nイコールいくつの話か知らんが、そいつらは教師じゃなくて芸術家だから。
美術教師ってのも大概にして偏屈が多いな。芸術家肌じゃないとわからない世界だわ。逆に、1%でも芸術家肌の性質を備えてる人には、なんとなく教師側に共感してしまうものがある。
ここまで「絶対に許さない」って発散できるのは逆に羨ましいというか。ひどい虐めではないけど、嫌いだった人物とばったり再会した時に冷や汗だらだらで精一杯に知らないふりした記憶がよみがえった。
今日母親が階段で首吊り自殺をしようとしていた。階段のところにあるオペレーター式の窓のチェーンに首を括り付けてそのまま階段から滑り落ちて首を吊ろうという魂胆だったらしい。
私は二階にある自室にいて、やたらバタバタと階段の方が騒がしいな、と思ったので様子を見に行ったら、無表情でチェーンを首に巻いた母親がいた。母親の首には赤い跡が付いていて、「もうこうするしか方法がない」と言った。私は驚きよりも悲しみや怒りや呆れといった感情を強く抱いた。
母親が自殺未遂をしたのは、たぶんこれで5回目。たぶんというのは、嫌な記憶が忘却されつつあって覚えている範囲でも曖昧な部分があるからだ。5回という数字を客観的に見ると、多いなと思うし、でもその数字以上に考えさせられることはたくさんある。
今回の自殺企図をする前も、私は母親と明日通院している心療内科にかかりに行くことを約束した。私の記憶が正しかったら、前にこういうことがあった時にも、もうしばらくは自殺しようとしないと二人で決めていた。「自殺しないとはっきり約束してもらう」という対策法をどこかで見てから実践している。けれど、その決まりごとはは毎回破られる。その度に私の心は折れる。
自殺をしようとする人に対して、掛けてはいけない言葉がある。自分の意見を押し付けずに話を傾聴しましょう、とかこういう対応の仕方をしなければいけないみたいなマニュアルのようなものがあることは知ってる。でも、それを遵守できるのは、心が病んでいない人間だけのように思える。少なくとも私は、繰り返される自殺未遂に疲れてしまって、母親が希死念慮を強く持つたびにもういっぱいいっぱいで、抑えていた気持ちが怒りとなって爆発してしまうようになった。自分がダメなことは分かっているけど、それをどうしていいか分からない。
母親は「うつの気持ちはうつになってみないと分からない」と言うけど、うつ病患者の近くにいる人の気持ちもも、その立場になってみないと分からないと思う。
躁鬱とまではいかないが、母親は気分の変調が激しい。数週間前まではテレビを見て、家事をして、と日時生活を普通に遅れるのに、少し躓くと抑うつ傾向になってどんどん気持ちが落ち込んでいっている。体調が良いときはどこにでもいる普通の母親みたいなのに、体調が悪くなると過去に何度も自殺未遂をした希死観念の強いうつ病患者の顔になる。その変容の激しさも自分の心の波が一定にならなくなってしまった原因のひとつだと考えている。
そして私は、母親が自殺未遂をしたなんてことを微塵も感じさせない笑顔を作って新学期を迎えて、友達に会う。
自殺を試みる人は、何度だって自殺しようとするし、止めることができなくても、それがその人の寿命なんだと捉える考え方もあるらしい。
自殺を止めて、それで苦しみながらも生きて、また死にたくなって。死んでしまうのとどっちの方が辛いんだろうと最近になって考え始めた。
続きが書きたくなった。
「恣意的」って言葉、ようは糾弾の場面で使われるものじゃないか?
といいたくて使ってると思う。
糾弾対象の横領・癒着の疑惑を感じるが、しかし具体的な証拠を挙げられない状態で、しかし無実だったりして逆に自分が責められる状況を想定して、
【お、おれはまだ「犯罪だ」と指摘した訳でもなく、一定のルールに従ってると思えないと指摘したまでだよ】
と逃げたい。
自分に矢の当たらない形で糾弾だけをするために、元々あった言葉を不自然に曲げて使っているものじゃないのか?
