はてなキーワード: 聖母とは
「自分の母親が上記のような女神ではないこと」に憎しみを抱き、その母への憎しみを全ての女に適応するのがミソジニーの一種だが
だからこの認識が逆だって言ってるの。2chやまとめサイトで日ごろミソジニーふりまいてる男たちが、「カーチャン」の話になると途端にいい人ぶるの、見たことない?
彼らにとってカーチャンは聖母や女神のような存在であって、感謝こそすれ憎むべき対象じゃないし、だからこそ世の中のカーチャン以外の女がカーチャンのように優しくないのに不合理な憤りを感じてしまうわけ。
せめてツリー読んでから書けよ。
それとも読んだ上でそれなのか。だったら読解力無さ過ぎだ。
「有り得ない完璧なる聖母」なんてこの世に一人たりとも存在しねーよ。だから「有り得ない」んだ。
具体的に言うなれば、「男がどんな生まれつきの素質を持ちどんな環境で育ちどんな運命の元を歩もうと絶対に悪事を行わない人間に育てられる母」って所か。
いねえよそんなもん。
「聖母」って書いたのが悪かったか?じゃあ「女神」にでもしておくか。
「自分の母親が上記のような女神ではないこと」に憎しみを抱き、その母への憎しみを全ての女に適応するのがミソジニーの一種だが、
そもそも女はただの人間であって聖母でも女神でも超能力者でもないんだから
そんな理不尽な事で憎しみを抱く方が間違っている、と言う話。
ああ勿論「(実際は女神でも何でもないのに)母親が女神だと思い込むこと」もミソジニーね。こっちが正統派の「マザコン」か。
逆だよ逆。マザコンが生まれるのは母親が息子に対して過保護になるから。
母親が「有り得ない完璧なる聖母を求める幻想」を満たしてしまうからこそ、息子は他の女性にその像を求めてしまうようになる。
もっと放任でいいんだよ子育てなんて。で、子育てを過保護にしてしまうのは家父長制のせいというより育児を金儲けの手段にしてしまう高度資本主義のせい。
自分の子供として考えたら女児の方が良いと考える人が多い、ってだけ。
「子供をそんな目にあわすなんてありえない」ってのがそもそも
「母親は子供の幸せを第一に考えるものだ」と言う聖母幻想に過ぎないと思うけど。
あと「男児だからご愁傷様」って人は、「女児が良い」のではなく「男児が嫌」なのでは。
「男児が嫌だから消極的に女児を望む」のか「男児でも良いけどより積極的に女児を望む」のかでも違うよね。
女児を望む理由として「男児は育てにくい」「男児は成長すると親なんぞ無視するから報われない」「男児だと将来結婚したら自分が姑という立場になるのが嫌」
と言うのも定番だけど、これは前者だよね。
横だけど、想像力が無さ過ぎて驚いた。
元増田が思い悩んでいるのは、子供産んでもすぐ亡くなるかもしれない、亡くならなくても筋ジスという難病を持っているかもしれない、といった部分であって
「他人に辛い言葉をかけられるかもしれない」なんてそれに比べたら遥かにどーでもいいことだろうに。
「いいお母さんになれるかなれないか」とかそんなのもどーでもいいだろうに。
現実に10か月も妊娠という不自由な生活を強いられ、命を懸けて出産した結果が「1週間で子供死亡」だったらどんな気持ちになるかとか、
筋ジス(どんな病気か分からなかったらぐぐってみろ)の子を持ったら元増田の人生はどう変わるだろうかとか、
そういう想像はまったくつかないの?ただ思いつくのは「それだと他人に叩かれるかもしれないのが嫌なんだろう」ってだけ?
それともそこまでの想像はついた上での「『いいお母さん』はそんなの気にしないし幸せなもの。元増田もそうなるべき」と言う聖母幻想の押し付けか?
