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はてなキーワード: 路側帯とは

2023-03-31

anond:20230331125417

路側帯って何?免許とるときにでも習うの?そういう車運転してる人の常識を前提とした行動は期待しないでもらいたいわ

anond:20230331125158

片側にしかまともな歩道なく

原則車道なんだから歩道が片側だろうが両側だろうが関係なくない?

普通ママチャリでも路側帯を走るべきだよ

2023-03-27

カッコ悪い運転打線組んだ

1(一)ウィンカーを出すのは、周囲に動きを読まれるのでカッコ悪い

2(左)一時停止で停車するのは、初心者っぽくてカッコ悪い

3(三)車線変更や合流で前に入られるのは、相手にナメられているのでカッコ悪い

4(DH)信号無し歩行者ありの横断歩道で停止するのは、歩行者にナメられているのでカッコ悪い

5(遊)雪道だからといってスタッドレスを履くのは、ドラテク不足なのでカッコ悪い

6(捕)暗いからといってライトを点けるのは、視力の落ちたジジイみたいでカッコ悪い

7(右)直進車を行かせてからの右折は、相手との度胸勝負に負けているのでカッコ悪い

8(二) 左折時に歩行者の横断を待つと、歩行者に格下扱いされたことになるのでカッコ悪い

9(中) 渋滞時は路側帯を使って前に出ないと、素人っぽくてカッコ悪い

(投)任意保険に入るのは、自分ドラテクに自信がないワケだからカッコ悪い

2023-02-22

車道5m:歩道8m これだよ求めていたもの

家事の時緊急車両が通られへん! 車すれ違われへんやろ! と激おこらしいですが、正直なところこれをモデルケースに全国の歩道をどんどん広げてほしい

蹴上げを作ると緊急車両は厳しいので、できれば路側帯のみを10mほどにするのが望ましい

なんでかって言えば俺は並みの歩道だと向かってくる通行者ですぐ歩道の幅が埋まるから

まともに前進できない

2022-11-08

自転車乗りの認識がわからない

以前タイ地方都市滞在した時、貸自転車で通りを走っていると近隣住民爆笑されたことをよく覚えている。移動手段といえば車か徒歩であった彼の地の住民にとって、自転車を漕いで移動する姿はひどく滑稽なものだったからだ。

自転車基本的車道を走るものとされ、歩道を走る自転車への取り締まりが厳しくなってくると、

車道危険だ」

路側帯違法駐車が多いか歩道の方がいい」

日本法律運用が場当たり的で自転車乗りが犠牲になっている」

など、ようするに自転車乗り様かわいそう!とする意見が目立つ。

この種の意見に欠けているのは、自転車そもそも乗らないという選択肢だ。

歩けばたどり着くところに行くため、鉄の塊を漕いで他人自分危険晒す行為はまったく不可解だ。

歩くには遠すぎるところに行きたければ車や電車に乗ればよいだけの話だ。

歩くには少し遠い距離自転車を漕いで少し楽をしたいという自転車乗りの都合は、自転車に乗っていない他の人々にとってまったくどうでもよいものだ。

ほんの少し楽をしたいという利己心のために鉄の塊を高速で移動させて他人危険晒したり、実際に死傷させたりする権利は誰にもない。

そうした利己心の発露が引き起こし危害とその危害への反省のなさが今回の自転車取り締まり強化を招いていることは明白なので、そこに同情の余地微塵もない。

それにもかかわらず、自転車乗りである自分は不当な社会弾圧にあっている、かわいそうな存在だと主張する面々がいるとすれば、脳が壊れているとしかいいようがない。

そのように脳を破壊する19世紀機械からそろそろ人類卒業すべきだろう。

2022-11-06

anond:20221105184519

パンクレスの通学用自転車空気入ってるタイヤ自転車若い男が漕ぐほどの速度がでないんで別に規制してほしい

・倒れたりヨレたりせず時速5キロで幅40センチ(うちの地域歩道路側帯内に設けられている、色がぬってある、自転車通路の幅がたぶんこんくらい)を漕げる技量のある人間には歩道運転免許発行してほしい

2022-06-06

anond:20220606131432

学生時代バイト先に片道20km・1時間弱でクロスバイクで通ってたことあったけど、東京とはいえ坂と冬の風が地獄だった。

特に疲れた帰り道に向かい風で全然進まなくて、さら武蔵野台地との狭間あたりに幾多有る坂を越える時はきつい。

大阪東京西部みたいに平地ならいいけど、山の手あたりみたいに少しでも坂あるときつい。

あと、最低片側2車線+路側帯が広くて歩道もしっかりしてるような道を通って、かつ車道走らないと速度は出ない。

信号が多い路地はやめとけ。

夏は暑くて汗がひどくなるら、シャワーのあるバイト先で助かってた。

都心なら、シャワー施設会社契約フィットネスクラブやらあるから、出勤前にもシャワー浴びれるだろう。

結局、体力が付きようが自転車の性能に左右されるし、クロスバイク以外にもヘルメットサイクリングウェア含めた初期投資はそれなりにかかるし、

そのうち平均速度上げようとしてビンディングペダルもっと高いロードバイクと出費が増えていくので、金ケチるためにやるのは薦めない。

2022-05-25

anond:20220525133128

千葉でも東京でも福岡でも、路側帯占有許可受けて

悪書追放!」とか「阿部はやめろ!」とかでもやってたけど。

君のところでは見たことない?

