はてなキーワード: パブロフの犬とは
SNSの害ってのは、「孤独感」が癒されるような錯覚をもたらすことだよ。
100の孤独感のうち、SNSを使うことで人と関わっている錯覚を感じ、10くらい癒される。現実に他人と会うのとは情報量に圧倒的な違いがあるので、決してそれ以上に癒やされることはないが、飢えてる人にとってはないよりはまし。
問題は、「孤独感」への対処に追われて有限の時間やエネルギーを使い果たし、「孤独感」をもたらす元の「孤独」を解消するリソースを失うこと。そのうち「孤独」のことすら忘れて、目の前の孤独感をわずかに癒すことしかしないパブロフの犬のようになる。ずっと軽い飢餓状態から抜け出せない。
スプラトゥーン3の話しばかりで恐縮しまくりまくりまくりすてぃーなんだけど、
よし!今夜も1回ガチャしてカタログレヴェルも上げて!明日のガチャの分おカネ5000稼いで明日すぐガチャできるように!って
思ってプレーに挑んだんだけど、
おカネ5000稼ぐところまでは至らなかったわ。
1回今日の分のガチャ回してカタログレヴェル本日の勝利で7500ポインツを得て
そこまでの気力しか無かったわ。
今作はイクラおカネがあっても足りないのよね。
マジでクマサン商会でバイトみっちりやんなくちゃってレヴェルよ。
だけどあれブキの火力が弱いカードの時や使い慣れていないブキとかだったら火力で鮭に圧されてやられてしまうのよね、
だから良いブキの時のバイトを見計らってシフト組むが肝心要の命だわ。
でもまだバイトレヴェルが低いので
稼ぎやすいはずだわ。
またバトルに興じたいわ。
その間は、
間違えてデビルメイクライを思って買ってしまったベヨネッタで遊ぶわ。
なんかこれ
どんどん進めて行くうちに
なんかボタンだけ連打していても3級平天使に勝てなくなってきて、
真面目に遊ばないとこれも勝てないわね。
やる気が出たら鉄火巻を買ってきてサンドイッチがカードゲームに夢中になっていてその間でも食事を手軽に食べられるようなものと言うことの出来事で発明されたレヴェルで
鉄火巻次第ね。
でもこの鉄火巻クセがつくと
鉄火巻がないとゲームできない!ってパブロフの犬みたいに条件反射になってしまったら困るので、
納豆巻きも大好きなので
納豆巻きも糸が引かないように上手に食べることができるなら鉄火巻きに勝るとも劣らない巻になるのよね。
あと太くなるけど、
海苔で巻いてある系だから手がベタベタにならないところがベターよ。
それ系の海苔で巻かれた系のだったらなんでも鉄火巻に勝るとおも劣らない勝率を叩き出せるかも知れないわ!
これはゲームしながらお粥食べるのは結構ハードルが高いってことを今になって気付いたわけなのよ。
なるほどねぇ。
謎が解けたわ!
何が謎だったか謎は無いんだけど謎が解けた!って言うとアガサクリスティ級に名探偵っぷりを発揮した気分になるじゃない。
だからなんでもいいのよ謎は。
でもゲームしながらコップに注いだお粥をゴクゴク飲みながらゲームやり始めたらなんか人として何かを終わりを遂げると同時に何かを越えた気もするので、
お粥をコップに注いで飲むようにして食べたら良いじゃない!って言われそうよ。
もはやこれはさすがにやって良いのか悪いのかよく分からないレヴェルでのお粥の扱いになるから
逆に言うと大発明!って
飲むお粥!って事かも知れない世紀の世界のふしぎを発見をしたインスパイヤザネクストなのかもを同時に成し遂げられるかも!
でもだいたいのこと思い付いたことは先人の人たちが行っているので、
あれでさ、
お粥の上を行くしゃばしゃばな重湯レヴェルになるとあれはもう10秒チャージの世界でまた別の世界かも知れないわ。
あれは完全に飲むものとしての扱いよね?
