2019-08-25

私がフェミニストから離れた理由

私がフェミニズムから距離を置く理由

https://togetter.com/li/1369547

フェミニストであることに疲れた

http://toianna.hatenablog.com/entry/2019/06/25/205348

この辺読んでいて、そういえば自分はツイフェミだった時期があったなと思い反省文を。

フェミニズムに接近したきっか

自分フェミニズムに興味を持ったきっかけというか要因は、人権問題に関心のあるリベラル学生だったからだろう。私は当時ネット上で左派的な言説の多くを観測しており、その流れでフェミニストたちのアカウントフォローするようになっていった。

彼らは現代においてなお残っている実に多くの女性差別を暴き、実に多くの不正義を告発している、ように見えた。彼らの主張はおおむね正しいように見えたし、差別によって苦しみ、不利益を被っている女性がいるのなら、この状況は是正されなければならないと思った。また自身(男性である)が無意識女性差別的な行動を取ってしまっていないか、という点にも大いに過敏になった。

身近に思いっきセクハラ被害に遭っている女性がいたので尚更こういう話題に関心が出たのかもしれない。フェミニストたちの行動の裡に潜む暗い衝動存在に私が気付くのは、ずっと先のことである

といっても、私もフェミニズムに首までどっぷりとは行かなかった。あの界隈には単に男性嫌悪を拗らせただけと見える人も多くいたし、彼らのいくつかの主張(例えば「権力勾配」「まなざし」など)については本当に正しいのか確信が持てなかったので判断を保留していた。

とはいえ各論においてはともかく、総論においては同意していたのは事実だ。

疑問

で、私がフェミニズムという運動のものに疑問を持ったきっかけだが、それは例の「女だけの街」騒動だった。

あの騒ぎ自体はよくあるしょうもない炎上騒ぎなので、わざわざ論じる価値はない。ネット上でよくある異性叩きコンテンツのいち類型にすぎず、個別に論じる事自体時間無駄だと思っている。

ただあの炎上は私にとってひとつ大きな収穫があって、それはフェミニストたちのある姿勢が露わになったことだった。

事の経緯としては、最初とある女性が書いた「女だけの街があったら夜道で怖い思いをしなくて済むのに」といったようなツイートが発端だったと理解している。これ自体はまあ、政治的に正しいかどうかはともかく、単なる愚痴にすぎないだろう。なのでこれ自体を正しいとか正しくないとか言うつもりはない。人間はたまには正しくない愚痴を吐きたくなるものである

が、人権という原則に照らし合わせてこの発言が色々とまずいのも事実だ。ヒトラーだって同じことを言っていただろう。「アーリア民族だけの国があったら良いのに」と。「〇〇だけの街(国)」というアイデア古今東西多くの虐殺引き起こしてきたのだ。

それなのに、フェミニストたちはこれを「素朴な心情の吐露にすぎない」と擁護していた。

なるほど確かに「素朴な心情の吐露」ではあるかもしれない。だが「素朴な心情の吐露」なら何を言っても良いのだろうか?件の発言が「日本人だけの街」だとしても彼らは同じように擁護しただろうか?「女は男に比べて頭が悪い」と素朴に信じている人間自身の考えを披露するのもOKだということになるのだろうか?そもそも、そういう「素朴さ」の裏に張り付いた偏見認知の歪みを告発してきたのがフェミニストではなかっただろうか?

本当なら、フェミニストたちはこの発言擁護するべきではなかったのだ。

政治的に正しくないから袋叩きにするべきだとは思わない。

繰り返すが、人間は時に政治的に正しくない愚痴を吐くものだ。だが炎上してひとつ論点として浮上してしまった以上、擁護するべきではなかった。せめて「気持ちは分かるけどその言い方はまずいよ」と諌めるくらいのことはするべきだった。

なのに彼らはそれをやらなかった。

その時の様子を見て私は愕然としたのを覚えている。単に男性嫌悪をこじらせた似非フェミニストばかりではない。ある程度誠実に、論理的ものを言っている(ように見えた)フェミニストたちも、揃って件の発言擁護し、食ってかかる人間罵倒を浴びせていた。彼らはお定まりお題目ーー男性社会犠牲者ーーを大声で唱えた。私たち被害者だ、奴らが悪いのだ、と。

