匿名による彼らの書き込みには生命が宿っているが、その価値は著しく軽い。
なぜなら彼らは匿名で書き込むことで自我を減らしているからだ。
匿名である彼らは同じ人間ではあるが、同じ人間から少し引き算をした存在なのだ。
彼らはいかにアイディンティティと呼ばれるものを保持できているのか?
私が書き込んだものは変わることはない、その不変性によって維持できている。
そうでなければ、私が書き込んだものが侮辱されたり、過小評価されたりしたときになぜ落ち込むのかわからない。
wikipediaは書き込んだものが修正されるが、修正された履歴として残る。
匿名の人が人間から少し引き算をした存在だとしても、同じ人間であることは変わらない。
私達と同じ感情を有しているのだ。
一方では匿名は劣った存在だが、もう一方では同じ存在として扱わなければならない。
彼らはいかにアイディンティティを保持できるのかも私は書いた。
一方で彼らは匿名でのアイディンティティを簡単に捨てることもできる。
なぜかといえば、私が書き込んだものを削除すれば消えるし、私が書き込んだことを忘れてしまえばなくなるだろう。
(忘れる方法について、簡単ではないように思えるだろうが、人は大したことではないことは簡単に忘れられるようにできている。)
まず家族がいるだろうし、私のそのままの暮らしそのものであったりするからだ。
それが毀損されれば、どうなるかここでは書くことはできない。
そのアイディンティティは匿名では自分の意思によれば簡単に捨てられる。
匿名世界でも、アイディンティティは尊重されねばならないが、本人がどうでもよければ価値はないのだ。
それは一方の論理を受容するとき、一方の論理もまた受容するというものだ。
匿名世界で会話をすると気にはこの論理の取引がほとんど不可能である。
いや、私のアイディンティティは守らねばならないが、相手のアイデンティティはどうでもよい。
捨てればいいだけだからだ。私のは今は捨てたくない。
匿名同士の会話はこのように成り立っているようで成り立っていない。
常に死者が出ているのだ。
彼らがマッチョ思想に染まるのも当然で、むしろそれを貶す奴らのほうが狂っている。
もちろん匿名同士では私の言っていることは逆に間違っている、貶なせるのなら貶すのが正しいだろう。
これがアイディンティティを簡単には捨てられない世界との衝突では大変なことになる。
匿名の人はいかにもアイディンティティを大事のように振る舞うのだ。簡単には捨てられないほうが価値が高いことを知らないか、
私はあなたの論理を受容しましょう、だから私の論理も受容してください。
これを拒否するのなら、匿名の人はアイデンティティを捨て、もう一度同じことを繰り返すだろう。
取引をしたとして、彼らが味方になることは無いのだ。なぜなら彼らはすぐに死んでしまう。
死を覚悟して、人の論理に突撃していく、彼が正しいか正しくないかなど関係ない。
それは死者が出ることが分かっているものに、私の論理はそれほど正しいのだろうかという疑念も出るだろう。
人の死より正しいものがこの世にあるのだろうか?
それに会話するルールを毎回のように破らなければならないのは、一般的なことではない。
私はこれは解決すべき問題だと思っているが、私にはやることない。もう世界がすでにそう動いている。
アイデンティティの価値について、よく吟味するしかないだろう。