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はてなキーワード: クオリアとは

2020-08-23

anond:20200823133143

どっちも高くないで

単純に読む必要性を感じないだけ

あというほど読書家か?ブクマカどもは増田程度の文量も読めないよ

文業ワナビー知的ものに不健全な憧れがあるだけだよ

2020-07-11

ブクマカさんはてなーの大好きなクオリアおじさんこと茂木先生の本が出るよ

オラ、出版不況を吹き飛ばす読書家のブクマカさん存分に語れや

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20200711093806


クオリアと人工意識 (講談社現代新書) (日本語) 新書 – 2020/7/15

人工知能は、私たち「鏡」なのだ

その「鏡」の中には、果たして、「クオリア」に満ちた私たちの「意識」もまた、映っているのだろうか?

人工知能をつくることは、「人工意識」を生み出すことにつながっていくのだろうか。


<本文より>

☆本書で考察するテーマの一部

眠る前の「私」と、目覚めた後の「私」はなぜ同じなのか?

私たちは、「ホモサピエンス」(知性を持つ人間)である以上に「ホモコンシャス」(意識を持つ人間)である

物質に過ぎない脳から、「意識」や「クオリア」が生まれてくる不思議

〇「意識」は「コピー」できるか?

〇「人工意識」をつくることは可能か?

人工知能が生成した文章は、「どこにもたどり着かない」?

統計的アプローチでは、「意識の謎」の解明はできない。

人工知能をめぐる議論に、ときに驚くほど終末感が漂うのはどうしてなのか?

記憶を「外套」だとすると、脳は、その外套を引っ掛けておくための壁に打たれた「釘」に過ぎないという考え方。

〇「私」という「意識」は、この宇宙の全歴史の中で一回だけのものであり、一度死んでしまえば二度と戻らないという「セントラルドグマ」は正しいのか?

2020-07-11

ブクマカさんはてなーの大好きなクオリアおじさんこと茂木先生の本が出るよ  anond:20200711093806

オラ、出版不況を吹き飛ばす読書家のブクマカさん存分に語れや

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20200711093806


クオリアと人工意識 (講談社現代新書) (日本語) 新書 – 2020/7/15

人工知能は、私たち「鏡」なのだ

その「鏡」の中には、果たして、「クオリア」に満ちた私たちの「意識」もまた、映っているのだろうか?

人工知能をつくることは、「人工意識」を生み出すことにつながっていくのだろうか。


<本文より>

☆本書で考察するテーマの一部

眠る前の「私」と、目覚めた後の「私」はなぜ同じなのか?

私たちは、「ホモサピエンス」(知性を持つ人間)である以上に「ホモコンシャス」(意識を持つ人間)である

物質に過ぎない脳から、「意識」や「クオリア」が生まれてくる不思議

〇「意識」は「コピー」できるか?

〇「人工意識」をつくることは可能か?

人工知能が生成した文章は、「どこにもたどり着かない」?

統計的アプローチでは、「意識の謎」の解明はできない。

人工知能をめぐる議論に、ときに驚くほど終末感が漂うのはどうしてなのか?

記憶を「外套」だとすると、脳は、その外套を引っ掛けておくための壁に打たれた「釘」に過ぎないという考え方。

〇「私」という「意識」は、この宇宙の全歴史の中で一回だけのものであり、一度死んでしまえば二度と戻らないという「セントラルドグマ」は正しいのか?

はてなーの大好きなクオリアおじさんこと茂木先生の本が出るよ

クオリアと人工意識 (講談社現代新書) (日本語) 新書 – 2020/7/15

人工知能は、私たち「鏡」なのだ

その「鏡」の中には、果たして、「クオリア」に満ちた私たちの「意識」もまた、映っているのだろうか?

人工知能をつくることは、「人工意識」を生み出すことにつながっていくのだろうか。


<本文より>

☆本書で考察するテーマの一部

眠る前の「私」と、目覚めた後の「私」はなぜ同じなのか?