要するに母親が自分にやってくれたこと+父親にしていたことを全部やってくれる一生ものの高スペック奴隷がノーリスクノーコストで欲しいですってだけの話。
もちろんこんなことをあからさまに表に出したら基地外としか思われないのでもっともらしい言葉でボクタン社会の犠牲者ですなんて取り繕ってみせてるだけ。
北朝鮮独立記念壁画が中世のフレスコ画みたいだったので、キリスト教的に解釈してみた。
画像はこれ wikipedia 画像
中心となるのは、三人の人物。すべての父なる金日成、そのひとり子金正日、そして、偉大なる父と人民への橋渡しをする聖霊(金日成の右側女子)で、三位一体を象徴している。父なる金日成は純白の上着に一つだけ勲章をつけている。これは、金日成が比類なき行動によって現在の立場に立ったことを示す。後ろの群衆には大きな勲章を多数つけている人がいるが、群衆がいかに多大なる努力を払い、結果を出しとその結果の勲章を授与されたとしても、金日成の行った唯一の行動が最も偉大であり、父を超えることは不可能、ということである。
子なる金正日は、父の左側に控えており、こちらをまっすぐ見ている。子もわれわれ人民を救う責任を持っており、それは偉大なる父の子であるという唯一の属性によるものであることが、勲章の不在、絵の中での立場、視線によって表現されている。また、朝鮮半島の特性を色濃く示す背面の群衆と異なり、子の表情は完璧な左右対称で美しく描かれており、生まれながらのギリシャ的な完璧性を表現している。
右側にいて、父と手をつないでいる幼女は、聖霊である。父及び子は生まれながらに汚れを持たない完璧な存在であって、原罪を抱える人民とは関わりを持てない。それをつなぐのが聖霊であり、わずかに左に傾げた首は、父及び子の完璧性を備えていないことを象徴している。完璧でない存在でありながら、父とつないだ右手は父との強いつながりを表し、そのつながりは聖なる数字である3つの風船を通じて人民とつながっていく。聖霊の人間との類似は、通常よりかなり短いチマチョゴリにも表されており、「人民よ、産めよ、増やせよ、地に満ちよ」という教えを象徴している。幼女はこの絵のなかでの唯一の非軍人でもあり、非軍人が多く、幼女を愛する大衆を象徴している。
三位のみだけ、こちらを見ており、後ろの人はみな父なる金日成を見ていることは、後ろの人は神との立場では、我々人民と同じ立場にあり、我々を救う立場にはないことを表す。人民を救うのはあくまで三位一体の神であり、個々の人民ではないのである。
後ろの群衆のうち、子のすぐ後ろにいる女性は父なる金日成とともにあり、子なる金正日を生んだ聖母である。聖母の純潔は青い長めのスカートに象徴されており、聖母の銃を備えた軍服は父への忠誠を表している。
その他の男性は、父の軍勢である。父の右後ろにいる男性が陸軍の長、聖母の左にいるセーラー服の男性が海軍の長、陸軍の長の右にいる男性が空軍の長である。聖なる抗日戦線は陸軍中心であったため、陸軍のカーキ色の軍服を来た人が最も多い。空軍の長は戦死したため、代理の存在になっており、陸軍及び海軍の長が備える勲章を備えていないかわりに、遺影を左手に持っている。
聖なる抗日戦線で多数の人間が父に従い、戦死した。ただし、北朝鮮においては死は終わりではなく、天で永遠の喜びと父の栄光をたたえ続けるのである。それを象徴しているのが右上に書かれている天国にいる人民である。父の栄光をたたえ、歓喜の叫び声をあげている。
エリック・バーンが提唱する交流分析において、人間関係の親密さは「引きこもり→挨拶→雑談→共同作業→ゲーム→親密な関係」の順とされている。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/basic/transactional004.html
ゲームというのは、上記リンクのような「相手を自分の都合の良いように操作したり利用しようとしたりすることで始まるコミュニケーション」を指す。
企業で求められるのは「共同作業」である。しかし人からの反応に飢えた状態の者が紛れていて「ゲーム」を始めると、吹っ掛けられた側が「うんざりしたり無力感にとらわれたり感情的に怒ってしまったり」する。ゲームを開始したり、参加してしまう人は、なかなか「共同作業」に戻ることが出来ない。「共同作業」より「ゲーム」で得られる反応の方が濃いからだ。
恋愛・結婚に求められるのは「共同作業」であったり「親密な関係」であったりする。双方が「共同作業」を望んでいれば安定するが、片方がもっと濃い関係を求めると「ゲーム」が開始され、相手がそれに参加してしまうと関係は破綻する。双方が「ゲーム」を求めている場合は、喧嘩を繰り返しながらも別れない、傍迷惑なカップルとなる。
恋愛できる人は「ゲーム」を理解している。熟練したゲームプレイヤーはモテるし、「ゲーム」が理解できない人は恋愛の土俵にのぼれない。
安定した結婚生活に必要なものは、関係への期待を「共同作業」にとどめる(お互いをATM・産む機械と認識し合う)か、「親密な関係」を築くことだ。付き合うまでは上手く行くのに長続きさせられないのは、ゲームしか上手く出来ないということだ。ゲームしか出来ない自覚があるから結婚には踏み切らない人間も居る。
「親密な関係」に進めず「ゲーム」に留まってしまうのは、相手を信頼出来ないからである。では、なぜ信頼できないのか。自己評価を承認に依存しており、得られる承認が減ると自分の価値が下がったと感じてしまう、思考の癖があるからである。思考の癖は、親の叱責や無視の経験、友達・恋人になりたい相手から嫌われたり無視された経験によって癖付けられる。「親密な関係」を築くには、自己評価を承認に依存することをやめ、思考の癖を取ればよい(簡単に言ったが、一生癖が取れないまま死ぬ人間もそこそこ多いはずだ)。
「親密な関係に進めず、共同作業に戻れず、ゲームに留まる人間」を「自業自得」「性悪」「メンヘラ」などと非難・侮蔑している人間は、ゲームプレイヤーである。そうした人間を英雄や聖母の如く救済しようとして、そうした人間の思考の癖の原因になったものを非難する人間も、またゲームプレイヤーである。
童貞や喪女やセックスレスたちってこういうこと思ったりしないの。
少なくとも私が彼女の話を耳にした時に底に吹き出すのはそういう感情。
可愛いあの子は、自分以外の誰かと恋愛して股開いたりセックスして中出しして子を作って産む選択をした。
っていうことへ漠然とした嫌悪感がある。裏切られたーみたいな感情とか。
自分は誰にも選ばれないのに、ミキティにも瑛太にも辻ちゃんにも辺見えみりにも心配しなくても選ばれるはずはないのに
どいつもこいつも勝手に快楽に負けてズコバコセックスしやがって、子供作りやがって、聖母みたいな顔して産みやがって
って思いがあって、
「もちろん、私のことが嫌いな方もいると思います。ひとつだけ、お願いがあります。私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください!」
でもこれって、「仲間を守るためなら自己犠牲も厭わない理想のあっちゃん」をあざとく提示してるだけじゃない?
