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2013-05-02

ドラマとか映画

物語がほぼ終わったラストシーン、おとぼけ的な流れ〜スタッフロール

あれがなんかとてもイヤだ。

2012-12-03

鈴木敏夫ジブリ汗まみれ 2010年1月12日 庵野秀明ゲスト回その2

第1回

http://anond.hatelabo.jp/20121203123633

 

ナレーション

 

鈴木:ひどいこと言うんだもん、色々(笑)。『もののけ(姫)』のときもねえ……。『もののけ』どうだったって聞いたら、「レイアウトダメになった」って(笑)

庵野ダメでしたね。よく宮さん(宮崎駿)、このレイアウト通したなというくらいダメでしたね。

鈴木(笑)。かなり自分で描いてんだけど。

庵野:いやー、ダメでしたね、レイアウトはかなりね。レイアウト世界一の人だと思ってるんで。

鈴木はいレイアウトマンだもんね。

庵野:ええ。あの空間の取り方のなさっていうのは、ちょっと、あれは歳取ったのかなって思っちゃいました。

鈴木空間がなくなっちゃったんだよね。

庵野はい。すごく平面的になってて。

鈴木:すごくフラットなっちゃったんだ。だからすごいのはお話のほうで、画のほうはどっちかっていうと結構サラッとしてるっていう。

庵野:サラッとしてます。あれが『(崖の上の)ポニョ』でまた粘りが出ててよかったなっていう。

 

ナレーション

 

鈴木:『ポニョ』の前にね、宮さん、ディズニーチャンネル見まくったんだよね。そしたら「動きすぎだ」って最初言ってたのが、途中から「いや、動き過ぎだと思ってたけどそうじゃない、動くことに意味はある」って。それで突然「世界は動いてるんだから、やっぱり動かすべきだ」って。それをテーマにやりはじめた『ポニョ』はどうでした? なんて今頃聞くのもあれなんだけど(笑)

庵野:Bパート、いや、Cの途中まではすごい好きでしたね。

鈴木:Cの途中ってどこ(笑)。ばあちゃん話になる前?

庵野:うん。いまの尺でも僕は長いと思いますけどね。

鈴木:いまでも。

庵野:うん、いまでも長いと思いますね。お母さんが宗介を置いて車で行っちゃうじゃないですか。それで二人っきりになるあたりからは、あんまりノレない感じですね。それまではすごいよかったですね。

 

ナレーション

 

庵野特にあのお母さんがいい。

鈴木:えっ。

庵野:お母さんがいいです、もう。

鈴木:お母さんが。

庵野:うん、近藤(勝也)さんがすごくうまい

鈴木:「色気がありすぎるんじゃないですか」って――

庵野:いや、それがいいですよね。いままで宮さんになかったものじゃないですか。

鈴木:そうしたら宮さんがね、「あれは勝也がやってて俺じゃないから」って(笑)

庵野:そうそうそうそう、それがいいんですよ。いままでの宮さんにはできなかったこと。

鈴木:だから、すっごい色気があるんだよね。

庵野:いいですよね。線だけでそれ出すんですよ。

鈴木:だから俺びっくりしちゃったんですよ。

庵野:宮さんが手を入れてないってのがまた良かったんですね。

鈴木(笑)

庵野:あれにまた入れ直したらもうブチ壊しだったのを、それをグッと抑えてるのが大人になったというか――

鈴木:いやいや歳取ったのよ(笑)

庵野:歳を取ったというか。

鈴木:さすがだなあ、よく見てるね(笑)

 

ナレーション

 

鈴木:僕ね、すごい覚えてるのは、スタジオ……あれは(スタジオ・)グラビトン

庵野はい

鈴木:あの、もりやまゆうじ森山雄治)がいて。そこで初めて(鈴木庵野に)会ったの覚えてるんですよ。

庵野:それは(スタジオMINなんですけど、細かく言うと。

鈴木MIN

庵野MINっていうところですね、スタジオMIN

鈴木:あ、そっか。

庵野:桜田にあった、フリーアニメーターが寄り集まってるスタジオ界隈ですね。

鈴木:あのとき自己紹介されたの覚えてるんだよ、俺。順番がちょっとぐちゃぐちゃなんですけどね。ただ、当時もりやまゆうじっていう人と一緒に押井守原作漫画をやってたんですよ、『とどのつまり』っていう。それで、そこのスタジオ漫画原稿取るっていうんで1ヵ月に一回行って。押井守原作を書いて、彼が画を描いてたんですけど。そこで(庵野が)登場して、あの「住所不定なんです」って。

庵野:ええ、家なかったです。

鈴木:だから、ここに居候してるって。あれいくつくらい?

庵野24……ぐらい。

鈴木:えっ、そんななってんの、もう。

庵野:ええ。24、5じゃないですか。

鈴木:あ、なってんの。そうなんだ。

庵野:ええ、23、4。24くらいだったと思いますね。『(風の谷の)ナウシカ』のあとですもんね。

鈴木:あれ『ナウシカ』の直後?

庵野:『ナウシカ』のときも家なかったですから

鈴木:そうだよね。

庵野:ええ。大阪アパート引き払って、とにかくカバンだけ持って――

鈴木東京へ出て。

庵野:ええ、宮さんのとこ行って。で、家はないのかって言われてありませんって。そのときは高校時代友達のところに荷物だけ置かせてもらって。トップクラフトで寝てましたね、寝泊まりは。

鈴木:ああ、あそこで寝てたんですか。あの応接で?

