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はてなキーワード: 仏教とは

2019-06-10

俺の自虐

非モテ

無能

貧乏

貧弱体型芸

虚弱体質芸

チビ

ノンポリ

実家仏教だけど正直適当

コミュ障

低学歴

流行知らない芸

anond:20190610150708

あなた智慧を求めているので、キリスト教は合いません

上座部仏教をおやりなさい

私もプロテスタント学校10毎日礼拝お話を聞いて、何一つ智慧の開発された手ごたえがありませんでした

上座部仏教は全く手応えが違います

一つ一つに論理があり、自分で確かめることができます


ついでに言えば

日本宗教は全体的に低レベルです

私は日曜日学校に紹介された「まともな教会」の礼拝に出た事があります

邪教サークルしか言いようがない怖い教会でした(まず和室

穏健プロテスタント伝統校が推薦する教会でもそんなもんで、

更には統一教会など韓国系カルトやその他地場カルトも多いです

もちろん仏教神道系のハチャメチャな教えの新興宗教も沢山あります

キリスト教はわりとまともなところもカルトも含めて全く不毛の地なのが日本だという気がしま

キリスト教には何の未練もありません

讃美歌と聖書に関する知識スノッブ教養として残ったぐらいです

2019-06-05

anond:20190604223140

君は「どう思われたい」というのが強すぎる。

どう思われたいというのは、順調にいってる時は、自分を奮い立たせるガソリンになるが、順調に行ってない時は無駄自分を苦しめる要因。仏教で慢の感情という。

更に苦しんでいる状態では疲労が強い。疲労が強いと自分自身の行動を変えれない。

まず、休め。そして、どう思われたいという感情を消して、どう思われてもいいと一度思い直すんだ。

その上でできることを積み重ねていったらいい。

所詮人生なんて起きて稼いで食って寝て、後は死ぬのを待つばかり(一休)だぞ。どう思われるかなんて些細な問題だ。

なお、猛烈にどう思われたいと思い、廻りに迷惑をかけまくったが落ち着いた僧侶がいてな。そいつらの本も役に立つだろう。小池龍之介草薙龍瞬だ。

学歴で言えばこいつらも文系の超高学歴だぞ。

anond:20190603232856

まず、君はいろいろ考えすぎて疲れている状態だ。なおかつ、考えることが多すぎて疲れやす状態だ。例えていうなら、激しい筋トレをして、その翌日ぐらいの状態

から、その疲れを取るのが最優先。何も考えずに休むこと。次に、やるべきこと、考えるべきことを最小限にすること。

今なら、極力短時間で働ける仕事をして、後はできるだけ休むことだ。

いろいろ疲れすぎて次からから考えないとならないことが浮かぶ状態

マインドフルネスや禅が休む手法、禅、仏教などがやるべきこと、考えるべきことを最小限にする方法

本としては久賀谷亮の最高の休息法などがおすすめ。禅、仏教側は小池龍之介草薙龍瞬の考えない練習、反応しない練習などがおすすめ

本であれば弱いやつをたらしこんでの勧誘はないから、図書館いくらでも読んだらいい。

しかし、霊魂だの、精神世界などは微塵も関係ない。そんな文があったらその本はだめな本だ。徹頭徹尾休み方と、余計な思考の止め方のみだ。

セミナーは、マインドフルネスとか宗教は弱まってるやつが関心を持つ。だから残念ながらたらしこんで永久に会費を取って不幸や不安を煽る連中が多い、原則おすすめしない。

2019-06-04

いま日本必要なのは出家と還俗

そもそも仏教とは、本来簡単出家と還俗を行き来できる宗教である

出家とは、信者が僧団(仏教集団)に属して共同で修行生活を営む状態である出家信者基本的に外界との関係を持たない。在家信者から幾ばくかの支援を受けながら修行を続けるのだ。在家信者出家信者への支援により徳を積むため、相互関係が成り立つ。