とまあ、そのあと自分の中でまとめていた。
でなんでまた続きを書きたくなったかというと、最近の森友問題の件、こういった感覚で「忖度」を持ち出した感があると思ったからだ。
https://www.buzzfeed.com/kotahatachi/what-is-mizuhonokuni31?utm_term=.uw4BgBd80#.vj16a6EbK
「最近になって、『上役などの意向を推し量る』場合に使う用法が増えたように思います。おべっか、へつらいというか。上の者に気に入られようとして、その意向を推測する。ちょっと特別な時に使われるようになった」
字義からいったら、森友問題で一番「忖度」してもらう対象は申請をした森友学園。(もちろん、忖度というのは1人に対してのみ行われないから、関連人物全てが忖度の対象ではあるが)
だから、政権フォロワー(ネット上の右翼シンパや維新)に【忖度の何が悪い】【どこに証拠がある】【不正ではない】【陳情を受け入れるのが政治家】と居直られたり反論される結果になり、さらにフォロワーを増やしてしまってコジレを発生させている。
本来、最初に追究されるのは「何者かが何らかの不適切な行動を取ったか」であり、その追究を終えて、その次に【誰が、誰に「斟酌」したか】だ。
かの官僚等がルールを曲げて斟酌して不適切な行動を取った、その理由は何者かを「忖度」したからだと。
で、結局、一体「誰が、何を斟酌したのか」が不明なまま、裏を取らずに、そこすっ飛ばして首相を糾弾する姿勢を見せたかったから「忖度」なんて言葉を使ったのじゃないかな。
珈琲が不味い。固有名称は出さないがMAC開いている奴らが多い場所だ。
この珈琲店を支持するやつらは言う。
「不味いのはわかっている我々は雰囲気を楽しんでいるのだ。」と
確かに珈琲のレベルがそこまでうまくなくてもいい。しかし限度を超えて不味すぎる。
「そもそもお前が俺らの行動に口を出すな」という意見もあるだろう。
しかしよく考えてみてほしい。清朝末期に英吉利人は支那人に大量の阿片を売り付けた。この結果どうなったか?
ゴミは大きな意思を持って駆逐しない限り社会に蔓延し国家を蝕むのだ。
悪貨が良貨を駆逐するごとく悪珈琲は良珈琲を駆逐するのだ。
最近ではこの珈琲店を真似して砂糖たっぷりの糞まずい珈琲をだす店が増えてきた。
まずい珈琲を高い金出してのむ奴らは回りや社会に迷惑をかけていることを自覚してほしい。
話は変わるが、私の知っているアメリカ人たちはこう言う低品質な珈琲は飲まない。アメリカ人は食文化が二極化しておりジャンクフードを主食とするウェーイ層とそういうものを全く食べない金融IT法律医等の分野で働く層に別れる。
私はもういい年の三十路の女です。
最近、SNSで知り合い仲が良くなって、頻繁に遊びに行ったり、自分の部屋に呼んで飲んだり泊まったりできる友人(女性)ができた。
それなりの時間をかけて、トラブルもなく順調に仲良くなっていって、本音も少しずつではあるけど話せるようになっていった。
しかし、それは突然終わりを告げた。
つながりを切られていた。
切られたことに対してのショックはなく、純粋に驚いた。
ネット上だけの関係なら繋がりを切ることに躊躇など必要ないとは思うのだが、自宅に行き来するような仲でもそういうことができるのか、と。
しかし、切られたことに対して攻める気持はないし、あちらからしたらその程度の関係だったということだろう。
と、思ってはいるのだが、これがキッカケで「友人を作る」ということの難しさをまた痛感することになった。
誰しもそうだとは思うが、人間関係で大きかれ小さかれトラブルを経験すると「マイルール」ができてくると思う。
それは事あるごとに変化していくものだが、今回の件でそのマイルールが全て無駄だったと思った瞬間、友達を作ることができなくなるのでは、と恐怖を覚えた。
仲を深める、ということは、会話が重要だと思う。
自分はなるべく会話で相手を知る、自分を知ってもらおうと思っている。
当然、後悔している。
「あの時、なんで話をちゃんと聞いてあげなかったのだろう」
「あの時、ああ言わなければよかったんじゃないか」