また別の話で
増田ではコーヒーは山で飲むのが美味い!って定期的に出る話題なので、
山で炊いてもお粥!って
山岳お粥も、
いつか私はあんまりアウトドアが苦手なんだけど機会があったら山岳お粥チャレンジも今話題のスノーピークのアウトドアギアを引っさげて山岳粥活してみることがいつかの夢だわ。
もしこれを終えたら
山登りで食べる山岳鉄火巻が一番鉄火巻の食べ方で最強に美味しい!ってことを立証してみたいわ。
うふふ。
鶏挽肉のお粥です。
朝の粥活は具が重たいと朝一食べるときになんだか重いなぁって
私の掲げていた
手軽さと簡単さと食べ応え強さに相反するわ。
朝食べたいお粥としては。
寒くならないうちに使い切りたいところと思いつつ、
これホッツでよくね?って気付いちゃったから
ホッツでもいいかもね。
朝晩は寒くて
昼間はまだ暑いのかよく分からないこの気温の寒暖差がこたえるわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
性癖といっていいかもしれないけど、理屈抜きでこのコマがあるとゾワゾワしてしまうという表情がある
・なにかに驚いている
・目を見開いてる(どこも見てない、目が点になる、の状態)
・口元を隠すように手がある
要はいわゆる「ハッとなる」を表現したコマなんだが、どんなキャラだろうが男だろうが女だろうが生物だろうが機械だろうが(機械は顔がない場合もあるが)
この表情が好きすぎて興奮するのだ
状況としては
・ミステリー系などで点と点が繋がり線となった瞬間、その衝撃、おぞましさなどに思わず恐怖するシーン
・すごく好きだった相手の裏の顔などを知ってしまい、ショックを受けてるシーン
・自分の行動の間違いや愚かさを知って、思わずハッとなってしまってるシーン
あたりが好みだが、正直このへんのシチュエーションもどうでもいいっちゃどうでもいい
とにかく目が見開いて口元に手がいってて驚いてたりショック受けてるとああんもう!!ってなってしまう
自分なりに分析してみると第一にこれは恥ずかしさを感じてる相手に興奮してるのかな、とも思ったんだけど
普通に恥ずかしがってるだけなのはまったく響かないし、エロ系でも辱めとかはむしろ大の苦手
強いて言えばこういう表情を浮かべる時というのは物語的に大きな展開を向かえてるタイミングだったりするので
そういう読書体験を何度も繰り返した結果、パブロフの犬的にすりこまれてて、そういう表情が出てくるだけでよだれが出てしまってるとか?
これも多少はあるかもしれないけど、もっと根源的な興奮があるように思う
ちなみに実写だとどうかというとこれが全然響かないし、漫画よりずっと記号的に見えてしまってむしろ白けることのほうが多い
これは実写だともっと細やかな演技が可能だから、表情にはあまり出ないがよく見ると手が震えてるとかそれくらいのほうが良い
他にも漫画における感情表現って良いものが多くて、物語の中で登場人物の感情を一コマの顔アップで描ききるというのはもう漫画でしかできなくて
そこらへんほんとに漫画のすごいところだと思う
わわわわ~
わわわわ~
クロちゃんです!
わわわわ~!
なんか急に寒くなってきてダウンジャケットを無事実家から持ってきて着込んだところよ。
もう1日遅かったら冬の寒波に乾杯出来なかったところだからパーリーに間に合ったわ。
3つを目標に掲げ頑張っていきたいと思うわ。
季節の順番で言うと夏よりも
秋の次は冬!って感じなのよね。
ゆっくり長期休みの時は温かい鍋でもしっぽりいただきたいところよ。
もうさー
矢野顕子さんの
シチューを食べる歌
ラーメンを食べる歌
ご飯が炊けた歌
お腹が空かないわけないじゃない。
ところでさー
ふと駅の待合室でコーンスープの香り高くコク深く不意に突如漂う
キンモクセイの香りの次にコーンスープの香りだと思うんだけど、
コーンスープどこで売ってるのか私は知らないのよね。
みんなそれどこで調達しているのかしら?って思うほど
パブロンの犬のように
早めのパブロン!って風邪の引き始めに優しくそっと竹下景子さんばりにパブロンを渡してくれない方の
食欲がコーンスープの香りのせいでひしひしと湧いてくるのよね。
そこをガマンして次セントバーナード犬が雪山で救助の時に首から下げていて遭難した人に与える度数の高いお酒が入っている入れ物のそこの中にコーンポタージュスープが入っていたら
きっと遭難した人も温かいコーンポタージュスープをいただいて復活し下山できること請け合いよ!
みんな本当にどこからコーンポタージュスープを持ち込んでくるのか不思議よ。
沸いて出てくるわけでもあるまいし不思議ね。
でもさー
あの冬の雪山遭難救助セントバーナード犬の首からぶら下げている容器の中に何を入れたら面白いか大喜利とかって考えてみるとワクワクするわ。
でもそもそもとして
いまでも雪山遭難救助セントバーナード犬ってスイスとかにいそうな気がするけど本当に存在するのかしら?