なんということはない。彼らの行動原理正義などではなく、結局のところつまらない党派性と暗い攻撃衝動にすぎなかったのだ。ニーチェの言うことろの奴隷道徳というやつだ。

彼らの言葉の底が見えた瞬間だった。

日本人だけの街」がアウトで「女だけの街」がセーフだと主張するには、おそらく根拠として例の「権力勾配」という概念を持ってくるしかないだろう。

権力勾配」の扱いは長らく自分のなかで答えが出せていない問題だった。例えば人種隔離政策実施されていた時代アメリカで、黒人白人を殴ることと白人黒人を殴ることを同列に扱うことはできない、なぜなら黒人被差別階級からだ、という主張は、必ずしも狂ったものだとは言えないだろう。

ただ、私としては最終的に、これは否である判断するに至った。理由は大きく分けてふたつある。

第一に、この主張は結局のところ、「人権の内実はその個人属性によって変化する」と主張しているに等しいことがある。

人権というのはつまるところ社会フィクションにすぎないのだが、ここを切り崩すことを許してしまうのはどう考えても悪手だ。女性差別問題にできるのも、つまるところ「万人が等しく人権を持つ(べきである)」という原則があるからだ。その原則がなければ、性別民族性的指向政治志向、その他あらゆる属性によって、恣意的個人権利制限することができるようになってしまう。これは到底受け入れいることができない。「権力勾配」という概念人権という原則に照らし合わせて筋が悪いばかりか、フェミニズムが拠って立つ基盤を自分で切り崩していることにもなる。

第二に、目的手段正当化するか?という問題がある。

女性差別撤廃という正しい目的を達するために、正しくない手段を用いることは正当化できるだろうか。

これは難しいところだ。政治的目的を達するため不正手段を用いることが、一時的戦略として必要であるという考えは理解できる。が、例えば共産主義革命という「正しい」目的を達するためにいかに多くの人が殺されてきたか、ということを考えると、やはり首を縦に振ることはできないだろう、という結論暫定的にだが出すことになった。

例えばアファーマティブアクション(これは自分否定的なのだが)なんかは、マクロな不均衡を是正するためにミクロ差別を導入する、という政策だろう。他にも、件の医大入試における女性差別問題なんかでも、一概に「差別から悪だ」とは言い切れない事情があるのは理解できる。

社会というもの原則どおりには動いてはくれず、難しいものだなと常々思う。

まとめ

ともかく、あれ以来、フェミニストたちの言説がどういうものだったのかが、なんとなく見えてきた。彼らのやり口はネット右翼よりは洗練されているかもしれないが、その本質においては何も変わるところがないことが分かってきた。

敵を作ることで味方を定義し、団結させる。それは人生に不満を抱えた人間たちを動員する効率の良い手段だ。日曜革命家効率的に票田を獲得し、鉄砲玉を生産するための手段。こういうメソッド社会に遍く見られるもので、今日もどこかで誰かが動員されているのだな、とネットで怒っている人を見るたびに思う。

今更気づいたのか、と言われれば返す言葉もないが、当時の私はちょっとばかり難しい本を読んだだけで社会については全く無知学生だったのだ。ちょっと首を突っ込んだだけの段階でフェミニズムおかしさに気づき、取り返しがつかなくなる前に抜け出せたのは僥倖だったのではないかとも思う。

昨今、TERF関連でまたフェミニズム面白いことになっており、トランスジェンダーに対するフェミニストたちの態度を見ていて、あの時フェミニズムから離れた自分判断が正しかたことを再確認している。そのことにはなんの喜びもないが、少なくとも自分がもう彼らの一員でないことは嬉しく思うし、あの集団的狂気から一人でも多くが目覚めてくれれば良いと思う。

教訓があるとしたら、人々の情動喚起して動員する手口を直に学べたことと、原理原則において一貫性を保つことの重要さだろうか。社会運動自体不要だとは思わないが、少なくとも自分は、正義を叫ぶ人間言葉を、以前よりずっと注意深く観察するようになった。それとリベラルが必ずしも味方だとは限らないということも学んだ。

以上。駆け足で書いたので日本語が若干こなれていない感じはするが、推敲も面倒なのでこれで。

  • anond:20190825140546

    チン騎士やってモテましたか?

    • anond:20190825141729

      モテ目当てじゃねえ、ってのは置いとくとして、 チン騎士諸氏においては、性嫌悪渦巻くフェミ界隈でモテを目指すってどういう倒錯なんだろうと思う

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