2022-05-19

anond:20220519161514

 高良内校区まちづくり振興会の籟(らい)敏博会長(71)は「校区では日頃から児童らに『ガードレールのない川の土手は危険だ』と注意喚起していた」と語る。地域住民青パト巡回するなどしており、通学路の路側帯を通るよう呼びかけていたという。ただ関係者によると、女児は別の校区の小学校に通っていた。

籟なんて名字あるのか、、、とおもったら人口10人らしい

名字】籟

【読み】らい

【全国順位】 74,519位

【全国人数】 およそ10

籟さんの多い地域 TOP5

都道府県 人数

福岡県 およそ10

市区町村 人数

福岡県久留米市 およそ10

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%B1%9F

2022-03-30

anond:20220330154018

高速道路事故があった場合

標識、発煙筒立てる

・車から離れる(追突防止)

路側帯や緑地帯避難

・連絡して待つ

だぞ


俺は横増田だがJAFのウェップページに書いてある

2022-01-03

自動車もっと減るべきだし、取り締まりも徹底強化されるべき。自動車には歩道をまたぐ前に一時停止の義務があり、不履行には罰則もある。

https://anond.hatelabo.jp/20220102190352

https://www.mitsui-direct.co.jp/car/guide/tips/31.html

自動車義務

歩道等を横切る場合

駐車場など道路に面した場所に出入りするために、歩道路側帯を横切る場合は、それらの直前で一時停止しなければなりません(右図参照)(道路交通法第17条第2項)。

歩道にいきなり飛び出し、塞ぐように右左折待ちする車が危険

https://kanmegu.com/blocking-sidewalk-20191111/

↑これも当然ながら自動車交通犯罪行為であり警察による摘発対象

日本ドライバー日本の恥なぐらいモラルが劣悪な事実JAF調査証明済み。9割が交通犯罪常習犯

https://anond.hatelabo.jp/20220102220917

9割の違反が実情!信号機のない交差点自動車が通行を妨げれば罰則!? - 自動車保険一括見積もり

https://www.insweb.co.jp/car/kisochishiki/kiso/crosswalk-rule.html

信号機のない横断歩道での交通ルールとは? | JAF

https://jaf.or.jp/common/kuruma-qa/category-drive/subcategory-safety/faq291

日本道路交通法 自動車ドライバー義務

横断歩道又は自転車横断帯の手前で車両は一時停止して歩行者又は自転車の通行を妨げない。

横断歩道又は自転車横断帯ありの路面標示により歩行者又は自転車確認

歩行者自転車の通行を妨げずに交通ルールマナーを守る。

先進諸国ドライバーは9割が守るのに、日本ドライバーは9割が交通犯罪常習犯

そして警察庁が発表している交通違反摘発件数は年間約500万件にも及ぶのが日本ドライバーの劣悪な現実

日本ドライバー日本の恥なんですよね。

日本国民は遠慮なく自動車への徹底取り締まり強化を警察要請し続けよう。

そして議員にも自動車への課税規制、取り締まりの徹底強化をするよう要請し続けよう。

人命は何よりも重いのだから自動車という凶器を用いた、人命にかかわる犯罪行為絶対に許してはならない。

2021-10-26

anond:20211025210739

オロライン住民です。

郊外(9割方郊外みたいなもんですが)だと歩道路側帯も雪で埋もれて車道歩くしかないので、吹雪いてホワイトアウトになったらクルマで轢いてしまいそうでゾッとします。

なんせ10km/hくらいで徐行してても前のクルマに追突してしまうほど視界がなくなるときがあるので。

anond:20211026115003

高速道路を流していたら男がいたんです。下着姿で路側帯を全速力で走りながら…なにか叫んでいました」

2021-06-29

路側帯すらない通学路 千葉児童5人死傷事故

ももそも、通学路で通学時間帯なら、徐行運転規則でしょうに。

2021-06-28

自転車安全車道走行することは可能か?確かめてみた

道路交通法において、自転車車両であるから車道を通行しなければならないとされつつ、路側帯歩道の通行を条件付きで許可されている。

路側帯を通行できる条件は、歩行者の通行を著しく妨げないとき(第十七条の二)。つまり空いてる時はだいたい無条件にOK

歩道を通行できる条件は、①標識で認められている時②幼児児童などが運転者の時③車道の状況に照らして安全を確保するためには歩道通行がやむを得ない時(第六十三条の四)。

いずれも、安全な速度と方法での運転義務となっている(当たり前だ)。

ここで今、話題にしたいのが「車道が危なくてとても安全には通行できねーよ!」って時には歩道通行が法的に許されているという点だ。

ブクマカ諸氏などは杓子定規に、「自転車車道!」と切って捨てているところもよく見るが、この点についてよく考慮のうえだろうか。

まりその車道安全に走れること確認して言っているのだろうか。

言ってばかりでは頭でっかちになるので、ここしばらく実際に車道自転車で走って確かめた。

ごく一般的自転車で、もちろん安全運転だ。

結論から言うと、安全に走れる車道などほとんどなく、その帰結として多くの歩道は法的に通行できることがわかった。

国道

車の速度がやばい。走っている自分からそれほど遠くない位置を、60キロとかでビュンビュン抜けてくる。

何度かは普通に命の危険を感じたし、この実践を始めたことを後悔した。

特にトラックはおそろしい。高速移動する巨体との至近距離での並走。小石とかにつまづいてブレたら死ぬよね、これ。

普通に安全運転してて命の危機を感じる状況を「歩道通行せずに安全を確保できる」と言えるだろうか?いや言えない。

県道とかそれくらいの道

国道ほどじゃないがやっぱり車はビュンビュン飛ばすね。

でも一車線だからか、国道より道幅に余裕がある気がした。自転車レーンもしばしばあり。

しかしここで問題となるのが路駐

路駐車がいると途端に車道安全度は下がる。

述べたように走行車の速度は十分あるので、車道側に完全にはみ出るように回避する勇気は出しづらい。

(一度だけがんばって車道側に避けてみたが走行車が全く配慮してくれずめっちゃエンジン音吹かされた)

