はてなキーワード: 池袋とは
もう諦めてこのまま投げるよ。
いじめの原因について、みんな小石を投げることをやめるだけでかなりが解決すると思うんだよ。
小石っていうのは、一つあたった程度なら対して傷つかないけど、それが何十個何百個ってなれば人の命を奪うことになりかねない。
それに、いざ助けを求めようとした時、見渡す限りの全員から小石を投げられてたら絶望しかないだろ。
ブコメ見てても、小石を投げるやついるじゃん。
それが一人や二人だったらいいけど、たまにほぼ全員で投げてて、例えコメントしてなくてもそんなコメントに星が沢山ついてて地獄だなって思うときがあるんだよ。
確かにその記事や内容には間違ったことが書いてあるかもしれない。ひどいことをした人間が書かれているかもしれない。
でもさ、それが正しいか間違っているかをコメントすることは自由でも、それを理由に人を攻撃するようなことは書く必要がないんじゃないかなって思うんだよね。
池袋の踏み間違え事故も、原因を探って解決を話し合うこと、間違った行動を批判することはよいと思う。
でも、あの人そのものを否定して、攻撃するのは違うって思うんだよね。
それは司法がやってくれることで、今の司法が裁けなければ司法を変えなくちゃいけなくて、誰一人として人を裁く権利はもってないはずなんだよ。
これって差別も一緒で、ある特定の人種が何か問題を起こす傾向にあったとして、その傾向の是非について話し合うことは自由だけど、それを根拠に人種を否定することは間違ってると思うんだ。
おれ、在日だけど、在日がやってきたことは賛否あって当たり前だと思う。
でも、だからって在日死ねとか殺すとかって言われたら不安しかないよ。
いつ誰に殺されてもおかしくないってなったら、日常に平和なんてないし、殺されないように武装することだって仕方がないことだと思うし。
意見を否定することは自由。間違っているかもしれない意見を否定できなくなったら誰も救われない。
でも、人や団体の存在を否定することは許されるべきではないよ。
いじめた人間の行動を批判するのはいいけど、いじめた人間の存在を否定しはじめたらそれはもういじめと同じだろ。
しかも相手の反撃が届かないような安全な場所から、相手に反撃が許されないような小さな存在否定を積み重ねるなんて、陰湿以外の何物でもないよ。
そういう小石を投げるようなことはみんなでもうやめよう。
小石程度だからって罪の意識がないかもしれないけど、そんなものが四方八方から何個も何個も何時間も何日も飛んできたら、それは簡単に人を殺すよ。
一個の小石では大したことないかもしれないけど、今まで自分が投げた小石を思い出して見て、もしそれが一斉に自分に飛んできたらどう思う?
自分の場合は、相手の否定そのものが恐怖で意見すら否定できなかった。
その結果、間違った道に進んでいった人間を沢山見てきてしまったし、逆の意味で人を不幸にしてきたかもしれないと思ってる。
どちらかだけじゃダメなんだ。
相手が間違っていると思ったらはっきりと間違っていると言う。
間違いのたびに存在が否定されてしまったら、成長より先に滅びてしまうのだから。
小石を投げる人間を見たら、小石を投げることは間違っていると皆が教えあえる世界になってほしい。
もちろん、小石を投げる人間に小石を投げるのではなくて。
同じようなことで悩んでいる一人でも多くの誰かに届いてほしい。
今回も端から「公的空間」だとか「性的消費」だとか決め付けている人がいるが、ちょっと待って欲しい。
それを理解していない相手のことを思考停止だフェミだオタクだお気持ちだとレッテルを貼るので、
不幸である。
「指定公共機関」でもある「民間企業」の赤十字社で使われたポスターが「性的」で
まず、日本では性的だとされている「女性の乳首」だって、世界各国地域ごとに考えが違うのだ。
異性愛者や同性愛者、無性愛者や動物性愛者(冗談じゃないよ)も存在し、
それぞれに趣味嗜好や価値観もちがうなかで、実は「性的基準」を設けるということが難しいのはわかると思う。
さらにその中で、ポスターなどの表現された「結果だけ」を問題視する人もいれば
このように、「一般に見せても許される性的の範囲」と「許されない性的の範囲」が人によってかなり違う、という前提の確認が必要だ。
そんなものに議論の余地はない、という態度の人は多様性を理解する気がないのだから、
そもそも話に加わるべきではない。
