はてなキーワード: まなざしとは
今回も端から「公的空間」だとか「性的消費」だとか決め付けている人がいるが、ちょっと待って欲しい。
それを理解していない相手のことを思考停止だフェミだオタクだお気持ちだとレッテルを貼るので、
不幸である。
「指定公共機関」でもある「民間企業」の赤十字社で使われたポスターが「性的」で
まず、日本では性的だとされている「女性の乳首」だって、世界各国地域ごとに考えが違うのだ。
異性愛者や同性愛者、無性愛者や動物性愛者(冗談じゃないよ)も存在し、
それぞれに趣味嗜好や価値観もちがうなかで、実は「性的基準」を設けるということが難しいのはわかると思う。
さらにその中で、ポスターなどの表現された「結果だけ」を問題視する人もいれば
このように、「一般に見せても許される性的の範囲」と「許されない性的の範囲」が人によってかなり違う、という前提の確認が必要だ。
そんなものに議論の余地はない、という態度の人は多様性を理解する気がないのだから、
そもそも話に加わるべきではない。
これも「官製」なのか「一般に開放された空間」なのかでも意味が変わるので難しい。
「災害対策基本法により規定されるカテゴリで、災害時に官民が一体となった取組の強化を図るためのカテゴリ」らしい。
この前までエッチな漫画を売っていた「あのコンビニ」も含まれているのだ。
イオン内にだって書店はあるし、当然「宇崎ちゃん」も売っているだろうし、なんならポスターも貼ってあるかもしれない。
献血ルームはお菓子や食品を提供していたり、カフェ風だったり、漫画を置いていたり、内装や形態もかなり自由だ。
清潔感は重要だろうが、アットホームであること、気軽に利用できる気安さを重視する利用者もいる。
狭義では、「青少年保護育成条例」(条例なので、都道府県ごとに呼び名も内容も違う)に基づく区分陳列をさす。
エロの話題になるとすぐ「暖簾の向こうに置け」などという人がいるが、
もちろん、自治体によっては区分の方法が違うので、暖簾の向こうに置かなくてもいい県もある。
広義では、まあ「棚を分ける」とか「売り場を離す」とかそういうことか。
今回の場合は当然後者の話だが、なかには前者の前提でポスターを撤去しろと主張する人もいて驚いた。
今回の件はだめだけど、「コミケでの配布ポスターとしてならあり」「秋葉原や池袋の献血ルームで貼るならあり」という人もいた。
こういった切り分けをして一々考える必要があるのだ。
以上のように、ネットの議論では「当然共通認識があると思っていた言葉」が、
実はそうじゃないことも多いのである。
そういう時は要素を分け、ひとつひとつ自分のスタンスを確認してみるのが確実だ。
さらに「これがいい/だめなら他の表現はどうなるか」という他の具体例まで考えを広げてみれば、また新たな発見があるかもしれない。
北村紗衣が自分にリプライを寄越してきたアカウントに対してこういう返事をしていた
https://twitter.com/Cristoforou/status/1184999914499006464
「下世話な言い方」をすると言っておきつつ、後者を「漫画とコラボしてファンに献血を呼びかける宣伝」と控えめに表現する時点で、ご自分の判断にかなりバイアスがあることは理解されてますか?
俺にはこのへんの感覚がわからない。あれはキャラクターであり、オタクは女の記号を性的にまなざして欲情しながら血を抜かれに行くわけではない。
北村によれば例のポスターは日本のパチンコ店で行われた、ナースコスプレをした女を餌に健康診断を呼びかけ研究倫理上問題があると批判された事例と同様のものらしい
https://twitter.com/Cristoforou/status/1184307481830289408
やっぱりこのへんの感覚が理解できない。ただのキャラクターなんだけど。こういうセンスにはかなりジェンダーバイアスが入っているんだろうか?
見たい。こんな感じのやつあったら教えてください。
辺境の小さな村に仕える女騎士は闇夜に蔓延る盗賊やならず者から村を守ることで村人から慕われていた。天下一と言われる女騎士の剣術で村に平和がもたらされていたが、代わりに課した条件があった。
なんと、それは年頃のショタを女騎士に差し出すことだった。年に一度、村人たちが楽しみに待つ収穫祭の夜に犠牲者は決められる。
饗宴が最高潮に達したころ、女騎士はテーブルを見渡し千鳥足で一人の少年に歩みよると半ば強引に肩を掴み奥の部屋へと連れ去った。ろうそくの炎で照らされた少年の顔は蒼白になると同時に、テーブルに残された人々の顔には安堵の色が広がる。
このあと、三日三晩繰り広げられた驚きの行為とは...
