はてなキーワード: 手作りとは
何も思い出せん やばない??
今日は、手作りのご飯だけ持ってきてくれた人がいて、事前に電話があったのだけど、そのためだけに来るの??と疑問に思っていたら、
その人自体は一階てはなく地下のお店(別店)にいたらしく、帰り道にバッタリ
んで、私、帰り道に「煮卵と角煮おいしかったです!」(食べてない)って言ったけど、退勤してライン返そうと思ったタイミングで電話で「チャーシュー」と言っていた可能性が浮上してきて笑ってる
まぁまぁ最低ムーヴしたけど、今日はあんまり外に出ず、飲ませていただき、いい日でした
家に帰ったら、おかずになりそうなちょっとの挽肉炒めも「明日のお弁当!」と言われ、お腹が空いたので食パン食べました
あとめちゃくちゃ眠い
夕食を作るのは主に私が担当してるが、仕事のあとに料理をするのがつらくてたまらない。
時間がたっぷりある休日なら作る気になるけど、平日は全然だめ。しんどすぎて、テレワークになってからは食材宅配サービスを利用するようになった。でも宅配で来る分だけだと品数が少なすぎるので、プラス冷凍食品で補っている。
それでも作れるのは定時で終われる日だけで、残業の日は宅配サービスで来た分すら作れない。二人とも忙しい時は、一ヶ月くらいコンビニか外食が続いたことがある。
私の母は専業主婦だった。そして私が子どもの頃食べていた料理は、いつも豪華でおいしかった。
少なくともご飯とお味噌汁、メインディッシュ、サラダに加えてもう一品は、必ず食卓に並んだ。体調が悪い時以外はいつも手作りで、冷凍食品も惣菜もほぼ出たことがない。
私は母の料理が大好きで、毎日ご飯の時間が楽しみでたまらなかった。
実家に帰って母の料理を食べるたびに、私たち夫婦の間に生まれる子どもが可哀想になる。
小さい時には時短勤務でまだ余裕があるだろうけど、小学校に上がれば残業は避けられなくなるだろう。
何日もコンビニやファミレスのご飯を食べさせることになるんだろうか。
でも、私は専業主婦の母がいつも家にいてくれて、おいしいご飯を作ってくれて、とても嬉しかったなあ。
決して裕福ではなかったけど、幸せだったなとしみじみ思う。
豊かで安定した生活のためだけに働き続けようと思ってたけど、最近主婦になる選択肢が頭をよぎる。
【追記】
しばらく増田見てなかったから、コメントたくさんついてて驚いた。
仕事辞めない方がいいことも、自分の幸せ=子どもの幸せじゃないことも理解してる。
改めて考えてみたけど、結局私は自分の幸せのために主婦になりたいって思ったのかも。
小さい頃から母に憧れていて、自分も将来結婚したら母みたいになると思ってたから、たいして好きでもない仕事に夢を奪われたような気分になってた。
できるだけ定時で業務終了できるよう調整しながら、豊かな食生活にできるようがんばってみる。色々とおすすめの方法教えてくれてありがとう。
ほどほどに陽当たりの良い台所で、小さな鉢の観葉植物を二つ育てている。
どちらも元々は実家にあり、伸びすぎた茎を切って分けてもらったものだ。自宅に持ち帰って水を入れた瓶に挿しておき、根が生えるのを待ってから鉢に植え替えた。
二つのうち、一つはブライダルベールで、札幌に住む祖母が、家で育てていたものを同じように切り分けて持って来たという。祖母は認知症になり、今は施設で暮らしている。もう何年も会っていない。
もう一つはポトスで、いつからあったのかはわからないが、物心ついた時から実家の景色の一部だった。
植え替えた鉢を、初めは自宅のリビング(と言うほどでもないが)に置いていたのだが、陽当たりが良すぎたせいか、見る見るうちに葉が変色してしまった。ほぼ枯れかけの状態だったが、よく見るといくつか新しい芽が出ていた。まだチャンスはあると思い、まずは鉢の場所を移し、元気のない葉を切り落とし、土の状態をこまめに確認するようにした。場所を移してから半年程経って、ようやく様子が安定してきた。今では植物を育てることに対して楽しさのようなものも感じている。
ただ、どうしても花を育る勇気は出ない。また枯らすんじゃないかという不安があるのももちろんだが、多分それだけではない。小学生の頃、クラスの友達のお誕生日会に行った日のことを思い出すからだ。
*
小学校1年生。お誕生日会というものに初めてお呼ばれした。まだ友達になってから1年も経っていない自分を呼んでくれるのがとても嬉しかった。
ところで、お誕生日会って何をするんだろう。自分の他にも、数名の友達が呼ばれているということだけは知っていた。みんなで誕生日の歌を歌ったりするのかな?学校じゃないからそんなわけないか。ごちそうやケーキを食べたりとか?