私たちは、「ホモサピエンス」(知性を持つ人間)である以上に「ホモコンシャス」(意識を持つ人間)である

物質に過ぎない脳から、「意識」や「クオリア」が生まれてくる不思議

〇「意識」は「コピー」できるか?

〇「人工意識」をつくることは可能か?

人工知能が生成した文章は、「どこにもたどり着かない」?

統計的アプローチでは、「意識の謎」の解明はできない。

人工知能をめぐる議論に、ときに驚くほど終末感が漂うのはどうしてなのか?

記憶を「外套」だとすると、脳は、その外套を引っ掛けておくための壁に打たれた「釘」に過ぎないという考え方。

〇「私」という「意識」は、この宇宙の全歴史の中で一回だけのものであり、一度死んでしまえば二度と戻らないという「セントラルドグマ」は正しいのか?

2020-06-16

お前はプログラミングに向いてないからやめろ

お前はプログラミングがしたいんじゃなくて、「プログラミング」っていう単語に反応してるだけなんだよ

お前は世の中で「メディエーター」が流行れば「メディエーター」になりたがるし、「クオリア」が流行れば「クオリア」になりたがる。そういう人間なんだ

子供のころからそうだっただろ?

親や先生のいうことは聞かないし、勉強はしないし、世の中のしくみについても深く考えてこなったんだろ

から、今になって世の中で流行ってる「プログラミング」に飛びついて30秒で飽きる

お前はずっとそうやって生きてくんだよ

2020-06-09

anond:20200609094519

相手価値観を知る方法がない

直接聞いたとして、それが自分価値観と同じ言葉で語られている保証がない

クオリア問題

2020-06-06

心の哲学」をまとめてみたよ

たとえば「女の生理痛は男が金玉を蹴られた痛みと同じ」という言説から考えてみよう。

これは冷静に見れば全然おかし言葉であることがわかるだろうか。

個人差とかもあるが、それ以前に「自分の感じる痛みを他人のそれと比較すること」はどうやっても不可能なのである

何故なら痛みという「感覚自体を、何らかの言葉や図表、量的な指標を用いて他人に伝えることができないからだ。

極端な話、自分の感じる【この】痛みという感覚が、他人の感じる痛みという感覚と同じなのかどうかすらわからない。

これがクオリアという概念だ。

自分の見ている赤が他人の見ている赤と同じとは限らない、と言う説明がされることが多い。

ところで質問なのだが、このクオリアという心的現象は、物理現象一種なのだろうか?

まり現在脳科学が発展していないために見えていないだけで、実際のところ「心の働き」と呼ばれるもののすべては脳神経で起こっているニューロンの発火や電気信号だけで成り立っていて、それらを完全に解析さえすれば上述のような「他人の痛みの比較」も可能だし、人が何を感じ、何を考えているのかといった心的現象も追うことができるのだろうか?

もしくは、意識感覚といった領域物理法則では縛られない世界にあって、ニューロンの発火だけでは絶対説明がつけられない部分が残るのだろうか?

あなた

  • 前者に賛成する→1へ進む。
  • 後者に賛成する→2へ進む。

1.心的現象物理現象一種だよ派

あなたは、意識感覚などの心的現象物理法則に則った現象一種にすぎず、人間技術力に限界さえなければ、いずれは脳神経学によって解き明かすことのできる類のものだと考えている。

しかし、この考え方は重大な問題を秘めている。それは自由意志問題である

心的現象物理法則に則っているのであれば、あなたの「コーヒーが飲みたい」「あの本を読もう」「右足を前に出そう」といった意識はすべて、その直前の脳神経の物理状態から力学電磁気学などによって導き出される現象に過ぎない。

そうであるならばあなた意識と行動のすべては法則支配されており、自由意志などというもの存在しない。

あなたはこの考えを

  • 受け入れる→1-1へ進む。
  • 受け入れない→1-2へ進む。
1-1.