庵野:いえ、応接なんかで寝ないですよ。机の下ですよ。机の下か、隙間。壁と動画机の隙間が60センチぐらいあって。そこで寝てましたね。

鈴木:とにかく『ナウシカ』始まったときに、やらせろっつって。当時トップクラフトってところで『ナウシカ』作ってたんですけど、現れて。なんか原画持って来たんだよね。

庵野:ああ、自主制作やってたやつですね。

鈴木:それで宮さんが気に入って。その画を見て、多分ここがいいだろうっていうんで巨神兵を。

庵野:いきなりですよね。めちゃくちゃです。ズブの素人ですよ(笑)

鈴木:それで粘りのある画面を描いてくれるだろうって。

庵野:いやあ。

鈴木:でも描いてくれたじゃない。

庵野:まあ出来てよかったですけど。でもよく任せましたよね。

鈴木:宮さんの独特の勘だよね。あまり給料払えなかったよね、多分。

庵野:いえいえ! あれは貰えましたよ。

鈴木:あ、本当?

庵野:それまで安かったですから。『(超時空要塞マクロス』のテレビ大学ときアルバイトでやったんですけど、1カット1800円でしたから。

鈴木:1800円!?

庵野:ええ。まあテレビシリーズですから、そんなもんです。1800円です。

鈴木:はあ。でも、あの巨神兵は凄かったよね。粘っこいでしょ。だってあれだけやるのに、あれ秒数どれくらいあったの。

庵野:長いのが十何秒ですか。普通6秒か8秒で、でも伸びてやっぱり10秒になってたと思いますね。

鈴木:それをどのぐらいの期間でやってたんですか。

庵野:1番長いのは2週間ぐらいですね。

鈴木:ああ、でも当時だとそれぐらい、それでもすごいよね。

庵野:んー、まあ巨神兵については一個悔しいのは、中(動画の中割り)を7枚にするべきだったと思いますね。宮さんはあのとき「中5でいいんだ!」って言ってて。でも中5は速いんじゃないですか……って。でも中7にすると枚数が増える上に尺も延びるから間に合わないって、中5でいいって。そして影も2色つけなくていい、1色でいいって。「ええっ~!」というやつですね。あのときは影は2色……まあ、それでも2色は許してくれたんですけど、「3色つけたら殺す」という風にメモがありますよね。

鈴木:やっぱり影を付けたくない人なんですよ。

庵野:ええ、でも大きさはやっぱり影で出せるものがあるじゃないですか。

鈴木:でも、あれは記号から――

庵野:いや、記号からこそ、ですね。でも色々教えてもらったのは、本当に板野一郎宮崎駿、この二人ですね。アニメ技術だけじゃなく、作り方みたいなものも横で見てて。だから僕の師匠はこのふたりですね。実際色々教えてくれましたからね、手取り足取り。

鈴木:いや、ジブリ、西ジブリって作ったでしょ? だからいまトヨタのなかで若い人、22人やってるわけですよ。そういうとこ行って、ちょっと特別講義を……。

庵野(笑)

鈴木:みんな喜ぶよね。でも喋るだけじゃなくて、実際のね、なんかやってくれるといいんじゃないかって。

庵野:昔、宮さんが塾を二馬力でやってたときに、一回行きましたね。でも宮さんって自分が好きか、こいつはいけるっていう人じゃないと教えないじゃないですか

鈴木:そう。やっぱり……依怙贔屓なんだよね(笑)

庵野:依怙贔屓と、やっぱり自分下駄が欲しいので。自分の役に立ちそうな奴しか労力を使わないですよね。

鈴木(笑)

庵野:僕が『ナウシカ』のときに色々教えてもらったのはそれだなあって。巨神兵をこいつにやらせとけば、自分はそれを直す手間の分、ほかのことやれるっていう。それだと思いますね。

鈴木:でも、だってアレやってくれるだけですごいホッとするんだもん。

庵野:うーん、でしょうね。だったと思います、いま考えれば。

鈴木:でも、ラストシーンは『ナウシカ』よかったんですかね、あれで。

庵野映画はあれでよかったと思いますけど。

鈴木:宮さんの最初の案は、とにかく王蟲が突進してきて、そこへ降り立つナウシカ、それでいきなりエンドマーク。それて王蟲の突進は止まると。……これは困ったんですよ。

庵野:いやー、引かれないと困るでしょうね。

鈴木:だから延々、僕ね、それこそ最後のほうコンテが出来たとき高畑さんとふたり阿佐ヶ谷喫茶店で8時間ぐらい、色々話したんですよ。これで行くのか行かないのかって(笑)。それでとにかく現状はいまある案。2つ目がナウシカが死んで、伝説の人になる。で、3つ目がね、死んだあと甦るっていう。それで最後さ、高畑さんがね、「鈴木さんどれが好きですか」って(笑)

内藤:好き嫌いになるんですか。

鈴木:そりゃやっぱ甦ったらいいんじゃないですかねえって。じゃあ、つってふたりで宮さんのとこに言いに行くんですよね。いやー、判断が早くて。「ふたりで決めたんでしょ、じゃあそうします」って。考えないんだよね。

庵野:あのとき見せてもらったのは、巨神兵王蟲が戦うのは、見たかったですね。

鈴木(笑)

庵野:あれかっこよかったですよね。まあ巨神兵は大変でした。僕は全然描けなかったと思いますよ、あのコンテのままだったら。

鈴木:でも――

庵野:見たかったですけどね。

鈴木:でも、あの巨神兵はすごかったよね。

庵野:まあ、宮さんだったら出来たんですね。『ナウシカ』の途中で、最初面接でお会いしたときにはすごく緊張したんですけど、段々それが解けてただのオヤジになっていったんで。普段アニメ作ると、宮さんってフィルターかけちゃうじゃないですか。