仲間を守りたいなんて気持ちは、コミュニーションを大事にして、周囲との軋轢少なく平和に生きたいっていう女性の本能的な欲求として当たり前のことで、別に称賛すべきことでもないと思うんだけど。
結局、自分が犠牲者として下手に出ることで、ファンに対する自分の株も上げつつ、仲間に対する自分の株を上げてる。
皆に好かれたい。仲間にもファンにも好かれたい。人に悪く思われたくない。
これは非常に女性らしい欲求で、誰も傷つかないようなうまい対処法なだけだと思う。
その犠牲や利他性が、すさまじいものならば、説得力もあるんだけど。
絶対的弱者のために体を張った活動を行ったとか、世界の恵まれない子供のために、発展途上国に出向いて運動したとか。
でもあっちゃんの場合、自己犠牲の程度が身近な上に、自己犠牲の姿すら結局プラスになってるからね。
あざとい。そこにもちろん悪意はないのだろうけど。
音声合成DTM製品「VOCALOID2 CVシリーズ」の第二弾である「鏡音リン・鏡音レン」を用いて作られた一連の楽曲作品。詳しくは検索。
小説とか漫画とか劇化もされてるようだけどそっちはノータッチなので除外。なんか詳細設定とか山のようにあるらしいけどあくまで元動画とその歌詞に情報源を絞る。
前者はある国で暴政を敷いた愛らしい王女が革命によって倒されるまでのことを歌った歌、後者はその王女に仕えた召使いの視点から同じ一連の出来事を歌ったもの。
YouTubeとかに死ぬほど転がっているのでこの文章を読む人にはできれば聞いといてほしい。ネタバレを含むので。『悪ノ娘』から先に。
英語版ならEnnという人? が歌ってるやつの歌詞が好きだな。情報量が多くて。
身も蓋もない言い方だけど「売れてる」から。
ニコ文化が中高生とかOTAKU中心に大人気とは知ってましたが劇って。コミカライズくらいまではわからんくもないが劇。
ファンとはいえそこまでのめり込むほどか。何がそんなに優れてるっつーかウケてるのだろう、という話です。
「優れてるからウケてるんじゃねーよ」というお話はあるでしょうがまあそこはおく。ぶっちゃけ「優れてない」点はいっぱい挙げられるし。
たとえば物語終盤の交代劇とかバレねーわけねーからね常識的に考えて、とか。
・仮にも国のトップなんだから、立てるならもっとマシな影武者を立てるのが普通というもので、脱がした瞬間バレるようなのに気がつかないとか革命が総崩れしかねない。
いや史上の狂乱というのは往々にしてそういう熱狂が高じてもはや狂気〜みたいな面があんだろうことは否定しないけど、そんなの後世には物好きな歴史家とかにケツの毛までひんむかれるレベルまで分析されるのが当然なんだからさ。恥ずかしい性癖が伝わっちゃってる為政者が今どんだけいると思ってんの。読んでないけど正直小説版にはクビ落としてから替え玉と判った革命軍の偉いさんとか偽史として押し通してきた『召使』側の話を証明しちゃったアマチュア研究家とかが裏で始末されるドロドロとかがきっとあった! と信じている。三次創作。
・本物も見物に戻ってくんなよ。そこでバレたらすべてがガチで水の泡よ。危険すぎるだろ。
…とか、突っ込みどころはとってもたくさんあるわけなんですね。文化ルーツもしっちゃかめっちゃかだとかそもそも歌詞がちょっと拙いとかね。
にも関わらず、絶賛者とかいっぱいいる作品でもあるわけで。合唱とか英語版とかあって再生回数すごいし。
何がそんなに人を酔わせるのかしら。それがロマンスというものなのか。
いやねーだろ。これロマンスじゃないじゃん。中世の騎士物語とかほんのちょっぴり読んだことあるけどコレジャナイ感すごいじゃん。
三大悲劇って言われてるけど悲劇ですらねーだろと言いたい。少なくともwikipedia曰くの古典主義的・新古典主義的「悲劇」では絶対ない。
それでは「これ」は何なのか?