これも「官製」なのか「一般に開放された空間」なのかでも意味が変わるので難しい。
「災害対策基本法により規定されるカテゴリで、災害時に官民が一体となった取組の強化を図るためのカテゴリ」らしい。
この前までエッチな漫画を売っていた「あのコンビニ」も含まれているのだ。
イオン内にだって書店はあるし、当然「宇崎ちゃん」も売っているだろうし、なんならポスターも貼ってあるかもしれない。
献血ルームはお菓子や食品を提供していたり、カフェ風だったり、漫画を置いていたり、内装や形態もかなり自由だ。
清潔感は重要だろうが、アットホームであること、気軽に利用できる気安さを重視する利用者もいる。
狭義では、「青少年保護育成条例」(条例なので、都道府県ごとに呼び名も内容も違う)に基づく区分陳列をさす。
エロの話題になるとすぐ「暖簾の向こうに置け」などという人がいるが、
もちろん、自治体によっては区分の方法が違うので、暖簾の向こうに置かなくてもいい県もある。
広義では、まあ「棚を分ける」とか「売り場を離す」とかそういうことか。
今回の場合は当然後者の話だが、なかには前者の前提でポスターを撤去しろと主張する人もいて驚いた。
今回の件はだめだけど、「コミケでの配布ポスターとしてならあり」「秋葉原や池袋の献血ルームで貼るならあり」という人もいた。
こういった切り分けをして一々考える必要があるのだ。
以上のように、ネットの議論では「当然共通認識があると思っていた言葉」が、
実はそうじゃないことも多いのである。
そういう時は要素を分け、ひとつひとつ自分のスタンスを確認してみるのが確実だ。
さらに「これがいい/だめなら他の表現はどうなるか」という他の具体例まで考えを広げてみれば、また新たな発見があるかもしれない。
https://anond.hatelabo.jp/20191009223759
10/14(祝)は午後池袋で雨の中6時間ぶっ続けの演説会。応援弁士を多数呼んでいた。
立花→素人数人→加陽まりの→渡辺喜美→久保田学(横山緑)→みずにゃん→野田草履→?→グレートサスケの順(動画より。現地ではもっといたのかも)。
* 加陽さんは政治演説っぽい応援でその場の空気が締まってよかった。デレデレ立花からのギャップがw
* 渡辺節はザ・選挙応援という感じ。わかりやすいキャッチフレーズと政策の説明のミックス。さらに立花解説も入ってわかりやすく
* みずにゃん→アンチだったのにN国支持を表明
* 野田→一番笑いが取れていた
友人に誘われて柄にもなく、六本木へ行った。
六本木はハイソな感じがして居心地が悪い。池袋とか上野とかそっちのほうが落ち着く。
普段街を歩いていても、気にもかけなかった。豪勢なタワーマンション、颯爽と駆け抜ける高級外車など友人は狂った世界を値踏みして値段を教えてくれた。
これからの人生、なにがあっても綺麗で快適なタワーマンションに住むこともないし、高速で追い越し車線を走り続けそうな車を買うこともない、という事実が突き付けられ胸を打った。
そういうモノを持つ人は、どこか別の世界に住む人。僕は自分の世界を生きるのだと思っていたが、少しばかり心が重くなった。
悲しいような、そうでもないような。同年代の人たちが、ぼくにはできないすごいことを成し遂げ、一目置かれて行く。
そんな光景を目にするたびに、頭を振って「他人が何をするかはメインテーマじゃない。ぼくは何をしたいのか?」にフォーカスしようとしてきた。
でもね、悲しいのさ。年を取ると自分の限界がわかるってこういうことか。
ずっと、怖かった。自分自身の発想の貧弱さに嫌気がさしている。これから生み出すアイデアは、自分さえも熱中させられない愚かなものしかないんじゃないかって。
駆け抜けているときはね、怖くないんだよ。前しか見えないから。ときどき止まったときが危ないんだ。いろいろ見てしまうから。
僕にはそれができるだろうか。
今日Container Runtime Meetupという勉強会に参加させていただいたのだが、KubernetesにContainerに詳しい第一人者による神々の集いに目がくらみそうになった。
ここにいる人たちを除いたら、日本でどなたがContainerに詳しいといえるのかわからない感じの人たちが一堂に揃っている。技術書典で池袋ジュンク堂でGitHubのissueで名前を見たことがある人たちがいる。
Organizerにいらしゃったので来るかもしれないと期待していたgVisorの中の人たちがいないのが寂しいくらい。