鈴木バランスとるんだよね。

庵野:ええ、いい人っぽく。

鈴木:そうそうそうそうそうそう。

庵野:本当はそうじゃないじゃないですか

鈴木:そうそうそう、悪い奴だもんね。

庵野:『ナウシカ』の打ち上げときに言ってたんですよ宮さんが、「人間滅びてもいいじゃん」っていうの。

鈴木:そうそうそう。

庵野:『ナウシカ』の打ち上げときに、最後のほうの相当宮さんも飲んでたときに、スタッフアニメーター若い女の子がひとり食って掛かってて。「人間が滅びてしまうじゃないですか、そんなの作っていいんですか」みたいなことを言ったときに「人間なんてね、滅びたっていいんだよ!! とにかくこの惑星に生き物が残ってれば、人間という種なんていなくなっても全然いいんだ!」っていうのを怒鳴ってるのを僕は横で聞いてて、この人すごいとそのとき思ったんですね。クリエイターとして宮さんが好きになった瞬間でしたね。人そのものに執着してないってのが根っこにあって、あれはすごくいいですよね。

鈴木:「もしかしたら私達そのものが汚れかも知れない」、いやー、もうそセリフ読んだときにね、ああこの人、人間よりあっちのほうが好きなんだって

庵野:『ナウシカ』の7巻は宮さんの最高傑作だと思いますね。まあ巨神兵のくだりは別にしてですね、宮さんの持ってるテーマ性っていうのが、あれに、すごくこう――

鈴木:集約されてる?

庵野:集約されてるっていうか、もう原液のまま出してるわけですよね。本当に、本当はすごくアレな人なんですけど。

鈴木:あの、負の部分っていうのか。

庵野:それがストレートに7巻には出ててよかったですね。『ナウシカ』の漫画にも色々出てますけども、7巻は特にそれが凝縮していていいですね。

鈴木:『ナウシカ』の『2』やらせろって言ったのはいつなの?

庵野:あれは……『ラピュタ』のころだったと思いますけど。吉祥寺で言った覚えがあります最初にね。

鈴木:あれはだけど俺、宮さんに真剣庵野がやるならいいんじゃないですかって。俺はこう説得したんですよ、宮さんを。「3部作にしたらどうだ」って。そうするとね、多分2本目は、宮さんが書いてるように、ある種、殺戮映画だと。第2部はそういうことでいうと、さあ、このあとどうなるんだろうという、そういう映画を作ればいいわけから庵野がやれば絶対面白くなると。で、その締め括りをね、宮さんが第3部でやったらいいんじゃないかって。いい説得でしょ。

庵野(笑)

鈴木:そしたら怒っちゃって。やめて下さいって(笑)

庵野:僕がやりたいのは7巻ですけどね。

鈴木最後じゃない。

庵野:ええ。

鈴木:未完だもんね、一応、あれで。

庵野:未完……いや、もうあれで十分だと思います

鈴木:十分(笑)。本人は未完なんだよね?

庵野:まあ、あのあとも語りたいです。

鈴木:いやかくね、宮崎駿に関して語らせたら一言も二言も、一家言も二家言もあるっていう。

庵野:いやいや、そんなことないです(笑)

鈴木:いや、ずっと一所懸命見てるじゃない。

庵野だって一応師匠ですから

鈴木:『ナウシカ』でどれくらいの期間いたの。

庵野:2ヵ月半くらいですかね。

鈴木:そしたらさっきの、もりやまゆうじのところに居たってことなのね。そしてしばらく経ったら、また『火垂るの墓』のときに現れたんだよね。

庵野:ええ、そうですね、就職活動ですね、仕事がなかったんで。宮さんのとこ行ってなんか仕事ないですかって。『トトロ』のオープニングをやるか、高畑さんのほうでなんか戦艦を描くのがいないっていうんで、じゃあそっちをやるかどっちだって。宮さんは前にやったんで僕は高畑さんと仕事ときたいですって。

鈴木:そうだよね、覚えてる。それで戦艦イルミネーションと――

庵野:ええ、イルミネーション花火の。実際には重巡ですけどね、戦艦じゃないですね。

鈴木:で、やってもらったら、なんかのときに話したら、よく覚えてるんだけど「二人のこともよくわかったんで」って(笑)

庵野:ああ。とりあえず一度仕事すれば、だいたいわかります

鈴木:で、終わったらいなくなっちゃったのよ。

内藤:そうなんですか。それでひたすらそれを、超えるために。

庵野:超えよう超えようと。

内藤:それで超えたときに人はどうするんですかね。なんか達成しちゃうじゃないですか。

庵野:ああ、でも次の敵が来ます。次の仮想敵が出るだけです。

鈴木富野由悠季)さんなんかはそう言ってたね。

庵野富野さんはそれでずっとやってる人です。

鈴木:はっきりしてる。

庵野:ええ、必ず敵作ってやってますね。

鈴木:……そうだよね。

内藤鈴木さんは仮想的とは違うんですけど、高畑さんの話をするときに――昨日もそうなんですけど――毎回高畑さんの話するときに、その当時の怒りが込み上げてくるみたいで……。

鈴木:いや、そりゃ色々ね。高畑さんって……曖昧じゃないからね。昔、押井守雑誌で対談したときに、押井守が『赤毛のアン』の第1話、これが僕がアニメーションをやるときに非常に大きな影響を与えられた。簡単に言うと、30分の話を30分でやっていた。こんなことテレビシリーズでやっていいのか。それで勇気づけられた思い出がある。そこに描かれていたのは日常を描くっていうことで……って言った瞬間、高畑さんがね(語気を強めて)「あなたが使ってるその『日常』っていうのはどういう意味なんですか」って言ったのよ。そしたら押井さんがね、黙りこくったんだよね。

庵野押井さんを黙らせるっていうのすごいですよね。

内藤:やっぱり高畑さんにはありますよね、そういうの。

鈴木:仮想的ではないんだけど、ねえ。

庵野:「ねえ」とか言われても僕知らないですよ(笑)

鈴木:うーん、甦るんだよね。

 

ナレーション

 