あなた物的一元論だ。

あなたの一挙手一投足は脳神経内の原子分子物理法則にしたがって動作した結果であり、そこにあなた意志はない。

あなたがこの文章を読んでいることも、これからあなたの行動もすべて、ビッグバン時点での素粒子の配置と運動量によってあらかじめ決定されていた事実にすぎない。End

1-2.

あなた物的一元論を受け入れながらも、自由意志存在肯定する。

すなわち、現代科学では解明されていない領域に、自由意志存在を受け入れる法則が隠れていると考えるほかない。

たとえば、量子力学説明する波動関数の収縮等である

あなた自由意志とはあなた構成する量子の揺らぎの別名であり、シュレディンガー方程式自在に操って、この文章を読むと言う物理行為を成し遂げているのだった。End

2.心的現象物理現象ではないよ派

あなたは、意識感覚といった心的現象には、ニューロンシナプス物理挙動だけでは理解しえない、物理法則とは別種の法則が働いている領域があると信じる。

しかし、この考え方は重大な問題を秘めている。それは物理領域因果的閉包性問題だ。

物体物体に衝突して相互作用を起こす時、それは純粋物理世界のできごとであって、この現象に対して神や霊魂祈りなどが作用することによって物理挙動が変わることはない、と、多くの人間に信じられている。

これを適用するならば、心的現象物理実体である脳神経や肉体に干渉をおよぼしてその物理挙動を変えさせることはない、と言うことができそうだ。

あなたはこの結論

  • 受け入れる→2-1へ進む。
  • 受け入れない→2-2へ進む。
2-1.

あなた性質二元論だ。

あなたは心の存在肯定しながら、物理領域因果的閉包性をも肯定する。

すなわち、心的現象物理領域干渉されてもよいが、逆に物理領域に心的現象干渉することはできないと考える。

では、あなたが「コーヒーを飲みたい」と思って実際にコーヒーを飲むときあなたの心の動きが肉体という物理実体を動かしたことにはならないのだろうか?

すべての前提を整合させるには、こう考えるしかない。「コーヒーを飲みたい」という心の動きと同時に、脳におけるニューロンの発火という物理現象もまた起こっていて、それによって肉体が動作するという物理的結果を招いたのだ、と。

あるいは、心の動きと脳の物理現象は実は同一のものの二側面と考えても良いし、心の動きは脳の物理状態随伴して起こると考えても良い。

いずれにせよ、この立場を取るのであればあなた自由意志存在否定しなければならない。

あなたの一挙手一投足は脳神経内の原子分子物理法則にしたがって動作した結果であり、その結果にあなた意志干渉していない。

あなたがこの文章を読んでいることも、これからあなたの行動もすべて、ビッグバン時点での素粒子の配置と運動量によってあらかじめ決定されていた事実にすぎず、あなたの中に確かに存在しているその「心」は、物理実体に束縛された背後霊のようなものだった。End

2-2.

ここまで辿り着いたあなたには最後質問を投げかけたい。

あなたは、「物理実体」なるものが本当に存在すると信じているだろうか?

  • 信じる→2-2-1へ
  • 信じない→2-2-2へ
2-2-1

あなたは、心身二元論だ。

物理領域因果的閉包性なるものは、単なる科学主義者の経験則にすぎず、本当は心的現象物理実体干渉を与えて動作させることもできると考える。

今もまた、あなた霊魂という非物理実体は、あなたの肉体という物理実体操作して、画面をスクロールし、眼球を回転させ、あなた自由意志のもとにこの文章を読み、それについて何か考えを抱いている。

あなた自由尊厳はついに守られたのだ。End

2-2-2

あなたは、心的一元論だ。

あなたは、世界とは根本的に心の働きによって成り立っていて、物理実体物理挙動物理法則なるものはすべて心の働きがあなた自身に見せている虚像に過ぎない可能性を否定できない。

