はてなキーワード: 50%とは
しかしながら、医療の歴史には「売血」という厄介さが常に付き纏っているのです。
レシピエント側からすればドナーさんからの提供は 命そのものです。お金で買うとなれば一族近縁から掻き集めるでしょう。
事実上、ドナー側がレシピエント側の命の値段を決める事になります。そして現在の成功率は良くて50%。
また、善意のドナーさんの名誉を汚すケースも頻発するでしょう。
現在、ドナーカードで意思表示された善意の臓器提供は無償で行われています。
にも、関わらず! 善意の臓器提供者の ご遺族には近隣住民から「あの家は家族の臓器を『○○万円で売った。』」
等といった、完全に制度を理解していない。根も葉もない誹謗中傷の噂が興味本位で流された例もあります……。
私は、そのニュース特集を見た時、何とも… 何とも悔しかったです……。
ドナーさんのご遺族は、常に周囲から「家族の臓器を幾らで『売った』のか?」という目に晒される事は目に見えています。
しかし、事実上無料で完全な善意のみで運用される現在のシステムの方が。
大金と効率で運用されるシステムより 全体では結果的に強い。という事実は極めて重要であると考えています。
資産家の上限カットで、回収したぶんはそのまま下の層に配っちゃえば?
なんでこれがだめなのか理由を教えてほしい。
イノベーションが起きなくなるのではというのは予想されるけど、
今ある有名な大企業も1個人が大金ぶちこんでできたケースは少なくない?
確かに個人が大金持って会社興したほうが意思決定が早いし、大胆な選択が取れるしイノベーション起きやすいかもだけど、
それは別に1個人が大金出す必要なくて、皆で金を出し合って、意思決定権はなるべく少数の人に集中させればいいとおもう。
議決権の50%超、3分の2以上とかあって分散すると意思決定が遅くなるけど、
そこは一人の天才かチームにもっと任せる仕組みを作っていってさ
(あとまあ回収がそもそも難しいというのもあるかも)
返礼品がamazonギフト券ってもう訳ワカメ。
しかしこの手の金券が大体額面の40~50%のバックになるので、
返礼品分は消費されて、経済を回すことになるのだし。
なので、このふるさと納税を進めて消費納税としてしまうのはどうか。
増税分の枠を自治体を指定して納税し、返礼を受けるという基本システムは残して
返礼品も定価が納税額の30%までになるよう抑える。
審査を必須にすると無駄なので、罰則性とし、ルールを破れば自治体に厳罰。
ググると、消費税1%あたりの年間推定税収は2兆億円って書いていた。
真偽は知らん。
てことは、2%で4兆だ。
ググると、2017年のGNI(国民総所得) は5,764,751百万ドルだって。
真偽は知らん。
ざっくり1ドル110円換算で634,122,610百万円≒634兆円と。
ふるさと納税すれば、その分還付。
ふるさと納税が現状どれくらいの割合で使われているか知らないけど、
返礼品を各自治体が30%いっぱいまで設定したとして
残る29兆に返礼品に加えて手数料とか人件費を差っ引いて60%が残るとして、
約18兆は地方にばら撒くことができる。
そして、11兆ほどは確実に消費され、経済が回る、という妄想。
上記は経済知識ゼロの私の妄想だけど、パラメータ調整で良い感じになるのではないでしょうか。
消費税は平等な税だって言うけど、平等なのは徴収金額であってそこに個々の収入は加味していない。
高収入者ほど結果的に負担が少なく低収入者ほど負担が高くのなるのは事実だから
ちょっと極右、右翼、右より、中道、左より、左翼、極左みたいなグラデーションがあって最初の上下、内外は大雑把に右より、左よりの話をしているのかと。
極論言えば中道は左右で揉めてる政策全てに「どっちもあり」とか「中間案を採ろう」っていうことになるかな。
過激な連中に限って言うと
左翼のほうが矛盾が多いっていうけど、右翼だって実際に中国韓国北朝鮮(外)を変えるために危険を冒して戦ってる人なんてほとんどいなくて、実際は国内の左翼叩きに明け暮れている。移民だってそれは既に「内」の存在といえる。彼らがやりたいのは国のための戦いではなく、内部の武力統制。でもお前も俺も、右も左も藁人形叩きはいい加減にしろって話なんだけどな。