鈴木:宮さんにとっての仮想敵は? わかりやすいよね、高畑勲だよね、やっぱりね。

庵野:ずうっとそうですよね。

鈴木:そう。いまだに毎日喋ってて、誇張すれば半分は高畑さんの話だもの

庵野:いや、そうだと思いますよ。

鈴木高畑さんがいるから作ってる。高畑さんが作ろうとするから作る。おまけに高畑さんに作ってもらいたい。それが変わってないもんね。この期におよんでね、画コンテ描きながらね、「こういう画コンテ描いたらパクさん(高畑)に叱られる」って(笑)。なんちゅー純粋な人だろうと、そこは。

庵野:何回も挑戦してますよね、高畑さんを超えようと。そのたびに思い知ってるような気がします。

鈴木:やっぱり宮さんはね、高畑さんという大きな存在に包まれてる、と自分で思ってるんだよね。面白いんだよ。

??:(聞き取れず)

鈴木:やっぱり、ありますよね。まったく宮さんは宮さんの道行け、だから俺は勝手に行く、じゃないんですよね。やっぱり宮さんという人と一緒に作って来たわけでしょ。それで作ってきた人が、こうやって世間から認められて。それでいま作ってるものに対して、誰よりも関心が深い。誰よりもその内容を見返して、内容を把握して、それを自分のなかで整理しようとする。気を許すわけにはいかないよね。それが自分にある種の緊張をもたらしてるのは確か。それは高畑さんすごいですよね。だからそういう人が、誰かがいるから俺もやるみたいなことは大きいですよね。だから押井守もそうだったね。もし宮さんがいなかったら、宮さんみたいな映画作りたかったって。同時代に宮さんがいるから、俺はこんな変な映画作るんだと。自分で言ってましたけど、「変な映画」って(笑)

庵野:いいですね。

鈴木:『スカイ・クロラ』見た?

庵野:あ、見ました見ました。

鈴木:どうだった。

庵野:僕はまあ、面白いかなと。

鈴木:そうなんだ。「かな?」。

庵野:かな、と。

鈴木:どういう意味それ、「かな?」って(笑)

庵野:とりあえず寝ないで最後まで見れた(笑)

鈴木(笑)

 

(以下に続く)

http://anond.hatelabo.jp/20121204035736

鈴木敏夫ジブリ汗まみれ 2010年1月5日 庵野秀明ゲスト回その1

ナレーション

 

食事をとりながら鈴木庵野雑談

 

ナレーション

 

鈴木:いやあ、きょうはね、教えてもらいたかったんです。というのはね、『バッタ君(町に行く)』の……魅力。

庵野はい。魅力……。

鈴木:僕は正直言います告白します。お話のほうがね、なんでこういうものが作られたのかなって、見てるうちに終わっちゃったか(笑)、そこに気を取られて。アニメーション的にどうのこうのの前に、なんでこんなもの作ったんだろうって。だからきょう教えて欲しかったんです。

庵野:まあアニメーションとして好きっていうことですね。

鈴木アニメーションとして優れていますか。

庵野:そうですね……やっぱりアニメーション技術としてすごいと思いますね。やっぱ当時のアメリカは、ディズニーも、MGMも、ワーナーも、やっぱりすごいなって。

鈴木:どういう技術が優れてたの。だってバッタ君』好きだと思ったんでしょ?

庵野:『バッタ君』は好きですね。

鈴木だってEVA』を作った人が『バッタ君』を好きなんでしょ。これみんな聞いてみたいよね

庵野:画で描いて、動かす……なんていうんですかね、エネルギーみたいなものですかね。日本とはもう桁が違うぐらい当時は差があったと思いますね。1940年代ですもんね。

鈴木:41年。

庵野戦前ですもんね。もしくは戦中ですよね。

鈴木太平洋戦争が始まった年。

庵野戦前、戦中、戦後はもう、やっぱり桁が違うと思いますね。

鈴木:ああ、その時代ね。

庵野:ええ。

鈴木戦争挟んで、10年ぐらい。

庵野日本東映動画ができてからはどんどん追いついていったと思いますけど。技術的な部分とかそういうのも含めて。でもあの時代はやっぱりアメリカ世界一ですよね、アニメーション技術は。その技術集大成ひとつだと思いますね。まったく。まあ話は子供向けなんだか、大人向けなんだか、ちょっと、どっちなんだろうってとこはありますけども。

鈴木:あのー、ロトスコープっていうの、アレ? 人間の部分は。

庵野はい

鈴木:あれは正直言うとびっくりしたね、改めて見て。なんかすんげえなと思って。今のみんなが、いわゆるコンピューターでやることを、ああ昔の技術ではこうやってやったんだなって。で、それがあまりにもリアリティがあって。その対照としての虫たちがああやって描かれるでしょ。だから少しそこに世界が違いすぎるから違和感があって。

庵野:ああ、それはよかったです。

鈴木人間のほうがすごく見えちゃったんですよ、僕は。だから、いきなり虫になると漫画になるじゃない。それが、もっと人間を見たかったなって(笑)。で、それを人間がやってるんだと思うとドキドキしちゃって。脚だけしか出てこないのに。でもそれが凄かったから。やっぱり機械じゃなくて人間がやったと思うとすごく見える。それと『(崖の上の)ポニョ』じゃないけれど、やっぱりすんごい描きまくってるね。動きまくってるというか。あのー、『カールじいさん(の空飛ぶ家)』。

庵野はい

鈴木:見た?

