はてなキーワード: 仏教とは
宗教っていうのは価値観の骨格を作ってる、っていうのが俺の持論
だけど、それが本来人間が持っている行動規範なわけ 子供は純真で無邪気だからな
だけど年とっていくと徐々にそれを改めてってるじゃない
悪いことをすると反省する。感情ではいやだけど、理論ではこちらが悪いから反省しなければならない
その「大人の価値観」を作っているのって何?っていうと「宗教」なわけ
あれやってはダメ、これはやったほうがヨイ、その「大人の価値観」を作っているのは「宗教」なの
イスラムでは豚喰ったらダメ、酒飲んでもダメ、他人に施しするのはヨイ、という「戒律」がある。
それと同じように日本では人を傷つけたらダメっていう「大人の価値観」がある
そんなの当たり前じゃんっていうけど、ガキを見てみ、あいつら平気で弱いやついじめてるじゃん。
当たり前じゃないのよ、本来は。
あれが本来の人間の姿。それを宗教は改めていったわけ、仏教が1000年ほど前から入ってきたときからずーーーと。
追加としてだが、、、、
人間としての特性で、他人にどう思われたいという欲望がある。これは、欲望と今やっていることがうまくいくかがかみ合っているときは、成長するガソリンになりが、会わない時は無駄に疲労させる。
無駄にそのような欲望が渦巻いている状態は、思考の自動操縦といって、行動が鈍くなってしまう。ひどい状態が鬱な。
片割れさん、いろいろうまくいかなくて、それで頭いっぱいなんだろう。で行動が鈍くなってる気がする。
だから、思考を止めて、休んで、余計な欲望の部分を捨てて、大事な欲望をより分けて、それに専念することが必要。
まあ、その手法が仏教(先に言った欲望とは仏教の慢の感情。プライドでもある)でもあったり、最近はやりのマインドフルネスでもあったりする。
おすすめは久賀谷亮の「最高の休息法」。仏教側になってくると、小池龍之介、草薙龍俊。あと、マンガでわかる心療内科もいいな。あれももはや様々な弱い心理の解説本になってる。
ただ、どちらかといえば宗教側のネタだし、科学で立証しきれていない。脳の疲労というものが定量化できないからというのもあろうが。
やってて楽しい。
認知にメガネをかけたような感覚がする。まるで見えてなかったことが良く見える。視力は変わらんけど、注意力があがったんじゃないかな。
親父にアイロンを頼まれて、すぐできる。すぐ始められるのって楽しい。
いつもめんどくさくってしゃーないけど、母親と雑談しつつアイロンをかけられる。気が向いたらから始めるとか、耐えられなくて放り出したりしなかった。必要性にあわせて最初と最後が決められる。あと話しかけられても気が削がれない。
ふと頭の中が静かなことに気づく。雑音がほとんど気にならない。いつも気に障るクーラーやテレビの音が、聞こえてるけど不快じゃない。
不快じゃないと気づいたというべきか。
考えようとしないと考えない、思い付かない。
これ完全に瞑想で得る心だよ。
バババッて浮かぶ空想や無駄な思考(モンキーマインドという)をとめるということを仏教ではとても重要視してて
でもそれは本当に難しいことで「また始まった」と気付いてとめることの繰り返し。
この気付く力を鍛えていく。
いまやっていることの感覚にどこまでも気付いているけど思考や妄想はしない。
砂の入った水にたとえられるけど、水がぴたりと止まれば砂は底に落ちて水は澄んでいる。
また習慣化することでいつでもそれに近い集中状態を作れるようになる。
自分も瞑想のおかげで集中出来ないことやすぐ別のことを考えるクセが改善したんだけど
瞑想やめる気はないけど。
NHKBS1
BS世界のドキュメンタリー「アフリカの少年ブッダ」[二][字]
アフリカ南部の国々に、中国語で中華思想をたたきこむ全寮制の学校が根付き始めている。学校側の思惑とアフリカ的な価値観の狭間で悩む少年少女たちの成長物語。
詳細情報
番組内容