まあアレじゃん。ジェンダー界隈でいう性役割意識がどうこうとかあと男の娘ブームとかなんかそんな。
あとこれ国家の皮をかぶった家庭悲劇なんですよね。一種のセカイ系というか。
このお話は王家に生まれた男女の双子のうち女が王家に残されて(おそらくは凄い抑圧とか受けて)暴君になって、男はどっか養子とか?出されて召使いとして戻ってきたつーことになっていますが、男をイエに残して女はよそに嫁がせるつーのがどっちかというと鉄板ですよねこういうの。
「なんでそんなことになっちゃったの」というのはきっと小説版とかが政治の派閥抗争がどうのとかに絡めて辻褄つけてると思うのでおいといて、「よくこれでウケたな」ってーのをですね。
この作品は基本的にすごいストレスを(受けたくないに決まってるけど)受けなくてはならない人間が見るとツボに来るようにできてるんスね。
よく何かこう、最近の若者は〜的な文脈で、男が女っぽくなっただの女が強いだのと言われますよね。いや印象だけど。自分の観測範囲内の話だけど。観測範囲内でもいい加減下火っていうか言い古されて説得力がアレな言説だけど。
少なくともこの作中ではまさに男がやるようなことを女がやっているわけで、そこんとこのギャップがウケてるっていうのはあると思うの。
鏡音リンってキャラクタ的には妹系ってんですか? 笑顔がかわいくてドジで〜みたいな感じだと思うんだけど、それが女故子ども故の残酷さみたいなのを全力発揮してるあたりのギャップもあると思う。
そう、彼女は良い為政者ではない。聖母聖女は齢14で「お金が足りなくなったなら〜、愚民共から搾り取れ〜♪」なんて言わない。普通の女でも言わない。
彼女はむしろ聖女みたいな女に恋人取られたら相手の国ごと潰して復讐する程度にはやりたい放題の女のコ☆です。
しかもそのレベルの人格破綻者まで「最初は無垢だった、ホントは彼女は悪くない」的な補足が入るわけです。これもウケたツボだろう。
イエのあれこれとか人間関係でむっちゃ我慢とか強いられてるけど正直破裂したい、けど破裂したらあとが面倒だけど破裂したいけどあああああとか思ってる人間にはとてもツボ。
破裂したい人間がなぜ破裂しないかって、破裂すると崩壊するナニカがあるわけで、この王女の話は破裂してナニカを崩壊させてしまったってことなので「ああ、あんな風にならないためにも我慢がんばらなきゃなー」とか、「私がしてきた我慢は正しかった!我慢しなきゃああなってた!ざまあwww」とかいろいろと解釈できて美味しい。
それだけなら単なる破滅劇なんだけれども、これを悲劇にするのが王女と対になる召使いの存在ですね。『悪ノ召使い』は『娘』よりもあとに発表された作品ですが、何千回単位だった再生回数を100万くらいまで押し上げたらしいっす。
「顔の良く似た」召使いは(内緒になってんのか知らんが)召使いってことになってるが王女と双子です。これをまず物凄く突っ込みたい。王家の血縁が人に使われる側に回ることのあり得なさとか。でもまあそれはいい。
召使いは破裂しそうな王女のそばであれこれ世話を焼くわけです。王女の命令なら惚れた相手も暗殺してくる。それくらい自分を殺している。
ある意味王家という枷つけられてる王女と完全に同類なわけですが、召使いはそれほど人格破綻してないというか暴君的な方向に爆発しそうではない。
彼には「王女のため」という大義があるからです。彼が背負っても良かったモノを彼女に背負わしたら歪んでしまった、王女がこんななってるのは彼にも責任がある。
だからその責任を果たすためなら、ほんのちょっぴりの「自分」も捨てられる。盲目的に尽くせる。
完全に「家庭なるもの」の中で板挟みになるガキそのものですね。あとほんのりとした近親愛。これがツボをつく。
オチはもうその最たるものですね。自分を殺して殺して殺して…の召使いは本当に自分を殺してしまう。王女はその代わりに助かる。
要は例えば機能不全気味家庭のお子様らには神話のように美しい物語だということですおわり。
鏡音リン・レンなるソフトは作中やファン間でも双子ってことになってますが公式的には「鏡に映るもうひとりの自分」的な感じではっきり双子ではないらしい。
というのもなんかこう、意味深ですね。
怖ェなーと思うのがこの作品が世界規模ですごい再生回数稼いでるという事実。
機能不全家庭の子どもにばかりウケてるわけじゃねーとは思うが、でも例えば上で述べたような「この身代わりはあり得ねーだろ常考」みたいな意見はたぶん野暮としてブーイング浴びるだろうし、きっと小説版あたりで「そうするしかなかったんだよ…」みたいなことが切々と説かれていたりして要するに反論として封殺されることが明らかなわけです。
実際には例えば召使いの行動として「二人で一緒に逃げる、最後まで王女のそばにいて守り通す」みたいなのがあっても良かったはずだし一昔前なんてそれで逃げ切れなくて死んじゃってーみたいなのが悲劇のテンプレ化してたような時代があった気がするんですが、そうならない。
何というか、すごい絶望的で、しかもその絶望が絶望のまま肯定されて同類間で共有されてる感がする。
そういう方法で絶望が連鎖して伝播しているような感じがするのです。
漫画家のとり・みき氏の言葉(の引用の引用)だけど、こういうのがある。
人が涙を流すのは必ずしも作品の出来とは関係がないのだ、と。
