はてなキーワード: 混沌とは
横だけど、音楽というのは世界観、人間性、コンテキスト、そういったものから逃げられない存在だと思う。
いかに音楽それ単体で評価しようとしている人でも、それらの影響を無意識に取り込んでいる。
その事実をシビアに受け入れるなら、却ってその部分を積極的に音楽の評価に取り入れようという姿勢も正しい。
そう考えた時、世界観や物語性を魅せることに長けたハイコンテキスト文化の申し子であるアイドルに一目置けるようになる。
そういう流れを汲み取って聞けば、アイドルがくり出してくる曲にこそ、重いパンチを感じられるはずだ。
アイドルの曲は、意外と反権力的で、メッセージ性が強かったりする。知的な人は、知的に受け止められる。
もちろんそうでない人も、そうでない表象的な受け止め方ができる。
それらが入り混じった混沌とした悪趣味さこそが、アイドル音楽を音楽たらしめている。
仮に陳腐な音作りの曲だったとしても、そこに哲学的だったり虚無主義的だったりする意味を見出だせる。
しかし実際には、(アニソンなどもそうだが)プロのスタジオミュージシャンが作っているものなので、品質は安定している。
逆に、一端のバンドでは表現できないような多様な音楽表現を見せてくれて、曲によってはその音楽ジャンルの専門誌で取り上げられるような事もある。
匿名による彼らの書き込みには生命が宿っているが、その価値は著しく軽い。
なぜなら彼らは匿名で書き込むことで自我を減らしているからだ。
匿名である彼らは同じ人間ではあるが、同じ人間から少し引き算をした存在なのだ。
彼らはいかにアイディンティティと呼ばれるものを保持できているのか?
私が書き込んだものは変わることはない、その不変性によって維持できている。
そうでなければ、私が書き込んだものが侮辱されたり、過小評価されたりしたときになぜ落ち込むのかわからない。
wikipediaは書き込んだものが修正されるが、修正された履歴として残る。
匿名の人が人間から少し引き算をした存在だとしても、同じ人間であることは変わらない。
私達と同じ感情を有しているのだ。
一方では匿名は劣った存在だが、もう一方では同じ存在として扱わなければならない。
彼らはいかにアイディンティティを保持できるのかも私は書いた。
一方で彼らは匿名でのアイディンティティを簡単に捨てることもできる。
なぜかといえば、私が書き込んだものを削除すれば消えるし、私が書き込んだことを忘れてしまえばなくなるだろう。
(忘れる方法について、簡単ではないように思えるだろうが、人は大したことではないことは簡単に忘れられるようにできている。)
まず家族がいるだろうし、私のそのままの暮らしそのものであったりするからだ。
それが毀損されれば、どうなるかここでは書くことはできない。
そのアイディンティティは匿名では自分の意思によれば簡単に捨てられる。
匿名世界でも、アイディンティティは尊重されねばならないが、本人がどうでもよければ価値はないのだ。
それは一方の論理を受容するとき、一方の論理もまた受容するというものだ。
匿名世界で会話をすると気にはこの論理の取引がほとんど不可能である。
いや、私のアイディンティティは守らねばならないが、相手のアイデンティティはどうでもよい。
捨てればいいだけだからだ。私のは今は捨てたくない。
匿名同士の会話はこのように成り立っているようで成り立っていない。
常に死者が出ているのだ。
彼らがマッチョ思想に染まるのも当然で、むしろそれを貶す奴らのほうが狂っている。
もちろん匿名同士では私の言っていることは逆に間違っている、貶なせるのなら貶すのが正しいだろう。
これがアイディンティティを簡単には捨てられない世界との衝突では大変なことになる。
匿名の人はいかにもアイディンティティを大事のように振る舞うのだ。簡単には捨てられないほうが価値が高いことを知らないか、
私はあなたの論理を受容しましょう、だから私の論理も受容してください。
これを拒否するのなら、匿名の人はアイデンティティを捨て、もう一度同じことを繰り返すだろう。
取引をしたとして、彼らが味方になることは無いのだ。なぜなら彼らはすぐに死んでしまう。
死を覚悟して、人の論理に突撃していく、彼が正しいか正しくないかなど関係ない。
それは死者が出ることが分かっているものに、私の論理はそれほど正しいのだろうかという疑念も出るだろう。
人の死より正しいものがこの世にあるのだろうか?
