はてなキーワード: 囲碁将棋とは
根本的に俺とお前ではやっている「ゲーム」が違いすぎるから話にならないよ
俺が求めている「ゲーム」は囲碁将棋やチェス、あるいは球技とかの延長線上の「ゲーム」だから、リアルとのリソース紐づけはノイズでしかない
シミュレーションゲームでランダム生成されるいろいろなマップや勢力図でその回その回のクリアを目指したり、
アクションゲームでひととおり最適解を使ってクリアしたら、今度は特定の武器しか使わない縛りでどうやったらクリアできるか攻略法を考えたり
DLCで使えるデータが増えても、それはゲーム盤の"パターン"が増えるだけでゲームで有利になるわけじゃないよね
DLCを適用するかしないかで別のルール、別の試合、別のゲームになるだけだ
だからDLCを買うのは運やゲーム内のリソースに金を払っているわけじゃないし、俺は買い切りのDLCは割高でもバンバン買う
そうやって「ゲーム」を楽しむ上で、「仕事が忙しくて何月何日までにプレイできなかったからアレが手に入らない」みたいなリアルタイムとの紐づけだの、
「病気や家庭の事情で出費がかさんで今月課金を渋らざるを得なかったからアレが手に入らない」みたいなリアルマネーの紐づけだの
リアルのリソースで有利不利が決まる時点でリアルマネーガチャは邪魔でしかないよ、それもう「ゲーム」じゃなくて「人生」じゃん
リアルマネーのガチャゲーってのは俺にとっては「金を払ったら対局中にコマがもらえる将棋」なんだよね、クソゲーかよ
不労所得で金がわいてくる、時間もいくらでも使える貴族様ならアカウントを100個も200個も作ることでガチャゲーでも俺がやっているような「ゲーム」を楽しめるかもしれないけどね
格闘ゲームに限らずほとんどの対戦ゲームでは、勝つことが唯一のカタルシスではない
負ける→原因を探す→原因を突き止める→改善する→対戦する
これは格闘ゲームに限らず、囲碁将棋、麻雀やボードゲームやマリオカートのようなレースゲームでもそうだろう
格闘ゲームの場合、コンボなどを練習した結果、自キャラを思った通りに動かせるようになるというカタルシスも大きい
むしろ自分の納得する勝負さえできれば、負けても満足する(楽しい)という人が大半で
勝ち負けにこだわる人は見えている以上に少ないと思う
というかそういう人は逆にどんな対戦ゲームも楽しめないと思う
チーム戦にしようが運要素を絡めようがCPU対戦があろうが
結局のところ勝ち続けるようになるまでに負けることは防げないからだ
確かにチーターなど一部にはいるが、大多数が対戦すること自体を楽しんでいる
勝ちによるカタルシスを得られないから格闘ゲームが衰退するというのは間違っていて
一つはほぼ30年前にスト2が一世を風靡したときが人気もピークで格ゲー人口が最も多かったからでそこから減少しているから
二つ目はその30年前にゲーム性は完成していて要は今でも30年前のゲームを今のグラで楽しんでいるにすぎない古いゲームだからだ
さて、私も将棋ウォーズ初段程度(道場では3段)なのだが、みなさんに将棋、それも見る将でなく指す将という趣味の素晴らしい所を語りたい。
老人になっても変わらずにできるゲーム。一度ルールを覚えれば誰でもできる。 子供とお爺さんが戦って、「どちらが勝つかわからない」勝負になるゲームってなかなかないと思う。囲碁将棋くらいでは?
