私は中高一貫の女子校に通い、そこはそれなりの進学校(東大医学部現役合格が出ても騒ぎにならない程度)だった。
校則がほとんどなく(自主性に任せられていた)、教師も個性だらけの学校であったため、すこし浮いた学校だったと今ならわかる。
生徒は自主性を重んじられるあまり大変気の強い人間に育ち、教師に対しての反抗心も露骨だった。
そんな私達がみな慕っていた教師がいる。
おおらかで、先生らしくない能天気さを持ち、えらそうでないのに尊敬したくなるほど人柄がよかった。
そういえば在日だったなあ、と思い返すぐらい、そのことについては印象が薄くて(先生は名前を韓国での読み方にしていたし、在日であるがゆえにうけた差別などについて話してくれたこともあったはずなのに、だ)今思うと不思議でたまらない。
これはどういうことだろう?
私はひとつずつ、先生の言動を思い出していくことにした。
ある日、日数が余ったかなにかで(私の学校は勉強に力を入れていないのでそういうことは日常茶飯事)特別授業として人権や差別のことについて話してくれたことがある。(人権問題の講座の担当もしていたので)
先生が自分が在日であることを自分の口で述べたのもそれが初めてだった。
名前読みは韓国での読み方になっていたので、在日であることはうすうす感じていたけれど、私達は特に意識もしてこなかったので、先生の話にちょっとドキリとした。
先生の話は名前のこと、自分の出生のこと、そして大学時代、友人だと思っていた人から差別されたことや(しかしそれを笑い話にして話してくれた)、それを救ってくれた別の友人との出会い、最後には差別がどれほど人を傷つけるか、けれどそれを救ってくれる人はいるのだ、というものだった。
先生は日本と韓国の歴史に対しては何も言わなかった。むしろ、「日本」「韓国」なんて単語を出すこともなかった。
話では常に自分と友人が登場人物であり、国家の話に摩り替えられることはなかった。
先生は個人と個人の間で起きた差別について実感してもらうためにまず私達に自分の体験を話してくれたのだ。
その後、先生は日本にあった「女人禁制」や他国の差別問題などの話をはじめ、きっとそれが本題だったのだろうけれど、
私達は導入部分であったはずの先生が受けた差別についての話にかなりショックを受けていた。
泣く学生も続出していて、でもそれは自分が先生を差別した友人と同じ日本人だからショックだったとかそういうものではなく、
いい人が不条理な扱いを受けた、という事実に涙していた。差別というものの残酷さに泣いた、それだけだった。
別に先生がアメリカ人で、その友人がイギリス人でも同じ反応をしただろう。(アメリカとイギリスにそんな関係があるのかは知らない)
差別の経験を話す際、偶然先生が「在日」だっただけ。そこに重きは置かれていなかった。
その先生の差別の話を聞いたところで、私達の頭に歴史がよぎるわけもなく、
ただ私達が過去に経験した話を今の友達にするのと同様、その人の財産である経験を見て、さらに信頼を築いている、それだけのことだった。
先生のスタンスは常にこんな感じで、国家や立場を、人と人の関係より重視することは決してなかったのだ。
だからこそ私は、先生が在日であるということを、さほど意識してこなかったんだろう。
こういった状態には賛否あるんだろうと思う。問題意識が足りないとか、そういう点で。
私の学校には在日の子もいて、でもそれも同じように気にならなかった。名前が見慣れないってぐらい。
彼女達も自分が在日であることを隠すわけではなかったけど、それで関係がどうなるってことでもないし、国の名前が会話に飛び交うこともなかった。
問題意識が足りない、と言われればそうなのかもしれない。
歴史問題を考えるいい機会だったのかもしれない。
バックボーンをきちんと理解することが礼儀だって思う人もいるのかもしれない。
でも、私達はそんなことを意識する以前に仲良くなっていて、その関係が密接であるために、国家という大きすぎる定義を取り上げる必要性を感じていなかったのも確かだ。