まり出家信者とはアウトサイダー集団である社会から放逐された人が出家する話は仏典にいくつも存在する。ただし、在家信者との関係が良好でなければ集団を維持できないため、僧団は過激排他的にはならない。また、出家信者はいつでも還俗して在家信者に戻ることができる。(だいぶ変容している日本仏教でも、出家と還俗はしばしば行われてきた。おんな城主直虎とか)

このシステムはとてもよいと思う。俗世で生き辛さを感じた人間仏教に救いを求めると、俗世から遮断された集団戒律のもとに生きることができる。修行が合わなければ還俗して在家信者として生きることができる。そしてどちらにせよ徳を積むことになるので、世間的に格好がつく。外面が良いというのは救いにもつながる。

日本仏教葬式仏教化して久しく、熱心な在家信者も少なくなっており、このような古典的な僧団が成り立つ余地はないのかもしれない。だが今の社会からこそ、気兼ねなく僧団に参加できるようにできないだろうかと思う。俺もそういう救いがほしい。

2019-06-02

anond:20190602113439

マインドフルネスはまだ科学になりきれていない。もともとの瞑想について、脳内の血流計測や組織観察ができるようになったから実は科学的にも効果があるんじゃないか?と

言われだしてるぐらいのだんかい

かつ、弱い人間が関心を持つから、弱い人間を騙して依存させる連中が跋扈している。そもそも仏教に近い領域からね。霊感商法と近い。

一方、ただの瞑想だけでは不足で、思考自動操縦を止める練習必要。だけど、こちらになるとほとんど仏教知識領域になってくる。

と言っても、役に立つのは、僧侶自身が苦しんで解を出した人の書物だとは感じる。

各々が読んで、判断して、自分思考制御方法を身につけないとならないものだ。もう科学ではない。

科学にしようと思えば、大人数を集めて条件を整えて統計処理をするか、実際に現象を観察するかだ。

だけど「思考がどうか?」なんて条件を整えるとか、思考内容がどうかなんてものを観察できない。脳内疲労オンデマンドで観察することすらまだ先駆けだと思う。

から科学にするには相当な道のりがまだ必要じゃないかとも感じる。

それから、人対人だとどうしても費用をかけないとならない。だからどうしても単価は高くなるというのもあるといえばある。

弱い人間を騙して依存させる奴らと差をつけれるかとなると疑問だ。

苦しんでる奴にこの本いいよ。というのが一番いいといえばいいんだが、まあ、基本ワンパターンになってしまうし、それがいいのかなとは思う。

2019-05-31

anond:20190531180311

ヨーガ仏教は欲への執着を厭う。その欲には性欲も当然含まれている。

なので、そういう方面に関心の高い男は自慰性交を控えたり、まったく行わなかったりする。

仏教ちょっとだけ学びたい

龍樹とかあの辺だけ。

そういうピンポイントな本があるのかどうかはともかく。

2019-05-29

anond:20190529210223

九大のは法学系だと思ったけど…法学でも思想史に近い分野なら、食い扶持は日本仏教思想史と大差ないかもなぁ。

理系だと東大理一⇒天文学みたいなものか。

2019-05-28

ヴィーガニズムと「日本という宗教」の文化衝突について

https://hokusyu.hatenablog.com/entry/2019/05/28/004203

ヴィーガンが、他者に対しても肉食をしないよう勧め、ときにその主張も告発的なものになるのはやむを得ない。…

…われわれは肉食について問われることは覚悟しなければならない。…

まったくエヴァンジェリスト言い回しでありジハーディストの自己正当化論理である。預言の民が他者に対しても邪教を崇拝しないよう勧め、ときにその宣教暴力的ものになるのはやむを得ない。路上爆弾を設置し無辜の異教徒殺戮することも時には仕方がないのであるわれわれは涜神について問われることは覚悟しなければならない。邪教信仰した結果正しい宗教信徒殺害されることは受け入れなければならない。本当にそう言えるのだろうか? 私ならばそうした人とは距離を取りたいと思う。

