はてなキーワード: 世界とは
トレードオフはトレードオフでラーメン屋さん向けにアドバイスしたらいいと思うけど、「日本経済が負担している券売機の更新コストを少しでも引き下げる工夫はないものか」という話とは別物だね。
脆弱性についてはさ、本当に、現実世界とまったく変わらないのよ。
このうち、AやCの世界は今回のトピックじゃないよね。問題にしたいのは、Bの世界。
でもさ、たとえば2004年に福沢諭吉にホログラムが追加されてから、実際にホログラムのない旧札が券売機などで使えなくなったのって、いつごろだろうね?(調べられなかった)
少なくともホログラム新札の流通開始の2004年11月1日に、いきなり旧札が使えなくなったわけじゃないよね。たぶん、翌月でもないし、1年後でも使えていたんじゃないかな?なんなら、今でも使えるお店や券売機はあるかもしれないね。そもそも機械ではなく店員への手渡しなら今でも使えるだろうし、機械でもいつ「使用不可」にするかは、誰にも強制されることなく、お店が決めていいことだよね。
「旧札を切り捨てないと、偽造旧札を受け取ってしまう!」ような世の中になったら、みんな旧札を切り捨てるんじゃないかな?新札なら最新技術が備わってるから、偽造できないもんね。安心だよね。
んでこれ、元増田が提案する「互換性のある世界」でも、結局のところ新札には最新技術が搭載されているので、新札を偽造することはできないわけ。ここ、重要なポイントね。
あと、はしょっていい?
このツリーもまた、元増田の「後方互換性」の表現のまずさのせいで誤解させてしまっているかもしれないので確認しときます。
元増田のアイディアは「機械で旧紙幣をつかえるままにする」じゃなくて、「古い機械のままでも使えるような新紙幣にする」というものね。元増田に追記もあるし、別ツリーでも同じ誤解を解きほぐそうと奮闘してるので見てみてね。すまんね。
偽造リスクの高い旧紙幣をいつ切り捨てるかの判断は、(元増田が提案する互換性を実現した世界でも)現実世界とまったく変わらず、各企業が自由に決めてもらっていいのよ。
その上で、最大限に都合の良い(?)シナリオとして、「新紙幣が流通し始めた瞬間に、偽造技術がちょうど一世代分遅れで発達して、旧紙幣の偽造が爆増」という世界においては、結果として、券売機を新しくしながらも新札旧札両対応を当面続けるつもりだった大手チェーンも、互換性のおかげで古い券売機でも大丈夫と思っていたラーメン店も、しぶしぶ旧紙幣を切り捨てざるを得なくなるだろうね。
いつだったかなあ、闇バイトの報道で、捕まった子のノートに『成功してハッピーになる!』みたいな具体性のない、毒にも薬にもならないことがみっしり書かれていて、こういう世界があるのかと恐怖したことを思い出した。
これはバカがムキになってこの場でひねり出した寝言じゃなくて、受け売りのネタ元があるんだよね。
と左翼は言うわけだが、これは憲法が天与のものでないと成り立たない。
憲法だってしょせん道具であり主権者が自ら作り上げるものだという前提に立てば、憲法はあくまでガイドラインであって一方的に「政府を縛るもの」であるはずがない。
憲法も法であり広義の立法権の対象である。国民主権より上の存在はないので自分で自分を律するためにプロセスを二段階にするひと工夫がつまり憲法の本質なのだが
まあ増田で言ってもな
日本はともかく世界では憲法の書き換えって行われてるし、日本でも憲法改正のルールってのが設定されてるだろ、書き換え不能の天与のものだったら改正のためのルールなんて存在するわけ無いだろ。
どこをどう勘違いしたら「書き換え不能」って言葉が出てくるんだよ笑
「バカがムキになってこの場でひねり出した寝言」って感じするわ笑
※追記
現実世界では、二人は出会って友達になった。京本は美大に行き、死んだ。
二人が出会わなかった世界線では、京本はやはり美大に行っているが、死なない。二人は友達になる。
卒業式の時点で出会っていなかったら、京本は死なないで済んだし、二人は大人になってから友達になる。じゃあ、二人は出会わなかったらよかったんじゃないの?