かにあなたの目の前にパソコンスマホがあるといっても、それはあなた視覚という感覚が伝えてくる像に過ぎないし、触れて確かめようとも触覚が同じことをするだけだ。

あなたは、パソコンスマホが目の前に「実在」すると断言できない。

あなたの脳は培養液に浮かび、接続された電気コードから絶え間なく信号を与えられている存在に過ぎないかもしれない。

もしくはそんなものもなく、世界などというもの根本的に実在しておらず、観念的な情報が漂っているだけの存在、それがあなたなのかもしれない。

今もまた、あなた自由意志は、あなたあなたの指であると思っているもの操作し、あなた文字であると思っているものを読み進める。

恐れることはない。あなた実体がなんであれ、あなたという意思主体存在すること自体は、他ならぬあなただけは絶対否定できないのだから。End

2020-03-21

anond:20200321101315

これはあまり同意できない。

制作関係者非難する悼んでいる人への批判として、「それを言うならお前らだって酷いだろ」というのは、悼んでいる人のロジックの都合の良さを指摘しているのであって、悼んでいる人を責める事は眼目にない。悼んでいる読者が「たしかに何も言わずに消費していた私たちも悪いんだけどさ…」と自省しているなら彼らの論理のスジは通るが、そんな人はいない。

関係者に弔意が無いかはわからない。「外在する読者」にとっては弔意が無いように見える、たとえ関係者が釈明したとて「だから何?」で、そう見えてしまっているだけで十分非難に値するということなのだろうけど、そういうのを認めていくと、歴史真実無視した大衆の印象で決まる、ということになってしまう。

少なくとも明治時代から広告宣伝業者節操がない、というのは正しいのだろう。けれども、フェミニストなどの粘り強い批判によって、彼らのモラルも変わってきた。批判もまた表現から、読者が作者からの影響を受けるのと同じように広告サイドも変化する。反省するし、人員が入れ替わっていくことで作る体制刷新される。だから良心を期待しない方がいい、なんて事はない。

ところで、お書きになった増田の本論自体はとても面白いですね。「作品は誰のものか論」。作者と読者が相互に影響を与えあって歴史意味を刻んでいくなら、「面白い」とか「良い作品」とかの概念はなんなんだろう。その時の人間たちがどんな感性をしているか作品価値が決まるなら… ある時点から見た価値はなんら正しい保証はなく、それどころか評価する人間グループによっても変わってくるということにならないかイギリス料理はマズイ、マズイと昨今の日本人はいうけれど、「イギリス料理はマズイ」と言い切れる人はどこにも居ない、発生しえない。そうなってくる。さらに、作品自体クオリティをあげるのではなく、ファンに働きかけることで作品評価を向上させる、そんな戦略も有りになってくるはずだ。そういうのは邪道だと思っていたのだが、この見方に基づくと、戦略の優劣、それを比べる意味は消えてしまう。ならば何を持って作品評価していけばいいのか。クオリアというか、寄って立つものが無くなってしまう。

2020-03-10

クオリアの話を聞く度に、疑問に思う事がある

赤を見た時「赤を見たあの感じ」とか表現されるけれど

僕らは本当にモノを「見た」事があるのだろうか。喜怒哀楽で感じて、もとい、思ってるだけなのではないだろうか。

視覚聴覚・味覚と感覚器で僕らは分けて表現するけど、あれは元を正せば電気信号だろう

僕らは少なから共感覚的なものを持っている。それと同じように、

僕らは見たり、感じたりするのではなく、「思ってる」のではないだろうか。

2020-02-14

クオリア

君にとっての「赤」は僕にとっての「青」かもしれない。

ここにこうやって黒い文字日記を書いているけれど、

君の目には、「僕にとっての黄色」が映っているかもしれない。

そんなことないって否定したいところだけど、

証明も共有もできない概念って怖いよね。

2020-01-06

色の違いなんて「クオリアが違う世界」だと解釈すればいいだけなんだが?

知っているか

俺たちには同じように真っ白に見える花束でも、蝶や鳥の目には全くもってカラフルな彩りをしている事があるらしいぜ?