ヴィーガン昆虫植物生命については無視しているではないか、などの主張である。はっきり言って、このような極論でもって相手ギャフンと言わせたなどと思うのは小学生のうちに卒業してもらいたい。これについては、すでに指摘がある通り「不完全かもしれないが、肉食をするより肉食をしないほうが倫理的である」「そもそも、すべての生命尊重を第一義とするヴィーガニズム以外には無関係」などの反論が思いつく。

違和感は後段に進むにつれ強まり個人的にはここで最も強まる。適当にググってWikipediaの肉食#仏教の項でも見てくるといい。

釈迦仏弟子であった提婆達多が違背した原因は提婆達多菜食主義戒律に含める主張を釈迦が明確に否定たかであると記されているだけでなく釈迦が亡くなった原因は豚肉食中毒であるとされている。(肉食を否定する大乗仏教においては豚の好むキノコを使った料理とされている。)

生き物の殺生を禁止する仏教において肉食が禁止されていない事は矛盾であるとように思われるがこれは当時の肉食に関する宗教論争と関係する。仏教の起こった当時のインドにおいては仏教だけでなくジャイナ教などの多くの宗派がアヒンサー(不殺生)を標榜していた。特にジャイナ教においては畑を耕すことによって虫が殺されることなどを指摘し、肉食する、しないにかかわらず生存する限り間接殺を免れぬことを理由に、無食による自殺最上の行とした。これに対して仏教は間接殺を理論的に突き詰めることの限界理由中道を掲げ実際に生き物を殺す直接殺のみを明確に禁じ、間接殺においてはあくまでも貰い物の肉が、殺す所を見なかった肉、供養のために殺されたと聞かなかった肉、自分の為に殺された疑いの無い肉という「三種浄肉」であれば食しても問題はないとされた。さらにここで重要なのは古代仏教において比丘あくまでも家庭の余った食事物乞いすることによってのみ食を得るため、肉食=肉の購買による間接殺という矛盾が成り立たないことにある。

仏教において「ヴィーガン昆虫植物生命については無視しているではないか」「肉食をするより肉食をしないほうが倫理的とは言えないのではないか」という主張は釈尊から直々に出ているである開祖がやってたことは正しいに決まっている日本の「反ヴィーガン空間において先に挙げた2点への非難他国よりもはるかに強いこと、またその理由をぜひ直視していただきたいものである。これはヴィーガニズム崇拝者が「公の論理」でも「文明人の倫理」でもなんでもよいが崇拝しているドグマ旧約聖書(というのは、仏教の創始よりも後に書かれたものであるが)からの引き写しでありヴィーガニズム倫理的進歩した集団でもなく単にキリスト教系の新興宗教しかない事実裏付けものであると言えるのではないかと思う。反論があるものなら聞きたい。

Anno Domini をまるで異教徒がすべて同意たかの如く common era とか改称しようとしている輩と一緒に地獄へ落ちてしまえ。

2019-05-26

道徳教育って言い方がおかし宗教教育と正直に書けよ

仏教キリストイスラムから選ばせろよ

なんで官僚が作った教科書虚構が題材なんだよおかしいだろ

数百年か数千年使われてきた題材で解釈が固まっているものを使うべきだ

2019-05-25

anond:20190525003200

障害者問題でも未だにそう。

仏教因習により、科学的には単なる遺伝にすぎないものを、前世の行いの報いなどと見なす思想地方に残っている。

2019-05-23

anond:20190523215246

矛盾してるんじゃないと思う。「人は獣・鳥・蛇・魚の上位者であり草は生命ですらない」という”間違った”信念が増田民の99%と衝突してるだけ。

上位者として劣ったもの搾取しない心がけは正しい」「生きていない草だけを食べて生きていけるならその方がいい」というのは全くおかしくない。ただ人間上位者とか草は生物じゃないとかいった傲慢な性根の歪みが表層まで現れているだけのことだよ。

管理職が内輪の会話で「部下をこき使わずコンピューター活用しよう」と言ったら間違いだとは思わないだろ? でも自分管理職だと思ってる平社員が言ったらどう思う? 「コンピューター」だと思っているものが実は「低賃金バイト」だったらどう思う?