あれは都市伝説なのかな?って
雪道で遭難したときにヤマザキパンのトラックがやって来てみんなに物資を配るって幻想ぐらい
その刷り込みは全てアルプスの少女ハイジなのかも知れないわ。
だってなんか大きなセントバーナード犬風な犬って登場してるじゃない。
あの犬種のような気がするけど、
みちょぱのヤギ版とでもいいそうなほど、
ポップなのよね。
そんでいろいろと気になって調べてみたのよ。
よくご飯お茶碗山盛りてんこ盛りフードファイターが食べる並のご飯茶碗の昔話のアニメでも出てくる牛とか馬とか出てくるじゃない。
それで名前が「アオ」って
ネコなら「九十九里浜のミケ」犬なら「大洗海水浴場のポチ」みたいに
それでなんで牛さんとか馬さんが「アオ」って呼ばれているのか
結局見付からなかったわ。
ジッさまが牛さんや馬さんにアオって層読んでる絵本は五万とざっと五万冊ぐらいあるのに、
その由来の文献が意外とないのよね。
それでいろいろな文献を漁っていたけど、
山岳救助隊に所属する犬のセントバーナード犬のことも載ってなかったのよね。
あれもきっとお菓子の家のような絵本の中だけでの話しだったのかしら?
あと、
熊が鮭咥えてる意匠の事も調べてみたけど
あれの由来というか木彫り熊鮭のルーツも知りたいわね。
意外とあれもう見かけないし
そう言った木彫り熊鮭扱ってる民芸品に行って
何か紙切れが飛ばないような文鎮的にも使える
頃合いのいい木彫り熊鮭がないかなーって思うし
きっといつか出会える木彫り熊鮭の事を考えると
すっかりもコーンポタージュスープの香りの出所を探す旅のことも忘れてしまっていたわ。
逆に熊が鮭咥えて持ってきて助けに来てくれても
すかさず寝たふりしてやり過ごすしかないけど
もう寝るのか起きるのかどっちかにして!って感じよね。
そんな北海道からのお土産の木彫り熊鮭クッキーを食べながらそう思ったわ。
木彫り熊鮭クッキーなかなか美味しいわよ!
きっとコーンポタージュスープと一緒にいただいたらもっと美味しいはずよ!
うふふ。
なんか朝だけ突発的に立て込んでいて忙しかったので、
にしました、って言うよりそれしか頂けなかったってところがいただけないわ。
ぺこぺこのぺこだわ。
お昼は食べ損なった朝のおにぎりを頂くわ。
私いいこと思い付いたんだけど、
北海道のキャラクターでマスクメロンとクマのキャラクターってあるじゃない
メロン熊って言うらしいけど、
あれの鮭版シャケ熊を合体させて作っても可愛いかも知れないわよ。
たぶんそれKIRIMIちゃんみたいな熊になりそうだけどね。
可愛いと思うわ。
葛飾北斎の椿と鮭ってあの絵も私グッときてTシャツ買っちゃったぐらいだしね!
やっぱり鮭って可愛くて美味しいのよ。
朝寒いので
とりあえず温かいわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
突然キレる人、いるじゃないですか。
さっきまでにこにこしてたのに、突然変わる人。
それ、私なんですよ。
で、「辛いならもっと早く言ってよね」って思うじゃないですか。
私も、思うんですよ。
ただ、分かんないんですよ。
みんな、今私辛いな~とか、これ以上仕事引き受けたら限界来ちゃうな~とか分かるんですか?
私は分かりません。
ああ正確に言うと、怒りが収まって冷静になって、自分を責めて、他人に相談した時です。
「あ、もう自分には無理だったんだな」って。
あれやって、もっとこうして、あなたがすればいいじゃない、とか振られた時に、即断しなきゃいけないじゃないですか。
無理か、無理じゃないのかを。
すごすぎます。
「えーっと…」なんて言ってたら、「頼んだよ」で会話終了か、どんなに私がやるべきなのかを説き伏せたりされます。
なので、何かを演じて「ハイ、分かりました」って答えるしかないですよ。
子供のころはそれでよかったし、仕事を始めて若い頃もそれでなんとか人生が回ってました。
でも人生経験積んでくると、頼まれる→我慢する→限界超える→怒る→他人がびっくりする→私もびっくりする→辛さを自覚→嫌になる、を何度も経験するんです。
だから、最近になるともう、頼まれるというイベントが発生した時、→嫌になる、が先に来ちゃうんですよ。
パブロフの犬みたいに。
なんていうんですかね、屈辱的な気持ちとか、辛い気持ちとか、嫌な気持ちとか、そういうミックス感情が、お腹の底から喉元にぐわーっって上がってくる感じです。
本当は、頼まれたら、この仕事を受けて私は限界を迎えるか?迎えないか?を正しく判断するのがベストなんですが、私の場合、死にたくなるんですよ。
死にたくなること、ありますか?