となると一時的歩道に入るしかない。

車道側に避けたら轢かれる危険性がある状況で歩道に上がるのは安全の確保のための通行と言えるだろう。

なお、この時段差等があったりしてすぐに歩道に上がれるとは限らないので、前々から上がっておかなければ積む羽目になる。

都市民度によっては、路駐の間隔が狭くて結局ずっと歩道を行くこともある。

市道とかそれくらいの道

ここも基本的車道通行できるとしばらくは感じたが、やはり路駐があるのと、あと交差点前のムーブやばい

小さめの普通自動車に、信号差しかるというところでグイッと左側に寄ってこられた。

しかもそんな場所に限って左はガードレール。避け場がない。

心臓がドキッとしたよ。ブレーキかけなかったら轢かれたんじゃないかと思う。

大きい道と比べるとこの辺りの小さい道はそもそも幅が狭く、車と併走する自体がなかなか安全とは言い難い。

自転車レーンがあっても、曲芸師かと言いたくなるような平均台みたいな幅で、意味をなしていない。

そんなわけで小さい道でもやはり安全確保のために歩道に上がる理由はある。

もっと小さい道

そもそも歩道がない。

歩道がない場合は、歩行者路側帯自転車路側帯通行。上述の通り著しく歩行者妨害しなければ無条件で通行が許される。

歩道がある場合は、それに幅をとられて車道が狭い場合が多い。車と併走できる幅がなければ、歩道に上がらざるを得ない。

だが稀に歩道があって車道も広くて、路駐も少ない夢のような道がある。このような場合車道安全だ。

安全確保のために歩道通行が必要とは言えないため、法にしたがってここだけは粛々と車道を通行せねばなるまい。

2021-04-30

いかげん、ロードバイクヘルメットはセットで買え

GWだ〜でかけるぞ、それ〜っじゃねえんだよ!!!バカが!!!!!

お前だよ、ロードバイク路側帯ヘルメットなしで走ってるお前だよ!!!!!

キャンパスライフはじまってロードバイク買った大学1年生、コロナアウトドアスポーツにはまっちゃった中年のお前だよ!!! 

 

 

ご丁寧に日差し強えからってスポーツタイプサングラスだけしてるやつはなおどうかしてる

2021-01-10

anond:20201025234820

これ意外と法解釈で間違うことが多いのが「自転車乗用車と同じく左側通行」は車道での取り決めであり、自転車歩道に登った場合は「左右に関わらず車道寄り」が原則です。勿論最低要件は徐行(歩行者とほぼ同等)、最も好ましいのは押し歩きして車道通行に切り替えられるタイミング車道に戻ることです。

ところで、歩行者に関して言えば進行方向左右どちらの歩道もしくは路側帯かは厳格に決まっていない(というか決めると車道横断の回数が増える)ため、どうしても理想論扱いになります。他通行車両との兼ね合いで「進行方向左側の歩道もしくは路側帯車道寄り」が道路幅に対して収容件数を最大化できる最適解ではあります(車両は進行方向が同じ歩行者に対しては横1.5m以上空けなければいけないのに対し、逆方向から場合1mでよいため)。

2020-12-08

避けない人(地方都市編)

ぶつかる人についての話題が昨日くらいから盛り上がっている。

https://anond.hatelabo.jp/20201205155542

https://anond.hatelabo.jp/20201207094010

ここで語られているのは東京都心のたとえば新宿池袋のようなメガターミナルでの話なのだろう。

当方札幌市中心部に在住している(首都圏出身)が、地方都市ではまた様子が違っている。

札幌東京都心に比べると駅や街中の密度体感半分以下であるが、それでも都内にいるのと変わらない頻度でニアミスが起こる。

というのも、札幌では老若男女問わず「避けない」からである

また、冬の間市街地が雪で閉ざされる交通事情から自転車交通に対して非常に鈍感で、歩道グループで横に広がって歩く、後ろから自転車が徐行で近づいても気づかない(あるいは気づいても避けようとしない)

まして対面で自転車が接近しても避けようとしない、というのは日常である

もちろん基本的左側通行を守り、速度を上げて走るとき車道路側帯に入るので今のところ問題は起きていないが…

歩行時も含めて自分の進行方向やパーソナルスペースを譲らないのは、開拓民的な気質あるいは「札幌は街が広くて東京より人が少ないのだから自分が避ける必要などない」というこれもある種の甘えなのかもしれないと思っている。

また、首都圏はこういった全国から人間が集まっているので、超高密度な街にも関わらず育った環境によって気の遣えない人が目立ちやすい側面もあるのではないか、とも思う。

2020-07-08

自転車エリアに駐車するの禁止にしてほしい

久々に自転車ででかけたら道路の端に自転車ゾーンができてた

といっても自転車の絵が道に書かれてるだけで歩道みたいに段差で分離とかはない感じ

最近はウーバー増えてるから自転車用の道をちゃんと作ってるのかな


だけどこれができてから特におもうのが、路側帯駐車してる車が邪魔

これがあると自転車ゾーンが通れないから車の横に飛びるか歩行者通路を通らざるを得ない

車の方は後ろから車来てるか確認したり面倒だし、自転車の横ギリギリを通る車もいるからすごく危ない

自転車エリア駐車禁止になると歩行者自転車自動車が別々に別れれていい感じなのに

2020-06-11

死んだ猫の重みを知る人へ

 この世界人間は二つに分けられる。死んだ猫の重みを知っている人とそうでない人である

 数年来の友人に向けてこの文章を書いている。あるいは、見せずにしまっておくかもしれないけれど。


 この話を始める前にまず記憶というものについて書いておきたい。人間にも二種類いるように、記憶もまた二つに分けられる。つまり、忘れても思い出せる記憶と、忘れてしまったきり思い出せなくなる記憶である