そんな人たちによる登壇者の話がrunc runのから始まったのはまだいい。予告があったり、自分は途中でinit処理にわけわからなくなった下地があったので。少なくともその後について腑に落ちたのだ。
だが、そこからいきなりnsexec.cに行ったのは突き放された感じがしてひたすらうなづくしかなかった。
Kushwahaさん。goのimportで定義されることにより本文が呼ばれる前にプリ実行されるCライブラリで名前空間を作成している、そのライブラリの処理の解説が行われた。
https://github.com/opencontainers/runc/blob/master/libcontainer/nsenter/nsexec.c
もうここで、unshare?unshare what?という気持ちになって、あー空のnamespaceを作成できるコマンドかと腑に落ちる暇もなくSudaさん。
ライブラリの実装と呼び出し方法について実際に処理を書いた人が、直直にケースごとのnamespace()の使い方の解説をするのだ。
こんなの後にも先にも一生聞けないだろう。聞き逃すまいと望んだが、MountNSの話は正直セキュリティ懸念があるのね、だから実装=サポートも積極的にされてないということしかわからなかった。
ファイル、ディレクトリ一つ一つのアクセス権限の付与をプロセスIDごと振り返る必要があって、それを高速にできるfsがsysfsという認識であってるのだろうか...自分でも何を言っているのかメモを見返しても呪文にしか読めない。
その後もsd_notifyをruncから呼んでいることに端を発したコンテナ起動待ち処理をどう実装するかという議論やら、某ベンダーさんによるruncをガチ運用している環境下でftraceを使ったデバッグの実演やらもうこの夜ここでしか聞けないような話ばかりで。
祭りが終わった後、ほとんどの人が帰らずに、会場となった台所みたいな食卓を囲んでフリートークを交わしていた。
Cloud Controller Managerを自社内向けに実装する話の相談をしていたり、先ほどの登壇者が同じPCの画面を前に肩を並べてruncのソースコードリーディングを始めたり好き勝手にしてる。
それは正直自分みたいに浅い知識を持った人には、RHTechExchangeで聞いた英語の雑談よりも遥かに遠い世界だった。
最近は高齢者は運動機能低下で危ないから運転すんなって空気じゃん?
俺の72歳の親父が年金だけじゃ暮らせないからタクシー運転手してるんだけどさ、まじ他人事じゃないんだよね。
親父以外にも高齢タクシー運転手おおいって話だけど、身内にいる実感として、タクシーって立ち仕事じゃない上にある程度は自分のペースで車内で休憩できるから、むしろ体力落ちた高齢者がそこそこ稼げる数少ない仕事なのよ。
だってよほどのスキルやコネないかぎり、高齢者になってもできる仕事ってコンビニや飲食店のパートとか、介護とか(60代の高齢者が80代の高齢者の介護とかディストピア)、アマゾン倉庫とか、体力仕事&立ち仕事でしんどいのばっかじゃん?
あの池袋の事件の後に何度か運転は控えて違う仕事をできないかって話題になったけど、やっぱ長時間立ち仕事がなくてそこそこ稼げる仕事がタクシー以外にないんだよなぁ。
ツイッターには才能溢れるオタクが溢れているなぁと思う、才能といっても私が言いたいのは、クオリティの高い絵や音楽などの創作物を作り上げる才能のことではなく、“オタクとしての人生を歩む”才能のことだ。
今から5年前、バイト禁止で、宿題がたくさん出る私立高校に通っていた私。当然、勉強は忙しいし、バイトもできないからお金もない、そんな私の日々の唯一の楽しみは、本屋さんで売ってる商業BL本をお小遣いで買って家でこっそり読んだり、録画してる深夜アニメを観ることやニコニコ動画でボーカロイドの楽曲を聴くことだった。
ちょうどその頃に、ツイッターとpixivを始めた私、これらのコンテンツで興味本位で同じ趣味を持つ人を探すと、そこには、同じキャラのグッズをめちゃくちゃたくさん集めて痛バッグを作ってたり、円盤を全巻3枚ずつ買って周りのオタクに布教してたり、自身で2次創作の同人誌を作って友達の輪を広げたり、推しの妄想や推しへの想いを毎日大量に呟いてたり、そんなオタクのお姉さんたちが大量にいて、「大人のオタクってすごいな」「私も大人になったら、こんな風に全財産つぎ込むくらい本気でオタクをするんだ…!」と思ったものである。
