はてなキーワード: 情報量とは
https://note.mu/chidaism/n/n30420b2066d8
※安倍内閣の対応が適切かどうかは評価・検証していません。あくまで評価基準が違うんじゃないの?という話です
必要な仕事さえやっていれば飲み会してようが関係なくないか?飲み会に参加してようがそこで仕事してりゃいいじゃないか。
評価は
・過去の事例との比較で対応が後退していないか(参考http://www.bousai.go.jp/kaigirep/wg/saigaitaisaku/pdf/dai2kai/shiryou2-3.pdf)
安倍内閣の対応を検証するなら「空白の66時間」が本当に空白であったかの検証が必要ではないか。
"自衛隊を動かす最終決定権は「シビリアンコントロール」に基づき、防衛大臣、総理大臣にあります。そして、この2人が同じ空間で酒を飲んでいたわけです。これでリスクヘッジができていると思える人は、おそらくこの世にネトウヨぐらいしかいないと思います。"
裁量を持つ人間が現場じゃなくても二人揃っていりゃそっちのほうが話は早い。ITが発達した今、どこか特別な場所にいなければ指示が出せないという方がおかしい。
情報量が膨大になるときはやはり大きなスペースや設備が必要になるがそのための省庁ではないか?非常時になるからと言って最初から長が出張る組織ってのは何の備えもしていない脆弱な組織だ。
むしろ安倍総理が鼻くそほじりながら「オーケー、オーケー」と言ってヒマこいてるうちになんでも物事が進んでいくのが理想の組織というものだろう。
組織の長というのは『自分が何もしなくても物事が適切に進んでいく組織』を作るのに日々努力するべきで、非常時に張り切って働くのは泥縄と言うしかない。
"本来なら、すぐさま非常災害対策本部が設けられ、自衛隊を動かし、可及的速やかに人命救助にあたるべきでした。"
災害にはまず地方自治体が対応するし、自衛隊に出動要請をする(参考 http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2006/2006/html/i3251000.html)
(ア)要請による派遣(一般的な派遣形態) 災害派遣は、自衛隊法第83条の規定上(資料75参照)、都道府県知事などからの要請により部隊などを派遣することを原則とする。
(イ)自主派遣 防衛庁長官又は長官が指定する者は、特に緊急な事態で、要請を待つ時間がないときには、要請がなくても、例外的に部隊などを派遣することができる。
私の記憶では発災前に当たる段階で地方自治体が自衛隊に派遣要請を出しているところもあった
政府が地方自治体を飛び越えるような例外的なことを"本来なら"と言っているので評価としておかしい。これは機能不全に陥った地方自治体があることが前提ではないと成り立たない。
"非常災害対策本部を設置したものの、安倍総理ご本人はとっとと家に帰ってお休みしていたのです。"
非常災害対策本部の長は誰ですか?まさか総理大臣とか思ってませんか?
災害対策基本法第二十五条 非常災害対策本部の長は、非常災害対策本部長とし、国務大臣をもつて充てる。
非常災害対策本部長は国務大臣ですよ。つまり適切な国務大臣を任命すれば後は家に帰って屁をこいててもいいでしょう。むしろ余計な口を出して頭が二人いる状態のほうが害悪です。
外務大臣を任命してたら吊るし上げましょう
以上、「皆が大変だから飲み会やめよう」「皆が大変なんだから残業しよう」みたいな評価や地方自治をないがしろにするような物言いに腹が立ったので書き散らしました。
重ねていいますが安倍総理の対応が適切だったかはわかりませんし、その検証もしていません。
言われる前(言われる前に誰も見ないだろうけど)の追記
Q・他の政党の飲み会はいいの? A・よろしいと思いますよ。行政府じゃないんだから発災時に何ができますか?仕事のフリをするより飲み会の場で情報交換をしている方が有益です