庵野:まだです。

鈴木:見てない? ちょっと――ちょっとびっくりしたんですよ。これもね、お話じゃないんですよ。隅々までエネルギーが満ちてて。だから絵筆じゃないけれど、コンピューターでやってるんだけど、ひとりひとりのスタッフの持ってる、描きたい、動かしたいというエネルギー。すごいですね。驚きました。そして、やっぱり比較しました。いろんなところと。いま勝てないと思った。で、そういうスタッフがどんどん育ってる。ちょっとすごいです、あれは。

庵野ピクサー最近食わず嫌いやめて見るようにしたんですね。

鈴木(笑)。どうかなあって思ってたんだけれど。ピートドクターっていうの、監督のね、よく知ってたんで。ちょっと見ようかなって思ったら。ちょっと全然別のそういう感想持っちゃった。お話とかそれは、まあ、ねえ、置いといて。とにかくスタッフがのびのびと、しかもやりたいだけやってる、やりまくってる。それってやっぱり作品を色々膨らませてるよね。

庵野:いや、ピクサーはすごいですね。

鈴木:うん、だから、もしかしたら『バッタ君』も、それに満ち溢れてたのかなあって思って。

庵野アニメーターが多分好きにやってるとは思いますよ。枚数制限なく。

鈴木:一切ないよね、あれ。

庵野:ええ。

鈴木だってすごい余分なところでも動いてるもんね。

庵野:ずうっと動いてますね。

鈴木:うーん、やっぱり凄いのか。

内藤映像に音声をつけるとか、カラー化でディズニーに先を越されてしまって――。

鈴木彼女担当なんだよ。あのー『バッタ君』の担当の、あのー……なんていう名前だっけ。

内藤内藤まゆです。

鈴木:ああ、内藤っていうの。フライシャー兄弟が超えようとしたんでしょ?

内藤はい。けど最終的には越されてしまったんだけど、さっき鈴木さんが仰ってたロトスコープだったり、あとは背景に奥行きを与える、模型を使ってやることで――っていう、そういうセットバックっていう方法を考えて、ひたすら、こう、追い越せーみたいな。

鈴木チャレンジ精神が厚い人だよね。俺はね、『ポパイ』はね、見てたんですよ。フライシャー兄弟でしょ、あれ。子供ときにね、幻灯機っていうのを買ってもらって(笑)。そしたら付いてきたフィルムがね、『ポパイ』だったんですよ。それでね、初めて35ミリフィルムっていうのを見て。これで回すとさ、動くわけじゃない。それで気になるわけよ、一枚一枚の画はどうなってるのかって(笑)。それが子供ときの体験。それで初めてね、幻灯機をね、色々いじるわけ。どうして動くっていうのを思って(笑)

内藤:たしか不思議ですよね。画が繋がってるだけで。それを映しても、なんでそれが動いてるように見えるのかって、すごく不思議で。

鈴木:そうなんだよ。それで子供ながらにね、色々分解したりしてるとね、わかってきたんです(笑)

内藤:えっ、幻灯機をですか。

鈴木:そうそうそうそうそうそ(笑)。って言ってもたいしたあれじゃないけどね。『ポパイ』って、僕は昭和23年で、戦争が終わって3年後に生まれた身としてはですね、漫画って言うと日本漫画もあったけど、一方で『ポパイ』だったんですよ。そのぐらい強烈な印象で。だから、まさかその人の、あれが最後の作品? 『バッタ君町へ行く』。だから、興行的に上手くいかなかったわけでしょ。だからディズニーってのは商業的に上手くいったからね。

内藤庵野さんは、あの作品の中でどのシーンが一番お好きなんですか?

庵野:牛の住んでる楽園が、人間の手でこう次々に壊されていくスペクタクルですね。あれがすごい一番。ええ、工事のシーンですね。工事の車とかシャベルとか無機質さと、この右往左往する虫の動きの、このコントラストっていうんですか。そういうのも含めて、大スペクタクルですね。手で描くのを知ってると「よくまあこんなのを……(苦笑)」とは思いますね。それだけでも、もうすごいと思いますね。

内藤鈴木さんは好きなシーンありますか。人間以外で。

鈴木:俺? 俺はねえ、あの屋上へ行ってね、こうやってアメリカは滅びて行くんだなあっていう(笑)

庵野:結局、楽園ですらも人の手で人工的に作られないと虫は生きていけないっていうことですね。

内藤:当時はもう、ああいう高いビルはいっぱいあったんですか。

鈴木アメリカはそうなのよ。エンパイアステートビルをはじめ、いわゆる高層ビルアメリカの象徴だったから。相当昔から造られてんだよね。いわゆる地震の少ない国だったから。

庵野:なぜ「町」だったんですかね、あれね。

内藤タイトルですか。

庵野:まあタイトルもそうだし、なぜ町を舞台に虫の話をしたんだろう。

鈴木:うーん……。だからまあ多分アメリカっていう国が大きな変化を遂げていった、1950年代、大繁栄を迎えるわけだから。その大繁栄のなかでアメリカ人が見失っていくもの? そこらへんのを予感したんじゃないかな。

内藤:すごい不思議だったんです。そんなに歴史詳しくないんですけど、真珠湾攻撃の直後に公開してるのに、なんでこんな平和というか、一見呑気な話が作れるのかなって。

鈴木世界大恐慌ってあったじゃない、1929年。結局アメリカの、ねえ、そういうのから始まるわけでしょ。それで結局色々やったけれど、ニューディール政策その他。アメリカ復興できなかったんですよ。ところがヨーロッパ戦場になることによって、その恩恵に預かって、それでアメリカ復興していく。結局その戦争を待つことによって景気回復したんだよね。だから、やっぱりこの映画が作られたころ、アメリカは非常に豊かだったんですね。方や日本は、っていう。貧しい国でしょ。小さな国で。やっぱり宮さん(宮崎駿)なんかもね、およそアニメーションを目指す者はこれを見なきゃ始まらないみたいなそういうコメントを寄せて。