よくある、と表現するのは不適切かもしれないが、本当にそう後悔している。
死ぬまで後悔しつづけると思う、だからこの後悔は当然マイルールに影響している。
おそらく誰しもがそうしてるであろう内容なので、書かないといけないのか?と思われるかもしれないが、自分メモとして、ざっと書き出してみたい。
・相槌は必ず打つ。
・相手の立場になって話を聞く。(相手の心情をなるべく理解できるように)
これは私が相手にすることであって、相手が必ず私にしてくれることではない。
他にも、会話の内容だけではないが、自分にとっての常識が他人にとっての非常識な場合もあるし、その時の相手の精神状態などもあるだろうから、一概に全てをこのマイルールに適用させることはあまりない。
そうやって色々、相手のことを考えつつ、自分のことも考えて築いていくのが人間関係なのだと、思っている。
私にはそれができない、できていないようだ。
「気が合う友達」というのが親友以外名前を挙げれないのだが、親友は私に対してそう思ってくれていたのか、今では確認のしようがないから不安と疑問と恐怖でいっぱいだ。
だからと
いって、その気持を払拭するために、もし今後「気が合う友達」ができた時に「私はこう思っているがそう思ってくれているか」なんて聞けることもないだろう。
私は「遊びや旅行などに誘いあえる」「なんでも話ができる」「助け合える」ことができる友人が欲しいと思っている。
突き詰めていけば、もう一人自分がいればいいのだが、この世にコピーロボットは存在しないから無理な話。
しかしどうすればそんな友人ができるのだろうか。
そもそも、人付き合いがとても苦手なのだ。
だから受動的になったというか、自分から率先していくことはなくなった。
自分から見て、この人とは付き合わないほうがいい、と思って離れると、自分だけが離れてしまうことばかりだった。
いつも孤立する側で、周りに人が残らなくて、全てリセットされてしまった。
その度「私がおかしいのだ」と思ったし、今でも思っている。
それと私には「人を見る目がない」から友人がいない。
たまに「あなたは人が良すぎる。もっと自分を出したほうがいい」と言われるのだが、そういうことばかりだと自分はなかなか出すことができない。
どうにかしないと、と思って入るが、出会いの場もそもそもどこにあるのかわからない、一般的に使われているSNS以外のどこで友人ができるのだろうか。
皆どこで友人を作っているのだろう、出会っているのだろう。
よく「趣味の集まりで」等きくが、その集まりはどこでできた集まりなのか。
そこには人と人の繋がりがあってできる集まりと、ネットサービスでの集まり等様々があるのだろうが、そもそもそこにたどり着くプロセスが形成できない。
仕事でも社内以外の人間と接することは一切ないただの事務職なので、その繋がりを作ることもできない。
もし仮にまたできたとしても、コミュ障特有の気持ち悪いしゃべりしかできないので、そこから関係を広げられるかどうか不安もある。
不安を言い出したらキリがない。
そもそも、人と付き合うことに対して恐怖を持っているのかもしれない。
私は「親しくなりたい」と思ってもらえない人間なのだろうとも思う。
どうすればそれを覆せるのかもわからない、多分今までもそう思って行動を取っていたかもしれないが、失敗しているんだろう。
こんな人間が結婚できると思えないし、そもそも結婚願望もない、子供がほしいとも思わない。
ただ、諦めることはなく、これからも友人を作りたいとは思っている。
ずっとこんな気持でいながら作らねばならないのか、と気が重くはなるが。
ここまで読んでくれた人、ありがとう。
以下に示すのは、痛いニュースが国内の政治家・政党に言及した2月以降の記事の一覧である。
森友事件に関する報道が盛り上がったころから、2月22日の蓮舫を揶揄する記事を最後になぜか国内政治に関する記事が1ヶ月近くなかったのだが、最近になってまた野党批判を再開していることがわかるだろう。
同種の政権擁護サイトであるハムスター速報や保守速報が熱心に政権擁護を繰り広げる中、痛いニュースが森友事件への言及を避けてきたのは、ある種の慎重さのあらわれだったのだろうか?
