がどうかなんてものを観察できない。脳内の疲労をオンデマンドで観察することすらまだ先駆けだと思う。
だから、科学にするには相当な道のりがまだ必要じゃないかとも感じる。
それから、人対人だとどうしても費用をかけないとならない。だからどうしても単価は高くなるというのもあるといえばある。
弱い人間を騙して依存させる奴らと差をつけれるかとなると疑問だ。
苦しんでる奴にこの本いいよ。というのが一番いいといえばいいんだが、まあ、基本ワンパターンになってしまうし、それがいいのかなとは思う。
https://hokusyu.hatenablog.com/entry/2019/05/28/004203
…われわれは肉食について問われることは覚悟しなければならない。…
まったくエヴァンジェリストの言い回しでありジハーディストの自己正当化の論理である。預言の民が他者に対しても邪教を崇拝しないよう勧め、ときにその宣教も暴力的なものになるのはやむを得ない。路上に爆弾を設置し無辜の異教徒を殺戮することも時には仕方がないのである。われわれは涜神について問われることは覚悟しなければならない。邪教を信仰した結果正しい宗教の信徒に殺害されることは受け入れなければならない。本当にそう言えるのだろうか? 私ならばそうした人とは距離を取りたいと思う。
ヴィーガンは昆虫や植物の生命については無視しているではないか、などの主張である。はっきり言って、このような極論でもって相手をギャフンと言わせたなどと思うのは小学生のうちに卒業してもらいたい。これについては、すでに指摘がある通り「不完全かもしれないが、肉食をするより肉食をしないほうが倫理的である」「そもそも、すべての生命尊重を第一義とするヴィーガニズム以外には無関係」などの反論が思いつく。
違和感は後段に進むにつれ強まり、個人的にはここで最も強まる。適当にググってWikipediaの肉食#仏教の項でも見てくるといい。
釈迦仏の弟子であった提婆達多が違背した原因は提婆達多が菜食主義を戒律に含める主張を釈迦が明確に否定したからであると記されているだけでなく釈迦が亡くなった原因は豚肉の食中毒であるとされている。(肉食を否定する大乗仏教においては豚の好むキノコを使った料理とされている。)
生き物の殺生を禁止する仏教において肉食が禁止されていない事は矛盾であるとように思われるがこれは当時の肉食に関する宗教論争と関係する。仏教の起こった当時のインドにおいては仏教だけでなくジャイナ教などの多くの宗派がアヒンサー(不殺生)を標榜していた。特にジャイナ教においては畑を耕すことによって虫が殺されることなどを指摘し、肉食する、しないにかかわらず生存する限り間接殺を免れぬことを理由に、無食による自殺を最上の行とした。これに対して仏教は間接殺を理論的に突き詰めることの限界を理由に中道を掲げ実際に生き物を殺す直接殺のみを明確に禁じ、間接殺においてはあくまでも貰い物の肉が、殺す所を見なかった肉、供養のために殺されたと聞かなかった肉、自分の為に殺された疑いの無い肉という「三種浄肉」であれば食しても問題はないとされた。さらにここで重要なのは古代仏教において比丘はあくまでも家庭の余った食事を物乞いすることによってのみ食を得るため、肉食=肉の購買による間接殺という矛盾が成り立たないことにある。
仏教において「ヴィーガンは昆虫や植物の生命については無視しているではないか」「肉食をするより肉食をしないほうが倫理的とは言えないのではないか」という主張は釈尊から直々に出ているのである。開祖がやってたことは正しいに決まっている。日本の「反ヴィーガン」空間において先に挙げた2点への非難が他国よりもはるかに強いこと、またその理由をぜひ直視していただきたいものである。これはヴィーガニズム崇拝者が「公の論理」でも「文明人の倫理」でもなんでもよいが崇拝しているドグマが旧約聖書(というのは、仏教の創始よりも後に書かれたものであるが)からの引き写しでありヴィーガニズムは倫理的に進歩した集団でもなく単にキリスト教系の新興宗教でしかない事実を裏付けるものであると言えるのではないかと思う。反論があるものなら聞きたい。
Anno Domini をまるで異教徒がすべて同意したかの如く common era とか改称しようとしている輩と一緒に地獄へ落ちてしまえ。
矛盾してるんじゃないと思う。「人は獣・鳥・蛇・魚の上位者であり草は生命ですらない」という”間違った”信念が増田民の99%と衝突してるだけ。
「上位者として劣ったものを搾取しない心がけは正しい」「生きていない草だけを食べて生きていけるならその方がいい」というのは全くおかしくない。ただ人間が上位者とか草は生物じゃないとかいった傲慢な性根の歪みが表層まで現れているだけのことだよ。
管理職が内輪の会話で「部下をこき使わずコンピューターを活用しよう」と言ったら間違いだとは思わないだろ? でも自分が管理職だと思ってる平社員が言ったらどう思う? 「コンピューター」だと思っているものが実は「低賃金バイト」だったらどう思う?