庵野:まあ僕はそう思いますね。少なくともアニメーターは見て損はないと思いますね。

鈴木:なんか、ここのシーンだっていうところはあるの? ここがすごいって。

庵野:全編すごいですけど、やっぱり最後クライマックスの壊れていくところ。あの虫のモブを一枚一枚描いている。

鈴木:頭おかしいよね、あれ。

庵野:あれは凄いですね。

鈴木:俺、どっちが先か判らないけれど、僕は……誤解も与えますが、宮さんの一番すごい仕事って、やっぱり『ホルス(太陽王子 ホルスの大冒険)』だと思うんですよ。最後モブシーン。あれ宮さんだよね。いろんな人が縦横無尽に動く。それで空間がどんどん広がっていく。あれはちょっと舌を巻くんですよ。

庵野:宮さんのモブは本当にすごいですよね。

鈴木:うん、それで……あれ以来見たことないんだよ(笑)

庵野:やっぱり若いというのはね。

鈴木:いやー、あれはすごいよね。

庵野:すごいです。

鈴木:こんな風に人がね、動いて、しか人間の手で描いて、こんなシーンが作れるのかって。最初に見たときラストシーンどういう人がこの画を描いたんだろう、設計をしたんだろうって。それで後で聞いてね、やっぱり宮さんだってことがわかって。うーん、「すごかったんだなあ」なんていうと怒られちゃうけれど(笑)

庵野:いやあ、アニメ-ターとしては超一流ですよ。『(空飛ぶ)ゆうれい船』とかも好きですけどね、宮さんの仕事だと。

鈴木:やっぱり過不足なく描いてたものね。

庵野東映で、ここはすごいっていうところは大体宮崎駿原画のだったりしまからね。

鈴木:ああ、なるほど。……宮崎駿のことはいつ知ったの?

庵野:「アニメージュ」だと思いますけどね。

鈴木:じゃあ大学生とき

庵野大学……いや、高校のときですね。意識したのは『(未来少年コナン』ですね。その前も好きでは見てたんですけど、なんだろう、ちゃんと見るようになったのはやっぱり『コナンからですね。

鈴木リアルタイムで見たの?

庵野リアルタイムですね。妹とチャンネル権の争いで、なんとか。

鈴木:えっ、裏になんかあったの?

庵野:裏は『(女王陛下の)プティアンジェ』っていうアニメが。

鈴木:『プティアンジェ』ってのがあったの(笑)

庵野NHKからっていうのでなんとか親を説得して。

鈴木:「NHKから(笑)

庵野1話を見たら、親が続きを見たくなってくれてですね。そのあとは毎週ちゃんと見れるようになった。それまでは『プティアンジェ』でしたからね。

鈴木:そうなんだ(笑)

庵野:『プティアンジェ』、オープニングだけ見ればいいんだって

鈴木:そうなんだ。……それ以来ずっと注目してるの?

庵野:そうですね、あとは『カリ城ルパン三世 カリオストロの城)』ですね。

鈴木1978年、79年か。

庵野:あれは劇場に見に行きましたね。

鈴木:満足しまたか

庵野:2回見ましたね。僕のほうは田舎だったので同時上映があって、そのあいだはロビーに出て。

鈴木:『カリオストロ』はねえ、たしかにねえ。僕が初めて(宮崎駿に)出会ったころです。

庵野:いいですよね。

鈴木:よく働いてた……。

庵野:あれが(制作期間)半年ってのはやっぱりすごいと思います

鈴木:作画4ヵ月だもんね。

庵野:ええ、あのスピードはすごいですね。

鈴木会社から言われたのは3ヵ月で、それで1ヵ月余分にもらって。

庵野:あとでなんかあって「もう1ヵ月あれば」って言ってました。

鈴木だってコンテ描き直したもんね、あのローマ水道のとこ。

庵野:あそこは僕にもなんか悔しいって言ってましたね。

鈴木:でも宮さんって、そういうときに描き直す人なんだよね。

庵野:まあ現実的でいいですよね。できる範囲のものに落とし込むっていう。

鈴木:だから……見てて、よく宮さんがね、「理想を失わない現実主義者」って。これ宮さんも言うし、実は元は高畑(勲)さんかなっていう気もするんだけど。ふたりともそうなんだけど、その理想現実の――なんて言ったらいいかな。微妙ふたり違うんだよね(笑)微妙に違うんだよ。

庵野高畑さんはそんなに詳しくないんで……。

鈴木:よく知ってるくせに(笑)

庵野:でも、こわい人だとは思いますけどね。

鈴木:でもよく覚えてるんだけど――『ホルス』だとね、村があるんだけど、一人狡猾なおじさんがいるじゃない。その人がいることによって村が成立している。(『風の谷のナウシカ』の)風の谷の方はね、300人くらいいて、ああいう悪い人がひとりもいない。

庵野:ええ、みんないい人なんですよね。

鈴木:一種、理想主義に貫かれてるでしょ? それで映画見るとね、高畑さんは一方で現実映画のなかに入れようとするし、宮さんはその現実は置いといて。ところが映画作り始めると、宮さんは間に合わないと思ったらコンテを変えてでもその映画を完成させようとするっていう現実主義があるのよ。高畑さんは違うんだよね。

庵野:変えないですよね。

鈴木:変えない。それで遅れたときもね、「それは僕には責任ない」と。「それはプロデュースサイドがコンテができたときに把握してるべきだ」って貫くんだよね。映画のなかは非常に現実主義なのに、映画のなかは。やり方は理想主義というか(笑)

庵野:まったくです。

鈴木:でもふたりのそういう差って、なんですかこれは。

庵野:なんですかねえ。

鈴木:で、宮さんなんかは非常に面白いって思ったのは、結局、『ホルス』作ったあと、それこそ『コナン』もそうだけど、『ナウシカ』もそうだけど、『ホルス』をひきずるでしょ?