 どんな記憶忘却可能性を含んでいて、それがいか尊い記憶であれ、厳然と忘れられうるのである

 とは言え、尊い記憶は大体忘れた後でも思い出せるものだ。例えばそれは親愛なる友人に関する記憶だったり、あるいは情愛を抱いた誰かに対する記憶だったり――そういう類だ。

 これから話す記憶は――意外だと思われる人もいるかも知れないが――恐らく後者に分類されるものである。死んだ猫の重みに関する記憶は(少なくとも僕にとっては)、一度忘れしまえば二度と思い出せない記憶である。つまり、その記憶は僕の人生においてそこまで重要記憶ではないということになる。

 あるいは、死んだ猫の重みを人生最後まで引きずっていく人もいるのかもしれないけれど、僕がこの世界からいなくなる時に、多分、死んだ猫の記憶は僕の傍にはいない。


 人生というのはタフなもので、多くの場合予断を許さない。例えば、猫は前触れなく死んでしまう。そこに救済は存在しない。

 猫は突然死ぬ

 重要命題である

 だからこそ、我々はタフにならなければならない。タフな(きつい)人生に耐える為には、我々自身精神的にタフにならなければならないのである

 して、タフな人生を生き延びるために重要資質とは何だろうか?

 僕が思うに、恐らくそれは一種判断能力である。つまり重要もの重要でないもの区別する為の判断能力である

 この世界において、重要もの重要でないもの比較すれば、前者は圧倒的に少なく、後者は圧倒的に多い。これは考えるまでもなく当然のことである重要ものが我々の前に際限なく溢れ返っているのであれば、我々の人生もっと救済に満ちたものになる筈だからだ。でも、現にそうなってはいない。人生における重要事物は泥の中の砂金と同じである。それは、恐らくは多くの人が感じていることだろうと思う。

 そう、我々が人生を全うする為にもっと重要能力は、数少ない重要物事出会った際に、その重要出来事を迷わず掴み取る能力なのである

 タフな人生を本当に生き切る人間に備わっている素質は、恐らくはそれだ。彼らは汚泥の中の砂金を迷わず掴み取り、幸運の女神の前髪を毟り取らんばかりに握る。僕も、そういう人間になろうと日々心掛けてきた。この世界に溢れ返る物事の中に、ほんの僅かに存在している、かけがえのない事柄。あるいは、溢れ返る人々の中に存在している、かけがえのない人々。そういう人(もの)に出逢えば、できるだけそれを失わまいとしてきた。

 人物だけではない。記憶に関しても同様の態度を取ってきた。

 我々の心の中には無数の記憶存在している。その多くは、断言するに無意味記憶に過ぎない。病院記憶体育館記憶商店街記憶――はっきり言って、その殆ど無駄記憶だ。重要記憶というものは一握りしか存在していない。

 我々の人生には限りがある、その限られた人生の中で、無意味記憶無意味な情愛を注ぐことだけは避けなければならない。情愛を注ぐべき人を選び、情愛を注ぐべき記憶を選別すること――自分にとって重要ものを、重要でないものの中から選び抜くこと――それが本当に大切なことなのだ。だから、我々は、警戒しなければならない。一見重要であるように装っておきながら、実際には全く我々の人生無意味事物……そういうものへの執着を捨てなければならないのである

 書いていて思うが、幾分このような視点には屈折の気配がある。勿論、それは自分でも分かっている。でも、やはり我々の人生は貴重なものであり、貴重でないものと触れ合うことで、その輝きを鈍らせる必要はない――そういう視点が一抹の正しさを備えていることも、また事実なのだ

 はっきり言おう。

 これから語る記憶は、決して僕の人生重要ものではない。むしろ、どうでもいいものなのだと。

 

 大した記憶ではない。

 道の真ん中で白い猫が轢かれていた。静かな初夏の日和だった。

 その肉体の損傷は一見して分からなかったが、恐らく内臓が酷く傷ついたのであろう、鮮血が周囲には広がり、血溜まりを作っていた。既に絶命していた。絶命してからどれくらい時間が経ったのだろう? 正確なところは分からないのだけれど、多分一時間と経ってはいるまい。白い猫はまだ綺麗だった。制限速度の高くない、幹線道路から外れた細い道路だったことが幸いしたと見え、多くの運転手ゆっくりと車を走らせていた。つまり道路の真ん中で横たわる猫を、更に醜く変形させる前に、彼らはハンドルを切ることができたのだ。

 猫は口と目を半開きにしていた。その筋肉運動はとっくに停止している。

 僕は当時学生で、自宅への帰路にあった。青々と晴れた日だった。白い猫の横を自転車に乗って通り過ぎる時、僕は猫のことを横目で見ていた。

 通り過ぎる。

 川沿いの道を走り、こじんまりとしたアパートに辿り着く。駐輪場自転車を停め、アパートの裏手へと回り込むと、階段を上った。

 階段を上る度に、カンカンと乾いた金属音がこだまし、やがて僕は二階の自室の前へと辿り着いていた。

 鍵を開け、扉を開け、自室へと体を滑り込ませる。

 薄暗いアパートの自室はひんやりとしている。

 猫のことしか頭になかった。アパートからその猫のいる場所までは数百メートル距離があって、僕はあらゆる意味当事者ではなかったにも関わらず保健所に連絡をした。住所をある程度正確に伝えて、電話を切った後にキッチン棚を漁り、そこから掃除用のポリエチレン手袋を取り出した。

