はてなキーワード: メイキングとは
おれも20年くらい前、大学のときに新宿の高層ビル方面にある某有名ホテルで客室係のアルバイトをやっていたことがある。
彼らは当時おれより年下の大学生(なんとW大生)で、生意気だわえばってるわで最悪だった。
ふつうに呼び捨てだし年下から初対面で「おまえ」呼ばわりされたのにはまじでびっくりした。
奴らは客室清掃で使用済みのタオルでなんでも拭いてたね。コップなんかも当然。そのあとにしれっと「消毒済み」のビニールをかぶせるんだよ。
(ちなみに浴室や浴槽を使用済みタオルで拭くのは当時は普通に行われてたはず。浴室は水滴をすべて拭き取る必要がある。)
あれ以来、自分がホテルや旅館を利用するときなんかでも「消毒済み」とか絶対信じないことにしてる。あれコップとか便座とかかぶせるだけでなんの証明にもなってない。
だから「清掃に使用済タオルを使うことなんて絶対ない」なんてことは絶対ない。と思う。高級ホテルであっても。
これ、20年も前の話しだしこいつらが酷かったという特殊な例でもあるけど、おれはふつうに今でもありえることだと思っているね。
客室係ってスピードが命だし、浴室清掃とかベッドメイキングとか結構肉体労働なんだよ。清掃中は誰も見ていないわけだし。人間見られてなければ何でもやる。
今なら人手不足で昔より少ない人数で回している可能性はあるだろうし、モラルも下がっているかもよ。
増田のタオルもタダじゃないっていう理屈はよくわからない。別に水滴拭くぐらいでタオルは汚れないし。それにタオルなんてワゴンに死ぬほど突っ込んであって使い放題だったけど。
関係ないけど、AVなんかでラブホテルでベッドカバーを外さずにその上でコトに及ぶやつ。
元客室係からするとあれ本当に汚らしいし不快なんだよ。ベッドメイクで変えるのは基本シーツだけだから。
ふとん一枚めくるだけなんだけど、どうしてそんなこともやらないんだろう。女の子も嫌がっていいのに。
再追記
piripenko サバサバ系に対するほんわか系だったのですが…。追記を読んで映像への印象も前より悪くなってしまい困惑。ゴミとプレゼント対比のために設定(ひどい)があるみたい。共感より筋をとって幸せなのは制作だけでは。
作品をちゃんと見た上での好き嫌いは全然普通のことではないでしょうか。
共感と筋が対になっているのではなく、共感させ方の種類が違うということではないかとは思います。繰り返しになりますが、主人公視点の作品です。主人公の内面での象徴としてのゴミとプレゼントであり、大切なものですら投げ出したくなることはあるよねという表現は受け入れられない人もいるでしょうが、共感する人もいると思います。
サバサバ系の話はすみません、別の人と同じ意味かと混同してました。ただ、考え方に差があるようなのであまりこちらの意見を押し付けても仕方ないですが、サバサバとほんわか程度なら、そんなに差が出る役ではないのではないかと思っています。
追記
simplemind 主人公の内面で迷いが吹っ切れただけで話が終わっててオチがないから伝わらないんだよ。次の日グローブをもう一個買うとか、子供の背中を洗ってやるとか。映像で語れてない
オチがないからわかり辛い、という意見もよくわかりますが、それはミスではなく意図的な選択だったということが、メイキングを見るとわかります。父親は子供とキャッチボールの約束をしているのです。
そういう明快なオチではなく、抽象的に変化を描くことで考える余地を与えたり、普遍性を得ようとしたのだと思っています。その賛否もわかりますが、あのCMを見るだけでもその部分は理解可能だと思ったので、増田を書きました。
piripenko 演技はもとより映像の出来がいいのは同意。キャラ設定とエピソードの練りこみが物足りない。ゴミを分別させては、女性はほんわかタイプではといったノイズ対策も甘く、総じて残念。一応そんなに怒らんでも派です。
トラバでも「気の強そうな妻」はどうかという意見がありましたが、妻が主人公に対して圧迫的だという意見は、個人的にはすごく疑問があります。