死にたくなると、冷静に考えられないんですよ。
思考停止っていうか。
異様な様子に変わって空気を悪くさせているって自覚はあるんです。
何か言って安心させないと、って。
でも、さっきまで演じられたけど、もう、無理だなー…って、相手と私の空間をほっぽり出しちゃうんです。
まあそうですね。
突然キレる症状は第一段階じゃないでしょうかね。
第二段階は、突然死にたくなりますね。
それでもね、分からないんですよ。
なんでこんな簡単な事、引き受けられないで死にたくなっちゃうんだろうって、また悩むんですよ。
…って感じです、ハイ。
デカルトといえば有名なのが「われ思う故にわれあり(コギト)」。ここから近代的自我が始まった。
自我というものの存在を確立したデカルトの三段論法は西洋に影響を与えまくったが、特に注意しなくていけないのは神の存在を使わなくても自我の存在を規定できるという点だった。
でも実際のところデカルト自体はコギトから神の存在証明を行っている。神の存在を証明する時代の要請があったのだけれどそれについては後で触れる。
時代は流れてフランス革命が起こり国民国家が誕生する。国民国家が誕生すると神が死ぬ。
どういうことかというと、それまでの王による国の支配がどういう理屈で正当化されてきたのかということを説明する必要がある。
「王権神授説」というやつだ。それまでの王族による支配権は神が王に与えた権利だった。
神がこの世界を作って人間も作ったのだから神には人間を支配する権利がある。王は神に権利を与えられたので国民を支配する権利がある。
中世の神学者たちが大真面目に神の存在証明に邁進した理由がこれでわかるが、
彼らは頭の体操をしていたのではなく、国家の礎として必要な公共事業として神の存在を証明し続ける必要があったのだ。ご苦労さま。
ところが、王が打倒されて国民が自分たちの代表によって自分たちを支配する国民国家が生まれると、神は必要なくなる。
そして神に変わったものは国民の自我と理性のみとなり、国民は唯一絶対なものであるそれらによって自分自身の足のみによって立つことになる。
これにて「近代的自我」いっちょあがりだ。
なぜなら人間が生まれてくるのは神が「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」といったからだし、日本で言えばイザナキ神が妻ともめて「いとしい妻よ。あなたが千人殺すなら、私は、一日に千五百の産屋を建てよう。」といったためだからだ。
なので神がいる前提だと反出生主義は成り立たない。
フロイトといえば精神分析だが、あとで精神分析の手法が全然間違ってたということがわかったせいで、その功績についても一般的には忘れられている気がする。
フロイトの偉大な功績は2つあって、1つ目は「精神を科学のまな板の上に載せたこと」それ自体。
フロイトは夢分析の過程で人間が表層意識には浮かんでいない、既に忘却している過去のトラウマに影響されて現在の行動を選択していることに気がついた。
患者自身は自分が理性的に考えて選択した結果だと思っていても実は意識に登ってきていない「無意識」によって人間の行動や症状が変化する。
これはすごい発見だった。それまでは人間の行動は意識、つまり自我がコントロールしているとされていたのだから。
フロイト的無意識の例で言うと、チャップリンの「ライムライト」という映画がある。
あの映画のオチでヒロインは忘れていた過去のトラウマを思い出し、それを乗り越えることで身体的な症状も克服する。
これはフィクションだし、ちょっとフロイト的すぎるので、もっと卑近な例を出すと、
犬が苦手だなあと思っていたら、実は記憶にないくらい小さな頃に犬に噛まれたことがあった、とか
梅干しの写真を見たら、「梅干しをこれから食べよう」と意識しなくてもつばが出るとか(パブロフの犬)。
映画の映像の途中で肉眼では認識できないように一枚だけコーラの写真を入れておくと映画館でコーラの売上がのびるだとか(サブリミナル効果)。
こういう感じで無意識が人間の行動に大きく影響を与えるということは、今では常識にまでなっているけれど、これを言い出した始めの人がフロイトというわけだ。
フロイトは原始的な欲望とかが無意識の正体だと考えてなんでもそれで説明しようとして失敗したわけだが、(夢分析の本とか何でも性欲で説明しようとしていてやばい)。フロイトの後続の研究者たちは無意識の概念をさらに発展させていった。
表層意識に上らないのに人間の行動に影響を与えているもの、といえば「不随意運動」だ。