某俳優にはまっている。ファンとしてはほとんど初心者なんだけど、どんどん推しが売れていくのを実感している。1ヶ月に何冊雑誌に載っているんだって感じだし(テレビのバラエティにはあまり出てない気がする)、公式SNSを見ていると、情報量が多すぎて圧倒される。売れていく分、いろんなお仕事をこなしていくわけだけど、どれもほんとファンになってよかったなと思うくらい素敵なお仕事ばかりで、いつも幸せをありがとうという気持ちになる。前、推していた俳優さんは今や国民的人気俳優なんだけど、なんでも仕事を引き受ける分、なんでこんな仕事を?というような彼を大切にしていないような悲しい仕事もあって、推しは大事にされてるんだなと思った。推しは役の掛け持ちとかザラで人格狂わないかなと心配になるけれど、プロだから大丈夫なんだろう。有名なドラマ枠の出演が決定したり、彼が好きな映画の監督とのお仕事をしたり、忙しい中でどんどん役者としての夢を叶えていってすごいなぁと思う。心配性なファンなんで、彼の体調大丈夫かなと思ってるんだけど(公式SNSはあっても彼自身のコメントはめったにない)、どんどん役者の夢を叶えてファンや映画やドラマを観る方々を楽しませてほしい。
元増田です。詳しくありがとうございます。
僕は別にガチで法律の話をしたいのではなく、ブログ書き(とくにインテリ層が多いとされる「はてな」での)のマナーの問題として書いたつもりでした。
まず直感的に僕の感覚だと「画像が多すぎる」と思った。そして、「これはブロガー倫理として問題だ」と思った。で、他の皆さんの反応によると「お前の感覚はおかしい、これは適切な引用だ」という意見が多数なので、僕が間違っていたのでしょう。今回のことでそういう認識にいたりました。
でも結局のところ僕は納得してません。法律的にOKであっても。自分が漫画家だったらこんなブログ許しがたいからです。納得はしないけど受け入れるといった感じです。
皆さんはこれで納得されているのでしょうが、僕の感覚だと画像1枚につきあの程度の分量・内容だと「自己の感想が主」になってないんですよ。文章よりも画像の方が圧倒的に情報量が多いという感覚なので。画像1枚につき当たり障りのない創造性のない感想が1000字程度だと、ちょっとどうなんだろうという感じです。ただ、これは僕の個人的な感覚なので、世間の皆さんや法律家の多数が「分量的にも内容的にも適切だ」という主張をされるのなら、そっちが正しいのでしょう。でも僕が漫画家ならこういうブログはどんどん訴えたいと思ってしまいます。
ちなみに、
これは全然違います。「グレーゾーンなネタバレ画像やキャプチャ画像を絶対に安全なところから無料で見たいから他人の書いたつまらない感想ブログを見るのであって、ブロガーが書いている文章自体にはまったく興味がない」という意味です。
とにかく今回はあの程度の画像使用はOKっぽいということがわかっただけで収穫でした。コメントくれたみなさんありがとうございました。おかげで少し賢くなることができました。
数ヶ月で感じたこと
Vtuberの面白さは「その人を知る過程」という面が一番大きい
これは友人、恋人、同僚と知り合う行為に近いし、もちろん生主、キャバクラ、メイド喫茶にも近い。
(以下、便宜上「知人化」と呼ぶ)
・動きが見えるのに、素顔は見えない
・双方向性が強い
という点がある
これらのお蔭で「知人化」作業は複雑かつよりエキサイティングになる
作業を分解するとこんな感じ
(中の人の趣味や経験 + ロールプレイ + 状況 → 発話)
発話から逆算して、「中の人の趣味や経験」と、「ロールプレイ(つまり設定)」を学習していく
中の人と設定は2つで1つであって片方だけで成り立つものではない
もちろんVtuberによっては、中の人を完全封印していたり、ロールプレイを完全放棄しているので片方だけとなる
素顔が見えないので、見た目から得られる情報が制限されることが大きい
普通よりもスタート地点が後ろにあるので、この作業はゲーム足り得る
これは姿が見えない相手と文通する楽しさにも似てるかもしれない(メル友でもいい)
双方向性が強く、質問を投げかけることができる(マシュマロ、質問箱)
これもゲーム性を強くしている
視聴者は時によって「中の人」を聞き出したり「設定」を聞き出したりする
やってることは「その人を知る」作業だ
身バレはどういう過程で起こるのかと言えば、この「知人化」のネタバレを見ようとする行為に近い
これは3Dモデルを触ってみるとか、制作関係者を調べる行為があたるだろう
ただ、生身の人間に比べたら圧倒的に情報量が少ないので身バレの方が確実に目立つ
これらによって参加型に近くなる
言及するほどでもないだろうが、画面の向こうに自分の行動が影響するのは楽しいものだ
その人を「知った後」
「知人化」作業はそのうち終わりを迎える
複雑なパーソナリティや、人生経験を持った人であっても、大体1クールもあれば底が尽きてしまう
この時点で視聴者とVtuberの関係は、双方向性が強ければ友人、単方向ならキャラクターに近いだろう
これによってどんな些細なことであっても「その人がやってるだけで面白い」という状態になりエンタメ足りうる