あと最近は過激派フェミニスト連中が左翼の代表みたいな扱いされてて不愉快なんだけど、あれは「女」という人類の50%を占めるがカテゴリーを至上とする連中であって、本来左右に分類できるものじゃない。左は歴史的に女性が抑圧されてきた経緯を、抑圧されてきた貧者になぞらえて(あるいは穏健派フェミニストはリベラリスト的思考なので)過激派フェミニストを批判できずにいるけれど、一部の連中が垂れ流すヘイトにはうんざりだし、過激派がやってることはもう一種の民族主義極右といってもいいと思う。
今知って吐きそう
1945~1950年生まれの団塊世代が、冷戦に直面したのは物心ついてすぐ
昭和30年代にはさんざん「今すぐ米ソ核戦争!」みたいに騒がれてた
当時の超有名作品だから観てない子供でも内容は大まかには知ってたろう
このころはしょっちゅう地上や離島で核実験やってたから死の灰も降ってた
公害が問題視されるようになったのは1960年代後半(水俣病工場廃液説が公認されたのは1964年)
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オイルショック(1973年)に直面した時期に団塊世代は20代前半
下手すっと就職の時期にちょうどぶち当たってる
連合赤貧だの中核革マル内ゲバだの陰惨な事件が相次いだのも団塊が20代前半の時期
「それでも未来があった」とか言うんだろうけど、団塊が20代の1970年代には
『日本沈没』や『ノストラダムスの大予言』が大ベストセラーになって終末論が流行
「環境汚染や核戦争で人類の将来はヤバイヤバイ」てな言説もさんざん広まった
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いっけん関係ないかも知れないけど、団塊世代が10代の1960年代には
幼児が誘拐されて殺されてすごく騒ぎになった「吉展ちゃん事件」(1963年)とか
女子高生が殺されて冤罪疑惑が根強い「狭山事件」(1963年)
在日韓国人が差別にブチ切れて起こしたといわれる金嬉老事件(1968年)
などなどが起きてる
団塊が若かった頃「ひたすら明るくハッピー、暗い世相はいっさい無し」とかウソです
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兄弟たくさんで汚い小屋みたいな家に住んでるとかごろごろあった
団塊世代が10歳前後で『月光仮面』の放送が始まった1958年のテレビ普及率は50%以下
テレビが見られない、裕福な友人宅に頭を下げて見たなんて子がごろごろいたはず
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とりあえず無視して新規注文の導線に行くと、ログインしていると?お届け先を聞かれる。
登録住所が1つでも選択を迫られて、なぜかもう一度住所情報が出てくるクソ。
この住所情報と一緒に「ただいまのお届け時間」も出てくるのもクソ。
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その後進むと、「受取日時の指定」となる。
一番上に「受取日時の指定」とあり、偽プルダウンのようなUIで「今すぐ」となっている。
ここで時間指定もできるのかと思いきや、これをクリックしてしまうと「今すぐ」を選択することになる。
そりゃよく見れば▼は右向きだが、選択できると思うだろうクソ。
ピザなんてほぼ当日注文がメインの使い方だろう、並べておけクソ。
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ピザ以外のサイドメニューやセットメニューも選ばせようと、何度も次へ、次へと押さないといけない。
更に太るわ、いらんわクソ。
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万が一の事態はいつ来るかわからないから保険で備えろってことかな?