ドキドキしながら当日を迎えた。友達の家は少し遠いところにあったので、母が送ってくれることになった。
家を出る直前に母が言った。
えっ。と思った。だって、花束とか、持たないじゃん、普通。わたし、花束もらっても別に嬉しくないし。友達も花なんかもらって嬉しいのかな?嬉しくなかったら嫌だなあ。恥ずかしい。
しかし母はすっかりその気だったので、嫌だとはとても言い出せず、結局花屋に行くことになった。
近所の小さな花屋は、当時から既に古い佇まいだった。今でこそレトロな雰囲気は持てはやされるが、当時は何だか暗くて、できることなら行きたくないと思っていた。
店先の、あまり多くはない選択肢の中からいくつかが選ばれ、花束が作られた。
花束には白くて小さな花がたくさんあった。手に持つと、その小さな花が顔に当たってくすぐったかった。
友達の家に着いた。花束は目立つから、必然的にすぐに渡すことになった。
「わあ!」と、友達のお母さんが喜んだ。
よかった。変じゃなかったんだ。
しかしわたしは見逃していなかった。友達が笑いながらも、少し困った顔をしていたのを。
やっぱりそうだよね。花なんかもらっても困るよね。わたしも知ってるよ。でもお母さんが買うって言うから。
お誕生日会は、みんなでお菓子を食べたりゲームをしたりで、普段遊ぶのとあまり変わらないなと思った。
それはケーキを食べた後だったと思う。他にお呼ばれした友達が、主役の友達に誕生日プレゼントを渡す時間があった。
えっ。と思った。
何でみんな、プレゼントを用意してるの?何でわたしだけ、プレゼントを用意するって知らなかったの?
他の友達があげていたプレゼントは、かわいい文房具とか、エプロンとか、とにかくもらったら嬉しいだろうなと思うものばかりだった。そんなプレゼントを選べる友達が大人に見えたし、なぜそんなに高そうなものが買えるのかわからなかった。
わたしは(お母さんが買った)花束をあげたからセーフ?でも、友達、喜んでなかったし。
夕方になり、その日はお開きになった。少しホッとしながら帰り支度をしていると、そこでまた、えっ。という出来事があった。主役の友達のお母さんが、「今日はみんな来てくれてありがとう」と、全員にお礼の品をくれたのだ。しかも結構大きな袋だった。
家に帰って袋を開けてみた。かわいい文房具や雑貨の詰め合わせだった。花束を渡したとはいえ、自分で何も選んでいないのに、お返しだけもらってしまった。罪悪感で胸がいっぱいになった。
その後も、他の友達のお誕生日会に呼ばれることが何度かあった。その度に母は花束を買ったが、わたしも自分でプレゼントを用意した。だがそれは、他のみんなが用意しているような文房具や雑貨ではなく、手作りの工作のようなものだった。「他のみんなはこういうプレゼントを渡しているんだよ」とは、母には言えなかった。「みんなと違う」と打ち明けるのが何となく嫌だったから。
そして、お誕生日会の最後には必ずお返しをもらった。お返しの品は、決まって文房具や雑貨の詰め合わせだった。
*
わたしが住んでいたのは、市が合併する前の、学区の外れだった。家の目の前は違う市だったし、2年通った幼稚園も違う市にあった。一学年20人もいない、教会附属の小さな幼稚園だった。
卒園すると、学年の半分くらいは違う市の小学校に入学し、残りはバラバラになった。一人だけ同じ小学校に入学した子がいたが、クラスは別になった。
入学した小学校は、目の前に幼稚園があり、クラスの半数以上がその幼稚園出身ということだった。当たり前だが彼らは元から友達同士で、持っているものもみんな同じだった。みんなキャラもので、両面開きの筆箱を使っていた。わたしは「いろいろ機能が付いていると気が散って良くないと聞いた」という理由で、地味な片面開きの筆箱だった。みんなはビニールのケースに入ったクーピーを持っていた。わたしのクーピーは缶のケースだった。缶は開けるときに大きな音がするし、ビニールに比べると古臭いから恥ずかしかった。みんなのクーピーには「はだいろ」があるのに、わたしのクーピーにはなかった。悔しいから、クーピーを赤から順に虹色に並べて気を紛らわせた。
3年生に上がると、お小遣いを貰えるようになった。わたしは今までの恥ずかしさを精算するように、両面開きの筆箱を買ったし、はだいろのクーピーも買った。はだいろは虹色の列の中では座りが悪く、端っこが指定席になった。