 再び自転車に乗って猫のところに向かった。数百メートル距離時間はそれほど掛からず、辿り着いた時にも猫は最初のままの姿勢を保っていた。相変わらず見える範囲には傷一つなかった。

 僕は歩道自転車を停めて、車列(鮮血を目の当たりにし、おっかなびっくりハンドルを切って迂回する車列)が十分に途切れたタイミングを見計らって、猫のところに駆け寄った。それで、僕は猫の脚を掴んで、車に轢かれる心配のない路端へと引きずった。

 そう、引きずったのである

 抱きかかえた訳ではない。単に引きずったのだ。鮮血が道路に擦れて跡を作った。猫の頭部がごろりと動いた。

 猫は筋肉が弛緩した所為か失禁――脱糞していて、その茶色の飛沫がポリエチレン手袋に付着した。

 そこには愛情は無い。僕の人生残留するべき温かい思念というもの存在していない。

 だから、この記憶は決して僕の中に残留し続けることはないだろう。人生のいずれかのタイミング忘却され、その後決して思い出されることはないだろう。

 僕は猫にそれ以上傷ついてほしくなかっただけである

 猫が道路の上でぐしゃぐしゃになっている姿を見たくなかっただけである

 ある種の同情みたいなものはあった。でも、それは決して愛情ではない。僕は見ず知らずの猫に、しかも既に生命の無い猫に、愛情を抱ける類の人間ではない。

 僕は猫を引きずって、車に傷つけられる心配の無いように、路側帯の辺りまで移動させると、手を離した。そして、そのまま保健所の車がやって来るのを待ち続けた。

 初夏の晴れた静かな日和である。時折、眼前を通り過ぎる車の運転手がギョッとした顔で、猫と道路中間辺りから続く夥しい血痕を見遣るだけである。僕は猫から少しだけ距離を空けて、たまに、盗み見るように視線を向けた。本来当事者である近所の主婦達が歩道で、遠巻きに何かを話している。さっきの僕の行動を彼女らは全て見ていた。

 やがて、彼女らの内の一人の若い主婦が僕のところにやって来て、保健所には一応連絡したんです、と言った。僕は短く返事をした。

 彼女は元の場所に戻っていって、相変わらず主婦達と何かを喋っていた。僕は、その場で保健所の到着を待ち続けた。


 やがてやって来たのは、ゴミ処理車であった。内部に回転する鉄塊こそなかったものの、それは紛れもなくゴミ収集車だった。

 この後の描写についてはあっさりしたもので、その車中からスタッフ二名降りてきて、主婦らに挨拶をした後に黒いビニール袋を広げ、手早く猫をその中に入れた。そして、車両収集スペースにその袋を入れると、瞬く間にその場から去っていった。

 僕はそれを見届けた時にやけに安心したのを覚えている。これで、道路の上にもんじゃ焼きのような物体が出現する可能性はなくなったのだと、そう考えていた。僕はそのまま自宅に戻り、猫の糞の付着したポリエチレン手袋を処理した後で、日常ルーチンへと戻っていった。


 多分、この記憶は僕の人生残留することはないと思う。単純に、この話の主旨は、僕が死んだ猫の重みを知っているという、そのことを主張する他にない。教訓と呼ぶべきものはそこにはない。

 しかし、それはあくま一般的な教訓に限っての話だ。僕個人の、個人的な教訓に関しては、少しばかりはあるかもしれない。


 多くの場合、我々の性向とか心の働きのバイタルな――欠くことのできないほど重要な――部分に作用するのは、僕がここまで延々と語った記憶の類ではなく、誰かへの愛情記憶であり、誰かから愛情記憶である

 そういうものを欠くと、我々のバイタルな部分は鈍化する。必要以上に鈍化し、何らかの問題を引き起こさずにはいられなくなる。記憶というものを二種類に大別した時に、我々の性向に最も強く、最も好影響を与えるのは、明らかに「思い出しうる」方の記憶だ。そのことに疑いはない。

 とは言え、最近の僕は少しだけその考え方を改めることになった。

 これまで僕が延々と語ったこ記憶は、凡そ間違いなく僕によって忘れ去られるだろう。そして、二度と思い出されることはないだろう。このテの予想が外れることは僕に限ってまずあり得ない。この記憶は僕のバイタルとは無関係なのだ。この記憶によって僕が行動を規定されたり、何らかの関連行動に走るということは――この文章を書いていることを除けば――まずあり得ない。僕にはそのことが手に取るように分かる。

 でも、と思うのだ。

 この記憶は、翻って言えば、忘れられるまでは僕の記憶に残り続ける(トートロジー的な文章だ)。僕は、そのことに少しだけ意義を感じてしまいそうになるのだ。

 記憶には二種類ある。忘れられた後に思い出しうる記憶と、そうでない記憶である。前者に比べれば、この世の中においては後者記憶の方が圧倒的に多い。この世界殆ど記憶後者、つまり他愛のない記憶によって構成されていると言っていい。それらは例外なく忘れ去られる運命の途上にある。