もちろんそれは日本人である私達がのんきに考えてあげなかっただけだ、ということなのかもしれないけれど、
別に在日の生徒がだんまりをしていたわけでもなく、自分や家族が受けた差別の経験などについては、人権問題のイベントなどできちんと意見する人ばかりだった。
そのさいでも、被差別者だからといって私達が態度を変えたこともないし、それが友人関係に影響を与えることはなかった。
それと同様、私達がただ友達で、青春時代をともに過ごす関係である上で、国家や歴史は特に持ち出すべき問題ではないと私達も、彼女達も考えていたんだと思う。
私達の中で、彼女達に日本人として申し訳ないとか思う子もいなかったし、あなたたち韓国人ってなんで歴史捏造するの?と思う子もいなかった。
私達は学生番号XXXXX1とXXXXX2で、仲がよくて、クラスメイト。
それでよかった。
これがいいことだったかはわからない。最後までいい先生、いい友達、で彼らとはいられたし、差別だとか思いつかないほどだった分、歴史問題について意識が薄くなってたかもしれないことは確かだ。
世の中にそんなに在日を嫌う人や、在日の中で日本を嫌う人がいるんだって考えもしなかった。
はっきり区別するものだということ自体に驚いた。
世の中の状況をネットなどで知って、私も国家についてすごく考えるようになる。
その反応する人に反応する人もいるし、
あの学校生活と反対に、国家というものが人間関係ですごく重視されているのがネット(特に不特定多数が出入りする)だと思った。
学校では校舎という狭い世界に閉じ込められていて、クラスや学年で個人個人がちゃんと識別できていたし、「あいつ1組だし」とか「あいつ三年だし」とかでちょっと冗談で偏見持ったこともあったかもしれないけれど、国家なんて大きすぎるものさしで人を考えることはなかったのに、不思議だと思った。
広すぎて、人が一人一人区別できなくなってくるし、クラスや学年でちゃんと整理されているわけでもない。むしろわざと匿名や不特定多数の出入りでわからなくなっているところもある。
そんな中で、ちゃんとはっきりとわかる「個」というものは、ネットを構築している言語だろう。
日本語のサイト、フランス語のサイト、フィンランド語のサイト、英語のサイト…。
日本語のサイトを見たとき、その人がどこにいてどんな人なのか、なんてわからないことも多いけれど、
日本語があるのだから、きっと「日本人」なんだろうと思うことができる。(例外ももちろんあるけど)
そこにいるのが誰かまったくわからない世界に飛び込めば孤独感で人が不安になるし、なんとか判別できる個性を見つけようとするだろう。
けれどネットは混沌としすぎていて、ちゃんと分けるとき重視してしまうのが「言語」、そして「国」ぐらいしかないのではないだろうか。
日本の土地に住み、日本の学校や職場に通っている間、頼るはずもない「自分も相手も日本人」という意識が、
こうした広大な世界に入るととても重視されていき、
結果的に「自分は日本人」という自覚が、どんどん大きくなっていく。
国家はこうしてネットの中で重要視されていくんじゃないだろうか。
私も今は「自分は日本人である」という意識、そして「○○人は好き・嫌い」だとか考える気持ちが芽生えている。
でもそれはあくまで、不特定多数が出入りし、そして個があいまいになった集団の世界にいるときだけだ。(あと、政治問題もこちらかな、と思う。人一人ではなく、国と国の問題だから。)
個人で向き合ったときそれは払拭すべきで、学校生活のおかげか私はそれが自然とできるようになっている。
人一人と向き合ったとき国家関係や歴史というものの影響がすっかり消えてなくなるというのはすごく不思議な現象で、当たり前のことのはずなのに、すごく平和に近いんじゃね?とか思えてしまったりするのは、私はまだまだ平和ボケしているからなんだろうか。
違うと良いな。