仏教/神道では神はせいぜい管理職だし、お前は平社員だし、草も平社員なんだよ。当たり前の真理だよな?
あるいは歪んだ性根も極めれば似通ってくると批判することはできるかもしれない。いずれにしろ、これは極めて根の深い宗教的対立なんだよ。
なるほどねー。
議論すべき内容か否かは兎も角として論点は整理されてたのでわかった。
とはいえ、ここは増田なので致し方ないとしても、元増田はこの記事で自分のスタンスを明らかにしてないよね。
この記事の書きようからするとヴィーガンではないのではないかと思ったんだけど、勘違いかな。
それは兎も角、まず一つ目の論点の苦痛を感じるかどうかということだけど、本当にそれが論点であるなら、屠殺の手法にフォーカスが向くはずであって、現在の運動の方向とは必ずしも同一ではないよね。
そもそも先進国の屠殺場では屠殺される動物に苦痛を与える屠殺方法は用いることができないことになってる。
大脳を持ち自由神経終末のある脊椎動物に限られるのであれば、大脳が苦痛を知覚しないブロックされた状態であれば、当該動物は苦痛を感じていないと結論することができるわけで、既存の屠殺手法を攻撃することはできない筈だよね。
また、家畜におけるアニマルウェルフェアをどう評価するかについては議論がわかれるところだけど、飼育方法は兎も角として産ませ育てることすら否定するのだろうか。
生老病死の四苦を知る仏教的観念なのだろうかね。そんなわけないだろうけど。
植物がどうのっていうのを「稚拙」と論じるのは勝手だけど、日本的な宗教史観に基づいて考えた場合に、逆に植物が苦痛を感じないのだろうかと考えることは自然なことだとは思うのだが。
振り返って、人は植物・動物問わず、生命を食べずに生きることができない(無機物のみで生存することができない)ことに気付けば、命に対して線引きをすることの愚かさに気付けそうなものだが。
だからこそ、感謝をもって食す、食物を大切にするという風に考えを昇華できないところに思考の限界が見える気がするが、これは宗教的なバックボーンの問題なのかもしれず一概に否定することもできない。
動物は人間のご飯でした。過去数千年も人間は狩猟採集で生きていました。
狩で仕留めたマンモスを食べて氷河期を生き抜き、山でシカやイノシシを食べて生き抜きました。私たちの祖先はヤギや豚や牛や羊や鶏を、長い長い長い年月をかけて家畜化しました。家畜化なんて一朝一夕一世代で出来ることではありません。祖父から父へ、父から子へ、飼育のノウハウを受け継ぎながら、家畜を食べる肉食文化を発展させました。
色々な国で色々な食文化が発展してきました。それは日本のように仏教によって禁止されながらも、こっそりと楽しまれたり、文明開化とともに最先端の料理として食べられたり、ヨーロッパのようにソーセージやベーコンや干し肉なんかにして長期保存できるようにされたり、焼いたり蒸したり揚げたりして、美味しく食べれるように工夫されたりしてきました。イヌイットのように生食する民族も、沢山の香辛料でスパイシーに食べる民族もいます。食文化は、宗教やその土地の気候と密に絡み合いながら発展してきました。
文化は人間が長い歴史の中で作り上げた叡智の結晶です。衣、食、住の1つである、生き物にとって欠かせない「食」の文化は何にも劣らない人類史の大切な要素です。文化人類学的な価値を持つものです。
生物学的にも人間が動物を食べるのには意味があります。日本人だけが海苔を消化できるように進化したことは有名ですが、お肉も同じです。人間が肉を美味しく食べて、消化して、エネルギーとして利用できるのも、人間が長い間肉を食べ続けて、そのように進化したから美味しくお肉が食べられるのです。お肉を食べるのは人間が生態です。人間は雑食なのですから。
連綿と続くこの歴史の中で、動物が可哀想だという考えを持ち、肉食をやめることもまた文化です。人類がそのように方向転換し得る可能性を持つこともまた大切なことです。
しかし、それを望まぬ人に強要すること、人間全体から肉食文化を奪うことは文化の破壊です。畜産家や肉屋やコックさんから仕事を奪う権利は誰にもありません。
食文化は生活に根付いて始めて意味があります。レシピの本だけあっても仕方がありません。肉を食べないということは今まで育んできた肉食文化を永久に手放してしまうことになります。日本の和食が文化遺産であるように、世界の肉食文化は和食よりもうんと重要な文化です。ヴィーガンの肉を食べない「食」が尊重されるべきように、私たち雑食の食文化も尊重されるべきです。