 それでも、と僕は思う

 その記憶は、忘れ去られるそのタイミングまで、じっと待っている。

 僕の記憶の中で息をしている。

 猫の視線の色を、僕は今のところ忘れていない。奇妙に硬直した、黄色い瞳。

 多分、僕の記憶の中に、未だ留まっているところの猫は、待っているのだろうと思う。

 僕が猫のことを忘れ去るその時を。

 じっと、誠実に、待っているのではないかとそう思うのだ。

2020-06-10

死んだ猫の重みを知る人へ

 この世界人間は二つに分けられる。死んだ猫の重みを知っている人とそうでない人である

 数年来の友人に向けてこの文章を書いている。あるいは、見せずにしまっておくかもしれないけれど。


 この話を始める前にまず記憶というものについて書いておきたい。人間にも二種類いるように、記憶もまた二つに大別できる。つまり、忘れても思い出せる記憶と、忘れてしまったきり思い出せなくなる記憶である

 記憶というもの原理的に忘却可能性を含んでいて、それがどんな尊い記憶であれ、厳然と忘れられうるのである。とは言え、尊い記憶は大体忘れた後でも思い出せるのだ。

 例えばそれは親愛なる友人に関する記憶だったり、あるいは情愛を抱いた誰かに対する記憶だったり――そういう類の記憶だ。

 これから話す記憶は、恐らく後者に分類されるものである。死んだ猫の重みに関する記憶は、恐らくは一度忘れしまえば二度と思い出せない記憶である。つまり、その記憶は僕の人生においてそこまで重要記憶ではないということになる。


 タフな人生を生きようとする人間功罪の常で、僕は重要記憶とそうでない記憶峻別することができる。多くの場合その判断は極めて正確だ。

 僕は自分にとって重要物事とそうでない物事を多くの場合峻別できると思っているし、何よりも、自分にとって重要人間とそうでない人間峻別できると思っている。そこが功罪なのである人間自分にとって重要人間とそうでない人間並置し、比較し、時に冷徹判断する。いざという時に切り捨てることのできる人物と、そうでない人物を頭の中の整理棚に分類する傾向がある。とは言え僕は冷酷な人間を自認してる訳ではなくて、基本的に分け隔てなく親切に接することをモットーにしてるのだけれど。それでも、自分にとって大切な人物とそうでない人物は分けて考えなくてはならないと考えている。

 さて、そんなこんなでこ記憶は恐らく僕の人生においてそこまで重要記憶ではないと、僕ははっきりと峻別している。


 大した記憶ではない。道の真ん中で白い猫が轢かれていた。静かな初夏の日和だった。

 その肉体の損傷は一見して分からないが、恐らく内臓が酷く傷ついたのであろう、鮮血が周囲には広がり、血溜まりを作っている。既に絶命している。絶命してからどれくらい時間が経ったのだろう? 正確なところは分からないのだけれど、多分一時間と経ってはいるまい。白い猫はまだ綺麗だった。制限速度の高くない、幹線道路から外れた細い道路だったことが幸いしたと見え、多くの車はゆっくりと車を走らせていた。つまり道路の真ん中で横たわる猫を、更に醜く変形させる前に、彼らはハンドルを切ることができたのだ。

 猫は口と目を半開きにしていた。その筋肉運動はとっくに停止している。

 僕は当時学生で、自宅への帰路にあった。青々と晴れた日だった。白い猫の横を通り過ぎる時、僕は猫のことを横目で見た。

 さて、帰宅する。薄暗いアパートの自室はひんやりとしている。

 猫のことしか頭になかった。アパートからその猫のいる場所までは数百メートル距離があって、僕はあらゆる意味当事者ではなかったにも関わらず保健所に連絡をした。住所をある程度正確に伝えて、電話を切った後にキッチン棚を漁り、そこから掃除用のポリエチレン手袋を取り出した。

 再び自転車に乗って猫のところに向かった。数百メートル距離時間はそれほど掛からず、辿り着いた時には猫は最初のままの姿勢を保っていた。相変わらず見える範囲には傷一つなかった。

 僕は歩道自転車を停めて、車列(鮮血を目の当たりにし、おっかなびっくりハンドルを切って迂回する車列)が十分に途切れたタイミングを見計らって、猫のところに駆け寄った。それで、僕は猫の脚を掴んで、車に引かれる心配のない路端へと引きずった。

 そう、引きずったのである

 抱きかかえた訳ではない。単に引きずったのだ。鮮血が道路に擦れて跡を作った。

 猫は筋肉が弛緩した所為か失禁――脱糞していて、その茶色の飛沫がポリエチレン手袋に付着した。

 そこには愛情は無い。僕の人生残留するべき温かい思念というもの存在していない。

 だから、この記憶は決して僕の中に残留し続けることはないだろう。人生のいずれかのタイミング忘却され、その後決して思い出されることはないだろう。

 僕は猫にそれ以上傷ついてほしくなかっただけである

 猫が道路の上でぐしゃぐしゃになっている姿を見たくなかっただけである

 ある種の同情みたいなものはあった。でも、それは決して愛情ではない。僕は見ず知らずの猫に、しかも既に生命の無い猫に、愛情を抱ける類の人間ではない。

 僕は猫を引きずって、車に傷つけられる心配の無いように、路側帯の辺りまで移動させると、手を離した。そして、そのまま保健所の車がやって来るのを待ち続けた。

 初夏の晴れた静かな日和である。時折、眼前を通り過ぎる車の運転手がギョッとした顔で、猫と道路中間辺りから続く血痕を見遣るだけである。僕は猫から少しだけ距離を空けて、偶に、盗み見るように視線を向けた。本来当事者である近所の主婦達が歩道で、遠巻きに何かを話している。さっきの僕の行動を彼女らは全て見ていた。