仏教/神道では神はせいぜい管理職だし、お前は平社員だし、草も平社員なんだよ。当たり前の真理だよな?

あるいは歪んだ性根も極めれば似通ってくると批判することはできるかもしれない。いずれにしろ、これは極めて根の深い宗教的対立なんだよ。

anond:20190522224201

なるほどねー。

議論すべき内容か否かは兎も角として論点は整理されてたのでわかった。

とはいえ、ここは増田なので致し方ないとしても、元増田はこの記事自分スタンスを明らかにしてないよね。

この記事の書きようからするとヴィーガンではないのではないかと思ったんだけど、勘違いかな。

それは兎も角、まず一つ目の論点苦痛を感じるかどうかということだけど、本当にそれが論点であるなら、屠殺手法フォーカスが向くはずであって、現在運動の方向とは必ずしも同一ではないよね。

だって屠殺のもの否定した運動を展開しているわけで。

そもそも先進国屠殺場では屠殺される動物苦痛を与える屠殺方法は用いることができないことになってる。

大脳を持ち自由神経終末のある脊椎動物に限られるのであれば、大脳苦痛を知覚しないブロックされた状態であれば、当該動物苦痛を感じていないと結論することができるわけで、既存屠殺手法攻撃することはできない筈だよね。

また、家畜におけるアニマルウェルフェアをどう評価するかについては議論がわかれるところだけど、飼育方法は兎も角として産ませ育てることすら否定するのだろうか。

生老病死の四苦を知る仏教観念なのだろうかね。そんなわけないだろうけど。

植物がどうのっていうのを「稚拙」と論じるのは勝手だけど、日本的宗教史観に基づいて考えた場合に、逆に植物苦痛を感じないのだろうかと考えることは自然なことだとは思うのだが。

振り返って、人は植物動物わず生命を食べずに生きることができない(無機物のみで生存することができない)ことに気付けば、命に対して線引きをすることの愚かさに気付けそうなものだが。

からこそ、感謝をもって食す、食物を大切にするという風に考えを昇華できないところに思考限界が見える気がするが、これは宗教的なバックボーン問題なのかもしれず一概に否定することもできない。

というか、そもそもヴィーガンでもないかもしれない元増田に言っても無意味かもしれん。

anond:20190523132503

出された肉を拒否したり他人に掴みかかったりヴィーガン仏教とは相容れないんだよな

anond:20190523132503

キリスト教関係ない日本人ヴィーガンゴリ押ししようとすると、もう昔の仏教に戻るしかないんだよな

無理があるわ

ヴィーガンが壊す食文化

動物人間ご飯でした。過去数千年も人間狩猟採集で生きていました。

狩で仕留めたマンモスを食べて氷河期を生き抜き、山でシカイノシシを食べて生き抜きました。私たち祖先はヤギや豚や牛や羊や鶏を、長い長い長い年月をかけて家畜しました。家畜化なんて一朝一夕一世代で出来ることではありません。祖父から父へ、父から子へ、飼育ノウハウを受け継ぎながら、家畜を食べる肉食文化を発展させました。

色々な国で色々な食文化が発展してきました。それは日本のように仏教によって禁止されながらも、こっそりと楽しまれたり、文明開化とともに最先端料理として食べられたり、ヨーロッパのようにソーセージベーコン干し肉なんかにして長期保存できるようにされたり、焼いたり蒸したり揚げたりして、美味しく食べれるように工夫されたりしてきました。イヌイットのように生食する民族も、沢山の香辛料スパイシーに食べる民族もいます食文化は、宗教やその土地気候と密に絡み合いながら発展してきました。

文化人間が長い歴史の中で作り上げた叡智の結晶です。衣、食、住の1つである、生き物にとって欠かせない「食」の文化は何にも劣らない人類史の大切な要素です。文化人類学的な価値を持つものです。