そして、友達のお誕生日会で渡すプレゼントも自分で買うようになった。
*
みんなが同じものを持っていたのは、幼稚園に向けて一斉販売があったからだと思う。筆箱も、親同士で情報交換をした結果、同じようなものになったのだろう。
そして、「お誕生日会」も、そのコミュニティの中で出来上がった文化なのかもしれない。誕生日の子が、仲の良い友達を5~10人、家に呼ぶ。みんなでゲームなどをして遊ぶ。お菓子やケーキを食べる。呼ばれた子たちが、主役の子にプレゼントを渡す。主役のお母さんが、帰りがけにお礼の品を渡す。そういったフォーマットが存在していて、みんなそれに則ってイベントをこなしていく。思えば、お誕生日会の主催者はみんなその幼稚園の出身だった。親もその文化を知っているから、子どもと一緒にプレゼントを買いに行くのだろう。だから子どもだけでは買えないようなプレゼントが出てくるのだ。
小学校での日々はそれなりに楽しかったけれど、既に出来上がった輪の中にお邪魔しているような気もして、何となく疎外感のようなものがあった。自分の行動がずれていないか、みんなはどうしているのか、仲間外れにされないかといつも気がかりだった。
*
花束の中にあった白い花は何だったのだろうと思ってネットで調べたら、どうやらカスミソウのようだった。「ちょっと昭和の印象もあったりして、オシャレなお花屋さんでは置いていないこともありますが…」という紹介文に思わず苦笑いした。あの花屋はまだやっているのだろうか。おそらくもうやっていないだろうな。
そんなことをいちいち思い出すので、未だに花は買えないでいる。
家から徒歩10分くらいのところに通ったんだけど、すげーめんどくさくて全然行かず、結局期限ギリギリ5日前とかに卒業した
最初?2回目?の技能教習でいきなりバツがついた あまりに物覚えが悪かったから
タダでいろいろ飲み食いできる謎の制度があって、フードもドリンクも概ね大したことなかったんだが、教習所オリジナルのミックスジュースだけは美味しかった
ミキサーで手作りしているようで、ホントに美味かった そればっか飲んでた
俺は運転がかなりヒドい自覚があり、とうてい検定なんて受けらんねえよ!と思いながら臨んだのでかなり緊張していた
しかし、そんな俺を救ってくれたのが同じ車で検定を受けた同世代の女の子
先に検定を受けた彼女、発信・停止のたび身体がガックンガックン揺すぶられる驚異的なブレーキ・テクニックの持ち主で、「コレがアリなら俺も大丈夫やんけ!」という深い安堵を得た
検定後、発表までの待ち時間に少し話した 緊張しましたね、なんて談笑しつつ、よっぽど「あなたのおかげで緊張が解けて本当にありがたかった」なんて言おうかと思ったが、さすがに失礼すぎるのでやめた
でも、バカにしてるとかじゃなく本当に感謝してるんだよな たぶん順番が逆だったら立場も逆だったろう
第一段階を突破した安堵で俺は教習所をサボりまくり、1ヶ月?2ヶ月?くらい車に乗らないという暴挙をやった
さすがに超ブランクあるし、多少は慣らし運転させてくれるだろう、と思っていたが、教官はいきなり外に向かった 夜だった
そしてハンドルを渡された はじめての公道を長いブランクとともに、夜!恐ろしや
正直あまりの恐ろしさに我を失っていて、全然記憶がない 意外となんとかなったような覚えはあり、おそらく人間は窮地で本当の力を発揮する
唐○貴洋さんみたいな、卵顔でいかにも温和な感じの教官と一緒に公道を走っていた 若く紳士的な教官にはかなり好感がもてた
そんな中、かなり無理な割り込みをしてきた車が一台 すかさず教官が横からハンドルを取り、事なきを得た
今のはあぶなかったっすね、というと、「いるんですよああいう輩が、ホントに許せない……」と、これ俺がいなかったらもっと汚い言葉が出てるんだろうなと容易に想像がつく調子で教官は言った
その後もしばらく思い出し罵倒みたいなのをやっていて、人間感情に触れた思いだった
例によって俺はもうダメだ!と思っていたが、検定1のときと同じようなミラクルが起きた
同じ回の検定を受けていた同世代の男が、ザコだったのだ
MTっていうからすげえ遣い手なんだろうなと思っていたのだが、開始5分もしないうちに追い越し禁止のところでスクーターを追い抜かそうとしてブレーキを踏まれていた