知識経験を得れば得るほどにフィクションに対して感じるリアリティが減る」なんてのはまやかしだ。

往々にして知識量の増大、人生経験肥大は、多種多様フィクション世界に対してそれ特有世界観をそれが確かにその時空ではリアルに息づいているもの解釈させるための下地となるのだよ。

ただし、ひぐらし、テメーはダメだ。

2019-11-21

哲学的ゾンビ

完全に物理状態が同じ人間ゾンビがいてゾンビクオリアを持たないということを想像できない、と物理学者が言ったとき哲学者論点先取である批判するのは論理としておかしい気がする。

なぜならばクオリアを持たないゾンビがいると仮定すること自体心身二元論論点先取となっているからだ。

哲学的ゾンビ論法論点先取のただのトートロジーではないのか?

2019-11-07

anond:20191107150022

クオリア論とか見ると意識が脳の機能なのかどうかも断言できない感じだからなあ。

2019-10-19

anond:20191019011753

いやクオリア論じゃなくデマ吐いて怒り散らして自滅されると特殊清掃が面倒だという話なんだが

anond:20191019011221

でも彼らの認識において烏という鳩が白いのであればそれはクオリアにおいて事実のものだよ

しろそういう自分なりの事実解釈を積み重ねることによってのみ「私」という場が立ち上がる(ベルクソンの縮約的な意味で)のだから

烏の鳩性や白性を無視して当人に向かってアスペだの何だの指摘しても、それはニューロティピカル界における世界社会構築を現実のもの(が本当に存在するかどうかすらわからないのに!!)と取り違える誤謬だよ。

私は烏という鳩が白い場にあってこの「私」という経験を生きるんだから、それが私における実存だ。

2019-10-18

anond:20191018202855

違う。

すべての現実認識により構成されたものしかいから、私がそのように世界をこのクオリアの上に打ち立てたのだ。

この世界あなたには見えない、もちろんあなたの中の現実が私には見えないのと同じようにね。

2019-09-30

クオリアと好み

Aさんにとっての赤色はBさんにとって青色かもしれない、全部入れ替わってるからからないだけ って話あるけど色の好みが実は全員完全に同じだったら面白いなと思う

aっていう「一番いい色」のクオリアがあって、それがその人の中で何色に対応するかによって「一番好きな色」が決まる みたいな

2019-09-04

anond:20190903200809

違う。

違います

死が開放であり救いという認識宗教です。

あなたはその教えに疑問を持ったからまだ生きています

 

あなたが生まれる前、一体どこにいましたか

あなたはここにいますが、あなたが生まれる前にどこにいたのですか?

そしてもし命を絶った後、その状態と生まれる前に一体何が違うのですか?

これは輪廻転生という仏教の教えではなく、現実的観測しうる範囲事象に基づいて話をしています

あなたが生まれる前、物質的な自己はおろかクオリアさえ持っていなかった。

ですが今現在あなたはここにいる。

あなたがいない世界からあなたは産まれしまった。

死ぬことでいなくなる、消える、未来永劫いなくなる、それは事実なのでしょうか?

からあなたが生まれてきたという事実が既にあるのに、都合がよすぎる考え方ではないでしょうか?

 

我々が死んだ後に、私というクオリアがどうなるのか皆目見当が尽きません。

それは知能が変わり姿形を変えて別の生物に変化していくのか、それとも未来永劫二度と再生されないのか。

それこそにあなたは疑問を感じたため、死が終わりであることを疑った結果、今生きているのです。

 

死が終わりであることを疑う。

それが生きることの一歩目に繋がります

あなたがいない世界より、あなたが生まれてきたように。

2019-08-17

Vtuberの魂はどこに宿るのか問題

個人的感想

「3Dモデルキャラデザに宿っていると思います

蛇足

Vtuberの魂がやどりうる場所リスト

・コンセプト

脚本

出資している企業

運営会社

・声の人

・声の人に演技指導する人

・外見のデザイン

・実際のモデル

ファンの心

集合的無意識

データベース

・個々の企画

インターネット

・個々の動画

アカウント

過去

未来

現在

・想起された思い出の中

受け手クオリア

・語り手の都合

・魂など存在しない

・魂など存在しないが「魂」は存在する

・魂など存在しないが「魂」は存在して欲しいという祈り

2019-07-24

anond:20190724064440

本文を読んで「『言語』をデジタルとした場合アナログといったらクオリアとかその辺りかな?」と思ってタイトル読んだら全く違うことを問題としていてちょっとがっかりした。