庵野はい

鈴木高畑さんは違うんだよね。全然違うものを作り始めるんです。

庵野:まあ宮さんのほうが根っこがいい人なんじゃないですか。

鈴木高畑さんに聞いてみたことがあるんですよ。なんでファンタジーやらないのか、って。そうしたらやっぱり『ホルス』で創造できるもの創造し尽くした、と。でも、唯一その世界に持ち込めなかったのが『思想』である、と言ったんだよね。そうするとファンタジーっていうのはそれが出来る人がやらなきゃ意味がない、それが自分の総括だ、って。僕が聞いて、高畑さんいまになると違うって言うかもしれないけど、すごい印象に残って。だから宮さんが『ホルス』をひきずって。なんかっていうと『ホルス』みたいなのに戻るでしょ、宮さん。

庵野:ええ、基本はそこですよね。ずっと『ホルス』のリメイクをしてるようなね、感じがしますよね。

鈴木宮崎……オタクとしてはどう思いますか? なんつって。オタクじゃないか(笑)

庵野別に宮さんオタクじゃないですよ。

鈴木(笑)。でも面白いよね、そういう宮さんも『バッタ君』のアニメーションの部分って非常に着目してるし。

庵野:やっぱり宮さんは基本アニメーターからだと思いますね。僕もアニメーター上がりなので。

鈴木:やっぱそこなんだね。

庵野:今でもやっぱり原画とか動画とかやっちゃいますよ。

鈴木:ああ、自分で。

庵野:ええ。間に合わないときは。

鈴木:宮さんがいま、原画やってるんですよ、自分で。やり始めたんです。本編やってるでしょ、それでその横で美術館用の短編やってるんだけど、「スタッフがいない」って。最初1分でやるって言ってたのが10分になるからいけないんだけど。老骨に鞭打って。でも結構楽しそうに。でももう69なんだよ。アニメーターっていつまで描けるんですか?

庵野:目と手が動けば大丈夫じゃないですか。

鈴木:手が動けば大丈夫? 本人もう動かないって言ってんだけど(笑)

庵野:やっぱり、目と手ですよね。

鈴木:目は大丈夫なの?

庵野老眼きました。

鈴木:ああ老眼が。もう50になったんだっけ?

庵野:まだです。いよいよ。50代なんて来るとは思いませんでした。

鈴木:宮さん喜んでるよ。「庵野っていくつになったの」って言うから「もう50だと思いますよ」っつったらすごい嬉しそうに。

庵野(笑)

鈴木:「そうか!」つって。「歳取れっ」って。「俺の苦しみがわかる」とかなんか言っちゃって(笑)

庵野:僕が50になったら宮さん70じゃないですか。

鈴木:でもみんな……歳を取ってきたんですね……。

内藤:その宮崎さんが「アニメーターをやる奴は見ておくべき」っていうインタビューをしたときに仰ってた言葉を(『バッタ君』の)宣伝の柱にしてたんですけど、やっぱりアニメーターを目指す方って一部じゃないですか。

庵野:すごく少ないと思います

内藤:もちろん、その人達にはできれば来て欲しいとは思ってるんですけど、やっぱりそれ以外の人に、どう魅力というか、アニメーターは目指していないけどちょっと気になるとか、そういう人に来てもらえるのかなっていうのを考えていて。どうしたら人の心に響くようにできるんですかね。

鈴木:あの作品を?

庵野:僕が『バッタ君』を宣伝するんだったら、ビデオで宮さん撮って、それをテレビで流しますね。ワイドショー枠的なものとかで。それぐらいだと思います。だからバッタ君』を流すよりは宮さん流しますね。それでこっちにちっちゃく枠でそれを流して、なんか宮崎駿お墨付き、これ、っていう。そういう風に。

内藤:そこだけ切り取って。

庵野調子のいいとこだけ切り取って、もう編集して。もう、ほぼ捏造でもいいから、そういう風にして流しますね。それで、あとで宮さんには謝ります。ごめんなさいって。

内藤鈴木(笑)

(以下に続く)

http://anond.hatelabo.jp/20121204035509

2012-11-21

http://anond.hatelabo.jp/20121121063529

私はヱヴァQを見ていて、あ、これは魔法少女まどかマギカに近いテーマ性を持っている、更にその先に行こうとしていると感じた。

というのも、まどかマギカヱヴァQも、善意の結果が悪意と悲劇になるならば、善意の結果が人を苦しめることになるならば、というテーマを扱っているからだ。

ほとんどの創作作品において、善意は報われるということが前提になっている。善意が報われないならば誰も善意をなそうとは思わなくなるからだろう。

だが、その前提に対してまどマギは疑問を呈した。善意の結果が悪意と悲劇になるならばというテーマを立て描こうとしたが、まどマギはそこで止まってしまった。善意が悪意に転じるならばそれは絶望で、せめてそのような悲劇にならないように、という物語が描かれた。

ところがヱヴァQでは、シンジアスカに引っ張られながら、それでも前に進む事を強いられている。生きている以上は歩かねばならない。立ち止まることは死と同義だとでも言うように