「一度でも教官にブレーキを踏まれたらアウト」…おそらく、開始前に聞いたこの言葉を車内の全員が思い出していた 彼は青ざめ、教官の「最後まで行きましょう」という言葉への返事も虚ろだった
俺は彼を見て「こんなモンでいいなら俺もいけるやんけ!」と思い、危なげなくこなした
おい!ブレーキ踏まれてたヤツいるやんけ!ええんか!と思いつつ、まあええのだろうと思い、解放感を覚えながら教習所をあとにしたのだった
危ない。本人もだけど下の子供が飲み込んで窒息してしまうかもしれないと気を使う。
今日も赤ちゃんが飲み込んだら大変だから庭でまきなさいと言っているのに全然人の話聞かねーでさっそく袋からザラザラ出して手作りの升(牛乳パックの底)に注ぎ始めた。
するとその様子を見ていた赤ちゃんが「待ってました」と言わんばかりにバッと横から手を出してあっという間に升をひっくり返し部屋中に豆を散乱させる。「あー!赤ちゃんが豆出しちゃった!」じゃないよ!そりゃそうなるわと私がそこらの豆を拾い集めてるうちに今度は上の子供らが「鬼は外!福はうち!」と言いながらぽいぽい豆を投げまくる。そして赤ちゃんがそれを拾って口に入れようとする…。このへんでもう面倒になったので投げられたはしから赤ちゃんより早くどんどん食っちゃうことにした。
豆が床に落ちた瞬間サッと拾ってパクっと食う。すると子供が鳩の餌やりみたいに私の前に撒きまくる。お母さんは鳩じゃねえのよ。
単調なビートというか、反復を繰り返しながらメインのメロディだけをどんどん発展させるアプローチはそれこそジェームスブラウンだかの時代のファンクソウルからポップスに定着してる。
誰でも知ってるマイケルジャクソンの「スリラー」や「スムースクリミナル」もトラックだけ見れば1つのリフレインだけで出来てるし、それ自体は目新しいことでもない。日本でもオザケンの「ラブリー」等、局所的にそういうものがヒットすることはあった。
ただRandBやヒップホップといったブラックミュージックの色合いが強いこのスタイルが、アリアナグランデやジャスティンビーバーといった白人中流層に支持されるポップスターや、J-popのYOASOBIや瑛人のヒット曲に取り入れられたというのは時代の潮目なんだと思う。
https://www.youtube.com/watch?v=tcYodQoapMg
https://www.youtube.com/watch?v=8EJ3zbKTWQ8
ビートが一本調子というのはNiziUやモーニング娘。の新しい曲でも見られる特徴なのでより一層こういうものが主流になっていくのかもしれない。
(反復っていうのはテクノもそうだけど、テクノはミニマルすぎてポップスに転用できる音楽ではない。電気グルーヴにしてもChemical Brothersにしても歌もの要素が大きくなるにつれテクノ本来とはやや趣が変わっていった。)
https://www.youtube.com/watch?v=a6QT0acJFQE
https://www.youtube.com/watch?v=Ty0dkunCvNw
宇野さんが崇拝に近い持ちあげ方してる宇多田ヒカルもかつてからループさせることへの意識が高かった。
First Love時こそ「稀代の歌姫」として売り出そうというレーベルの意向もあってか、ディアンジェロ風の粘っこいドラム等といった当時のトレンドを表面的になぞっただけで、アレンジ面では当時のJ-popとそこまで違いはなかった。しかし「Distance」以降はRandBからの影響が強い宇多田ヒカル本人の意向が反映されだしたのかどんどんアレンジがミニマリスティックになっていった。
注意深く聴けば20年前の「Addicted to you」や「Can you keep a secret?」のころからすでに16ビートをキープしながらコード進行は8小節ほどで完結してしまっていることがわかる。
(このころはジャム&ルイスの手腕によるところも大きいのだろうが)
さらに言えばセルフプロデュースに切り替わってからロンドンに拠点を移すまでの2005~2015年あたりの宇多田ヒカルはいかにも宅録、DTM然とした手作り感あふるる音を時折鳴らしていなかっただろうか。
マスタリング等のポスプロによってある程度計算ずくで仕上げられたものにしても、Keep tryin’のパッドシンセはあの曲にしては音が厚すぎてややアンバランスだし、Kiss & Cryのホーンはモジュレーションであることを隠そうともしていない。しかしながらそんなことは取るに足らないことだった。