アフリカに中華思想を根付かせることを目指し設立された学校では、貧しい農村部から家族が養えない子どもたちを受け入れて中国名を与え、数学などの基礎学習に加えて、仏教や少林寺拳法などの中国文化を徹底的に修練させる。一方で、学生たちの中には、アフリカ的な価値観が排除された教育に疑問を感じ、自分の将来進むべき道に悩みを持つ者も現れている。二つの文化や価値観の狭間で、多感な10代を過ごす少年少女たちの成長物語
~2019年 マラウイ/南アフリカ/スウェーデン THINKING STRINGS MEDIA/MOMENTO FILM制作~
どんなものに対しても、「これに意味があるんだろうか」「価値はあるんだろうか」と思考してしまう病に罹っていた。
まず、この社会で生きるということは、そういった価値判断を行いながら生きるということだ。
誰かが作った"良い"とか"悪い"とかいう価値の中にすべての物事を、もちろん自分さえも当てはめていくことだ。
人間はそうやって見出した価値を求めてきた結果、高度な文明を発展させてきたし、
それを否定するつもりはない。
多くの人はその事を良いことだと捉えているような気がするし、
それが人間の持つ知性の持つ素晴らしさであり、
そんな素晴らしい知性を持つ人間は素晴らしい存在だということを信じて疑わない人たちも多い。
でも、そういう"素晴らしい"とか、"良い"とか"悪い"は、あくまで人間が独断で決めたもので、
この世界の大半の存在にとっては、何の関係もない狭い世界の話だと薄々気づいていた。
ただ私もそんな価値判断が当然である社会に生まれ、気がつけばそれに染まり、あらゆるものに価値判断を行う癖がついていた。
物を認識した瞬間、"意味"とか"価値"を考えてしまう自分がいる事に憂い、苦しんでいた。
何より人々が作り出した価値基準の指標に、自分さえも当てはめていかなければいけない事に虚しさを感じていた。
大人になるにつれ、自分は社会の価値基準にそぐわない事がわかってきた。
自分は素晴らしいとされるような人間の一員になれる気がしなかったし、そもそもなりたくもなかった。
だが、素晴らしくない人間は生きるのが大変だ。
だから「死にたい」と思っていた。(これはもちろん「この社会では死にたい」という生への執着なのだが。)
でも、社会の価値観に既に染まっている私は「自殺」は社会に迷惑をかける"悪いこと"で、"無意味なこと"だと言われるのを知っていたし、
そこからとあるきっかけで『スッタニパータ』という、ブッダの死後100年程で作られ始めた仏教の経典の中で最も古いと言われている経典を読んで、
実際に価値判断の世界から"解脱"し、その方法を人々に示してくれたその人の言葉に勇気づけられ、納得させられて、
もう社会の価値に心理的に振り回されることはないという非常に軽い気持ちになった事を詳しく書こうと思ったんだけど、
この"疲れたのでやめる"という行為も、以前はできなかったのですが、そこに"善悪"の判断が必要ないと知ってできるようになりました。
NHK歴史秘話ヒストリアで三十三間堂を放送していたので思い出した、今から25年位前の話
三十三間堂のメインの千手観音がずらっと並ぶところに入ったら、ものすごい大音量でお経?が流れてて、僧侶がマイクでそのお経にかぶせるように、拝観者に罵声を浴びせるという展示方法がされていたんだけど、あれはどういう事態だったんだろうか?
大音量というのは、隣の人と会話するにも口を耳に近づけないと聞こえないレベルの音量で、そこに僧侶が「お前たちは…」「ふざけるな」みたいな、仏教では聞かないタイプのセリフを怒鳴りつけるような怒りじゃなくて、冷静に汚い言葉で叱りつけるような感じの愚痴?のように、呪詛をぶつけるように唱え続けてるという異様な空間だった
それ以来、気味が悪くて三十三間堂には近づかないようにしてるんだけど、そういう話は昨今のネットでは全く見ないし、あの頃の通常営業だったのか、あの日あの時たまたま遭遇してしまっただけなのかわからないが、奇妙な世界に迷い込んでしまったのかもしれない