2019-05-23

動物権利に対する本腰入れた反論

しわかった。今の俺の理解をぶつけてやろう

anond:20190522224201

植物も生きているという反反反論

 

功利主義への反論

 

功利主義に基づいて苦痛計算をしているのなら、功利主義問題点もまた抱えているのがわかるはず。

命に関わる事態では我々は功利主義をとらない。5人犠牲になるトロッコを止めるため、隣のおデブ線路に突き落とすか?

ヴィーガンを支持することは、ここで躊躇なく突き落とすことを意味する。サイコパスだろ。

 

(その他、功利主義臓器移植で5人を助ける代わりに1人の犠牲正当化する)

 

トロッコ問題功利主義対立する義務論に立つなら、我々は無為に殺しているのか、食べるために殺しているのかという意思を重視すべきだ。

殺して食べるのは道徳的だが、なんの目的もなく殺したり食べずに残すのは道徳に反する

俺はこの義務論に立つ

→食べる前にいただきますと言って残さずたべよう

 

認知問題としての反論

 

植物無脊椎動物も痛みへの反応があることは知られている。これに対するヴィーガニズム反論は主として

「痛みへの反応と苦痛は違う」だ

 

なるほど

 

その論が成り立つとして、脊椎動物苦痛が我々人間苦痛と同等である保証は?

同等でないものを同じように計量し、人と

同じ権利保証することは不当ではないか

 

もちろんそこまで考えると人間同士だって同じ苦痛を感じているかどうかは本当はわからない。(クオリア問題へ)

なら、初めから道徳苦痛の計量という概念を持ってくるべきではない。

 

なお、我々が今までの社会で育ててきた人権などの思想は、功利主義苦痛の計量などから導きだされたものではないはないため、

苦痛の計量を否定しても奴隷解放女性参政権否定されない

 

野生の肉食動物はどうなんだという反反反論

 

【人と動物の取り扱いの差について】

 

ヴィーガニズムに対する違和感はいつもここに生じる。

野生動物自分達の倫理を「理解できないもの」として放置するわりに

非ヴィーガニストに対して同じ倫理を持つよう強要する者がいるからだ

 

先ほどの例にも上げた奴隷解放、これは「自分奴隷を扱わない」というルールを守る他に

解放した奴隷奴隷を扱わせない」

自分達の社会内で奴隷制度をやめさせる」という一貫性を持っている

 

自分意思ルールを守る能力のない者をルール外にするか?という疑問にも答えはあり、

例えばルールの知らない赤ん坊が他の赤ん坊にケガをさせるような場合

保護者がそれを止める行為をして「自分達の場」のルールを徹底させるだろう

ヴィーガニストは野生動物が肉食を止めるため、なにか手だてを考えるのだろうか?

  

ただ、ルールとは必ずしも一貫させる必要があるわけではなく、説明可能であればよい

理解が及ばない相手には行動を強要しない」という別ルールで上書きしてもよい

であるなら、その「理解が及ばない相手」に、野生動物と共に我々非ヴィーガニストも含めてほしい

野生動物でも非ヴィーガニストでも、変わらず権利と慈悲を保証してくれるのだろう、ヴィーガニズムとは。

→人に強要しないヴィーガン問題ないよ

 

愛玩動物家畜の扱いの差について】

 

命に関して功利主義をとらない我々は当然

愛玩動物家畜に扱いの差を設けるのだが、ヴィーガニストも同じ差を植物につけているのではないだろうか?

 

例えば人が大事に育てている花は踏んだり雑に扱ったりしないが、路上タンポポ特に気にせず踏むだろう。

無脊椎動物でいうなら、誰かが飼っているカブトムシと部屋に侵入したゴキブリに扱いの差を設けないのか?