初登場時の妻は、笑顔でケーキのおつかいという「軽いお願い」を主人公にします。これが仁王立ちで登場しているとか、圧迫感のあるアップの演出であるなら別です。しかし彼女は外出の支度中のようで、笑顔でごく自然にお願いをしています。
その後のラインは状況がわからない(妻に用事ができたのかもしれないし、本当に無理矢理買い物を押し付けてきたのかもしれない)ので置いておきます。次に、父親が連絡なしに遅れて帰宅したときに怒っているのは、当然です。しかしその後父親が謝ったらすぐに態度を変え、楽しげに息子に呼びかけています。これが「気の強そうな妻」の演出だとは、個人的には全然思えません。
ケーキとプレゼントに関するやり取りから、妻のそういう性格を想像する人もいますが、状況が省略されているだけで、買い物を変わりに頼むことなどは、日常よくあることだ思います。省略されているのは、「それを否定的に捉えている父親の主観」のためです。省略されている部分に想像をめぐらすのは自然なことですが、それはまず「映像で描かれていること」を元にすべきであると思います。
ラインについても、1126(イイフロ)というCM中ではポジティブな意味を持つダジャレの時間に送られているので、俯瞰して考えればあまりネガティブな状況ではないと解釈しています。
ゴミの分別については、普通ゴミとビン・カンの日でちゃんと分別しているのでは?と思いますが、違う話でしょうか。
watapoco 初見が音声オフだったので、これと近い見方。映像だけ追うとこういう構成よね。でもケーキほったらかすとか生活のリアリティのなさは映像としても×。
要冷蔵とか、ケーキの扱いにこだわる人がいるのですが、ゴミと、ケーキとプレゼントを重ね合わせてるイメージ(本当ひどい)があるので、あの扱いはむしろ筋が通っていると思っています。
生活のリアリティのなさについては、意識差がありますしどの程度映像で再現するかは難しい問題ですが、あの家庭の映像に違和感があるという意味なら、それは家庭に疑問を抱く父親の主観と解釈できるのではないかと思いますが。通勤や職場の雰囲気などは出ていると思いました。
bt-shouichi 「自分が昔見た父親はそうだった」からといって、「孤独に仕事を頑張ることが本来の父親の役目だと思っている」となるもんなんですかね。そういう考えをもってる人って多いのかしら
家族の行動に無意識で根深い影響を受ける、またそれが誤解に基づくものであったりするというのは、すごく自然なキャラクターメイキングだと思います。
「孤独に仕事を頑張ることが本来の父親の役目だと思っている」は、映像から読み取れることをつないでいった結果、家庭との対比も合わせたら説明するのにわかりやすいと思い選んだ言葉ですが、違和感があったらすみません。
あと元は動画のURLを貼っていなかったので、念のため貼っておきます。
----
「下手な映像」というブコメをいくつか見たので言わせてもらう。すごく丁寧でよくできてるよこのムービー。
このCMは「映像で語る」ということをしているので、台詞で説明されないとわからない人には伝わらなかったのかも知れない。そういう人向けに映像的な読み解きをしてみる。
このCMは時系列を変えてまでオープニングとエンディングをゴミ出しと出勤風景で揃えている。つまり同じ映像で心の違いを表現している。回想では、笑顔の妻に息子の誕生日ケーキを頼まれて、気のない返事をするダメな父親の姿が描かれる。そして映像作品で誕生日をモチーフに選ぶ場合は、普通は生まれ変わりの意味で、赦しの雨みたいな慣用表現(ついでにこれは雨の代わりに当然風呂)。要はオープニングは、このCM中に主人公の父親が成長しますよという説明だ。これが前提になって映像が綴られていく。
オープニングの時点では、家族思いを演じているつもりの父親は、孤独に仕事を頑張ることが本来の父親の役目だと思っている。自分が昔見た父親はそうだった。だから笑顔の妻との会話ではなく、孤独な出勤風景から始まる。