あと一応性別関係なく、なのだが、女性が少ない界隈なので、「教え魔おじさん」とか女性蔑視、女性狙いのおっさんなんかも大きな道場にはたまにいるときく。その面で女性はいやな思いをする人がいるかも。
とはいえ昨今は「女性限定教室」とか本当にたくさんあるので、その面では(沼に落ちるまでは)心配しなくていいと思う。
2)ボケ防止によい。
滅茶苦茶に頭使うからね。だから手を読んでいるときは、脳内で滅茶苦茶濃密な時間をすごしている。ちょっとこの「濃密さ」は他では味わえないと思う。
秒読みの中妙手が浮かんだ時は、本当に脳汁がドバドバ出るのがわかるもん。
あと、将棋をちゃんとやってて痴ほう症になった人は、自分は知らない。(いないわけではないと思うが…)
将棋は対面ゲームなので、コミュニケーションのゲームである。なのでいきつけの将棋道場や将棋カフェいけば、自然と友人になる。ネット将棋しかやらない人も、今はSNSに将棋コミュニティが多いのでそのどれかに所属すればネット友人に自然になる。私もラインの将棋系OCに所属していて、そこでネット友人ができた。
ただし、当然ながら最低限のコミュニケーション能力は必要。将棋道場では、それをわきまえない「迷惑な頑迷老人」がたまに来て、迷惑や問題を起こすこともある。
ネットでは「無趣味で孤独なおじさんの末路」的な記事が定期的にバズるが、将棋を趣味にすればそんなのは無縁だろう。将棋道場に来るお爺さんやおじさんたちは本当に幸せそうだもの。
ただ、将棋を「本格的に」やろうとすると、実は敷居が若干高い。正直言って、低くはないと思う。
その理由も言いたい
初めのうちは適当に、弱いぴよ将棋相手とやるだけでも楽しいと思う。そのうち対人戦をしてみたくなるかもしれない。対人のゲーム(ウォーズとか)をすると気づくだろう。
「将棋、対人で勝つと滅茶苦茶うれしい…」と。そして将棋にはまったところで、もう一つのことにも気づく。
「将棋、負けると滅茶苦茶に悔しいじゃん…」。
将棋は、運の要素が皆無なので、要は「どちらの頭脳が上なのか」を測るゲームといっても過言ではない。勝った方が賢い、負けた方が馬鹿、を決めるゲームである。
負けたあなたはきっと悔しいだろう。この悔しい思いをしないために、強くなりたい。どうしたらいいのか…。
漫画「3月のライオン」で、島田八段の「将棋は正直だ。勉強した分しか強くならない」という台詞があるが、マジで強くなるには将棋の勉強するしかない。
詰め将棋をやるなり、手筋本を読むなり、戦法の本を読むなり、上級者の将棋動画を見たり、棋譜並べをしたり、指した将棋の振り返りをしたりと、そうしたものの積み上げでしか強くなれない。
たまにそこをすっとばしてソフト指しをやる奴がいるのだが、そういうのはネットゲームからBANされるので考慮しない。とにかく勉強するしかない。
なので、将棋は「できるだけ負けたくない」と思うならば、「その分勉強するしかない」競技だと言うことをわかってほしい。
だから将棋を「本格的に」やろうとするなら、どうしても「時間を食う」ことからは避けられないと思う。
ただ、将棋の勉強自体が苦痛、なのかというとそんなことはなく、自分が楽しめてやれることを楽しみながらやればいいと思う。
私はプロの将棋の棋譜並べが楽しいので、毎日やっている。あと、詰将棋もできるかぎり毎日やってる。
2)初心者が、ルールを覚えた次に何をすればいいのかわからない問題
多くの初心者が直面するだろう問題。今はネットで色々あるのだが、たくさんありすぎてよくわからない、という人。
とりあえず将棋のルールは覚えたけど… という人は、次に、将棋の「手筋」(小ワザのこと)を本やサイトで学んでほしい。個人的には、「手筋」を知ってるかどうかで将棋の面白さ(手の見え方)がグンと変わってくると思っている。
次に、1手詰めと、簡単な3手詰めを10問ほどやって、「将棋の終盤は、こうやって王を詰ませるのかー」ということを体感してほしい。
そこまでできたら実戦あるのみ! 「ぴよ将棋」というアプリ(ウェブからもできる)の、弱いレベルから順番に倒していこう。
間違ってもまったくの初心者が将棋ウォーズなどの対人戦から始めてはいけない。瞬殺されて、将棋の面白さがわからないままおわってしまうだろうから。
将棋界隈(ツイッターとか)で必ず上がる話題として、初心者や女性にマウントをとるおじさん客というのがある。
将棋は高齢者でもできる趣味なので、マナーの悪い老人(老人でなくてもマナーの悪い人はもちろんいるが、圧倒的に老人の方が多い)は一定の割合で、少数ながら存在するといってもいい。残念ながら。
将棋をやっていると、ネットだけでなくリアルで指したいと思うかもしれない。そして将棋はやはり、対人ゲームなのでリアルで指した方が楽しいと個人的には思っている。
ただ、初心者はいきなり将棋道場にいくのは敷居が高いだろうから、まずは初心者向けの将棋教室をさがして行くのがいいかもしれない。
都心部なら、若者向けの将棋サークルや、若者むけに将棋カフェというのもある。有名なところなら高田馬場の将棋カフェCOBINとか。
私は近所の将棋道場の常連なのだけど、4年ほど通って、マナーの悪い老人に当たって嫌な思いをしたことが2回だけある。まあ、2回だけなら少ないと思うけど。個人的には、マナーの悪い客は出禁にしてほしいが、なかなかね…。
これを読んで、元増田や皆さんに、ぜひ将棋を楽しんでもらいたいと願っている。見る将でもいいので、とりあえず将棋にふれてみてほしい。
そして、私はだいたい埼玉の春日部の将棋道場で指してるので、これを読んだ方と機会があればぜひ対局してみたい、と思っている。 おわり
I see that among men all things depend upon three wants and desires, of which the end is virtue, if they are rightly led by them, or the opposite if wrongly. Now these are eating and drinking, which begin at birth—every animal has a natural desire for them, and is violently excited, and rebels against him who says that he must not satisfy all his pleasures and appetites, and get rid of all the corresponding pains—and the third and greatest and sharpest want and desire breaks out last, and is the fire of sexual lust, which kindles in men every species of wantonness and madness.
