はてなキーワード: 真摯とは
はてなーって順調に高齢化してんだけど、言ってもまだ初老くらいで、孫がいるいないって感じの歳ではない
早く孫がいる感じの歳になってほしいんだ
そうして、「子がDINKSになった」「息子がゲイだった」みてえなタイトルののお気持ち増田を書いてさあ!!!
我が子の選択を応援したいけど、ボクちんは孫が欲しかったんだピョン!!みたいなことを書いてさあ!!!
そしたら、はてブッカーのみなさんが、続々、「わかる。私も息子が結婚しないまま35になった。人生に口出しする気はないけど、どうしようもなく寂しくなることがある」みてえな、ミジメ〜なブコメを書いてさあ!
それにスターがいっぱいついてさあ!
煮てさ、焼いてさ、食ってさ…
俺は、「〜さ」という文章をある程度以上つなげると、『あんたがたどこさ』を唱えることを回避できないな
よくないな
まあそれはいいとして、孫っすよ孫!!
親がはてブッカーな時点でマトモな人間に育つワケねえんで、はてブッカーのガキども(今は新生児だったりする)が大人になったら、まあインセルになるわけじゃんさ
インセルにならなくたって、イマドキらしくDINKSになるかもしんねえし、人口の13%くらいいるというLGBTQかもしれない
となると、はてブッカーに孫ができる確率のほうが低いということになってくる
孫ができねーことを嘆くエントリ、見たら本当にいい笑顔になれること請け合いなんだよな
マジで楽しみすぎる
・不幸だと嘆きたい気持ちはある程度理解できる(理がなくはない)
こうなったときの、はてなのみなさんの苦しみが見たくてたまらない
孫なんていらない、なんて言わないでほしいんだよな
全員心から孫の顔を見たいと思っていて、それを人生のメイン・パーパスにしていて、そこを裏切られて、絶望しながら老いていってほしい!!!
老いていってほしすぎる……
匿名をいいことにひどい自分語りを放り投げようと思う。多分自己満足でしかないけど、投げるだけ投げる気持ち。
最近私はある恋愛漫画の大ファンで毎週楽しみに読んでは心をキュンキュンさせている。だけども、最近単行本でまとめて読むとその尊さに心を打たれる一方で、自分自身への劣等感にさいなまれるようになってしまっている。
その漫画に登場する主人公とヒロイン、どちらも他の友だちに向けての優しさ、お互いをまっすぐに見つめ合うことのできる人として描かれていて、そこにお互いが惹かれていく展開だ。他の人に迷惑をかけていないか心配して、とっさに優しさを言葉にする主人公。どんなときも優しさを真正面から笑顔で受け取るヒロイン、どちらも自分にとって眩しい存在だ。
恋愛漫画、もとい青春マンガの中の世界はあくまでフィクションであることは承知の上だ。だが、それでも、高校時代から今の今まで、そうじゃないであろう自分自身が嫌になることが多くなってしまっている。
他人に対する目線が薄く、自分自身のことしか顧みることしかできない自分。大学までは順調だったけど、多留し、大事な試験に落ち、ひたすらに親に迷惑ばかりかけている自分。高校の時も好きだった女子に対してひどいアプローチをしてしまった自分。
漫画の主人公やヒロインの優しさ、まっすぐさ、笑顔、真摯さ、そういう物に触れるたび、そんなものなんか持ち合わせていない、何も他の人にかける眼差しがない、そしてそんな他人に対しての眼差しを向けることを正直面倒くさいと思ってしまっている、そんな自分が本当に嫌になってしまっている。
生きるのが辛いってほどに嫌になっているわけではないけど、時々一人でいるときに、何も投げつける友達もいず、家族にこんな変な気持ちを投げつけるわけにもいかず、ここに投げるだけ投げた次第である。
タイトルの通りなんだけど最近事あるごとに言葉がキツイいと言われてへこんでいる。