「Vtuberが面白くない」と批判してる人は単純に知人化できていない可能性が高い
視聴者の中には「知人化」が好きな人と、「知人(知人になったあと)」が好きな人が居る
これがこの界隈を地獄たらしめていると思う
知人化そのものが好きな人は「新しい出会い」を求めて自然と離れていくわけだ
おそらくだが、知人化が好きな人はリアル生活でも大人数と知り合いたいタイプではないだろうか
逆に知人が好きな人は少人数と長く付き合いたいタイプかもしれない
わかりやすいところで言うと、箱推しは知人化好きタイプ、個別推しは知人好きタイプだと予想してる
パーソナリティをさらけ出したあとはどうあがいても「パフォーマー」と「視聴者」という関係が強くなる。
この時に取りうる視聴者との関係性でいくつかパターンが考えられる。
↑単方向性が強い
・テレビ型
・ラジオ型
・劇場型
・リクエスト型
↓双方向性が強い
テレビ型が一番大きなパイを狙えるが、最も難度が高くネタ切れに喘ぐ方向でもある
またどれを狙うにしても「何か面白いことをする人」あるいは「話していて楽しい人」にならない限り視聴者は離れていく
最初の「知人化」の時期は少なくない人数が注目してくれるので
それまでに如何に楽しませるかで長期的な勝負が決するのではないだろうか
(ただ一部の企業的な戦略に乗ったVtuberはちょっとまた法則が違いそう、あれはもはやタレント業だ)
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おまけ
最近VtuberのYoutube登録者数が伸び悩んできている
大体100万人は居ないくらい?
ああ、伝わってないなあ。
地頭のいい人たちが自然にできている学習の力を、意識的に学ばせて
できなければできるまでやらせて、勉強の苦手な人を減らそうという意図だよ。
ここら辺の弱点を埋めずにひたすら授業をしたって、根本の学習力がないから意味がないんだ。
意味がないから無力感にさいなまれて、逃げ出してしまうんだよ。
・時間内に長文から要点を抜き出してまとめる能力(理解力・まとめ力)
しかし、普段の国語の授業は余計な解説が入るし、一つの文章を何時間もかけて読むので
短時間に長文から要点をまとめるという技能だけを何度も教え込むことはできない。
受験のテクニックとして塾で学ぶことはあるけども、普段の国語の授業とは明らかに違うのがわかる。
そもそも国語の教科書に、そういう「論理構造」と「読み方」の項目が少ない。
・読み上げた音声から概要を図にして説明する能力(理解力・整理力)
これって授業でやってる?
ー視覚ではなく聴覚による情報をどれだけ理解できるか。(聴覚情報による理解力)
ノートの取り方や、理解の力は自己責任として突き放してるのが今の教育ではないかという話
・3回読み上げられた文章をできる限り暗記して、書き出す能力(暗記力)
これは上の応用。
聴覚情報の論理構成ではなく、文章そのものをその場でどれだけ暗記できるか。
短期間で文章を暗記する能力は、(その場では忘れてしまうにしても)勉強の効率を上げる。
一見勉強が得意に見えても、視覚情報とテクニックでのりきる人は、この手の暗記は苦手。
俗に言う”AI読み”になっていき、受験以外の場(高度な教育や専門的な会話)では文意とはズレた解釈をするようになる。
・問題と解答を見せて、それと同じ論理の問題をその場で応用して解く能力(論理理解力・応用力)
これは数学や小学校の国語ではけっこうあったかもしれないが、だんだん減っていくタイプの問題。
東大レベルになると、難しい公式をその場で与えられて、所見で問題を解かされたりする。
この問題で意図しているのが、数学ではなく国語だし、教え込みたいのは、論理と応用だ。
それを真似るということを意識することで、文章を書くのがうまくなる。
小論文の授業との違いは、小論文の構成より多様で細かいものを意図しているということ。
細かい論理のシャドーイングを繰り返すことで、自分の中に多くの思考方法が埋め込まれる。
予想するクセをつけるのは重要だ。限られた情報から推測していく力はどの分野でも役に立つ。
また、何かを学習する際はゼロから読むより、ある程度予想してから読んだほうが
予想との違いで脳が刺激されたり、予想を補強する情報がすっと入ってくる。
予想と合っていれば読む時間を短縮できる。
次に、見出しと小見出しから予想していくことで、自分の中に文章を構造化するクセがつく。
・3回画面に表示される難しい言葉をその場で覚える能力(語呂合わせを使えとか、頭文字を覚えろとかヒントを出す)(暗記力)