第二章「正義の鉄槌」
女騎士のショタを求める欲望は初めのうちは祭りのときだけだったが次第にエスカレートしていった。その噂は「辺境のショタ喰女騎士」として皇帝に耳に入るほどになっていたので、皇帝は一人の密偵を村に派遣し現状の調査を命じた。後に皇帝の大失策として語り継がれるこの密偵はショタだったのだ。旅人に扮して辺境の村に向かった少年密偵は、女騎士の館で歓待を受ける。ギラギラとした欲望のまなざしを向けられながら夕食を共にしたすぐ後、隣室で村の少年が四肢を押さえつけられ凌辱されているのを目撃してしまう。噂は本当だったのだと確信した密偵は急いで駆け出し、全力の逃走劇を繰り広げる。しかし、百戦錬磨の経験値と鍛え上げられた強靭な肉体を持つ女騎士からは逃れられず捕まってしまう。
後日、皇帝に出された報告書にはたった一言だけ「女騎士は優しくもてなしてくれました。」と書かれるのみだった。少年密偵を呼び出し問いただしても、頬を赤く染めながら同じ言葉を繰り返すのみであった。
いったい、彼の受けた女騎士からの深くて熱い「もてなし」の真相とは...
肉欲の限りをつくした女騎士の行動もついに白日の下にさらされ、騎士としての身分をはく奪され失意のままその一生を終えると思えた。しかし、その国に並ぶものはいないと言われた剣術の腕が彼女を救った。彼女は名前と容姿を変えて剣術の師範として皇帝に仕官したのであった。女騎士としてではなく一人の女として第二の人生を始めた彼女は狂い始める。なんと、皇帝はショタだったのである。ショタ皇帝に身体を密着させての剣術指導を重ねていくうちに自らの欲望を抑えきれなくなった彼女は...
https://togetter.com/li/1369547
http://toianna.hatenablog.com/entry/2019/06/25/205348
この辺読んでいて、そういえば自分はツイフェミだった時期があったなと思い反省文を。
自分がフェミニズムに興味を持ったきっかけというか要因は、人権問題に関心のあるリベラルな学生だったからだろう。私は当時ネット上で左派的な言説の多くを観測しており、その流れでフェミニストたちのアカウントをフォローするようになっていった。
彼らは現代においてなお残っている実に多くの女性差別を暴き、実に多くの不正義を告発している、ように見えた。彼らの主張はおおむね正しいように見えたし、差別によって苦しみ、不利益を被っている女性がいるのなら、この状況は是正されなければならないと思った。また自身(男性である)が無意識に女性差別的な行動を取ってしまっていないか、という点にも大いに過敏になった。
身近に思いっきりセクハラの被害に遭っている女性がいたので尚更こういう話題に関心が出たのかもしれない。フェミニストたちの行動の裡に潜む暗い衝動の存在に私が気付くのは、ずっと先のことである。
といっても、私もフェミニズムに首までどっぷりとは行かなかった。あの界隈には単に男性嫌悪を拗らせただけと見える人も多くいたし、彼らのいくつかの主張(例えば「権力勾配」「まなざし」など)については本当に正しいのか確信が持てなかったので判断を保留していた。
とはいえ、各論においてはともかく、総論においては同意していたのは事実だ。
で、私がフェミニズムという運動そのものに疑問を持ったきっかけだが、それは例の「女だけの街」騒動だった。
あの騒ぎ自体はよくあるしょうもない炎上騒ぎなので、わざわざ論じる価値はない。ネット上でよくある異性叩きコンテンツのいち類型にすぎず、個別に論じる事自体が時間の無駄だと思っている。
ただあの炎上は私にとってひとつ大きな収穫があって、それはフェミニストたちのある姿勢が露わになったことだった。
事の経緯としては、最初にとある女性が書いた「女だけの街があったら夜道で怖い思いをしなくて済むのに」といったようなツイートが発端だったと理解している。これ自体はまあ、政治的に正しいかどうかはともかく、単なる愚痴にすぎないだろう。なのでこれ自体を正しいとか正しくないとか言うつもりはない。人間はたまには正しくない愚痴を吐きたくなるものである。
が、人権という原則に照らし合わせてこの発言が色々とまずいのも事実だ。ヒトラーだって同じことを言っていただろう。「アーリア民族だけの国があったら良いのに」と。「〇〇だけの街(国)」というアイデアは古今東西多くの虐殺を引き起こしてきたのだ。
それなのに、フェミニストたちはこれを「素朴な心情の吐露にすぎない」と擁護していた。
なるほど確かに「素朴な心情の吐露」ではあるかもしれない。だが「素朴な心情の吐露」なら何を言っても良いのだろうか?件の発言が「日本人だけの街」だとしても彼らは同じように擁護しただろうか?「女は男に比べて頭が悪い」と素朴に信じている人間が自身の考えを披露するのもOKだということになるのだろうか?そもそも、そういう「素朴さ」の裏に張り付いた偏見や認知の歪みを告発してきたのがフェミニストではなかっただろうか?