 

ここでは直接的に対象苦痛やら命を問題にしているのではなく、その持ち主の意思に対して倫理を発動させている

家畜愛玩動物で扱いが異なっていても問題はない

権利の衝突だからどちらも正当だという反反反論

今までも反論で、動物権利とはかつての人間への人権思想と異なり、

偏務的で適用範囲が非常に限られていることがわかったかと思う。

 

であれば他の財産権利と同様に権利の衝突として扱い、パワーバランスに任せた方が

みんな納得がいく。

 

再び義務論に戻ると、動物権利を主張したとしても建物施設を壊したのなら、それ相応の処罰が下るべきだし

 

法で裁かれない程度のいやがらせ(残酷パネルの設置)をしたのなら

同じ嫌がらせをされても文句は言えない

(俺は積極的にしないけど止めもしない)

 

ここでは侵す権利と侵される権利のような非対称は認めない

予想される再反論

「俺はヴィーガニストではなく説を紹介しただけなので反論はヴィーガニストにしてくれ」

→なら一丁噛みしてくるのはやめようよと、議論ノイズしかならないんだから

2019-05-12

性的快楽ってどういうのなんですか?やったことある人おしえてくださ


女性でも男性でも、自慰行為の話でも性行為の話でもいいので、それがどういう感じなのか、やったことない人にも分かるように経験説明してもらえるとうれしいです。

書いている人間:24歳女 恋人いない歴=年齢

もともと雑食・軽度のオタクだったのですが、二年ほど前から人生を曲げる勢いであ作品の沼に落ちて、本気で二次創作BLを読みまわるようになりました。身体性がちゃんと取り扱われている作品なので、わたし推している二人組はぜっったいセックスするし、そういう身体コミュニケーションを好むと確信していますしかしながら困ったことに、わたし自身セックスしたこともないし性的快感というのが何かよく分かりません。彼らはセックスが好きだと思われる、この「セックス」というものは、成人向け作品規範においては快感を生むものとして設定されている要素であるらしい・・・・・・という以上に思考を進めることができない現状では、わたしが行うことのできる考察はとても制限されてしまます。なので、やったことがある人に教えてもらうのがいいだろう、と思い、みなさまのご経験についてお話伺いたく存じます

せっかく匿名なので、以下、性というものについて現時点で私が分からないこと・考えたことについて書きました。

1.性欲について

まず最初の謎。性欲って存在するんですか?

寝ないと死にますし、食べないと死にます。でも、性的なことをしないと死ぬってわけじゃないですよね。「性欲」という言葉で呼ばれているものが一体どのような状態なのか、ということが分かりません。

仮説1-1 男性の体をもった人には生得的に性欲があり、第二次性徴によって発現する。

仮説1-2 性別によらず、生得的に性欲がある人間やそこそこの人間や皆無の人間多様性をもって存在し、第二次性徴によって発現する。

仮説1-3 性欲とは社会的構成物であり、訓練や習熟によってこの概念を獲得した人間自覚される。

仮説2-1 性欲は性行為自慰行為といった身体行為によって充足される

仮説2-2 性欲は性行為自慰行為といった身体行為または、恋愛感情の保持や成人向けコンテンツの鑑賞といった精神行為によっても充足される

仮説2-3 性欲は(上記の)身体行為精神行為の結合によって充足される

 

なんでそもそも性欲というもの存在自体を疑問視ちゃうかというと、睡眠欲や食欲のような身体欲求の形で自覚される性欲というものが私のなかに存在しないからなんですよねえ。でもわたし中高生ぐらいの頃から二次元成人向けコンテンツを見て回る、みたいなことはやってきており、なんとなくそういうことしちゃうのが「性欲」って言うんですよ、と言われるとそうなんですか~知りませんでした、って思うかも。