私は、人間のあいだではすべてのことが三つの欲望に依拠していると見ています。それらは、正しく導かれれば徳であり、誤って導かれればその反対となります。まずは「食欲」と「飲欲」であり、これらは生まれたときから始まります。あらゆる動物が自然とその二つの欲望を備え、激しく興奮させられ、己の快楽や食欲を満たしてはいけないと言う者に逆らい、付随する苦痛からは逃れようとします。そして第三の、最も強く鋭い欲望が、最後に噴き出します。それは人々のあらゆる種類の淫気と狂気を燃え上がらせる「性欲」の炎です。
今のところこれが最古である。さすが西洋哲学の祖。「食」と「飲」が分かれているのが特徴。プラトンの著作は明治時代に翻訳されていて日本人にも知られていたと思われる。
欲界三欲
(一)飲食欲,即凡夫於種種美味之飲食,多生貪愛之心。(二)睡眠欲,即凡夫之心多暗塞,耽著於睡眠而不能勤修道業。(三)淫欲,即一切男女由互相之貪染,而起造諸種欲事。
欲界三欲
1. 飲食欲、すなわち凡夫はさまざまな美味の飲食において、多くは貪愛な心を生む。2. 睡眠欲、すなわち凡夫の心は暗く塞がり、惰眠に耽って修業に励むことができない。3. 淫欲、すなわちすべての男女は互いに貪欲に染まり、それがさまざまな欲事の原因となる。
『翻訳名義集』は中国・南宋時代に編纂された仏教系の書物。もちろん日本にも伝わっている。というかこの組み合わせが現在のスタンダードである。
いにしへの人三慾を忍ぶ事をいへり。三慾とは、飲食の欲、色の欲、睡の欲なり。
『養生訓』は江戸時代の大ベストセラー。貝原益軒は儒学者だが、この組み合わせは仏教の「三欲」と同じなので、「いにしへの人」というのは僧侶のことなのか。三欲を「抑えるべきもの」と捉えているのも仏教的である。「睡眠を減らすと健康になる」みたいなことも言っている。
『歌学提要』は幕末の歌人・香川景樹の理論をその弟子の内山真弓がまとめたものだという。
人間の根源の欲望を、食欲・性欲・表現欲に三大別して言うそのことは、江戸末期の巨匠香川景樹以来、歌界ではならいとなっている。
ということで「食欲」「性欲」「表現欲」を表しているらしい。
これはイギリス科学振興協会の当時の会長であったライアン・プレイフェアのスピーチが翻訳されたもののようだ。原文を当たると「かつての錬金術師は黄金・健康・不死のために賢者の石を研究していた」…みたいな内容だったらしい。
they hoped to attain the three sensuous conditions of human enjoyment -- gold, health, and immortality.
村上専精は僧侶だが仏教の「三欲」とは異なるのか。「生存欲」は戦時中の文章で「日本人は三大欲求の生存欲を抑えて国家に殉じるからすごい!」というふうに使われているのを見かけて面白かった。
人間の三大慾望たる衣食住
個人的に「衣食住」は欲望というより「基本的なもの」「必要なもの」というニュアンスで捉えていたのだが、井原西鶴の『世間胸算用』でも「分際相応に人間衣食住の三つの楽の外なし」と書かれているそうなので、あながち「欲望」的な捉え方でも間違いではないのか。似たようなパターンだと三大欲求を「福・禄・寿」に割り当てることもある。
美術評論家が三大欲求に「美欲」を入れるのは、歌人が「言語表現欲」を入れるのと似通っているか。
明治以降は経済発展もあってか「金銭欲(利欲・財欲)」や「名誉欲(出世欲)」を挙げることがかなり多い気がする。
もとはアメリカで1948年に刊行された小説だが、原文だと「three main pastimes」なので「三大娯楽」かな。
といった記述がある。
食欲、性欲、排泄欲の根源的意味に比べたら、人間の他の欲望である出世欲とか名誉欲とか権力欲とか支配欲とか金欲とか知識欲など、それこそ屁以下の価値しかない。
いわゆる「生理的欲求」のひとつとして食欲や睡眠欲と並べて語られる「排泄欲」だが、「三大欲求」として挙げられていることは少ない印象を受ける。ただ「性欲(射精欲)」を排泄欲の一種とみなすこともあるようだ。
本来、仲間と一緒にいたい、集団の中で自分の安定した位置を占めたいという欲求――集団欲は、食欲、性欲と並んで三大欲と言われる程のものである。
この「集団欲」を三大欲求とみなすのは戦後にかなり広まった感じがする。近年の書籍でも睡眠欲に代えて集団欲が挙がることがあるようだ。