しかし、満を持して野党批判を再開し真っ先に飛びついたネタが、既に不発に終わった辻本デマという点には致命的なセンスの無さを感じざるを得ない。
これから痛いニュースが他の政権擁護サイトと同様に、なりふり構わず政権を擁護する戦線に加わるのか、それとも再び国内政治への言及を避け日和見を決め込むのか、その動向を注視していきたい。
なんつうか、「やればできる」の虚構に気づいてしまうんだよね。
あるラインまでは努力でなんとかなっても、それ以上に昇るためには努力だけではなく、それこそ「強運」とか「性格」とか「DNA」が必要だと悟ってくる。。
それに直面した時、自我を変えようとするアクセルが突き抜けてしまい、例の芸能人のように「出家」してしまう人も出てきたりと。
うーん。
大学のサークルを通じて、飲み会の後からの雑魚寝状態から、なんか、ふわふわっとさわさわしてたんだわ。
そしたら、その女子ブスだったけど付き合うことになった。
で、初体験は、どうやって挿入したらいいのか、正直、分からんかった。
横になって、正常位から挿入って、どうするのか、分からなくて。
結局、カタくないと入らないかなーって思って自分のお手手でシコシコしてたら、ドピュって。
「最悪じゃん、いや、これ最悪じゃん」
いちゃいちゃして適当に終わって。
国民国家という水準をグローバリズムは確かに凌駕する。だが、グローバリズムという「環境」を自由に泳ぐことが出来るのは、経済的体力や能力資本を持っている人間だけだ。大半の人間は満足に泳げずに溺れてしまう。溺れた人々がとりあえず掴むモノとしては、ひとまずは国民国家しか用意されていない。
からあげ。
これ頼むと、見下されて、育ちや社会人としての程度を問われる。
そのくせ、みんな大好きで、内心食べたがってるから、
他人を見下しておいてそれにあやかろうという、薄汚い駆け引きが笑顔の下に存在する。
”また唐揚げぇ〜?w”って、おまえ、嬉々として食ってるだろうが。
たこわさ。
量少ない、取りづらい、箸で取ると汚い、好みが分かれる。もう最悪。
サラダ。
とりあえずサラダとかって思ってるのかもしれないが、別にうまくないってみんな内心思ってる。
豚キムチ。
各位が色々なタイプの怒り方をするのは承知しているが、その一種として、公共空間を専有されたことに対する社会正義発動おじさんがいるのではないか。
もちろんそのようなおじさんは公共とかどうでもよくて、自分が観てもおもしろくないコンテンツが出てきたことに対する感情を爆発させているに過ぎないのだが、
昨今のはてなブックマークは様々な背景をもった人が利用しており、旧来のインターネットユーザだけでなく、文章を読まない人からはじまり、
はてなブックマークのトップページを新聞か何かのように捉えている人もいるように見受けられる。
旧来のインターネットユーザからすると腹立たしいことも多いとは思うが、はてなブックマークを通して今まで分断されていた集団が交わるのもある種の面白さがあるとは思う。
でも、そうやってF1, F2層の精神年齢って下げ止まらされるんだよ。
洗脳のようにね。
少年達が世界を変えることはなく、目指していた場所はすでに手に入っていた
というのが結論なのだろうか。
劇的な革命による世界変革ではなく、中庸を保ちながら無事着地させる終わり方でよかったと思う。
アニメや小説にはどうしても伏線だったり物語性が欲しくなるけど、現実社会には偶然に偶然が重なって進んでいくのだから、現実性と任侠話を重視するとこの終わり方は仕方ないかなとも思う。
が、個人的にはあくまでフィクションなんだから、現実社会と同じでダメな奴は報われないまま終わって、居場所はもともとそこにあった…って最初からなにも成長してないってことかと、スッキリしない。
最終回予想で言われてた、マクギリスがバエルのチート能力を発動させつつガンダムに飲み込まれて三日月に仕留められるか、MAを起動させて三日月に仕留められる展開を見たかった。
二期で気になったことが背景描写不足。