個人的に仮説1-1は、男性にの主体性を認めるジェンダー的な社会構造の結果生まれているような考えにも思えて眉唾なのですが、じっさいもんだい女の身体をもっている私に性欲が分からない以上、論理的には立てて置かざるを得ないなあという感じです。あっ、でも二次創作の参考にしたいので男性身体を持っているひとは定期的に性行為自慰行為をする必要性があるのかどうか教えてください。女性身体を持っているひとは最初から自慰行為のやり方が分かっていたのか練習してできるようになったのかとか知りたいです。

あと仮説1-3もちょっとそんなことはないようには思われますね。種の保存につながる行動を発現させる遺伝子の方がより受け継がれそうなので。もちろん、人間というのは自ら構築した社会文化によって本能を裏切るようにしながら暮らしているわけですが。

2.身体について

行為自慰行為って快感なんですか? 快感ってなにがどういう感じなんですか?

この文章の本題です。これについてはもはや誰かやったことある人教えてくださいとしか言えないのですが・・・・・・

成人向けコンテンツにおいては、性的なことは気持ちいいものだって価値観を前提にして大方の表現がされていますよね。でもやったことない人間からしたら、どこまでが形式的表現上のお約束なのか、真実そういうクオリアのようなもの存在しうるのかが分かりません。でもわたし推しセックスをまじめに書きたいんだ!!助けてくれ!!! まあそもそものところ身体的なクオリア認識して表象するのってめちゃめちゃ難しそうですよね。インドア引きこもり人間には身体認識することからして難しい。私がいま認識して言語化できる身体快楽って、寒い日にこたつに埋まるとか、暑い日に手首を水で冷やすとか、二度寝しようと何もかもあきらめるときとか。あるいはこの辺はかなり本命に近いんじゃないかと思っているのは、虫刺されあせもなどで皮膚をを掻きむしっている瞬間、排泄の瞬間。アダルトビデオを見てるとなんだか痒みとか摩擦とかが大事なのかなという仮説が立てられそう??

もっとアダルトビデオを見れば、真実さらに近づけるんじゃないかとは思うものの、インターネットの絵とか小説を主に摂取してやってきたので、三次元はぜんぜん探し方も分からないしあんまり楽しくもないんです、なんかこれはやや問題ある気もする。

自分でやってみれば分かるのでは、と自慰行為のやり方をググったりもしたのですがなんかぽいところには接近しつつもそんなにうまくできないです。練習がいるらしい。たいへんだな。

3.精神性について

机の上だけで考えるならなんとなくこっちの方が近づきやすい気がします。こう、犬猫じゃあないけど、お互いの信頼関係の表出としての接触を楽しむということですよね。いくらハグ好きな人間でも満員電車は好きじゃないだろってことはまあ机の上からでも簡単想像できます。ここから精神的なことが身体快楽に結びつくっていう仮説を導くことができるし、これはけっこう確からしい仮説だと思うのですが、人体って不思議ですね。ここからSMとか(『ナナとカオル』を読んだ)特殊プレイ的なものはなんとなく接近できそうな気もするのですが、そしたら逆に人間がなんで性行為をやる必要があるのか分からなくなってきました(そして性欲とは何かという問いへ戻る・・・・・・)。

性的経験についてつぶさに述べているインターネット上の文章などでも、おすすめのものがあれば知りたいです。あらゆる情報を求めていますが、人と交際してみて確かめろというコメント必要としていません。性的なこと(や人間の二者関係のあり方)について知識を得るために、じっさいに恋人を作ってみるという考えを抱いたことがなかったわけではないのですが、特に好きでもないひとに時間を使うなんてばかみたいですし、人生経験を増やすために誰かと交際したいというのは、相手人間人格否定するのに等しい考えですからね。交際ではなく仲の良いお友達で、わたしセックスやってみてもいいよって人がいるといいんですけれども。しょうがないので文献情報収集することで自分認識更新したいと思います

愛という概念について考えるために『饗宴』を読んでおり、次はフォイエルバッハの双数性についての何かを読もうと思っているのですが、こういう哲学方面でも愛や性についておすすめの文献も求めています。)

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