その仕事場では、部下が報告をしなかったことを上司に叱られている。部下を慰める父親。歩道橋から見おろされる部下は、父親より下の存在で同時に育ててももらえる、いわば息子のように描かれている。父親は仕事場の息子に対しては、面倒を見てやり、自分の失敗談を晒して、人は成長するもんだと助言も与えてやれる。仕事場での人間関係なら、うまく立ち回れるのに。
しかし家に帰れば自分も、家族の大事な日なのに酒を飲みに行くのを報告しなかったことで妻に怒られる。家庭ではダメな部下と同レベルだ。仕事はできても家庭では何もうまくいかない。家庭には、父親が頼れる上司はいない。
帰宅途中では「家族思いのパパが正しいのか」と毒を吐いていた。このときケーキとプレゼントを両手にぶら下げる。朝出したゴミのように。
グローブを買いながら思い出す。自分の父親は、自分がいて欲しい時に仕事でいなかった。自分も仕事だけ頑張っていればいいじゃないか。
しかし、子供じみた拗ね方をして湯船に浸かっているとき、父親と一緒に風呂に入ったことを思い出す。自分の父親は、仕事だけをしていたわけではなかったことにようやく気付く。覚えている父親の背中は、出勤する背中だけでは決してなかった。
あの頃の父親と今の自分がかけ離れているのは、何故か。世間の父親像が変わったんじゃなくて、自分がダメなだけじゃないか。風呂に入りながらやっと気付く。そういえば、妻からLINEが来た時刻は11:26だった。
帰ってきたときは座らなかったテーブルに、風呂から上がった父親はようやく座る。これは、やっと本当の父親の座に付けたということだ。だからこのシーンで初めて息子が出てくる。父親が座る場所は、部下と飲んだときと同じ席だ。仕事と同じように、家庭でもうまくやれる自信が湧いてきた。朝は敬語だった妻に、素直に、気さくに謝る。笑顔で見送ってくれた妻にようやく笑顔を返せた。息子の誕生日に、父親は生まれ変わる。
ラスト、昨日と同じようにゴミを出す。しかし両手にゴミをぶら下げた絵は映らない。同じく、昨日は孤独に歩いていたカットは挿入されず、代わりに父親が眺めている風景の映像が入る。
含み笑いしかける父親。昨日何かあったのか。これからいいことがあるのか。
と、こういう流れになっていて、子供じみたダメな父親がいい父親に成長する内容なわけです。
それを言葉での説明を省いて、なんてことのない日常を淡々と綴った映像はとてもよかったと思いました。なんで飲みに行くのかとか、何を語ろうとしてるのかとか普通に映像見てればわかると思うんですけどね。
全編Flashアニメーションだということを知らずに見たのだが、びっくらこいた
パンフレットみると
という工程になってるらしい
つまり従来動画がやっていた部門をFlashアニメで置き換えてる
しかしアニメーターの原画をどうFlashアニメに落とし込んだらあんなフツーのアニメになるねん??
(ここまでFlashアニメ=蛙男商会のような映像という認識)
どうも原画をとりこんだあと、指とか腕とかの動く部分を別々のオブジェクトとして作成して、切り絵みたいに貼り付けたもののアウトラインをなぞって線画をつくってるらしい
アニメーションはそれぞれのオブジェクトを変形させて作成している?
ここらへん映像だけじゃよくわからなくて、今までの動画みたいに一コマずつ画像をつくるのか、Flashの機能だけでエンヤコラしてんのか、その両方なのか
Flashでできることを知らないので工程が具体的に想像できない
しかしどっちにしろ技術としては単に紙に動画を描くよりも大変そうな気がした
それでもFlashによる利点が多くて、修正指示がすぐに反映できたり、着彩も済んだ状態で仕上がるのでそのまま撮影に渡せるなど、アニメーターが労力を浪費せずに動きに集中できる仕組みになっているらしい
人員も少なくて済むらしく、12人でやっているという記事があった。動画なら何十人というのが必要だよね…
最終的にできるデータもベクタだから、4Kや8Kにすることがあっても映像の質が落ちない
こんなにいいことづくめで、そのうえ出来上がる映像があのように伝統的な手描きアニメーションに近いものだったら、もう完全にこちらに移行してしまった方がいいのではないか?