自分からしたら大した事を言ってないのに大袈裟に捉えられて何を言っても空回ってる気がして人間関係が嫌になってきた。
昨日なんか友達と2人で行った居酒屋チェーンで店員さんが3枚お皿を出してきた事に「え!?なんで!怖い!」とホラーにこじつけたつっこみをしたつもりだったのに若い大人しそうな店員さんには何度も謝られるし友人には「クレーマーみたいな言い方」と言われた
怖いって言っただけでどういう事?と聞くと普通言わないだろみたいな反応。
その子に限った事ではなく他の友人からも言い方がキツイよと言われて辟易してる。昔からはっきり物事を言うタイプだったが言い方がキツイなんて言われていなかったし30代間近になって年重ねた分遠慮しなくなってより配慮出来なくなってるんだろうかと考える。
まさに社会人なりたての頃に嫌いだった所謂お局みたいな職場の先輩みたいになってる
夜中の独り言のつもりが思ったより急に伸びててびっくりした。最初に、なぜか一年前の 自分がお局になりそうで怖い この増田と同一人物って思ってる人いるけど全くの別人です。お局になりそうって共通点はあるけど自分は余計なこと言ってイライラさせる方のお局だと思う。
ASDとか年齢のせいにするなとか年齢と共に弁えろとか色々貰った。
例について言えば、嫌味っぽいってブコメを沢山貰ったけど本気で店員さんのミスを責めたつもりなく、皿が3枚出てきた事に対して"なんで?"とまず思って、次によくあるホラー展開(飲食店の店員さんにだけ見える3人目みたいな)だと思ったから"こわっ!"て脳直で言っただけで無遠慮だっただけ。
正直今でも自分の図々しい基準で考えてるからか、相手の反応が大袈裟だと思ったり、相手に同じこと言われても自分は平気みたいな態度取りたくなるけど一人じゃなく二人三人に言われてるのを真摯に受け止めます。
でも夫に「離婚しよう」と言わしめるほど積み重なったアレがあるということだよね
夫を愛していて一緒に居たいのなら真摯に謝罪して別人格に生まれ変わるしかない
謝罪は出来るだろうから、「どうやって生まれ変わるか」について考えてみると
など。ですかね
自力のみで生まれ変わるのは至難の業というか基本的に無理です。凡人には
(絶対他力=宗教みたいなのはやめましょうね。自分を救えるのは自分だけですので。病院行くのも他力だろって?否。医療の力を借りて治すのは自分です)
瞑想なんかも精神には良いと思いますが、すっごく上手じゃないとドラスティックな変化なんて得られないでしょうね
友達とは高校の時からの付き合いなので、かれこれ8,9年の付き合いになる。友達になろうと声をかけたのは私の方からだが、私は最初っから相手を下に見ていたし、多分相手もそうだろう。どちらもオタクの陰キャでクラスのカーストは最底辺同士だった。女のオタクなんて相手にマウントを取らなきゃ生きていけない悲しい生き物である。
それでも私達は仲良くやって来た方だろう。高校生の頃は互いの家に泊まったり、勉強を教え合ったりしたし、大学が別の県になって遠くに住むようになっても、どうでも良いLINEをして、舞台は連番をして、コロナになってからは通話を繋いで酒を飲むなどした。
大学4年の時に友達が大学を休学した。友達は美術系の大学であり、なんか色々と限界だったらしい。私はふぅんと思いながらも淡々と就活をして、卒論を書いて大学を卒業し、就職した。友達は大学に復帰したものの、就活はあんまりしなかった。当然内定もない。
私は普通の人のような当たり障りのない人生を歩んできた自覚がある。その普通がどれだけ得がたいものかも知っている。友達は私の見る限り普通のレールには乗れなかった。でもモノを創る側の人間として、とても真摯に向き合ってきたのは知っている。
私も趣味で創る側の人間をやっているが、彼女ほど真摯でもないし、努力もしていない。頑張れない私を友達は見下している。努力を積み重ねて来た人間を好ましく思っているから。