 やがて、彼女らの内の一人の若い主婦が僕のところにやって来て、保健所には一応連絡したんです、と言った。僕は短く返事をした。

 彼女は元の場所に戻っていって、相変わらず主婦達と何かを喋っていた。僕は、その場で保健所の到着を待ち続けた。


 やがてやって来たのは、ゴミ処理車であった。内部に回転する鉄塊こそなかったものの、それは紛れもなくゴミ収集車であった。

 この後の描写についてはあっさりしたもので、その車中からスタッフ二名降りてきて、主婦らに挨拶をした後に黒いビニール袋を広げ、手早く猫をその中に入れた。そして、車両収集スペースにその袋を入れると、瞬く間にその場から去っていった。

 僕はそれを見届けた時にやけに安心したのを覚えている。これで、道路の上にもんじゃ焼きのような物体が出現する可能性はなくなったのだと、そう考えていた。僕はそのまま自宅に戻り、猫の糞の付着したポリエチレン手袋を処理した後で、日常ルーチンに戻っていった。


 多分、この記憶は僕の人生残留することはないと思う。単純に、この話の主旨は、僕が猫の死体の重みを知っているという、そのことを主張する他にない。教訓と呼ぶべきものはそこにはない。

 しかし僕自身にとっては多少の教訓と呼ぶべきものはある(どっちだよ)。


 多くの場合、我々の性向とか心の働きのバイタル部分に作用するのは、僕がここまで延々と語った記憶の類ではなく、誰かへの愛情記憶であり、誰かから愛情記憶である

 そういうものを欠くと、我々のバイタル部分は鈍化する。必要以上に鈍化し、何らかの問題を引き起こさずにはいられなくなる。記憶というものを二種類に大別した時に、我々の性向に最も強く、最も好影響を与えるのは、明らかに「思い出しうる」方の記憶だ。そのことに疑いはない。

 とは言え、最近の僕は少しだけその考え方を改めることになった。

 これまで僕が延々と語ったこ記憶は、凡そ間違いなく僕によって忘れ去られるだろう。そして、二度と思い出されることはないだろう。このテの予想が外れることは僕に限ってまずあり得ない。この記憶は僕のバイタルとは無関係なのだ。この記憶によって僕が行動を規定されたり、何らかの関連行動に走るということは――この文章を書いていることを除けば――まずあり得ない。僕にはそのことが手に取るように分かる。

 でも、と思うのだ。

 この記憶は、翻って言えば、忘れられるまでは僕の記憶に残り続ける(トートロジー的な文章だ)。僕は、そのことに少しだけ意義を感じてしまいそうになるのだ。

 記憶には二種類ある。忘れられた後に思い出しうる記憶と、そうでない記憶である。前者に比べれば、この世の中においては後者記憶の方が圧倒的に多い。この世界殆ど記憶後者、つまり他愛のない記憶によって構成されていると言っていい。それらは例外なく忘れ去られる運命の途上にある。

 それでも、と僕は思う

 その記憶は、忘れ去られるそのタイミングまで、じっと待っている。

 僕の記憶の中で息をしている。

 猫の視線の色を、僕は今のところ忘れていない。奇妙に硬直した、黄色い瞳。

 多分、僕の記憶の中に、未だ留まっているところの猫は、待っているのだろうと思う。

 僕が猫のことを忘れ去るその時を。

 じっと、誠実に、待っているのではないかとそう思うのだ。

2019-07-08

名古屋交通注意事項

俺は名古屋に住んでいるんだが、名古屋特有交通事情というか、危険回避のための知識とでもいうものがいくつかある。たとえば、

「8の絡むナンバーは注意」

他の地方でもあるよね。「・・・1」とか「11-11」とかの1並び、1でなくてもゾロ目やそれに準じた並びは注意、みたいな。名古屋はこれが8絡みなんだ。「・・・8」とか「88-88」とか。車種がクラウンベンツ場合特に要注意だ。

どうして8なんだろう、って、この地に住むようになったばかりの頃に誰かに聞いたら「ハァ?何聞いてるの?」みたいな剣呑な顔をされて、

「市章、見たことない?」

見ると○に「八」なんだね。なんでも尾張徳川家参勤交代ときの所持品とか葛籠とか、そういうものにこの紋章を入れていたのをそのまま使っているらしい。だから名古屋ではイカツいクルマに乗る人々も「8ラブ」らしい。

あと、これは他の地方でもあるんだろうが、「前が行ったら自分も行ける」ってやつ。これ、本当によく目にするんだよね。たとえば赤なのに横断歩道に突っ込んでくるクルマがあって、無理矢理停めて、

「アンタ何考えてるんだ、殺す気か?」

と訊くと、大抵、

「前が行ったもんで」

(こういうときは大抵尾張弁放言方言、らしい)とか平然と言いやがる。それも決してこちらを見ずに、そっぽを向いて言うわけね。まあそんな訳で、クルマが出てきたら「次がいる」「そいつは停まらない」と己に唱えることが徹底してきた……つもりだったんだ。しかし、今日はちょいと甘かった。

路地から二車線に出る丁字路、二車線の路側帯信号の付いていない横断歩道自転車に乗って渡ろうとしたら、ヌルヌルクルマが出てきやがった。それをやりすごして渡り始めたところに、前のクルマの連れなのか何なのか分からないんだが、少し遅れてベンツが鼻を突っ込んできて、横断歩道を半分踏んだところで軽くスキール音を立てて停まった。俺は思わずそちらを向き直り、