本当なら、フェミニストたちはこの発言を擁護するべきではなかったのだ。
繰り返すが、人間は時に政治的に正しくない愚痴を吐くものだ。だが炎上してひとつの論点として浮上してしまった以上、擁護するべきではなかった。せめて「気持ちは分かるけどその言い方はまずいよ」と諌めるくらいのことはするべきだった。
なのに彼らはそれをやらなかった。
その時の様子を見て私は愕然としたのを覚えている。単に男性嫌悪をこじらせた似非フェミニストばかりではない。ある程度誠実に、論理的にものを言っている(ように見えた)フェミニストたちも、揃って件の発言を擁護し、食ってかかる人間へ罵倒を浴びせていた。彼らはお定まりのお題目ーー男性社会の犠牲者ーーを大声で唱えた。私たちは被害者だ、奴らが悪いのだ、と。
なんということはない。彼らの行動原理は正義などではなく、結局のところつまらない党派性と暗い攻撃衝動にすぎなかったのだ。ニーチェの言うことろの奴隷道徳というやつだ。
彼らの言葉の底が見えた瞬間だった。
「日本人だけの街」がアウトで「女だけの街」がセーフだと主張するには、おそらく根拠として例の「権力勾配」という概念を持ってくるしかないだろう。
「権力勾配」の扱いは長らく自分のなかで答えが出せていない問題だった。例えば人種隔離政策が実施されていた時代のアメリカで、黒人が白人を殴ることと白人が黒人を殴ることを同列に扱うことはできない、なぜなら黒人は被差別階級だからだ、という主張は、必ずしも狂ったものだとは言えないだろう。
ただ、私としては最終的に、これは否であると判断するに至った。理由は大きく分けてふたつある。
第一に、この主張は結局のところ、「人権の内実はその個人の属性によって変化する」と主張しているに等しいことがある。
人権というのはつまるところ社会的フィクションにすぎないのだが、ここを切り崩すことを許してしまうのはどう考えても悪手だ。女性差別を問題にできるのも、つまるところ「万人が等しく人権を持つ(べきである)」という原則があるからだ。その原則がなければ、性別、民族、性的指向、政治志向、その他あらゆる属性によって、恣意的に個人の権利を制限することができるようになってしまう。これは到底受け入れいることができない。「権力勾配」という概念は人権という原則に照らし合わせて筋が悪いばかりか、フェミニズムが拠って立つ基盤を自分で切り崩していることにもなる。
女性差別の撤廃という正しい目的を達するために、正しくない手段を用いることは正当化できるだろうか。
これは難しいところだ。政治的な目的を達するため不正な手段を用いることが、一時的な戦略として必要であるという考えは理解できる。が、例えば共産主義革命という「正しい」目的を達するためにいかに多くの人が殺されてきたか、ということを考えると、やはり首を縦に振ることはできないだろう、という結論を暫定的にだが出すことになった。
例えばアファーマティブアクション(これは自分は否定的なのだが)なんかは、マクロな不均衡を是正するためにミクロな差別を導入する、という政策だろう。他にも、件の医大入試における女性差別問題なんかでも、一概に「差別だから悪だ」とは言い切れない事情があるのは理解できる。
社会というものは原則どおりには動いてはくれず、難しいものだなと常々思う。
ともかく、あれ以来、フェミニストたちの言説がどういうものだったのかが、なんとなく見えてきた。彼らのやり口はネット右翼よりは洗練されているかもしれないが、その本質においては何も変わるところがないことが分かってきた。
敵を作ることで味方を定義し、団結させる。それは人生に不満を抱えた人間たちを動員する効率の良い手段だ。日曜革命家が効率的に票田を獲得し、鉄砲玉を生産するための手段。こういうメソッドは社会に遍く見られるもので、今日もどこかで誰かが動員されているのだな、とネットで怒っている人を見るたびに思う。