そんなこんなでオタクデビューした私は、高校1〜2年生の間は、勉強の合間に、アニメやpixivを見て、ボカロ曲を聴いて、クラスのオタク友達とそれについて語り合って、親に内緒でこっそり刀○乱舞に課金して、デッサン人形を買って夜中に一人でイラストの練習をしたりしていた。
たまに親から交遊費をもらって池袋に友達と同人誌を買いにいったり、早朝のりんかい線に乗ってはじめて即売会に行ったりとそれなりに楽しくオタクライフを過ごしていたと思う。
しかし同時に、「オタク活動にたくさんのお金や時間などのリソースを払える人=作品への愛や想いが深い人」という考えをしていた当時の私は、自分のオタク活動に物足りなさも感じており、「お金かけられないから、私は真のオタクにはまだまだ遠いな、そんなにこの作品のこと好きじゃないな」と変なことを考えてしまってもいた。よくよく考えれば、本当に好きなら、グッズや円盤が買えないくらいで作品への愛が変わる時点でおかしいのだが。
このときには、深夜アニメにもBLにもボカロにも飽きかけていた私、オタクであることをアイデンティティだと感じていた私は、次にハマれるものを必死に探していた。
そんな時、私はとある2.5次元ものの作品を見つける、作品名はぼかすため詳細は省くが、ソシャゲや3次元のキャストの公演、アニメなど多くのコンテンツを展開していたプロジェクトで、これから2.5次元系が流行ると言われている時期に合わせてデビューしたジャンルだった。私はこの作品に目をつけ、「よし、私は大学生になったらこの作品のオタクになってバイト代で円盤を買ったり、イベントに行ったりするんだ!」と意気込んだ。
大学生になり、月に5万ほどバイト代を稼げるようになった私は、サークルの友人との付き合い以外のお金はほとんど“オタク活動代”に回した。
円盤を買い、ソシャゲに課金をし、イベントに参加し、グッズを買った。
これで、私も真のオタクになれたと思った、でも、結局私は作品を愛しきれなかった。
買った円盤は一回観てそのあとはずっと引き出しにしまいっぱなしで特に見返したいとかは思わなかった。
ソシャゲの課金はなんだか、悪いことをしてるみたいな気持ちになって、1回1万円課金したら、もうするのはやめた。
イベントは楽しかったが、感極まって大泣きしてる友人ほど感動はしなかった。
グッズは買って後日、家で開けながら、「なんでわざわざたんなるキーホルダーを1000円で買ったんだろう」と冷静になった。
それと同時に、私は別のものに興味の対象が写っていることを感じた、服やコスメ、海外ドラマ、洋楽だ。これらのものは自分がたとえ実物を買えずに店頭で見てるだけだったり、円盤をTSUTAYAで借りてきて観たり聴いてるだけだったりとそんなにお金をかけてはいなかったが、そんなことは関係なく心の底から好きだと感じられた。
そうこうしているうちに、私がオタクをしていた作品のプロジェクト終了が発表された。飽和化した2.5次元ジャンルの中で、パッとしない存在だったその作品は多様な展開をしていたにも関わらず、いともあっさり全てのコンテンツが終了した。
そして今、コンテンツ終了に伴いオタクをやめた私は、少し高めの美容院で髪を切ってもらったり、ファッションビルに入ってるセレクトショップで奮発してちょっといい服を買ったり、友達とランチに2000円使って美味しい小籠包をたべたり、Spotifyで流行りの洋楽を聞いたり、Huluで海外ドラマを見たりしながら毎日を過ごしている。
大学では知り合いから「垢抜けたよね」と言われることが多くなり、SpotifyやHuluに登録したことで国を超えて多くの良質な芸術作品を楽しむことができるようにもなった。アニメ以外にもこんなに面白い映像作品がたくさんあるんだと感動した。好きなものに必要以上のお金をかけなくても、何も気にせずに、好きなものを楽しめるようになり、心は満ち満ちている。
今、改めて自分の志向について考えてみると、私は単純にシナリオが面白いものが好きだし、あんまりキャラクターに思い入れを持たないタイプで、そもそもオタク向きの性格ではなかったのかもしれない。
しかし、一つのジャンルを全身全霊で好きになってる“才能のあるオタク”をみると、話題作のドラマや流行りの服をなんとなく見たり買ったりとあっさりとした消費を続けている私は、時々彼らが羨ましくもなるのだ。