それに会話するルールを毎回のように破らなければならないのは、一般的なことではない。
私はこれは解決すべき問題だと思っているが、私にはやることない。もう世界がすでにそう動いている。
アイデンティティの価値について、よく吟味するしかないだろう。
姫扱いを喜ぶ女、ブランディングで男に絡む女、勘違いした童貞、勘違いした高学歴男、勘違いした女
とポリシーはしっかりしていない勉強会は混沌として収拾が付かなくなっているし主催も把握しきれていない。
中には勉強会がきっかけで交際したカップルとか結婚した男や女を知っているのだが、それに乗じて恋愛工学に毒された
ような男グループが女にネチネチ絡む様子が散見されている、それを咎めるとグループに一斉に敵意を向けられてそれが
勉強会常連グループだと以後、その勉強会からは締め出しを食らうだけに周りも見て見ぬふりをするしかない。
こんなコメントや意見を見かけるのだが勉強会は勉強する場だ、恋愛の場ではない
だいたい何でも受け入れるか受け流すので昨今の人々は大変だなと思う
多分昔のインターネットとかで突然グロいFlashかまされまり
タイトルとポエムめいた紹介文から作品や絵を読んで「あちゃーこれ苦手な話(絵)だわ」ってなったり
なんかその混沌としたところから自分の好みを見つけて行くってことが多かったんだよね
でも今って自分に気持ちよくないものが目に入っただけで発狂してそのものを根絶しようとする人がいて
って書いてて思ったけど昔もきっといたんだろうな?数が増えただけ?ツイッターとかで目につきやすくなっただけ?
ともかく昔は男性向けエロとか全く無理無理って感じだったけどあるキッカケで好きになったし
逆にノーマルカップリングはずっと無理でうっかり見たりするとマジでげんなりするけど
ノーマルカップリングを根絶やしにしてやるとかは思わないわけですよ
「表現の自由」は他の人権を侵害するような場合、制限されるという、
健常者の「表現の自由」も人権だし、「職業選択の自由」も人権。
そして健常者はお互いに非難も肯定もある混沌の中で生きてるのに、
と主張するのは「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」によって
なんだ、ただの権威主義者か。
実際には男性差別は世に氾濫しているが、国連がそれを何とかしてくれてるんですかね?
社会問題の類いはたいてい一概にこれが正しいと言えないから、考えるだけで消耗してしまう。
いまホットな女性の社会進出の話にしたって、力の差や身長差みたいに生物的性別でほんとうに男女に差が出るものとそうでないものがはっきりしない or 比較的はっきりしているものでも他のいろんな問題が絡み合って混沌としている。明確な定義がなくて答えが出せない場合は妥協点を探るしかないんだけど、結局みんな自分が可愛いから、いつのまにか個人的な手柄取りや利権争いに飲み込まれてしまう。そうした権力闘争さえ掌の上で転がせるような、ある種残酷なまでの策略家がいればいいんだけど、健全な使命感にその狡猾さを活かしてくれる頭のいい人はなかなかいないものだね。少年漫画だと時々いるけど、現実社会では世論に負けそう。
つらいことがあったとして、自分だけの問題だったら嫌なこと言ってくる人からは距離をとるなり、仕事やめるなり、海外に逃げるなり、なんでもできるけど、責任が伴うとなると途端に身動きがとれなくなる。覚悟だとか、受容だとか、結局個人の受け止め方の問題に帰結してしまう現状が歯がゆい。
神経質を改善するのには外食するといい。そんな話を聞いてから、時々するようにしている。いろんな人間がいるのを認識して寛容になり、自分もそのままでいい、と思えるようになる(らしい)
昼時~それを少し過ぎたあたりのファミレスはなんというか混沌としている。暇なババァ共のターン制嫁孫健康話や走り回るクソガキ、泣くという仕事を始める乳幼児、それを宥める/叱る声がヒステリックに大きな母親、昼間から酒をかっくらい大声で語らうジジィ共、真剣に何かの打ち合わせをしているおっさんたち、あと飼い主のついてない池沼なんかも。
本当にいろんなやつがいる。
次の予定までの時間、その混沌の中に身を置いていると、自分なんか誰からも見られていない気がして楽になれる。無理して取り繕わなくても路傍の石なら自由でいいだろう、と思えてくるから不思議だ。
うるさくても自分で最低限の対処はするし、無理そうなら食事だけしてさっと出る。
本当にいろんなやつがいて、分かり合うなんてむりだし、自分の思い通りになることの方が少ないんだから、自分で出来る対処した方が早いよなって、そういう話。
たぶん、子供がうるさいとかそういうの主張するタイプは、子供が静かになっても難癖つけると思うね。ロバを売りに行くようなもんだよ。
配信のノリ的にはマシュマロに答えている時の兎鞠まりや委員長が好きなんだけどよ―
TRPGガチ勢おじさんの生活配信は興味ないから見てないけどなー
マグロナちゃんはいいセンいってるんだけどなーちょっと動画が退屈なんだよなー
ニコ動でゆかりさんの実況でも見てろってのはまあ間違ってないんだけどなー
データベース化して共有しているキャラによる百合ネタとかエロネタで引っ張られても面白くないんだよなー
つうかニコ動は淫夢関連のネタが多すぎてちょっとついてけないんであるなー
つまる所なー
・喋りが上手い
・外見と声が魅力的
・でも悪人じゃなくて善人
・いわゆるアライメント善ー混沌
って条件をすべて満たしたような配信を探してるんだなー
あほかー
と言ってもなー
高プロが可決した。
でも、のらりくらりしていればかわせてしまう。
何故か?