普通になれなかった友達を私は見下している。普通でいるのにも努力が必要で、それが出来ない彼女を有り得ないと思っている。
でもそれと同じぐらい、自分の好きなことを仕事にして、血反吐を吐きながらも努力をしてモノを創り続けようとする友達を尊敬している。単純に凄いと思う。私にはなれないものだから。
矛盾した感情だが、決しておかしなことではないと思う。お互いに見下した感情しかないのならここまで友達でいられなかっただろう。いつかどこかで破綻していた筈だ。
とまあ、そんな風に思っている友人と喧嘩した。そもそも喧嘩と呼べるものかも分からないが。
発端としては私がふとTwitterで呟いたことが彼女の中の地雷だったらしい。鍵垢でハチャメチャにキレられていた。ただ私の発言にキレるだけならまだしも、私自身を貶す発言をしたのでそこは私もキレた。そこは彼女も後で頭に血が上っていたと謝ってくれたが、その他の発言については撤回する気はないようだ。
何だか一方的にキレられて距離を置かれたので、私はぽかんとしている。友達のツイートを読んで、私の発言の何がそこまで逆鱗に触れたのかは理解したが、ちょっと私の意図してない部分だったので、余計にはぁ、という感じである。
そんなつもりで書いた訳ではなかった。だが、友達にはそう読めてしまったのだから、私の書き方が悪かったのだろう。そこは反省である。だが、このなんとも誤解ともどちらに非があるとも言い難い状況をどう納めれば良いのかが分からない。
こういうつもりではなかった、なんて言い訳じみている。仮にも私は文字を書く人間である。そういう風に読めてしまったのだから、誤解を招くような書き方をした私が悪いだろう。でも私が謝って済む問題ではないのだろうし、彼女も何も納得しないだろう。私だって私が謝るの?と思っている。
彼女の逆鱗は仕事としてモノを創り続ける人間とそうではない人間の差異にあったような気がする。寝ても覚めてもモノを創ることを考えている人間が最も大事にしているものに対して、"趣味でお遊び半分でモノを造っている"人間が無遠慮に踏み込んでしまったようだ。
だが、そんなことは私の知ったことではない。友達の人生と創作が引っ付き過ぎていて、過剰に反応されたような気がしないでもないし。
でもなんだか一方的にキレられて面倒になり、該当のツイートは消してしまった。これまで作ってきた作品も消そうか考え中である。
そもそも私が創作をするようになったのも、その友達の影響である。楽しくてここまで続けてきたが、正直怖くなってしまった。私の呟いた一言が誰かをあんなにも怒らせるなんて知らなかったのだ。
今これを書いているのも気持ちの整理の為なので、他の人から見たら大層纏まっていない文章だろう。そもそもここまで読む物好きが居るとも思えない。どうか読まないで欲しいが。
こんな感じで友達とは絶賛冷戦中である。私はマジでそんなつもりじゃなかったことでキレられて、気持ちがぐちゃぐちゃになっている。今これまでの文章を読み返して、何が言いたいの?と思っている。
友達とは仲直り(?)するかもしれないし、もしかしたらこのまま疎遠になってしまうかもしれない。どちらでも、まあ仕方がなかったな、と思うだろうが、長年馬鹿やってきた友達とこんな形で終わるのは少し寂しいと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20220730101026
正直ここまで悪い意味で有名になってしまった統一教会で皆さんを救うのはなかなか厳しいと思った。
疑われてもしょうがない、李下で冠を正しまくった統一教会も悪いと思ってる。
俺も山上母のように献金しまくって、家族を省みないのは違うと思ってる。
(統一教会内部にも献金を食い物にする、サタン的な人間がいるのかもね。)
現在は統一教会はコンプライアンスができて、そこまで激しくやってないんだけど、