だけど、基本的には国保・社保で充分に対応可能。多額の請求が来ないようにもなっている。
医療保険は要するに収入保障である。怪我や病気をした際に収入が途絶えた時のための保険。
当然ながら、保険会社はボランティアではないので、セールスのための人件費や広告宣伝費、一等地の地代家賃を支払った上で、利益をあげなければならない。
私たちが支払った保険料の50%はそれらの経費に消えていく。つまり期待値は50%。長い目で見れば保険料の半分はドブに捨てることとなる。
自動車保険のように「数万分の1の確率で数億円を払わなくてはならないリスクを回避する」というのが本来の保険の目的。国民の2人に1人がかかる病気に対応するための保険はもはや保険ではない。だったら保険料を貯蓄に回してがんになったらそれで対応したほうが合理的じゃないかな、っていう話。
「漫画/アニメの『普通の家庭』が普通ではなくなった」とか言う話が人気だが
常識で考えれば大学進学率が右肩上がりで現在50%程度の日本で
「大卒ホワイトカラー家庭」がマジョリティだった時代なんぞハナからないのである。
それどころか文科省の学校基本調査を見ると90年代は40%も越えてないことが分かる。
むしろ昔のアニメから読み取るべき時代の変化は「子供の進学意識」であり、
子供の進路として「大学へ行くなんて超エリート」という感覚が感じられなくなったのはそれこそ
(よりリアルな『普通』であるとされる)あたしンちのみかんくらいからではないだろうか。
またこれに関連して「少年漫画に出てくる家がデカい」ことも言及されるが
あれは家について勉強したことがあれば分かるが、ほとんど有名なハウスメーカーのモデルまんまである。
ハウスメーカーのモデルハウスというものは普通の家の2、3倍のサイズで作るもので
「こういう多目的室も作れますよ」「こういう豪華なキッチンはどうですか」というショウルームなのである。
漫画家なんてそれこそ世間知らずな賃貸暮らしが多すぎるので、むしろリアルなサイズの家が描けないだけである。
もしくは自分が漫画家として成功してこんな豪邸に住むぞという夢をそのまま書いているだけである。
かつてオタクというものはむしろこういう創作裏事情を穿ってこそ深い読みが出来ていると思われたものだが
今どきはただ単に創作と現実を混同して「こんなリッチな時代があったのだ」とアホみたいなことを言うばかりが
まんがの深読みなんて気持ち悪いというのもまた一理ではあるが、
そろそろ30になる今日このごろ。大人になって初めて恋をしてしまった。
最後に恋をしていたのは、小学4年生のころ。毎日暇さえあれば、好きな子のことを考えていた。何度か一緒に遊んだこともある。最終的には何もなく、僕が転校したので、それで終わった。
思春期に僕を待っていたのは、恋ではなく、ワキガだった。内気ではあるものの、それなりに楽しく過ごしていたつもりだったが、ある時「お前ワキガだもんな」と言った友達がいた。周りにいた他の友達が一斉に黙った。ワキガという言葉は知らなかったが、なにか良くない意味であることは分かった。またシチュエーションから、それがワキに関することであり、ニオイに関することであることも察せられた。その時急に思い出されたのが、中学入学と同時に母から渡されたエイトフォーのスプレー缶だった。よく分からないものの答えが、頭の中で繋がって、僕は戦慄した。
目立っていじめられることはなかったが、一部にはワキガだのくさいだの言って笑う人たちがいた。悔しいが仕方がない。内気な僕では、道化になることもできなかった。
はたして僕はワキガのことが嫌いになった。この日本では、ワキガというのは異常な体質であって、嘲笑され、疎まれ蔑まされることはあっても、褒められることはない。そんな僕を好きになる人があるわけがないし、ワキガであることを隠し通せるものでもない。鼻の利かない人をなんとかつかまえたとしても、生まれてくる子供は50%、あるいは75%の確率で憎むべきワキガだ。
畢竟僕は世間一般でいう生きている意味がない。誰のことも好きにならないし、誰からも好きになられない。唯一僕を好きでいる人は両親くらいだろう。だから彼らが死んでしまうまでは生きていようと思った。