あのころはまだDTMそのものが新しくて費用が掛かる手段だったこともあって、宇多田ヒカルの孤高なイメージをより強固なものにしたし、なにより彼女が自宅にこもって自分の感覚だけで作ったものが、ダイレクトに自分のコンポやミニプレイヤーに届いてきたようなあの距離感がファンにとっては痛快だったんじゃないか。
「Ultra Blue」や「Heart station」時特有の浮遊感のあるきついリバーブや密室感のあるピアノの音像は、宇多田ヒカルの心象世界を垣間見ているようだったし、私生活でのラフな顔を晒してくれている様でもあって一つの魅力になっていた。
DTMはこの20年でどんどんハードルが下がっていったし、ネット上での音楽のコミュニティも成熟してきてる。今のアーティストを取り巻く環境ってあの頃の宇多田ヒカル周りの雰囲気とちょっと似てる気がする。ライブはあんまりやってなくてひたすら曲を書いてブログを書いていたのが宇多田ヒカルだった。
米津玄師にしろ須田景凪やヨルシカにしろ、宇多田ヒカルが敷いたものの上に立ってるんじゃないかな。立ってるというか宇多田さんは彼らのようなことを前時代にやりとげてしまったのかもしれない。
宇多田ヒカルの「traveling」は「夜に駆ける」に似ている。4つ打ちでビートに統一感を出している点や、トニックから長七度上(一度下)への移動が含まれる4小節ほどのコードパターンをひたすら繰り返している点、代理和音や経過音でコードに飽きがこないよう細かく配慮していることやフィルインの多さ、歌メロの譜割の細かさ…と共通項は多い。あの頃は幼くて単にかっこいい曲だなと何も考えず聴いていただけだが、当時の宇多田ヒカルはやはり規格外の存在だったんだなと今にして思い知らされる。
https://www.youtube.com/watch?v=x8VYWazR5mE
待って待って引き返さないで。俺のおすすめ餃子を聞いてからにして。
いきなり地域特性皆無やないかい。でも手間とコスト考えるとめちゃくちゃ旨い。櫻井翔が旨い!って言ってるんだから旨いに決まってる。
とりあえず無性に餃子食いたくなった奴はこれ。いつも冷凍庫にストックしてる。
全国流通してるので地方スーパーにもたいてい置いてあって助かる。ありがとう味の素。
愛知(ギリ数店舗)と山梨(ギリ一店舗)まではある静岡ローカル中華ファミレス。これは浜松餃子。静岡の店舗でも愛知の店舗でもたぶんメニュー名は浜松餃子。皮は薄めでパリっとした感じ。具沢山。もちろんもやしがついてくるし円形(数が少ないのは横並び)。
ファミレスなので安いしいっぱい食べられる。あとすごいファミリー向け。お子さんが机をめっちゃ荒らしても店員が片付けるので気にしないでくださいってポスターが貼ってあるから世のパパママは気が楽になりそう。俺は独り身なので関係ないが。さわやかに並ぶの飽きたらこっちにしろ。浜松駅ビルに入ってる。カウンター席あるし一人でも行きやすい。持ち帰りメニューも充実してるのでコロナ禍でも助かる。
餃子以外だとレタスチャーハンがめちゃくちゃおいしいので是非一度食べに来てください。
餃子は好みなので手作りしろ。結局それしかない。俺は皮薄めがいいしニラよりキャベツを入れたいし羽はパリパリについててほしいしもやしがないのは論外。自分で作れば変わり種(チーズ・キムチ・海鮮類・ほうれん草とかがおすすめ)もできるし量も調節できるし成型するのが楽しい。餃子づくりはいい文明。とにかく具材を細かく刻むのがポイント。みじん切りさえ徹底的にやればだれでもサイコーの餃子と出会える。ナイス餃子ライフ。
浜松歴20年超でも「浜松餃子ってなんなのよ?」と聞かれてもはっきりとは答えられない。もやしが添えてあったら大体許されるような気はする。中には浜松餃子を名乗ることを許したくないような餃子もたまにあるが、まあ人の好みは千差万別なので仕方がない。人には人の浜松餃子。
宇都宮餃子と名の付くものを食べたことがないので、宇都宮餃子がどういった代物なのか全くわからない。なんか特殊製法だったりするのか。気になるけど栃木に行く機会が全くなくて食べたことがない。浜松でも宇都宮餃子が食べられるところがあったら教えてほしい(そんな強気な職人がいるのかわからんが)。