生物学的にも人間動物を食べるのには意味があります日本人だけが海苔を消化できるように進化したことは有名ですが、お肉も同じです。人間が肉を美味しく食べて、消化して、エネルギーとして利用できるのも、人間が長い間肉を食べ続けて、そのように進化たから美味しくお肉が食べられるのです。お肉を食べるのは人間が生態です。人間は雑食なのですから

連綿と続くこの歴史の中で、動物可哀想だという考えを持ち、肉食をやめることもまた文化です。人類がそのように方向転換し得る可能性を持つこともまた大切なことです。

しかし、それを望まぬ人に強要すること、人間全体から食文化を奪うことは文化破壊です。畜産家や肉屋やコックさんから仕事を奪う権利は誰にもありません。

食文化生活根付いて始めて意味がありますレシピの本だけあっても仕方がありません。肉を食べないということは今まで育んできた肉食文化永久に手放してしまうことになります日本和食文化遺産であるように、世界の肉食文化和食よりもうんと重要文化です。ヴィーガンの肉を食べない「食」が尊重されるべきように、私たち雑食の食文化尊重されるべきです。

そうして考えると「動物はあなたのごはんじゃない」というスローガンはあまり暴力的文化否定ではありませんか。

2019-05-22

anond:20190522133430

ビーガニズムは西海岸で「よき羊飼いは愚かな動物を正さねばならない」思想仏教大麻LSDで直結しちゃったキリスト教邪教から

2019-05-18

信仰不自由

私は祖父母の代からキリスト教信仰する家系に生まれた。

母親妄信というほどではなく程々に、母方祖母は毎週のように教会へ通っている。祖母は、「神様が見てるから悪いことはしちゃいけないのよ」という旨の説教を度々メール手紙に綴る。無害なので放置している。

問題父親である。これぞ「妄信」というレベル

「俺は選ばれた人間だ」    

「もし、神様がお前達を殺して捧げよと言ったら実行する」(この言葉を母は鼻で笑っていたが)           

「(くだらない漫画とか読んでないで)聖書を読め」              

教会へ行け」           

「(身内がシスター神父になれば俺が天国に行けるから)お前はシスターになれ」

結婚式教会で挙げろ」

大学入学祝いが分厚い聖書だった。死ぬほどいらなかった。           

帰省の度に「教会へ行け」「聖書を読め」「教会へ行って友達をつくれ。俺はそうした」

大学入ってから一度だけクリスマスの日に教会へいった。行ったことを報告したら「偉い!」と褒められた。ばかばかしい。

いい加減にしてくれ          私はキリスト教にも教会での人間関係にも興味ない               時間無駄

勝手幼児洗礼受けさせたくせに!信仰自由侵害じゃないの?…と、私は声を大にして言えない

父親が殴る蹴る当たり前のDVクソ野郎であるのも理由の一つだが、私は中学生の頃に「堅信」を受けることを薦められ、断ることなく受けた。            私は生まれから一度も聖書を読んだことがない、本当に本当に信仰心どころかキリスト教に興味すらない名前だけの信者である。だのに何故堅信なんて受けてしまったのかというと父親の機嫌をとるためである。                 あと、今も昔も私はバカなので、「けんしん」と聞いて献身的教会へ通うとかそういう意味だと思い、私のキリスト教への信仰心くらい軽い気持ちで受けた。これで父親になぐられる頻度が減るかもと思った。

堅く信じる誓いを立てたからにはもう逃げられない。             「行きたくない」「時間がない」    それらの言い訳は「堅信受けただろ」で一蹴される。

今、結婚約束している相手がいる。

彼家は寺の檀家である(彼自身空飛ぶスパゲッティ・モンスター教自称している)。結婚を機に仏教にでも改宗したとでも言って教会から逃げようと考えていた。

こないだ、父親と会う機会があった。

教会へ行けよ」(また始まった)

「△△(今住んでる地区)に永住するなら教会の籍移すぞ」(はいはい)       ここまでは私が煮えくり返る腸を抑えればいいだけの話だった。

「〇〇くん(彼氏)もクリスマスとかだけでいいから連れて行くんだぞ」     「彼は仏教徒だよ」         「檀家ってだけだろ。結婚したあとは改宗させろよ」

????????          なにいってんの??????      バカ???