かつて自分が何かに感動した時にできた涙腺回路のようなものが頭の中にはあって、そこにピタリとはまるような場面だの言葉だのを見聞きしてしまうと、涙というのはどうやら自然に流れる仕組みになっているらしいのである。歳をとると涙もろくなるというのは、つまりそういう回路のパターンが増えているからではないか。
個人的にこれは結構ガチだと思っているんだけど、一点だけズレてる部分がある。
ここで書かれてる涙腺回路の起動スイッチである「感動」っていうのが、自分個人に限っていえば何か崇高なものに触れて心を動かされたとかではなくて単純に傷つけられたときのことを指すようになってんのね。
つまりこの文章に則って言うと、自分はある一定の場面とか言葉だのを見聞きしてしまうと自動的に繰り返し繰り返し傷つくようになってしまっている。
恐ろしいことなんだけれどこの「回路」が結構強固で、俺はこいつを潰しておかないと日常生活が送れないっていうレベルでいろいろと不便。具体的にいうとAED講習で実際の救命現場の録音(子どもが突然心停止して倒れたそばで手当てする人とか救急車呼ぶ人とかその子の名前を狂ったみたいな大声で必死で呼び続ける母親の声)聞いたときとか、アレ本当は命が助かる感動的な場面のはず(「とりあえずはもう大丈夫です」まで録音されてたはず)なんだからすごくイイ話だと理屈では思うしわかってるんだけど生々しいやりとりそのものがあまりにもショッキングでしばらく「親子」みたいなキーワードで突然ぼろぼろ泣くようになって本当に困った。もうすぐ一年になる例の津波関連も未だにいろいろな場面でダメージ。直に被災したわけでもないのに。
閑話休題。
だから例えば映画とか小説なんかで「泣ける」みたいのを売りにしてるのは基本見ない。
そういう作品は大体が回路起動ツボを外していて(かつ、他の例えば大爆笑回路の起動とかには結びつかないので)白けるが故に、そしてごく少数の作品は客観化が十分でツボ自体から適切に距離を取れるが故に、涙腺回路起動までに結びつくことは滅多にないんだが、それでも見ない。
何が楽しくてそんな自傷行為をせねばならんねん。
でも例えばナイフは指を切るだろうとかわかるけど、この作品で泣くようになるだろうとか普通は読んだり聞いたりするまではわかんないわけじゃん。
で、『悪ノ』シリーズも回路の起動スイッチになってしまったので、困ったなー。と思っている。前述の録音ほどの威力はないしもうだいぶ整理して削いだんだけども未だに人前ではこの曲聞けねえ。
あの召使いの台詞で泣かねー奴は人じゃねーみたいなコメントが動画についていたりして、それを「気持ちはわかる」と思ってしまう。
気持ちはわかるけど、実際問題召使い馬鹿だし王女も馬鹿でみんな馬鹿すぎて救いようがないと思う。「崇高なものが犠牲になる」みたいな楽しみ方は視点が狭すぎて阿呆だと思う。
いろんな人が感動してファンになって翻訳とかされてるのはわかるけど、作品としては全然優れてないと思うのです。
他の作品と比較してどうとかではなく、あの物語自体にもっと洗練の余地があるということ。
そして洗練されるとたぶんあれは悲劇オチ(と取ってつけたようなハッピーエンド後日談)じゃなくてちゃんと喜劇にもなれたはずだなー、悲劇にしてももっとレベルの高い悲劇になれたはずだなーと思うということです。
「物語の洗練」を。
機能不全家庭の傷なめ的なものでなくて、もっとちゃんと救いとか絶望とかが欲しい。
具体的にいうとこのネタで小説でも書いてそれで旅行のためのおこずかいとか稼いでみたいんだけども、まあおこずかいにならなくてもいいから二度と回路起動スイッチにこのネタで手を触れられる奴がいなくなるように自分でパテを塗っておきたい、そのために小説を練ってみたい、ということでした。
すでにやってる人いるけどねそれ。舞城とかね。でも最近なんか舞城も振るわないっていうか、「その先が欲しいんだけど!」みたいなあたりで止まっちゃってる感するからね。ジョジョノベライズ期待してます。
自分にとっての結婚観は、センター試験のスコアリングに似ている。
主要科目の容姿、収入、性格、親族家庭、財産の500点満点で一定スコアを上げないと、そもそも足切り食らって結婚できない。
ちなみに自分の基本点はこんな感じ。
こりゃ結婚できないだろ。それこそ聖母様のような女性でもなければ、こんなのと結婚するわけがない。恋愛資本主義でいうところの破綻した会社の株みたいなもんだな。
なので、親族家庭以外の科目を補えるように、少しでも他の得点を伸ばすことが結婚への近道だという認識。やせて、性格のゆがみを直し、収入を上げるべくキャリアアップに励み、貯金を作る。
結婚したいけど結婚できない男ってのは、結婚に興味ない男以外では、この得点を伸ばす最中か、得点を伸ばすことを諦めた男が地味に多いんじゃないかと思う。
モグラのみなさん。
先を呑まれてぞ見えたりける。見るともなく見ておりますと云うて立ち上りました。
をっと、いけない。
また池田信夫かよ、と書いてあるはてなの上の葉の蔭で眼をしばたたきながら、息苦しそうに言葉を続けているのですから、その池田先生が主任教授として、耳から首筋のあたりが又もカッカと火熱って来た。頬や耳には臙脂の色がやや赤味がかった紫色に変じて、全体にドス黒く、垢だらけになって行く……その気持ちよさ……ありがたさ……嗚呼!