この製作方法にはアニメーターの労働問題とか、手描きアニメをつくるにおいて障害となっているいろんな問題をクリアする力があるのではないか
3DCGアニメも悪くはないんだけど、やっぱり絵が動くというのとは違う映像になっちゃうというところがネックになってて別物感が拭えないし
この時期になるとほぼ毎日どっかで花火の打ち上げがあって、その度になんだか嫌な気持ちになる。
今花火をやっているのに、自宅でPCに向かっている自分が少し嫌になるのだ。知り合いの内の誰かはきっと参加してキャッキャ楽しんでいるのだろう。北の微妙な地方都市から上京してきた私は「田舎と都会は、とりあえず催しへの参加のしやすさが一番違うなぁ」なんて考えていながら、花火すら見に行かない。暇なんだから見ようと思えば行けるのに。行く人もいないし。それなのにあのドン、ドンという打ち上げ音が私を急かすのだ。お前の手の届く範囲で、いろんな人が楽しんでいるぞ、と言われているようでイライラする。予定が欲しい。恋人が欲しい。
あと、そもそもあの重低音が嫌いだ。今調べたら今日の花火は6駅ほど離れたところでやってるらしいが、その程度の距離なんておかまいなしにドンドンとうちの窓を揺らす。上京直後に住んだ学生マンションで、隣の部屋に住むT大学のバカ学生が糞のような低音を毎夜響かせていたのを思い出す。低音大嫌い。花火に関してはあんまり騒音の文句を聞かない気がするが、なんでだろう。
私の好きな映画に「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」という作品があって、これのメイキングDVDのタイトルが「少年たちは花火を横から見たかった」なのだが、こういうタイトルの付け方ってなんか好き。
FFDQの昔のナンバリング作品には、ナンバリングするだけの重みがあった
でもゲームハードが進化してから出たものはナンバリングの重みが感じられない
ゲームハードが進化してから出た作品のナンバリングは、最初から重みが感じられない
龍が如くとか
ただナンバリング重ねてるだけでそれぞれがエポック・メイキング的な意味をなさないようなうすっぺらくてライトなものが増えすぎてる
製作者、プレイヤーのゲームについての知識・ノウハウが成熟しすぎて、お互いに惰性になっているのではないか
それすらすれ違ってきているから始末に終えない(制作費高騰のため課金込みで値段を下げた価格にしているのにそれをすると最初からアンロックして売れと言われる。そうすると一時期のコー○ー並になるけどいいのかそれで
耐え忍ぶときなのか
そのあり方について、一度立ち止まって考えるべきだ
立ち止まっている間にハンコゲーを出す分には構わない
ただ、並行してもっと製作者がおもしろいと思うものをつくってほしい
でも最初から商売だけのためにゲーム業界に入ったんじゃないだろう・ゲームをプレイしているわけじゃないだろう
もっと夢を追え
どうあるべきだ?
どうあってほしいんだ?
世間的には芸術家として知られる人間・岡本太郎の人生をドラマ化した作品。
東日本大震災直後の頃にやっていたドラマということもあってあまり知られてない印象があるけど、かなり魂が揺さぶられた名作だった。
元々岡本太郎が好きなので楽しみにしていたけどその期待以上に応えてくれた作品だった。
実話を元にした名言と名シーンのオンパレード。キャストの名演も光っていてあの日本が沈み込んでいた震災直後の頃だからこそ広く見られるべき作品だったと思うんだけどなぁ。
メイキングやキャストインタビュー、かつての本人出演番組(これが一番見たい)などの特典映像が見たいのでDVD-BOXが欲しいけど後でBD-BOX発売とかやられる可能性を考えると手を出しにくい。
ここ半年で見たアニメ映画のなかで、強く印象に残る作品が2つある。「リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード」と「KING OF PRISM by PrettyRhythm」だ。
どちらも非常に優れた作品なので、知らない人は覚えて帰ってほしい。
キンプリことKING OF PRISMは好評上映中で、リトルウィッチアカデミアはNetflixで配信しているはずだ。
それぞれ1時間程度の短編映画なので、あまり身構えずに見ていただきたい。
