2018-10-13

匿名文化神風特攻隊

匿名による彼らの書き込みには生命が宿っているが、その価値は著しく軽い。

なぜなら彼らは匿名で書き込むことで自我を減らしているからだ。

私達は同じ人間である、ということで価値を同じにしている。

匿名である彼らは同じ人間ではあるが、同じ人間から少し引き算をした存在なのだ

何を引き算しているかというと、彼らは名前を持たない。

彼らはいかにアイディンティティと呼ばれるものを保持できているのか?

私が書き込んだものは変わることはない、その不変性によって維持できている。

そうでなければ、私が書き込んだもの侮辱されたり、過小評価されたりしたときになぜ落ち込むのかわからない。

wikipediaは書き込んだもの修正されるが、修正された履歴として残る。

  

匿名の人が人間から少し引き算をした存在だとしても、同じ人間であることは変わらない。

私達と同じ感情を有しているのだ。

これは非常に混沌とした問題だと思う。

一方では匿名は劣った存在だが、もう一方では同じ存在として扱わなければならない。

匿名の人が名前を持たないというのは当たり前のことだ。

彼らはいかにアイディンティティを保持できるのかも私は書いた。

一方で彼らは匿名でのアイディンティティ簡単に捨てることもできる。

なぜかといえば、私が書き込んだものを削除すれば消えるし、私が書き込んだことを忘れてしまえばなくなるだろう。

(忘れる方法について、簡単ではないように思えるだろうが、人は大したことではないことは簡単に忘れられるようにできている。)

本来、アイディンティティ簡単に捨てることはできない。

まず家族がいるだろうし、私のそのままの暮らしのものであったりするからだ。

それが毀損されれば、どうなるかここでは書くことはできない。

そのアイディンティティ匿名では自分意思によれば簡単に捨てられる。

匿名世界でも、アイディンティティ尊重されねばならないが、本人がどうでもよければ価値はないのだ。

  

人は会話をするときある取引をしている。

それは一方の論理を受容するとき、一方の論理もまた受容するというものだ。

それはアイディンティティを守るための取り決めである

匿名世界で会話をすると気にはこの論理取引ほとんど不可能である

なぜならアイディンティティを守る必要がないからだ。

いや、私のアイディンティティは守らねばならないが、相手アイデンティティはどうでもよい。

捨てればいいだけだからだ。私のは今は捨てたくない。

  

匿名同士の会話はこのように成り立っているようで成り立っていない。

常に死者が出ているのだ。

会話をするときに常に人が死んでいく様子は戦場である

彼らがマッチョ思想に染まるのも当然で、むしろそれを貶す奴らのほうが狂っている。

もちろん匿名同士では私の言っていることは逆に間違っている、貶なせるのなら貶すのが正しいだろう。

これがアイディンティティ簡単には捨てられない世界との衝突では大変なことになる。

匿名の人はいかにもアイディンティティ大事のように振る舞うのだ。簡単には捨てられないほうが価値が高いことを知らないか

分かっていない、またはそれが非常に有効戦略なのだ

私のアイディンティティ取引しませんか?

私はあなた論理を受容しましょう、だから私の論理も受容してください。

これを拒否するのなら、匿名の人はアイデンティティを捨て、もう一度同じことを繰り返すだろう。

取引をしたとして、彼らが味方になることは無いのだ。なぜなら彼らはすぐに死んでしまう。

この様子はまさしく神風突撃隊のようだ。

死を覚悟して、人の論理突撃していく、彼が正しいか正しくないかなど関係ない。

アイデンティティ問題なのだから

そして拒否する側は、ひどい罪悪感に苛まれるだろう。

それは死者が出ることが分かっているものに、私の論理はそれほど正しいのだろうかという疑念も出るだろう。

人の死より正しいものがこの世にあるのだろうか?

それに会話するルールを毎回のように破らなければならないのは、一般的なことではない。

  

私はこれは解決すべき問題だと思っているが、私にはやることない。もう世界がすでにそう動いている。

アイデンティティ価値について、よく吟味するしかないだろう。

そういう意味では信頼を可視化するという試みはうまく行きそうだ。

信頼の可視化は、いろんな問題を含んでいるのだが特攻隊を見ることはなくなるだろうと思う。

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