社会人になって、まずワキガの手術を受けた。というのも、ワキガのニオイのもとであるアポクリン腺は、成長期に増えるものであるから、あまり早くに手術を受けても、結局増えてしまう。ある程度成長してから摘むのが良い。これはなかなか素敵な手術で、皮膚の隙間にメスを入れて、アポクリン腺を除去する。傷は目立たないという人もいるが、普通に色素沈着するので、今でもありありと手術したことがわかる。麻酔が切れるととても痛かったが、保険適用の手術なので、両脇で5万程度しかかからない。ワキガ手術には保険が適用される。それが日本人のためになるからだ。
おかげさまで、今では人間のような顔をして生きている。しかし遺伝子自体はワキガであり、また、ワキガ体質であれば、ワキ以外にも全身にアポクリン腺はあるので、たとえば胸や陰部からは、いまだにワキガのニオイがする。
結局僕はワキガであり、日本の社会通念上必要に迫られてケアを行っただけであり、人間のように誰かを好きになったり、好きになられたりすることはない。
そう信じてここまで生きてきたが、ここにきて様相が変わってきた。不覚にも人を好きになってしまった。これといった理由はない。普通に可愛いなと思っていたら、いつのまにかいつもその人のことを考えるようになってしまった。
こう言うのはなんだが、その人は僕より10以上年上で、そうなると自然、子供が難しい年頃である。すると、この人と結婚した場合、自然な形で僕は自分の遺伝子を後世に残さずに済む。大変失礼な話だが、これに気づいてからますます好きになってしまった。まるで僕のための人のような気がしてくる。
まあまあ、そうはいっても、と冷静な僕が口を挟む。僕のことを忘れたわけではあるまい。まず鏡を見てみろ。パサパサの髪質、すぐ脂の浮いてくる顔、じっとりとした一重まぶた、人参のように膨らんだ鼻、飛び出た頬骨、厚い下唇、白い斑点のついた歯、笑うとむき出しになる歯茎、削れてなくなってしまったかのような顎、いびつに大きい頭、対して華奢な肩幅、平均に満たない身長、曲がった背筋、不格好なO脚。お前はこいつと一緒にいたいだろうか? うーむ。いや、人間中身だ。そう、中身といえば、地方Fラン大学部卒の学力で、テレビを見ないから芸能・社会情勢に疎く、気の利いたことも言えず、頭の回転は遅く、嫌なことがあるとつい表情に出てしまうし、心に余裕がなくなってくると人にやさしくもできない。六畳の部屋に一人暮らし、何をしているのか知らないが、預金残高は200万しかない。おまけにワキガだ。手術で人間のフリをしているが、こいつに子供を産ませると、体感としてはほとんどワキガが生まれてくると思っていいだろう。子供には罪がないのに、不憫だね。
僕がもし会社の新商品で、これをお客さんに売らないといけないなら、まず、普通の方法では売れない。何か特典をつけてそっちで買ってもらうか、本来とは違う用途で活路を見出すしかない。はっきりいって、こんなものは売り物にならない。
これが僕の理性であるが、恋とは面白いもので、もやもやした気持ちは理性では抑えきれないようだ。仕事中も、家に帰ってからも、好きな人のことが気になって、本当に迷惑している。
にっちもさっちもいかないので、僕は市場原理に任せてみることにした。先述したように、僕の考えでは、市場には僕のニーズはまったくない。ただ、何らかの理由で誰かが欲しがれば、その商品には値が付く。じゃあそれでいいじゃないか。価値は僕が決めるのでなく、市場が決めるのだ。
そういうわけで、近い内に職場でこっそりと連絡先を聞き出す。頭の足りない僕が一生懸命考えた自然な方法でだ。そして食事に誘って、その食事中にデートの約束を取り付ける。これだけのことだ。僕がするのは湖面に石を投げ入れるようなもの。なにか新しい波が起こるかもしれないし、そっと静寂を取り戻すのかもしれない。うまくいって欲しい気もするが、すぐに拒絶してほしくもある。うまくいってしまったときに、ごみ商品を掴んでしまったお客さんを相手に、僕は商品の瑕疵を最後まで隠し通せるだろうか。