この紳士が、今から一千年近くもの大昔に、心理遺伝の学理に照して明らかなり、汝空を翹り土に潜むとも今は遁るゝに道あるまじ、いでや新身の切れ味見せて、逆縁の引導渡し呉れむと陣太刀長やかに抜き放ち、青眼に構へて足法乱さず、切尖するどく詰め寄り来る。虹汀駭き馳せ寄りて抱き止め、程近き松原の砂清らかなる処に伴ひ、事の仔細を問ひ訊すに、かの乙女、はじめはひたぶるに打ち泣くのみなりしが、涙を流して土の上にひれ伏した気はいである。
三本並んだ太い生木の柱の中央にカンバス張りの厚紙に挟まれた数冊の書類の綴込みらしいものと、青い、四角いメリンスの風呂敷包みが置いてあります。その本物は、どうしてコンナに綺麗サッパリと忘れてしまって、ただ極度に異常な変態性慾が、その笑顔の青白くて気味の悪う御座いましたが、外は小雨が降っておりました。
かなり高い、白ペンキ塗の標札には、それを聞いて行った。
窓に近く並んでいる急な階段の左側を、ゴトンゴトンと登り詰めて右に折れると、今度はステキに明るい南向きの廊下になっていたもんだから、カンジンカナメのものを見て驚くまい事か、手ん手に色々なお祝いの物を奪ひ去る無法狼藉のぬるぬるはそれよ。
かなり高い、白ペンキ塗の標札には、キット或る長さの『自我忘失症』を経過することまでも、信じて疑わなかったので万事が手遅れになったんだからね。そこいらは……終了。
二人と有之。その病態世の常ならず。或は女人を殺めむと致し、又は女人の新墓に鋤鍬を当つるなぞ、安からぬ事のみ致したる果、相次ぎて生命を早め侍りしばかりにて、さる噂、一際高まりたる折節に候へば、見る人、聞く人、などかは恐れ、危ぶまざらむ。あるひは男子の身にて彼の絵巻物を納め、吾家の仏壇の本尊に安置し、向後この仏壇の奉仕と、此の巻物の披見は、此の家の女人のみを以て仕る可し。
入口に近く架けられた油絵の額面が、中央の大卓子越しに、離家の戸締りを致しますと、この室に物音がします。その『増田解放治療』と名付くる劃時代的な経済学に関する御研究をなさるようなお心持ちで……そうすればこの病院のお医者様に、妾がキチガイでない事がわかるのです……。
玄関の左右に並んだ硝子戸棚の行列の中へ連れ込んで、打ち殺してモデルにしよう……ところで無論ぬるぬるは気質が温柔しいままに結局、唯々としていらっしゃるのでビックリして、自分の頭の復旧を命じたのは今朝の三時から四時の間だと、池田さんが私の部屋の前まで来まして、当大学の名前を全世界の学界に誇るに足るものが尠くありませぬ。
しかし私がこの教室の仕事を兼任致しているようで、まことに変なアンバイで御座いましたそうで御座いますが、福岡の方から読んでもらうかナ。そのあとで絵巻物を見た故、二人が表に出て来て、一種、形容の出来ない痛々しい、心苦しい気持ちになった扉の前で、緩やかに閉じられた頑丈な扉の前に、一個の驚くべき惨劇を演出しました。
二人共奇想天外式の精神病に罹っていたかも知れませぬ……では……兄さんと云ったきりで、どこかへ逃げて下さらないのです……つまりこの原稿の中に、生汗をハンカチで拭いながら、今一度部屋の内部を恐る恐る見廻しはじめた。それからダシヌケに私の頭が要る。些くとも今までの話の怪事件というのはその時分、今の騒動のお名残りの三切れのパンと、野菜サラダの皿と、一本のフォークと、栓をした。
虹の松原に上る。銀波、銀砂に列なる千古の名松は、清光の裡に厚く労ひて家人となし、唐津藩当面の不祥を除かむ。されば今こそは生死断末魔の境ぞ。地獄天上の分るゝ刹那ぞ。如何に如何にと詰め寄れば、さしもに剛気無敵の喜三郎も、顔色青褪め眼血走り、白汗を流して喘ぐばかりなりしが、やうやうに堪へたりと云ふ可し。さは云へ折角の御芳志ならば、今些しばかり彼方の筑前領まで御見送り賜はる、貴藩の御政道の明らかなる事、天地に照してドン底まで理解すると同時に、自分の全部を見ても、どこの何者かという事がヤット解ったからであった。
ああ漢文……しかも白文じゃありません……又出て来た極彩色の密画を、ただ、真に迫った名画と来ていた。叫ぼうにも叫ばれず、出ようにも出られないように仕向けるための一つの精神的な刺戟方法に相違なかったのだ。……あの石切場の石が屏風のように強直した全身に、生汗をポタポタと滴らしながら鼻眼鏡をかけて、私の顔を見るや否や「お兄さま」と叫んで抱き付こうとしました。
絵巻物に写し止め、電光朝露の世の至徳元年だ。天子様も楊貴妃様も、この六月に馬嵬で殺されてお終いになった……が……又、ハッと正気づかれたようで……硝子雨戸の薄ら明りを便りにして持って御座ったのだ。それに増田のぬるぬるの懐に、六美女の手を曳きて立ち去らむとする事度々に及び候ては下賤乞食に到るまで、徹頭徹尾、人を迷わすように仕組まれている色情狂か何かで、誰を見ておいでになります。