無視していいよね?          この調子だと生まれてくる子供にも幼児洗礼強要しそう            あんたが教会だの聖書だの発する度に虫酸が走るって言いたい。

周囲の信者尊敬できるような人がいないって言ったら人間のクズと罵られるだろうな。

教会通ってるような人間友達になりたくないって言ったら今までお前に使った金返せって言うだろうな。

あんたに入学祝いにもらった分厚い聖書はとっくにゴミに出したって言ったらぶん殴られるだろうな。

つかれる。              聖書読めとか教会行けって親が子にいう言葉として異常じゃないの?       宗教って何がそんなに良いものなの?

幼児洗礼かい洗脳第一段階になり得るシステムを今すぐ廃止してほしい。クソ迷惑

2019-05-17

三途の川六文銭についての覚書

精神ボロボロなので、昔聞いた話をここに吐き出して安定を図ろうと思う。


表題にある「六文銭」というのは、正しくは「冥銭」という。

入れる理由は「あの世で金に困らないように」あるいは「三途の川の渡し賃」が大体主だろう。

前者の考えは死ぬ=俗世から離れる、という考えの仏教にはあまり合わない考えなので、日本では後者一般的

生前の罪を反省し、仏に帰依信心する。そういう現世から次の世界に進む通過儀礼意味合いが強い。

なので昔はよほどのことがない限りは必ず文銭を入れていたし、現代でも印刷紙など代替品によって風習は続いている。


ところが、この六文銭を一時期入れない集落があった。

それも不思議なことに、地域の名士だとか知恵者、優れた人ほど入れない傾向があった。

一見仏道に反しているかのようだが、これには理由があったのだった。

払う代金がなければ三途の川を渡れない、そうなれば現世に戻ってくるしかないだろう。

そんな一方的道理であれど、集落中にこの考えは染み渡っていたらしい。

あるいは一気に優秀な人々がいなくなって困窮した結果かもしれないが。

そんな経緯でこの風習は半世紀ほど続いていたんだが、ある年それで本当に生き返った人がいたらしい。

まあ死人がまた復活したら喜ばしいやら仰天するやらで大騒ぎ。しかしその人は浮かない顔で、もう六文銭を抜くのをやめろと言う。

村人が理由を聞くと、どうかもうやめてくれと必死懇願されてここに戻ってきたのだと。

三途の川には罪の重さを量る「懸衣翁」と「奪衣婆」という鬼の夫婦がいるんだけれども。

どうやら六文銭がない分は彼らが自腹で払っているらしい。

一人一人の額はそれほどでもないが、増えれば途方もない金額になる。

ただでさえ飢饉やらなんやらで身も削られているのにわざとやられたら敵わないからやめてくれ。

そう泣きつかれたのだという。

それから今までの反省も加味して、十文銭を入れるようになったその村は「十文村」と呼ばれたとか。


まあ、うちの地元に伝わる古い古い民話なんだけどな。村の名前も読みこそ同じだが、漢字は既に別のものに変わってしまったし。

妙に世知辛いというか、あの世の手前まで結局は俗だという考えが出てきて個人的には面白い

こういう俗な目線で書いた物語が出てくるとほっこりするよな、という話でした。

anond:20190517150243

最初天皇=神武天皇」って定義

皇統は神武天皇から男系直系って定義

この二つの定義でもって神道(あるいは仏教)の一部として皇室があったわけだから

そしたら神道そもそも長男教的要素を大いに含んでて、今となってはその部分だけが肥大化したって結論になるんじゃねーの?

anond:20190517145907

いやそりゃ神話とごっちゃにしちゃダメだろ

描かれたままの神武天皇実在性は置いておいて

最初天皇=神武天皇」って定義

皇統は神武天皇から男系直系って定義

この二つの定義でもって神道(あるいは仏教)の一部として皇室があったわけだから

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