なぜキャラがそのような行動をとるのかいまいちわからなかった。
シチュエーション的になんとなくわかるのだが、前からそんなこと言っていたかな?というパターンが多かったような。
話の展開上ご都合的に動かされている感じが否めなかった。
マクギリスについてはアグニカカイエルのことをもっと早く言っておくべきだった。
特に二期登場キャラは描写不足を感じる。
ジュリエッタ、(石動も)なぜ主人にあそこまで仕えるのか不明。
(ジュリエッタは作中まともなキャラなのに、なんで蝶々食べた)
ラスタルが民主的なシステム構築をもともと目指していたような終わり方だったが、マクギリスのクーデターに便乗して美味しいところだけ持って行ったようにしか見えず、実はそんなこと考えてたの⁉という印象。
もし、マクギリスがクーデターを起こした本当の理由が、人心掌握権謀術数に長けかつ民主的な社会を目指しているラスタルに自分を打たせることで、ギャラルホルンの膿を出し、自分の理想の社会を構築することだったのなら
逆にラスタルがマクギリスを利用して…という展開もあるが、どちらも描写がないので違うと思うけど。
あと、ライドがノブリスを暗殺する場面は蛇足。
わざわざ見せたのはイオクに次いでカタルシスを生み出すために入れたのだと思うが、クーデリアがライド達がいない&ノブリスが暗殺された…と伝聞調に話して推測させるので十分伝わったのでは。
酷評もあるけど、伊藤悠のキャラが動くのを見るのはとても嬉しかったし、ガエリオがとりあえず幸せになってくれたから2年間楽しかったです。
http://anond.hatelabo.jp/20170402193911
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9271748.html
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1181658786
恋愛って人の付き合いの中でもプライベート中のプライベートだから
少しでも個を尊重し誠実に考えれば人それぞれ千差万別過ぎて「相手をよく見て自分をよく伝える」以上のことは言えないはずなんだよね
それで合ってる。
素人童貞には変わりないし、当然出会いが広がるわけもないから、
まぁ無理してでもスワッピングコミュニティに参加するのがいいと思うよ。
チャレンジを繰り返していれば入れてくれるところもある。
いや、クソ映画でもクソバンドでもクソラノベでもなんでも同じだけど、
そういう人たちが愛と称して作品をくさすのは作品を楽しんでる訳ではないんだよ。
作品ではなく、作品をトホホさを見い出せる自分のセンスに酔ってるだけ。
連中は自分のセンスをひけらかすための踏み台として作品を使っている。
自分自身を変化させようとする受容の相互性がセックスにたとえられるなら、
作品から距離を置いたまま自分は変わらずに相手を変えようとする行為、
相手の身体を使った一方的なオナニーって客観的にはレイプにしか見えないんだよ。
まして作品を攻撃することで自己満足だけを得ようとする行為って
クソだと呼ばれてるものの良さを見いだせば「世間様」に勝った気にもなれた。
アウトサイダー・アートをドヤ顔で見せびらかすあの感じ。胸が痛い。
「作品の楽しみ方は人それぞれ」というルールもまあ納得はする。
でもリョナ趣味はよっぽどうまくやるか信用がないとやっぱ共感得られないよ。
まして今のはてなや増田って例のアニメに概ね好意的じゃないですか。
そんな中で、
「あいつ頭弱そうだから一発犯してやろうと思ったら意外と強くて返り討ちにされた、死ね」
それで叩かれて反撃としてどっかのオタキングみたいに
なんてレコーディング結果を貼り付けたって、
周りの死ね感がかえって増すだけで軋轢もよけい広がっちゃうってば。
セックスと違ってオナニーは自慢しても同好の士にしか評価されないんだから。
結論。
だいじょーぶ、のけもの同士でもちほーによってはフレンズになれるから!