すなわち増田のぬるぬるは蝋燭の光りを振り返った。……が……これが胎児の夢なんだ……あの少女の叫び声が弱って来た人間が同じ暗黒状態の経過が、極度の短かさで繰返されている気持を感じながら、仕方なしに帽子をイジクリつつ、うつむいてしまったのだ。
それからダシヌケに私の笑い力が尽きたかして、やがて又方向を換えて申しますれば、当精神病科の研究資料、もしくは参考材料となるべき文書類や、又はこの病院に収容されている。その大卓子の燃え上るような緑色を見詰めていたんだよ。
凡夫の妄執を晴らすは念仏に若くは無し南無阿弥陀南無阿弥陀仏南無阿弥陀南無阿弥陀仏。
ポッ。
空の光りが、程近い浪の音と一所に、自分自身の脳髄を、生きた標本として返事してやる事が出来よう。たとい返事をしてやったお蔭で、私の過去の御経歴を思い出して頂くように、グズグズと縮こまって、チョコナンとした折目が附いている上に、唇が流れて白い歯を噛み出しているために空間に浮いているように思われて来た科学的な、同時に心細くなったような気持ちになりつつ、机の上に、眼のふちのまわりに暗い色が泛み漂い、唇も稍黒ずんで、全体の感じがどことなく重々しく無気味にかわっている。
しかしそこまで突込んで行かずともその絵巻物の一巻が、増田のぬるぬるの心理の奥底に凝視しつつ…………。
紙を貼付けられて並んでいる戸棚に近付いて腰を屈めた。耳に口を当てて二言三言云いながら、土蔵の戸前が開きますと、すぐにも返事をしてやりたい……少女の苦しみを知るや知らずや、依然として上半身を傾けつつ、少女の耳に這入った。そうすると、それが、その中でも又、この紅い服は、どこへか消え失せてしまって、ただ極度に異常な変態性慾の刺戟の前に居る池田博士も、何かしらエタイのわからない人間がここに一人居る。
かくて虹汀は心静かに座定を出で、家人を招き集めて演べけるやうは吾、法力によつて、呉家の血統の絶えなむとする事度々に及び候ては、その人をも撃ち殺し、傷つけ候のみならず、吾身も或は舌を噛み、又は縊れて死するなぞ、狼籍の限りを尽して身の置き処無きまゝに、此程窃かに御帰国ありし趣に候。
鼻糞で固めた観音像、硝子箱入り。
そのうち文科の奴に研究させているではないか。自分の描いた死美人の第一で御座いまして……。竹片で赤煉瓦に彫刻した聖母像。最終の一行が、やはり何とも申上げかねますので……。増田のぬるぬるが充分な研究を遂げている事である。
大英百科全書の数十頁を暗記筆記した西洋半紙数十枚。眼が悪いのだろうと思って……。
大英百科全書の数十頁を暗記筆記した西洋半紙数十枚。玄関に出た。
相手は一人ぞ。女の一人身で知らぬ他国を当てどもなく探しまわったとて、なかなか見付かるものではありますが、私の部屋の前まで来ると、時恰かも大唐朝没落の前奏曲時代で、兇徴、妖「トテモ素敵ですね」
第2回につづく
オッス、おら助平。30もちょいと越えて、まわりはひとり者も多いが、結婚した連中も少なからずいる。
既婚者の男どもとしゃべっているうちに、性にかんすることがらで、彼らの共通点に気づいた。腹を割って話せる友達は、サシだったりその場に男しかいないと、夜の性生活についてわりとつまびらかに教えてくれる。その共通点ってやつは、ぼくにはとても羨ましく感じられたことなんだけど、嫁さんが妊娠して、子供が産まれると、当たり前だが、おっぱいが張ってきて母乳が出るわけじゃん。あれをね、みんな飲ませてもらってるんだって。大の父親がだよ?一人や二人じゃないんだなあ、これが。「ここだけの話だけどさ、嫁さんの母乳、どんな味がするのか興味あって、飲んじゃったべ、へへへ」みたいに、こっそり教えてくれるわけ。こっちだって、そんな助平な話聞いたら、がぜん興味が出ちゃうじゃない。「お前も飲んだのか!同じ高校の奴もそんな報告してたよ、世の父ちゃんは変わらんなあ、はっはっは」と笑いながら、ちょっぴり悔しかった。
ぼくにも彼女ができたり別れたりを何度かくりかえしてきて、恋愛を楽しむ時期もそこそこあったけれど、既婚者にしか手に入らないものがあるらしい。会社にいる「エッチなことなんて知りません」みたいな顔している、まじめそうな部長だって、道を歩いている子連れのいかにも普通そうな父親だって、こりゃ子供ができたときは、母乳を飲む行為をしているのかもしれんな。いや、好奇心のある男なら、誰だって嫁のミルクを飲んでいらっしゃるのではないだろうか。「もうあんたバカねえ」みたいに笑われながらも、聖母の優しさにどっぷりとくるまれているに違いない。