こうやって過去から糾弾されているのは意味があると真摯にとらえ、
自浄作用というか、行き過ぎた政治との癒着はやめるべきだと思う。
でも宗教の信仰の自由を弾圧したり、韓国と仲悪くなったりするのは、暴走だと思うから
そうはならないように願ってる。
原理講論は一度、虚心坦懐な心で読んでみて欲しいと思う。
個人的にはあそこに書いてあることは本当だと思ってる。
アマゾンにも売ってるから、ネタでもなんでもいいから買ってみてほしい。
今の皆さんは観てない映画をやばいらしいっていう理由で叩いているようなもの
で、僕は統一教会の信者であるけれど、正直教祖がどうのこうのとか政治うんぬんとかも興味はあるけど、
本当に興味あるのは真理と、愛の世界の探求、自分自身が神のもとに戻ること、神との関係、
いかにこの世界のために善行をなしていくかということなんだよね。
神がいて、神が僕らを復帰させようとしてて、
そのツールとして宗教を使っているのであれば、正直ツールは何でもいい。
Webサイトを作るのに、どの言語とフレームワークを使うかっていう
話であり、正直今一番作りやすい言語やフレームワークとか自分にあった言語やフレームワークならそれでいいと思ってる。
自分は真理・人間の道というのは球体をしてて、あらゆる哲学や宗教がそれぞれ一面を切ってると思うので、
それらを勉強することにより、球体すなわち真理・人間の道がようやく見えてくるものだと考えている。
なので色々勉強してる。
例えば日本の近代思想、儒教、仏教、神道、アドラー心理学、キリスト教、イスラム教、新興宗教など
(ちなみに実家はお寺)
で、思ったのは
この世界で避けるべき考えは一つで
「自分(達)さえよければそれでいい」という考え。
これを避けるために宗教・哲学が存在してると言っても過言ではない。
全員がそう思えたら、この世界はマジで天国になる。(まあすぐには絶対ムリだけど)
これを何も言われずにできる人もいるけど、
多くの人はこのような自己中な考えに陥りがちで、それを避けるために
今まで勉強した中では統一教会が真理の球体を鮮明にしてくれたし、
僕に啓蒙の光をくれたからオススメしたいけど、このようなご時世なので厳しい。
なので何かしら他の宗教や哲学を勉強することをオススメしたい。
真理をいい感じに切ってるけど、宗教臭くなく非常に良い。
ただあそこに書いてあることの真意を理解して、実践に移せる人間が果たしてどのくらいいるかということではあるが
知らないよりかマシということでオススメしたい。
ネットに於ける絶対法則、「消すのは認めたということ」「消したら増える」は残念ながら覆せない。
真摯に謝罪する文面を書いたところで謝罪ソムリエ達が死体蹴りしてくるのは目に見えている。むしろ謝罪が足りない、反省が見えない、誠意が無いとさらに炎上するまである。
何も言わず完全スルーも悪い手では無い。人の噂も75日、SNSでは3日だろう。何かに付け当て擦ってくる連中がいても無視とブロックを貫く。やはりこれが正解なのか?
>生理なるものが本当にあるんだと認識したのは高校の時に生理でフラフラな女子を見たとき
知識として知ってても
できるだけ早めに死にたいと思い続けて27年も経ってしまった。前はもっともっと巨大だった「死にたい」という衝動は歳を重ねるごとに緩やかになり、いつも見下ろせばそこにある影と同じような存在になっていた。
できるだけ早めに死にたい、怖い思いをする前に。
理由なんていくらでもあって、多分そんなに重要じゃない。問題はなぜ私が死ねば楽になれると思っているのかという点。死は救済である、また死ねばもう煩わしいさまざまなことから解放される、そして許されるとなんとなく思っている。
ホテルにあった聖書の影響だろうか?虚淵玄のPSYCHO-PASS?それとも今敏のパプリカ?