これら2つの作品が優れているのは、ひとえに制作スタッフの熱意によるものだ。
しかし監督の方向性の違いにより、その特質が大きく異なっている。
端的に言うと、「リトルウィッチアカデミア」は作画を楽しむアニメであり、「KING OF PRISM」は演出を楽しむアニメである。
リトルウィッチアカデミアは教えてくれる。アニメーションとは「動く絵」のことだと。
キンプリは教えてくれる。アニメーションとは「実写ではないもの」のことだと。
リトルウィッチアカデミアの作画は凄い。人が、物が、本物よりも本物らしく色づき、動き、生きている。
キンプリの演出は凄い。非現実的かつ過剰な演出を繰り返しつつも、誰もが作品にのめり込み、主人公と共に驚き、笑い、泣くことができる。
リトルウィッチアカデミアのメイキング映像では、監督が原画マンの提出したラフに対して、人体はどう動くか、それをアニメーションとしてどう表現するかを微に入り細に入り修正している。
キンプリの(劇場先行DVDの)オーディオコメンタリーでは、監督があらゆるシーンに対して、キャラクタが何を考えているか、裏で何が起こっているかを微に入り細に入り語ってくれる。
アニメ映画という同じ枠組みにありながら全く異質の価値を提供してくれるこれらの作品は、作成の経緯もまた異なる。
「リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード」は前作「リトルウィッチアカデミア」の人気を受け、クラウドファウンディングにより制作資金を調達した。既存ファンが先行してお金を払った。
「KING OF PRISM by PrettyRhythm」は原作「プリティーリズム レインボーライブ」の人気を受け、主要スタッフが会社上層部を説き伏せ、半ば騙すように制作した。監督は公開直前に内部事情をさらけ出し「どうか劇場に足を運んでほしい」とファンに対して頭を下げた。
どちらが良いという訳でもなく、どちらも非常に優れた作品であり、アニメーションという形でしか表現できない。
「アニメーションはこうあるべきだ」という正解を感じることができる作品である。
クラウドファウンディングにより一定の評価を終え、BDの発売も行われているリトルウィッチアカデミアに対し、
キンプリは今が評価の真っ最中である。少しでも気になった方は今すぐ劇場に行って、この作品をより長く続ける助けになってほしい。
キンプリを観てくれ。
とにかくキャラデザがニクい。
主人公の千夏がキレッキレの、モノトーンとかトリコロールが似合いそうな、クールでシャープな面持ちなのに対し、
相方の春太は童顔で、フルーツのようなポップな色が似合いそうな、キュートで愛らしい風貌と来ている。
この2人、対照的とまでは言わないけど、それぞれ全く別のベクトルで魅力を放ちまくっているというキャラ配置が凄い。
しかもこれ、普通は男女逆であることが多いキャラメイキングなんだよ。
モノトーンが映える黒髪男子、女子向けアニメではまんまその魅力で攻めていて、そうじゃないアニメだとカジュアルな服を着ていて、それが却って野暮ったくてどこか垢抜けない主人公とか、あるあるですね。
ポップで童顔なヒロインに至っては、もはやアニメでは定番的キャラだし。
このキャラ配置だけでもはや視聴決定な件。
昭和臭のする不快感があるキャラクターを軸にしたストーリーメイキングに頼りすぎてる。
今年一番面白かったと言われてる下町ロケットだって完全にそう。
分かりやすい悪役→物語に都合よく主人公たちに都合が悪い展開→分かりやすい悪役→物語に都合よくて主人公たちにも都合が良い展開
この構造ばっかり。
ひたすらこれ。
そして分かりやすい悪役の不快感、物語に都合がいい展開の稚拙さ、どれも酷いったらないね。
そんでそれを「こういうのが好きなんだろう?」って見せつけてくる。
ハリウッド映画のスケベシーンみたいに「こういうシーンが見たかったんだろう?」って見せつけてくる。
センスの無さ丸出しだよ。
自然なリズムでねちっこくなくてリアリティのある喋り方で真っ当なずる賢さで思わず関心させられるような悪役を本当は求めてる。
でもそんなの今のドラマ業界は作ってくれないから仕方なく、ありきたりな過剰演技でお馬鹿で現実離れした発言を連発する悪役で仕方なく盛り上がってるだけ。
いい加減さ、求められてる物が何なのか見なおしたり出来ないわけ?