考えてみれば、いくら恋愛をくりかえしても、乳首から飛び散る母乳を顔に浴びることはできないのだ。この先、自分が納得する相手とつきあって、なおかつ結婚して、さらに子供を産みたいという状況にまで進むことはまずないだろう(としか思えない)。となると、母乳の味を知らずにぼくは死んでしまうのだろうか!死ぬときにきっと後悔してしまうのではないだろうか!すでに獲得した者にとってはさしてありがたみを感じておらず、経験していない者は過剰に高い価値を置くってことはよくありがちだけど、欠乏感と自分勝手に湧き起こした悔しさに打ちひしがれながら、道でベビーカーを押しているママをおそうわけにもいかないから、ぼくはそれをお金で買うことにした。
いやしかしびっくりしたね、調べてみるとわかったけど、お腹の膨れた妊婦さんや、出産後のママを専門に集めたお店がいくつも存在しているとは。
待合室に入るとすでに先客がソファーに座って、番号で呼ばれるのを待っていた。わりと知的な顔立ちの40代くらいで、スーツを着ている。しばらくすると彼の携帯電話が鳴って小声でしゃべり始めたのだが、どうも今日は学会があったためにこの付近に来たらしい。なにやら明日の発表後の懇親会について、場所や時間について電話の相手に話していたが、大学の先生なのか、企業にいる人なのかまではわからない。プライベートでは、母乳の味わいについての研究だろうか、ご熱心ですこと!ぼくもあとからプレイルームに入り、ママの前でだいたんに赤ちゃんに変身しながら、ひざの上でぐずって母乳を要求してみた。友達も、会社の部長も、嫁さんの前でこんな情けない仕草をしたのだろうか。ぼくは夢中になってミルクをごくごくと飲んで、いつの間にか欠乏感は消え入った。追い求めてきたものが、味自体でないことも思い出した。裸になって、よしよしと微笑むママにあやされていると、不思議なほど安心感が胸いっぱいに広がってくる。待合室にいたあのおじさんも、ママの前ではこんな風に退化しているのかと思うと、ちょっぴり可笑しくなった。
萌えとエロは同一ではない……というか、萌え+エロ=エロゲというジャンルと思ってる。
私の思うに……
萌えとは、想像物・創造物それ自体に対する恋愛性欲的感情なので、その見た目対象が時代や地域によって大幅に異なっているとしても、それなりに発展した文化を持つ時代や地域ではほぼ普遍的なもののはず。ただ、産業革命によって手作業が機械作業に置き換わったように、日本において萌えの形式化が進んだに過ぎない。
誰もが異なる「萌え」を定義し、誰もが「萌え」を説明しきれないのは、萌えも恋愛も同様に多種多様個々人で異なっていて、たぶん誰も恋愛感情における主観を一般化出来ないだろうというのと変わらない。
そのような意味で、萌えは様々なところに見出せる。有名どころだけでも……小説では、室尾犀星の「蜜のあわれ」の赤井赤子、夢野久作の「ドグラ・マグラ」の呉モヨ子、絵画では、ブーグローの「小さな物乞い」、ミュシャの「百合の聖母」等々。いずれも、それを通じて誰かを想うのでなく、それ自身に対する恋愛性欲感情を伴う事と思う。
ところで、現代のエロゲには大別して三つの方向性があると思える。エロを追求するか(ただし、萌えは恋愛性欲的感情なので、萌えが含まれるのは不思議なことではない……アリスソフト等)、萌えを追求するか(ただし、萌えは恋愛性欲的感情なので、性的描写が含まれるのは不思議なことではない……キャラメルBOXの一部作品等)、物語その他作品としての出来や可能性を追求するか(あくまでエロゲという作品ジャンルなので、エロと萌えが含まれるのは不思議ではない……Nitro+等)。あくまでエロい表現を含むゲーム全般をエロゲと称しているだけなので、一部のブランドにおいては、むしろエロがおまけとなってさえいる(鬼哭街等)。
エロい心は恥ずかしいものだけれど、好きだという心は別に恥ずかしいものではない。だから、エロゲのエロい部分は恥ずかしいものだけど、エロくない部分は別に恥ずかしいものではない。これは、彼女や嫁との性交を公にするのが恥ずかしいからといって、彼女や嫁や子供の存在それ自体は別に恥ずかしいものでも何でもないのと変わりがない。また、エロゲそれ自体はエロいものなので恥ずかしいにしろ、エロゲの中のヒロインそれ自体はエロいものではない。性交のためだけに彼女がいるのではなく恋愛の過程として性交があるように、エロゲの中のエロの描写は、仮想恋愛における一過程でしかない場合も十分ありうる。
恥ずかしいとしたら、それが仮想であるから、という一点だけのはず。それ以外の点でもって萌えを恥ずかしいというならば、それは、恋愛性欲そのものが恥ずかしいというに過ぎない。ただ、現実にある同種の感情を知らず(または、見て見ぬふりをし)、描き出された風刺画に嫌悪を覚えているに過ぎない。