母親は妄信というほどではなく程々に、母方祖母は毎週のように教会へ通っている。祖母は、「神様が見てるから悪いことはしちゃいけないのよ」という旨の説教を度々メールや手紙に綴る。無害なので放置している。
「俺は選ばれた人間だ」
「もし、神様がお前達を殺して捧げよと言ったら実行する」(この言葉を母は鼻で笑っていたが)
「教会へ行け」
「(身内がシスターか神父になれば俺が天国に行けるから)お前はシスターになれ」
帰省の度に「教会へ行け」「聖書を読め」「教会へ行って友達をつくれ。俺はそうした」
大学入ってから一度だけクリスマスの日に教会へいった。行ったことを報告したら「偉い!」と褒められた。ばかばかしい。
いい加減にしてくれ 私はキリスト教にも教会での人間関係にも興味ない 時間の無駄
勝手に幼児洗礼受けさせたくせに!信仰の自由の侵害じゃないの?…と、私は声を大にして言えない
父親が殴る蹴る当たり前のDVクソ野郎であるのも理由の一つだが、私は中学生の頃に「堅信」を受けることを薦められ、断ることなく受けた。 私は生まれてから一度も聖書を読んだことがない、本当に本当に信仰心どころかキリスト教に興味すらない名前だけの信者である。だのに何故堅信なんて受けてしまったのかというと父親の機嫌をとるためである。 あと、今も昔も私はバカなので、「けんしん」と聞いて献身的に教会へ通うとかそういう意味だと思い、私のキリスト教への信仰心くらい軽い気持ちで受けた。これで父親になぐられる頻度が減るかもと思った。
堅く信じる誓いを立てたからにはもう逃げられない。 「行きたくない」「時間がない」 それらの言い訳は「堅信受けただろ」で一蹴される。
彼家は寺の檀家である(彼自身は空飛ぶスパゲッティ・モンスター教を自称している)。結婚を機に仏教にでも改宗したとでも言って教会から逃げようと考えていた。
こないだ、父親と会う機会があった。
「教会へ行けよ」(また始まった)
「△△(今住んでる地区)に永住するなら教会の籍移すぞ」(はいはい) ここまでは私が煮えくり返る腸を抑えればいいだけの話だった。
「〇〇くん(彼氏)もクリスマスとかだけでいいから連れて行くんだぞ」 「彼は仏教徒だよ」 「檀家ってだけだろ。結婚したあとは改宗させろよ」
無視していいよね? この調子だと生まれてくる子供にも幼児洗礼を強要しそう あんたが教会だの聖書だの発する度に虫酸が走るって言いたい。
周囲の信者に尊敬できるような人がいないって言ったら人間のクズと罵られるだろうな。
教会通ってるような人間と友達になりたくないって言ったら今までお前に使った金返せって言うだろうな。
あんたに入学祝いにもらった分厚い聖書はとっくにゴミに出したって言ったらぶん殴られるだろうな。
今精神がボロボロなので、昔聞いた話をここに吐き出して安定を図ろうと思う。
入れる理由は「あの世で金に困らないように」あるいは「三途の川の渡し賃」が大体主だろう。
前者の考えは死ぬ=俗世から離れる、という考えの仏教にはあまり合わない考えなので、日本では後者が一般的。
生前の罪を反省し、仏に帰依し信心する。そういう現世から次の世界に進む通過儀礼の意味合いが強い。
なので昔はよほどのことがない限りは必ず文銭を入れていたし、現代でも印刷紙など代替品によって風習は続いている。
それも不思議なことに、地域の名士だとか知恵者、優れた人ほど入れない傾向があった。
一見仏道に反しているかのようだが、これには理由があったのだった。
払う代金がなければ三途の川を渡れない、そうなれば現世に戻ってくるしかないだろう。
そんな一方的な道理であれど、集落中にこの考えは染み渡っていたらしい。
あるいは一気に優秀な人々がいなくなって困窮した結果かもしれないが。
そんな経緯でこの風習は半世紀ほど続いていたんだが、ある年それで本当に生き返った人がいたらしい。
まあ死人がまた復活したら喜ばしいやら仰天するやらで大騒ぎ。しかしその人は浮かない顔で、もう六文銭を抜くのをやめろと言う。
村人が理由を聞くと、どうかもうやめてくれと必死に懇願されてここに戻ってきたのだと。
三途の川には罪の重さを量る「懸衣翁」と「奪衣婆」という鬼の夫婦がいるんだけれども。
どうやら六文銭がない分は彼らが自腹で払っているらしい。
一人一人の額はそれほどでもないが、増えれば途方もない金額になる。
ただでさえ飢饉やらなんやらで身も削られているのにわざとやられたら敵わないからやめてくれ。
そう泣きつかれたのだという。
それから今までの反省も加味して、十文銭を入れるようになったその村は「十文村」と呼ばれたとか。
まあ、うちの地元に伝わる古い古い民話なんだけどな。村の名前も読みこそ同じだが、漢字は既に別のものに変わってしまったし。