出会えてよかったね、友達になれてよかったねって話じゃないよね? だって出会わなければ京本は死ななかったし二人は結局友達になるんでしょ? 出会わなければよかったんじゃないの?
要するに、藤野が売れっ子漫画家になるには京本の死が必要だったって話なの? 京本が死ぬ世界線じゃなかったら売れっ子漫画家にはなってなかった。これって感動する話じゃなくて不気味な、後味悪い話じゃないの?
中東、と言うかアブラハムの宗教の選民思想と異教徒虐殺正当化はどうにもならないと思うので、共産党を神の上に置き、選ばれたエリート以外の全人民に等しく人権も価値も自由も認めない共産党方式を導入する以外、中東が安定した地域になるのは無理なんじゃないかなと思う。やはり共産主義こそ世界を救う。日本も選挙で民主主義を打ち倒して共産主義になろう。
増田の言ってる事はごもっともで、分解して箇条書きに展開すると
と言う所で、これに反対する人はいないんだよな。
これが難しい。
基本的には施策はここをターゲットにするべきで、国立人口問題研究機構などが行っているアンケートでも、実は育てたい人、育てる気概のある人の率は、昭和の時代から大きく低下していない。
では何故ここが問題かと言うと「育てたい人、育てる気概がある人」をターゲットにしていると言っているのに、ターゲットにしてない人から
と言うよくわからない反応が起きること。総論の状態で目標を掲げているうちはそうなのだけど、実際の事業や施策を動かしていくと問題になる。
特に、効果が大きい施策、結婚支援や税制改正、制度改正などで噴き出してくる問題だ。
ただ、こんなことを実際リアルな人間関係の中では言う人は少ないよね。だけど、政治活動の世界では多く発生していると言う不思議がある。
典型的なノイジーマイノリティだと思うんだけど、どうして声が大きく出てしまうのだろうか。
さっきのターゲットの話はノイジーマイノリティ問題だったけど、今度は逆。
子どもをもっと産める状況にするには、増田が言うように経済的な問題が第一だ。金がないのだ。
それに対して、現在行われている「もっと子供を産める状況にする」という方面の対策は、それを助長するような対策ばかりになっている。
これらの施策は子育て支援という名前になってるけど、これは子を産める状況にする、と言う対策では無くて、子育てを行っている層や、その祖父母層に向けた票集めのための施策になっていて、「もっと子供を産める状況にする」の裏返し「子どもを産める状況になっていない」人たちに対する支援になってないんだよね。
例えば、高校の授業料無償化や、小児の医療費の無償化といった施策は行われているが、そう言った施策が広まっていっても子育てにかかる金額ははどめがかかっていない。
これは当然で、子育ては競争という性質が強く、また金があったらいくらでも金をかけてしまうと言う性質を持っているから。
例えば支援無しで100の資金が合った人に、30を援助すると、130の資金にして全部投入されてしまう。
するとどうなるかというと、子育てにかかる金額がどんどん増大して新規参入障壁、つまり新しく子どもをつくりたい、増やしたいという人が増えにくくなっていく。ハードルが上がってしまうのである。
この傾向が最も分かりやすいのが、出産費用と私塾の料金。支援金が増えるとそれと同じだけ価格が上昇してる。
標準的な子育てをシステム化してみなこれをやっておけばよい、と言うメソッドを構築すること。
その代わり。その費用は公的な仕組みで全部出すこと。ちょうど健康保険や介護保険の様な仕組みにする。
例えば、大学学部卒までの学費、食料費など全部含んで自己負担金を、住民税基準のようにゼロからMAX20万円ぐらいまで設定する。