暗記は自己責任になっている面がある。暗記はすべての勉強の基本だがさらっとしか触れられない。
もっと重点的に暗記に絞った訓練をするべきだ。
長い文章を覚える場合でも、いくつかの文節に区切って文の頭文字を覚えれば文を暗記でき、その文の頭文字を覚えていけば文章全体を暗記できる。
こういうテクを自分のものにできるかできないかで勉強の成果と効率は大きく変わる。
暗記をしなければ自分の中に情報がストックされず、ゼロからやりなおしになる。
ちなみに、暗記の基準は「ヒントなしでパっと思い出せること」だ。この点も意外と教えられない。
だから「覚えてるつもり」で先に進む人が多いだろう。
・読むのに15分くらいかかる文章(キーワードは太字)を読ませ、読み終えてからキーワードについての感想や知識を書き出させる(集中力・理解力)
超長文読解だ。長い文章の全体像を把握しながら重要ワードをピックアップする能力を鍛える。
受験の長文読解の長文は短い。
一度に処理する能力を圧倒的に多くすることで、脳の短期記憶を鍛え、処理できる情報量を増やす狙いがある。
授業でやったって言ってるけど、これができたら少なくとも早稲田慶応以上には入れるだろうし
でも世の中の人はそうじゃないよね。
そういう人のために「(地頭のいい人が無意識にできてる)学習力」を鍛えようという話をしている。
余談だが、これは僕がこれを苦手としていたと気づいたからでもある。
僕はなかなかの国立大学に入ることができた。受験の国語の点数も悪くない。
小論文も書けた。
でも大学でつまずいた。
僕のような人間になると、文章をしっかり読んだり余計な情報を暗記しなくても、
問題のパターンを理解して、おおまかな予想をして答えを選択できてしまう。
正確な文章の理解や、耳と口を使う会話を求められる機会が増えていくと、自分が何もできていなかったことに直面する。
また大学の研究では文献を読み解いていくことが必要になるが、自分が文章を読めないということに気づかされた。
そして、これは「勉強ができない人」に共通している問題なのではないかと思ったんだよね。
僕はこの欠点を理解して意識的に潰して行って、今は以前よりはかなりマシになった。
どさくさに紛れてサヨクのみなさんがサムゲタンを擁護していますね。あまりにも愚か。
看病のときに出す料理がおかゆだったのにわざわざサムゲタンに改変するというのは不自然ですよ、普通の感覚だと。
なんでそこだけそんなにこだわっちゃってるのっていう。要するに表現として稚拙になっちゃってるんですよ。
サムゲタンの部分だけ浮いちゃってるわけです。素人作家は何かにこだわりがあってどうしても自分の作品にこれを出したいっていうのがあれば我慢せずにというか我慢できずに出しちゃいますよ。でもそういう表現は明らかに周りから浮いちゃうわけです。全体との情報量のバランスをとらないといけないわけですよ。下手な作家は自分のこだわりだけやたらこだわって書き込んで、他はいい加減にぼやっと書くみたいなことはやりがちですが。
とにかくあの改変は拙かったわけですよ。
現実でサヨクのみなさんが看病するときにサムゲタンを出すのはいいですよ。そんなの自由ですし。サムゲタン好きな人なら病気のときでもうれしいでしょう。おそらくサムゲタンOK派のみなさんは一度くらいは愛する人が病気のときにサムゲタンを出しているから、きっとあの演出も自然なものに見えたんでしょう。
でもね、それはあなたたちがキャラクターを理解してないからなんですよ。サムゲタン演出はあのキャラクターたちにやらせることではないんですよ。あの演出は脚本家の意図が丸見えというか、脚本家の顔まで丸見えという感じで、もはやキャラクターはそれぞれが命を持って生きているのではなくて、単なる操り人形になってしまっているんですよ。要するにキャラクターを殺してしまっているんですよ。これは問題ですよ。
すべて政治的に見てしまうから作品をまともに解釈できなくなってるんですよ、サヨクのみなさんは。
サムゲタンを病人に与えるのはべつにいいと思います。それは個人の勝手です。でもそれをあの作品でやってしまうとキャラクターが死ぬんですよ。わかります?
ふと思ったのだが今の時代、他人と会話をしなくても良い気がする。音声情報より文字情報の方が情報量が多いし読み飛ばしで必要な情報をいち早く入手できるからだ。これは互いにとって良いことだと思うが何か問題があるだろうか。最近は文字を読むのも面倒に思う。可能であれば脳に特殊な装置を付けてテレパシーで交信したい。自分が生きている間は無理だがいつかそんな時代が来ると思う。