たとえば、眩しい光みたら瞳孔が小さくなるとか、膝を叩いたら足が上がるとかが有名だけどそれだけじゃない。
心臓が動くのを意識して止めたり動かしたりできる人はいないから鼓動も不随意運動には入る。
呼吸も意識すれば止められるけど意識しなくても止まるわけじゃない。意識しているときは随意運動で意識していないときは不随意運動といえる。
ところで人間の意識は脳の一部である大脳新皮質で起こっている反応であることもわかってくる。
脳のその部分以外で起こっているこのと大半も無意識下で行われている。細胞の代謝とか。
さらにさらに、全ての行動に当てはまるわけじゃんないみたいだけど、「人間がある行動をとろうと表層意識で考える一瞬前に、既にその行動を取るためのニューロンが発火している」なんて話も出てくる。
さてそうすると、どうなるかというと、人間が自分の意識で自分の体をコントロールしているという考えは実は間違いで、人間の活動の大部分は無意識がコントロールしていることになる。
意識が肉体(無意識)をコントロールしているという従来の主従の逆転がここで起こっている。
ここまで来ると「無意識」を拡張しすぎて「無意識」ってなにって話になってしまう。細胞の代謝のことを「無意識」という言葉でまとめるのは違和感があるから。
ここでいいたいのは「表層意識下に上らないすべてのもの」みたいな意味であり、一般的な言葉の「無意識」とはちょっと違うものになってしまうので哲学者はこれに「エス」とかいう名前をつけた。
意識ではなくエスが人間の行動を決めるのである。というか人間が何を考えるのかもエスが決めているといえるのだとするとコギトがおかしなことになってくる。
「われ思う故にわれあり」ではなく、「われ思わされているゆえにエスがある。われはあるかどうかわからない」に修正しなければならない。
「生きるのは苦痛である。苦痛でない場合もあるが生んでみないと分からないのでいわばギャンブルである」
「生まれる際に両親は子に生まれてもいいかという同意を取っていない」
「よって生むのは無責任であり生むべきではない」
しかし人間の9割は無意識下の存在であることを踏まえて見ると、見え方が違ってくる。
第一の登場人物である「子」は産まされるという受動的な立場ということになっているが、同意を取るべきタイミングには意識が存在しない。つまり無意識である。
無意識の相手に無理やり生まれることを強制するのかと反出生主義者はいうのだが、これまでの議論で無意識(エス)こそが人間の大部分であることをこれまで延々と説明してきた。
で、重要なことはその「エス」自体は生まれてこようとする方向性を持っている、ということである。
今だに現代人は意識がなければ何も決定することはできないと思っているが、むしろ無意識が先にあって意識が後から形付けられたといえる。そして人間の肉体の不随意運動は生き残ろう、という方向で行動を起こす。
精子の蠕動だって不随意運動だし、卵子の排出だって不随意運動なのでこれらはエスである。
胎児は産道を通るとき自分の体をねじって頭蓋骨を変形させながら外に出てくる。生まれてこようとする意志がそこには感じられるが、もちろん意識も自我もない。
だがそれらの反射が自分自身ではない、というのもおかしな話である。
それらが全て生まれてこようという方向に方向付けられているのに、「本当は生まれてきたくなかった」というのはどういうことなのだろうか。
自意識、理性を過大に評価するのが現代人の病巣であってこれは単に、いまだにデカルトの呪いがとけていないのだと思う。
「生まれてこないほうがよかった」という人間だって、それはそれで大変な状況なのは間違いないのだけれど、ひざを叩けば足が上がるし、急に熱いものに触れられたら自分を守るために手を引っ込める。
生きたくないとか言うけど呼吸は止められなければ、心臓は勝手に動いている。
どう見ても肉体は生きようとしている。
やっていることと言っていることが違う。
でも不思議なことは何もない。自意識なんて人間のほんの一部でしかないからである。
自己の定義を自我に狭めるべきではない。それは単にその方が精神衛生上いいというだけの話ではなく間違っている。
エスの定義は自意識に上がらないすべてのものと書いたが、哲学者によるとこれはつまり「自我」以外の「世界全て」のことを指すらしい。
流石にそこまで悟ることは難しいが、自己の定義を自分の不随意運動、や無意識の習慣程度にまで広げておけばデカルトの作った罠にはまらないで済む。