対抗が居ないからだ。
何故対抗が居ない?
どんなに自民がダメだって他よりはマシとかよくわからない理論で勝ってしまう。
全くの新人がこの民主主義で何か変えられるか?誰が信じるか?信じたとしても少子高齢化で母数も足りゃしない。
途中の政権交代だって自民離脱者だったが、最早自民を離脱してまで自分の考えを貫こうなどと考える人がいるとも思えない。
今だってこんなにゴタゴタしているのに自浄作用が働かない、今の野党が信を得られる力がないし、倒幕せざるを得ないようなほどに新しい勢力が何かできるほどには混沌としていない。(武)力こそ正義な時代ではない。献金と既得権益の力が正義だ。
完全に詰んでいる。
大人は逃げ切りを選び、希望を知らない若者は変革の方法も知らぬまま、そして滅びの時まで自民しか選択肢がないと悪循環が続くのだろう。
「生まれながらの強者である僕は教皇になりたかった」なんだよー
ハインの末裔はちゃっかりいただいちゃってるんじゃ…あの時は随分と俺を利用してくれたじゃねェか…か
アニマは警告を無視していただいちゃってるんじゃ…気をつけろ、敵が紛れ込んでいるぞ…か
こんなオチで良かったとかヴ=コメ(正確にはその転生体)ムセテンナヨ!
これがグルガン族に立ち向かった佐村河内こと混沌と性欲の神々の化身だったらどうよ
ゴーストで神の導きのままにいってた、最後の聖騎士が<漆黒の魔弾>に斃れるとき手に入れた女と過去を悔い、未来を憂う時も神の導きのままに信念を貫いてるって
神の摂理の作曲家はモテなさそうだから……馬鹿な……預言書を参照してんじゃねーぞ、コラ終身大統領
しかも、視神の代行者だよ
弟の名を偽って手に入れた知恵を司りし魔道具属性に時の始まりより終わりまで御尊顔射してるんだよ
預言書によって決定づけられ……あなた、恐らく私が知らない事を知っているだとさ、まるで道化じゃねぇか、俺はよ
メガネゾク・セインを血塗られたこの手に世界を切り開けりゃあ、メ=グァーナにドビュール願赦だよ
いかがなのよ、これ
世界を煙に巻く障害属性に聖水による御顔沐浴世界する権利があるのは皇帝の方だろ
この秋から、帝都の図書館で司書として働く事になった俺は略奪の眷属兄弟とかどうでもいいが、スプラッシュ・オヴ・ペルソナにだけはオプティマがある……だが、そのうちの一つは“今”消える……んだよ
思い出の中でじっとしていてくれ……高みの見物か、随分とお高くとまっているな
でもこれは「マンオンザムーン 」と2つセットで見ないと面白くなかったと思う。
「マンオンザムーン 」はアンディカウフマンという実在したコメディアンの伝記映画で、「ジム&アンディ」はマンオンザムーン のメイキング映像と、主演だったジムキャリーへのインタビューを基にしたドキュメンタリー。
アンディカウフマンはとても破天荒な芸人だったんだけど、ジムキャリーは憧れも相まってどんどん役にのめり込んでいってしまう。
ややこしいことにジムキャリーはカウフマンが扮装したキャラクターであるトニークリフトンにもなりきるため、現場はどんどん混沌の渦に飲まれていく。
まず「マンオンザムーン 」を観てから「ジム&アンディ」を観て、そして再び「マンオンザムーン 」を観ることを薦めたい。
「マンオンザムーン 」を観ていないと「ジム&アンディ」は理解できないし、「ジム&アンディ」を観ていないと「マンオンザムーン 」は特別面白い作品だとは感じないと思う。
「ジム&アンディ」はジムキャリーの人となりだったりメソッド演技がどういうものか考察する上でも面白かった、映画好きは観て損はない。
ネトフリはドキュメンタリー関連で当たり多いわ
自分のイメージでは、愛国心が無くなると常に地方が自治体としての独立を求めて政権と反政権で別れて内乱が始まると思う
まず最初に決起するのはグンマーだろう。ダサイタマもそれ続く。当然、沖縄は中国領琉球になり、北海道はロシア領となるだろう。
愛国心がないんだから当然だ。愛国心無くして、日本に帰属してなきゃいけない理由はないからな。
47の自治体がバラバラに分解され、宗教信者や反政権派、国外スパイは求心力を失った政府に対して武装蜂起するだろう。
そうやっていまだに世界は戦争のなくならない混沌を極めているということを理解してないとは。頭クラクラしてくる。
いや、その混乱を引き起こして自分たちが国を統べるんだと鼻息荒い連中がリベラルだの左翼だの気取ってるのかな。
だとしたら単なるセロリストだぞ?