学校はその金額の中で運営し、それ以上は利用者からとってはならないとする。対価がある寄附行為も全部禁止。
また、医療介護の標準のように、標準的に守るべき部分を入れて定期的に監査する仕組みにする。
こうすると、養育費の上限が固定されて、大規模な改変がない限り、大学学部卒業までに、月額いくら払っていけばいいのかが確定する。更にここには保健機能を付加しておいて、何か重大な事故があった場合も保護される。
まぁそうだ。
というか、教育に関しては当時の為政者が住民を都合良く洗脳すると言う過去の経緯があって、政治が絡みすぎている。
例えば大物政治家が不祥事で落選した時、自分と懇意にしている私立の学校法人の教授や理事に収まって政治活動を継続する、と言ったことが凄く多い。
治外法権で聖域化しているし、ここまでの巨大な改革は相当難しいと思うが、そこまでやらないと色々と解決は難しいと思う。
政治に興味を持って投票行動を取る人、と言うのは、結婚したり子どもができたりして意識するようになる人が多いようだ。
一方で独身者の投票率はかなり低い。今となっては、子どもよりも政治的影響力が無い。
そして独身者で投票する・政治活動をする層と言うのは、ノイジーマイノリティ化した層だ。
彼らが意見を代表しているかのように政治に影響を与えてしまう。(統計ベースでは、彼らがノイジーマイノリティであることは明白なのにもかかわらず、だ)
この増区政の人々に味方しても票が増えるわけでは無いのだ。なので、受けない。
地方議会などは、切実にわかっているのでやるのだけれど、より劇場型政治の性質が大きくなっていく国会などではどうやっても優先度が上がらない。
と、思わず読んでいて思いついたので頭を整理する意味でダラダラ書いたんだけど。
どうしたらいいんだろうね。
https://anond.hatelabo.jp/20240418200740
この元増田は職場の愚痴を沢山の人に知ってもらって発散したかったら、人口数十万人でも田舎と誇張して書いたと思う。
知り合いの知り合いは知り合い位狭い世界だが、噂話好きは信用されていない。
自分が勤めている職場はよそから来た人がほとんどなので、そういうのを好まないのもあるが、そもそもそんな噂話を話している暇がない。
作者の短編集を読んで天才だと思ったけど、宝石の国はなんか何がやりたいかよく分からないな…と思って連載開始当初ははまらなかったけど、後でまとめて読んでいくと、「主人公が解脱するための物語」であって、途中のストーリーも主人公が周りの人間性に触れて煩悩の獲得をしていく過程、その煩悩により地獄を見るという流れがあるのかもしれないなと思い直した。
例えば俺は麻雀がすきなんだが、麻雀や雀荘という言葉に賭博とか酒タバコのイメージが内包されてる人もいるらしいが、俺はそういうのがない
このように、人が持っているような言葉に対するイメージが全く持てないらしい
私の生まれ育ったガチの山奥の「村」とかだと地場で何代も続いてる親族経営の会社って増田みたいな会社になってる
あと、コミュニティが狭すぎて娯楽も少ないから人の不幸がエンタメなんよ
町内会強制参加(拒否るとゴミ捨てできなくなる)だし、普通に声や顔のデカイ奴がずーーっと会長の座に居座って町内会費を年間百万円単位で横領してる世界だからな
大学は街中に出たこともあって、職場だけは街中にしようって心に決めた
もうあれから10年くらいだけど、やっぱりその気持ちは変わらないわ
先に宣言しておく
どのような理由があろうと、どのような事情があろうと、どのような過去があろうと
即ち、罪を判断する判断材料が意志なのか行動・具体的な影響なのか、である
だから誤解を与えないようにもう一度書いておく
それとは別の話として、以下の事を書いていきたい