今更気づいたのか、と言われれば返す言葉もないが、当時の私はちょっとばかり難しい本を読んだだけで社会については全く無知な学生だったのだ。ちょっと首を突っ込んだだけの段階でフェミニズムのおかしさに気づき、取り返しがつかなくなる前に抜け出せたのは僥倖だったのではないかとも思う。
昨今、TERF関連でまたフェミニズムが面白いことになっており、トランスジェンダーに対するフェミニストたちの態度を見ていて、あの時フェミニズムから離れた自分の判断が正しかったことを再確認している。そのことにはなんの喜びもないが、少なくとも自分がもう彼らの一員でないことは嬉しく思うし、あの集団的な狂気から一人でも多くが目覚めてくれれば良いと思う。
教訓があるとしたら、人々の情動を喚起して動員する手口を直に学べたことと、原理原則において一貫性を保つことの重要さだろうか。社会運動自体が不要だとは思わないが、少なくとも自分は、正義を叫ぶ人間の言葉を、以前よりずっと注意深く観察するようになった。それとリベラルが必ずしも味方だとは限らないということも学んだ。
エロ漫画を描く行為を批判したら「きちがいふぇみがぁぁぁぁぁ、まなざしむらがぁぁぁぁぁ」してた人達が、ただの批判だからと言う権利はないんだよね。エロ漫画を描く行為への批判を受け入れて初めて権利も得る。
その表現の権利を認めた上で口を極めて批判するならそれは正当だしその時にzyzyの主張も成り立つ。
現状ではただの詭弁だよね。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4671687466976236546/comment/zyzy
エロ漫画を描く行為を批判したら「きちがいふぇみがぁぁぁぁぁ、まなざしむらがぁぁぁぁぁ」してた人達が、ただの批判だからと言う権利はないんだよね。エロ漫画を描く行為への批判を受け入れて初めて権利も得る。
うん、後者については、まあそうだね。
(エロ漫画を描く行為を批判したら云々という点が分からなかったけれど。一部フェミニスト?zyzy?はエロ漫画:男性向けも女性向けも含むのだろうけれど――を描く行為を、どういう脈絡で批判したのだろう)
その表現の内容が、あまりにも妥当性を欠いていれば、批判者は多くなり、また、例えば一般企業など、社会的信用を重視するところは離れていきやすくなるね。
その覚悟をもって、それでも表現したいなら、その表現自体が犯罪でないならば「公権力で」抑え込むべきものではない(=表現の自由)。
ただ、さっき書いた通り、スポンサーや関係者などが「この表現を放置していたらウチの信用も落ちる」と判断して取り下げる(取り下げさせる)のは構わないし、
逆に言えば、「ウチの信用がたとえ一時的には落ちたとしても、この表現を守りたい」と判断して継続するのも構わない。これらの態度も立派な「表現の自由」。
で、
zyzyはさ、自分の普段の言動(主にブックマークコメント)が、まさに「きちがいふぇみがぁぁぁぁぁ、まなざしむらがぁぁぁぁぁ」だと思われていることは自覚している?
少なくとも私は、zyzyのブックマークコメントを見てちょくちょく、「この人おかしい」と感じているし、多分、結構多くの人が、同じことを思っている。
実際、メタブックマークや増田などでも、時々批判されているよね。そして、その多くは結構真っ当な批判だと思うよ。
その批判、zyzyはきちんと受け止めている?
自らを省みている?
「きちがいみそじにすとがぁぁぁぁぁ」とかレッテル貼って無視を決め込んでいない?
自分の表現の権利を主張する上で、その表現に対する批判を一番に受け入れるべきは、zyzyだと思うよ。
自由に「きちがいふぇみがぁぁぁぁぁ、まなざしむらがぁぁぁぁぁ」とでも書けばいいと思うよ。
それを見て、「ま、この程度の人だよな」と、私も判断させてもらうから。この判断も表現の自由(というか、思うだけなら内心の自由かな。増田に書くことが表現の自由)だよね。