貞潔・清貧・従順の修道三誓願は人間共通の三大欲求(肉欲・所有欲・支配欲)にかかわるものとして、生涯の一大試練と誘惑になりうる。
これはつまりカトリックの修道士が守る三誓願の対義語となるような欲望(貞潔↔肉欲 清貧↔所有欲 従順↔支配欲)を「三大欲求」と見なしているらしい。カトリックのあいだでポピュラーな解釈なのかは知らないが、三誓願そのものは3世紀末くらいまで遡るらしいので、当時からそうした発想があったとしたら面白い。
現在の一般的な認識。「金銭欲」「名誉欲」「集団欲」あたりを含めて「諸説あり」と言われていてもおかしくなかったと思うが、最終的にほとんど「食欲・睡眠欲・性欲」で固定されてしまったのは面白い現象である。
はてなで囲碁の話題が出ると一定数「将棋のほうがわかりやすい」というコメントがあるんだけど、囲碁将棋両方やってた自分にはその感覚が全く理解できなくて、そろそろそれが無視できなくなってきたので一回ぶちまけたい。
「将棋の方がわかりやすい」派の皆様におかれましては、もしも可能であれば、時間的・精神的リソースの許す範囲内で以下の論点に反論いただきたい。
囲碁の場合、黒の石が多くある場所は大方の場合、黒が優勢とみていい地点である。
基本的に陣取りゲームで、囲った場所が勝利点となるので、ルールを知らなくとも見た目にたいへんわかりやすいのではないか。
一方将棋について、「王様に迫っている方が攻めているんだなとすぐわかる」という意見を見たことがある。
これは残念ながら頷けない。中級者以上同士の競り合いであれば、中終盤は大抵、お互いがお互いの王を攻めている。特に将棋の上手い人は「手数を計算して相手の攻めより一手早く攻めを間に合わせる」みたいなのが基本なので、そういう叩き合いの状態になると今どちらが攻めているか、どちらが優勢かといった局面を読み切るのは経験がない人には難しい。名人戦とかの終盤の局面、理解できない人の方が多いのではないだろうか?
それに対して囲碁はタイトル戦であってもイラストのように局面を眺めることができ、何が起きているかはわからなくとも大まかな戦況は比較的わかりやすかったりする。
囲碁のルールは少ない。互いに石を置く。囲ったら取れる。囲った場所が陣地。細かいのを除けばだいたいこれだけだ。
こういうと将棋の方が互いに一手動かすだけでシンプルだと言う人もいる。
しかし、それは駒の動きが頭に入っていればの話だ。将棋には駒が八種類あり、さらに成駒もある。それら駒の動きと成りの総体、そして初期配置も含めたものが、将棋のルールとなる。
囲碁に駒は一種類しかない。石という一つのオブジェクトに全てのルールが込められている。これにより、将棋と比較してルール総体が極めてシンプルとなっている。
上に述べた「だいたいのルール」から逸脱する処理は、取られる石は置けない(着手禁止点)、千日手、コウ、セキ、それに敢えてコミ(先手ハンデの6.5点)を入れても5つくらいだろう。
対して将棋では、動けない駒の禁止、千日手、二歩、打ち歩詰め、入玉計算、ステイルメイトが挙げられる。まあステイルメイトはさすがに抜きにしても、例外処理の数としては同じになるし、中身も将棋のほうがいかにも例外処理チックという感じがする(個人的見解)。
囲碁にも将棋にも定石(定跡)というものがあるが、囲碁のそれは将棋に比べて覚えるべき数は少なく、手順も長くないものが多い。
対して将棋は、矢倉に相掛かりに角換わり、四間飛車三間飛車中飛車、それぞれの中でも速攻だの持久戦だの腰掛け銀だの藤井システムだの丸山ワクチンだの無数の定跡があり、自分が型を絞って戦ったとしても相手の振る舞いでそれぞれ違う定跡に分岐せねばならない。
手筋とかは、囲碁にしろ将棋にしろちゃんと覚えないといけないが、こと序盤においてはそういう意味で囲碁のほうが遥かに覚えることは少なく、シンプルであると思う。
将棋のほうがわかりやすいとする意見を読んで思うのは、将棋のほうは駒の動きや全体の流れなどある程度知っている人間、囲碁のほうはルールや全体の流れも含めて全く知らない人間を前提に、意見を組み立てているのではないか?ということ。
自分は囲碁も将棋も全く知らなかった小学生の頃、初めてその二つにセットで出会って、将棋の方は駒の動きが覚えられず苦手だったが囲碁はすんなり入っていけた。