佐藤さんは「彼の一言がなければ確実に生きてなかった」というが、「家族の暴言が今も脳裏によぎり、夢にまで出てくる」。
そうすると、平静でいられなくなり、発作的に「ダメだ。価値がない」と自分を責めてしまうだけでなく、SNS(X)で繋がる知人にも被害妄想をぶつける。「そのたびに親交が途切れて後悔する」という。
当時は衝動的に荒らしをしていたというが、一方で「疑問系の投稿にすることで名誉毀損などのリスクは減らせるという気持ちがあった」「私自身がされて一番嫌なことを同じようにしたのではないか」と冷静に当時の状況を振り返る。
地獄がある
恐らく、この記事に対して「加害者に寄り添いやがって」のようなコメントが山積するだろうことも含めて、この記事にまつわるあらゆる状況が悲哀と苦痛の連鎖だからだ
私は以下の記事を思い出す
自己犠牲とは、「間違ったこの世界への復讐」という意味が込められています。
(この場合の世界とは、自分以外の全てです。親も兄弟も恋人もすべて世界の一部です)
なぜ「復讐」になるのかというと、
日常生活においては、この世界は不都合のない世界で、自分の力の及ばない巨人に映るわけです。
かたや自分は、小さな存在で腕力も経済力もなく、世間からも顧みられることのない人間だと思っています。
この世界が自分に送り込んできた使者と対決し、自分の正しさを証明し、相手の無能もしくは無慈悲を暴露することが、生きる目的になります。
この記事においては自己犠牲をテーマとして扱っているが、構造としては同じであると感じている
攻撃性の方向性が内側に向いているのか、外側に向いているのかの違いに過ぎない、と思う
自分が行った加害行為を罰して欲しい気持ちも、罰して欲しくない気持ちもあるのだろう
加害行為を止めて欲しい気持ちも、止めて欲しくない気持ちもあるのだろう
トラウマは再演を伴う、私はそう思う
「ほら。自分が受けてきたことと同じ行動を今しているぞ。親から受けてきた理不尽だ」
「お前らは平気でそういう加害をしてきたし、見て見ぬふりしてきた」
「だったら、私が同じことをしても何も問題がない、そうだろう?」
「なぜ許されない?だったら、どうしてあの時は助けてくれなかったのか、なぜ酷いことをしたのか」
「何故、何故、何故……!」
そういう怨嗟の声が聞こえる
昨日見たテレビの話とかしても同じ番組なんて見てないんだしさ誰も。
誰々さんって変わってるよねーから始まって「まあ個性だよね」「アスペルガーって奴かも知れないからそっとしておこうかー」で終わる感じ?
自分基準での「痩せすぎ」「太り過ぎ」「飲まなすぎ」「健康に気を使いすぎ」「自炊アピールやりすぎ」「自炊してなさそう」とか好き放題言うわけだが、お互い様だから別に問題ないっていうか、そもそも心の中でそういう風に思ってるんだからどうせ口に出さなくても一緒というか。
人間を話題にした雑談をやたら否定する人って、単に自分が他人に興味がないだけでしょ?
それか自分は他人と違って世の中の本質的な難しいことを考えているから、身近な人間如きのことでいちいち口や耳を動かす暇はないって調子に乗ってるんじゃないの?
結局さ、近くにいる他人のことをこの世界に何十億といるモブキャラの一人だとしか思ってないから全てがどうでもいいんだろ?
そこに一人の人間の数十年というドラマがあるってことを感じ取れる普通の人間は差、そこに興味を持っちゃうのが当たり前なのよ。
つまりね、他人の悪口で盛り上がりすぎだろと言ってる奴らは別に心優しいから人の事を変に言わないんじゃなくて、他人のことを社会を動かす歯車ぐらいにしか見てない冷血動物だから他人の全てがどうでもいいんだよね。
まあつまりは、自分を優しいと思ってるけどその理由は優しいという概念を理解するための共感能力がそもそも身についてないだけのサイコパスってことよ。