「おい何考えてんだゴラァ」

と怒鳴った。俺の後方には中高一貫女子校があって、俺の直後にもそこの生徒達が渡り始めていたからだ。しかし……だ。そのクルマが……

いわゆるイカツい黒のベンツで、ナンバーは「70-70」。そこまで目に入ったところで、鼻を突っ込んでこちらを認めて停まったときにホーンをひとつも鳴らさなかったそのクルマ、ホーンを全開で鳴らして、窓を開け、

「なんだオラこのヤロウーッ」

と怒鳴ってきた。あーいかん、馬鹿に火ぃつけてしまった。で、俺が無視して進むとそのまま、開けた窓から腕を突き上げ、ホーンを鳴らしながら追ってきたんだ。うわー勘弁してくれ、とは思ったが、その二車線、一方通行軽車両を除く……この辺では「原付自動車」と書いてあることが多いけど、自転車規制対象外ね)の路地とあちこちで交わっているのを俺はよく知っていたので、絶対に入れない路地に入り込んだ。さーこのエリアからどう出ようかなあ、と思いつつ、角をいくつか曲がったら、後ろからまた同じホーンが。うわーしつこく追ってきてるわ。再び入りようのない路地に入り込み、その場をやり過ごしたのだった。

で、だ。実は俺、こういうめに遭うのは二回目なんだ。一回目は路側帯自転車で走っていたとき……ああ、ここつっこまれそうなので強調しておくが、俺は道交法を厳守している。このとき歩道自転車通行不可なのを確認した上で路側帯を走っていただけだ……ただ、クルマの車線がかなり混んでいたためにクルマより速く進めてしまう状況で、そのせいで煽られたと思ったのか何か分からないんだが、黒のクラウン8並びに執拗に追跡されたことがあった。同じように、窓を開け、怒鳴り、腕を突き上げ、ホーンを鳴らしながらね。

とにかく俺は、それ以前にこういうめに遭ったことがない。名古屋だけだ。それ以前には大阪に住んでいたんだが、そんなめに遭ったことがない(いや、色々ブッ壊れたドライバーは目にしましたよ……中央環状線を瓶ビールラッパ飲みしながら走るクルマとかさ)んだ。大阪の前は都内……ああいかん、この辺では「東京都内」って言わないと名古屋中心部だと思われるんだよね……にいたけど、むしろ自転車の方が問題が多くて参った位で。今回のような、こちらが怒鳴りつけるような場面に遭遇したこともなかったから。

まあ、怒鳴ったこちらにも非がある、との批判は甘んじて受ける。しかし、逃げなきゃ殺されるような状況に二度も遭遇する街、って、何なんだろ。しか世界自動車メーカーのお膝元、なんでしょ?ここって。そりゃあ交通事故死者ワースト1を何年も守り続けてるだけのことはあるよなあ……と思い知らされたのだった。

さあ、30分位経ったから、さっき買えなかったもの買いにコンビニでも行くか。念の為服装変えて行こうかな。いや本当、この手の輩は病的に粘着的だから、気をつけないとね。

【後記】

ふと思ったんだが、あの激怒した原因って、ひょっとしたら女子高生が何人もいるその目前で俺が怒鳴りつけたからなのか?ベンツ野郎のちっちぇえメンツを俺が潰してしまたかなのだろうか。

2019-06-29

自転車乗り俺が今までに見たヤバイ自転車を書く

最初は肩慣らしから。

まぁここら辺は当たり前。トラックに巻き込まれろとは常々思ってるけどね。

以降ヤバイ自転車

幹線道路を50mにわたって逆走&横断

まぁ言ってしまうと246なんだが、なんとママチャリが横断、しかも逆走というダブルコンボを決めてきやがった。自分の命をなんとも思わないその勇気を称賛!潔く死んでくれ。

陸橋を走行

目の前の自転車なんか第二車線入ってるな...→陸橋突入路側帯なんて1mmもない上に斜度もきつい、車通りが多いなんてもんじゃない道に突っ込んでいけると思ったその根拠は何なのか。ぜひ聞かせていただきたい。ちなみにそいつはそのあと交差点を右折レーンから右折していった。

きっと彼は今も陸橋を渡っているのだろう。生きていれば。

激坂高速ダウンヒル逆走お母さん

とある坂がある。そこは結構激坂で、斜度は10%くらいは確実にある。そんな坂を上っている俺の目の前に現れたのは逆走自転車しかしただの自転車じゃない。なんとママチャリで後ろに子供をのっけて、高速で下ってくるのだ。時速40kmは確実に出てたね。後ろに乗せられていた子供安全を願っていません。

道路の一番右側で2ケツしてるクソガキ

見出し読み直してほしい。右側ですよ?ママチャリに二人乗りしてるクソガキが一番右車線のその右端を走ってやがった。バイク外国人ガチギレされてたので、後ろに止まれサイン出しながら「こっち来い」って叫んだら拗ねながら歩道に戻っていった。二度と自転車乗るんじゃねえぞ、俺との約束だ。

歩道から急に出てくるクソ野郎

急に歩道から車道にノールックで出てくるクソチャリはほんとに多い。お前後からバイク来てたら死んでるぞ?

無灯火&逆走コンボ

日本にはよくある、車が通ることしか考えていない道を夜に通ってて、照明の位置的にちょっとまぶしいなーって思ってたら隠れてた逆走無灯火自転車が急に出てきた。ここまでくると俺の責任はどうやっても問えない気がするのでむしろ事故って慰謝料搾り取ったほうがよかったかもしれない。

もっとやべーのがいた気もするが思い出せない。みんなは違法自転車がいたらどんどんクラクションならしていこう!!!!!!

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