賢くなければないほど、人の言うことに影響されやすくって、それがまるで真実かのように思い込んでしまう。心を病んだ人間はこういうふうに考える、こういうふうな症状に悩まされる、そんなことをいちいち検索して当てはまったらなんとなく解決策が見つかったような気がして落ち着く。現実は何も変わらないままなのに、問題を先延ばしにして。
もう12年も精神科に通っている。薬の量は減ったかもしれないがよく分からない。昔より安定したか?と問われれば確実にイエスと答えるだろうが、ただ私が望む「普通の人」には永遠になれないことを一年、二年経つごとにまざまざと思い知らされる。お父さんとお母さん、温かいご飯にふかふかの布団、なんの怖いこともなく育った普通の女の子になれなかった私は、それでも真面目に生きていればいつか普通の人間にはなれると思ってた。
いつか病院に行かなくてもいい日が来る。
いつか誰かを好きになったり、恋をしたりすることができる。
いつか私も、子供を産んでお母さんになる。
いつかは多分、来ない。来るか来ないかが問題なんじゃなくて、来ないだろうなという漠然とした絶望感みたいなものが、もう誤魔化しようもないほど自分をがんじがらめにしていて、毎日生きるのに精一杯だということ。
きっとこれからいいことあるよ。そう言ったたくさんの人に悪気はなくて、もちろん優しさしかないのだけれど、私の人生、私が動かしていくもので。いいことも悪いことも私が進まなきゃやってこない。
自分という体、自分という車のようなものを操縦して人生という道を走っている感覚なのだけれど、私の車は人よりボロくて、あちこち壊れている。それをどこが悪いのかしら?どこが壊れたのかしら?と煙が出るたびに止まって、確認して、もう起こらないように手配して、つまり、そういうことがもういっぺんに面倒臭くなってしまったのだ。それは怠慢だろうか、悪いことだろうか。
誰かが自分の人生をなんとかしてくれるわけではないことも、劇的に毎日が変わることなんてないことももう充分学んできたけれど、それでも私は私のできる限り、真面目に、真っ当に、真摯に自分という生き物に向き合ってきた。壊れやすい体と、正しくホルモンを出さない脳みそ、あとフラッシュバックする過去や、愛着障害ですねの一言で何も生まない育ちとか。どうしようもないことを生まれながらに沢山背負って、(背負わされてというと怒られそう)それでも生きていかなきゃいけないのは私だからって踏ん張って、歩いてきた。
長いなぁって思ってた。産まれてから死ぬまで、途方もなく長い。迷うことと困ることばかりで、動けなくなるたびに今回は何が悪かったんだろう?って考えて、薬を増やしたり減らしたり。よく眠れるようにって対策をしたり、全部がどうでも良くなって酒と薬をちゃんぽんしたり。一進一退。ずっと。この先も。死ぬまで。
うんざりするし、怖くない?変わらないのって。怖くないのかな、みんな。私だけ?12年通ったらなんとかなると思ってた。大人になったら病気との付き合い方もわかってきて、難しいことは減るんだと思ってた。27歳になったら、怖いことばかり増えた。この先どうやって生きていくの?一人で死ぬの?また誰かが死んだ時私は葬式に行くか?そんなことばっかり考える。不安ばっかり増えて、騙し騙し生きる毎日がこのままずっと続く怖さがふわふわ漂う。
「先生、いつまでこうなんですか」と聞いた私に、父は「それを先生に言うのか?」と苦笑いしていた。「責任を医者に求めるの?」だって。すごい真っ当なこと言うじゃん、ひどいね。
どんどん人に優しくできなくなっていく気がする。初めて先生に会った15歳の頃、私は彼を神様だと思っていたのに。今はただ薬をくれるだけの人に見える。彼がどんな気持ちで12年間同じ患者を見ているか、私の変化をカルテに書いているか、そんなことを想像するのも億劫で、ただどうにもならない人生を彼がたとえばいなくなっても私は違う医者を見つけて走り続けなければいけないことの理不尽さに苛立っている。あなたはこのレースから降りられるけど、私は永遠に降りられない。それを理不尽だと、精神障害者であり続ける私の身を考えたことがあるのかと誰かに問うのは、あまりに傲慢なことだろうか。分からない、それくらい言ってもいいと思うのだけれど思いやりはないかもね。
いつかは普通の人になれると思ってた。親が死んでも、自分が死にかけても、親類が死んでも、まぁつまり何度か死にかけても、誰が死んでも私は、サザエさんになれると思って頑張ってきたわけ。27歳だよ、サザエさん余裕で越えちゃったし。今からどう頑張っても私は、平和な家庭で育ったちゃんとしたお嬢さんにはなれないわけで。人にも優しくできないし。それがこの先生きていく気力みたいなものをごっそり削って、なくしてしまうほど大きなショックだということがなぜ伝わらないんだろう?