ほむらカヲルと言われるけど、むしろほむら=Qシンジだと解釈した。

同性愛に近い友情を抱いてたたった一人の友達まどかカヲル)が、

セカイを滅ぼす存在クリームヒルト・第13使徒)になる前にこの世を去り、

残された救いようのない新世界に取り残され、変な化け物(魔獣・インフィニティ)と戦い続ける運命けが残され

手を取らなければいけないのは、今まで敵対していた人物(QBアスカしか居ない

だが、ほむらとQBが手を組むこと、シンジアスカに引っ張られること、そのものが「希望であると。

ラストシーンテーマまどマギヱヴァQで類似している。

新世界で生き抜くためには優しくしてくれる同性愛に近い友人(まどかカヲル)ではなく、旧世界では殺そうとしたほど憎んでいた存在(QB・アスカ)だ

ただ虚淵玄が言うほどほむらとQBの折衝には中間がないのがネックである

結局、魔法少女がこの世から去らなければいけない存在になるのは新世界でも変わらない事はさやか証明している。

しかシンジアスカは破で絆っぽいものを結んでいて、それがQでも残っていたことに希望がある。

28歳設定もあってアスカは昔に比べて別人であるからだ。

まどマギ新世界も描写が足りず、またほむらの心境もまどか概念になってからあの黒い翼を発現させるまでの空白が描かれていない。

それは14年の空白を経て、なんかたくましくなったアスカに近いのかもしれない。

これはただ女の子の強さを庵野虚淵も信じているからだろうか。

ちなみに庵野ニュータイプまどマギを評価するコメントを残しているが、注目しているのはほむらQBらしい。

ループ」ではなく「新世界でかつての敵同士が手を取り合うこと」というテーマシンジアスカと一致してるのも大きいのかもしれない

余談だが、あずまんまどマギにも「狂気が足りない」言うてるんでヱヴァQ絡みも多分そういうことだと思われる。

2012-07-07

ごんきつねと母狐の真意が気になって夜も眠れん

誰もが知っている不朽の名作「ごんぎつね」「手袋を買いに」

最近国語教科書には掲載されていないとかい情報を耳にした。

真偽のほどは定かでないが、事実だとすれば理由はいくつか思い当たる。

改めて読み直すと何度読んでもごんぎつねは涙が出てきてしまうし、

手袋風景母子愛情の描写の美しさにうっとりしてしまう。

たびたび議論されていることだろうが、この二作品にはどうも腑に落ちない点がいくつかある。

すでに逝去している作者の真意を知るすべもなく、

後世の読者が独自に解釈をした上で内容を改訂できるようにしたらよいとも思うのだが、

勝手な改変を加えるのは文学作品に対する冒瀆であり、すべきでないとも思うので、

にっちもさっちも行かずむずがゆい思いをして困っている。

ごんぎつね

これはもともと新美が草稿として創作した「権狐」を文学者鈴木三重吉が全国的な童話の普及を目的として改訂して上梓したものであり、

元々の草稿とは変わっている点がいくつかある。

有名なラストシーン、「ごん、お前だったのか、いつも栗をくれたのか」と発する兵十に対して、

「ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました」が、

新美の草稿では「ぐったりなったままうれしくなりました」だったそうだ。

この改訂は物語の本旨を根本から変えてしまうのではないか

どっちがいいんだろう、と自問しているがいまだに答えが出ない。

本来の草稿を尊重して「うれしくなりました」にした方がいいようにも思うが、

うれしかったのかどうか読者に想像させるに留めて客観的な状況だけ描写したほうがいいようにも思うし、

しかし「感謝されたかったという思いが叶って満足なのか、自分の評価が一番大切なのか」という印象も持たせる終わり方になってしまうし、

かと言って「うなずきました」だと一層「自分が評価されたいだけなのか」という感を読者に植え付けてしまうし、

撃たれてもなお「うれしくなりました」の方が、自己犠牲的で感動を与えるような気がする。

どちらにすべきなのだろう。

最大の疑問はこの悲劇的な結末で子供たちに一体何を新美が伝えたかったということだ。

わかりやす勧善懲悪物語よりも善意が報われない理不尽さを表現するこの童話のほうがよほど処世術の教本として理想である気もするが、

それにしても得られる人生訓が一向に見えて来ない。

子供たちに、何をどう受け止め、どう人生に生かして欲しいというのか。

それとも作者はそんなことは考えていない、何の教訓も込められていない童話こそ教育材料として相応しい、ということなのか。


次に「手袋を買いに」。

母狐は自分が恐ろしくて行けないような街になぜかわいい子狐を一匹で買い物にいかせたのか。

まりに冷淡ではないか

母狐は病弱で動き回れないとかいろいろやむを得ない事情があると思いたかったが、

残念ながら作中の描写からはそのような状況は推測されない。

そこで狐の習性上の理由を思いついた。

子供一定程度成長すると、近親交配の防止のため、親狐は本能的に子狐を強制的に巣穴から追い出す。

噛み付き、襲い、遠くに追いやって戻ってこなくなるまで攻撃を続ける。

子狐は昨日まで優しく育ててくれた親狐の豹変に驚き、必死に親にすがるが、親は心を鬼にして子供を突き放す。

キタキツネ物語」でもこの描写が出てくる。

母狐はいずれ子供を自立させなければいけないことを悟っており、

それの前段階として、人間とのかかわり方も含めて、世間渡り方を学ばせるために、子供冒険をさせた。

そう解釈したい。

作者にその解釈でいいかと聞きたいところだがそれが叶わないのでむずがゆくて仕方ない。


他にもいろいろ突っ込みどころはあるが、今更作者に聞くことができない以上、

後世に生きる私たちができることは、自分の納得いく解釈自分の中で確立することしかない。

子供向け童話も追究すると奥が深くてきりがないな。

2012-02-07

今更になって『あの花』をクリティークしてみる

 俺はあんまりあの花』好きじゃない

 ラストシーンが期待通りのものじゃなかったっていうのが大きいね。期待外れと言うか、それまでの文脈にそぐわないラストというか


 しかしそれでも俺は『あの花』に対してある種の好意を抱いてもいる

 というのも、『あの花』という作品がある特定の人々を傷つけるようなシロモノであるからだ。

「傷つける」ということは一体どういうことなのか? ということはこの場では一旦後述に回すとして、まず、『ある特定の人々』が一体何を指すのか、について言及することにする。


『ある特定の人々』。それは誰か?

 スタッフ


 特に、中心的なスタッフであればあるほど、あの作品によって多かれ少なかれダメージを受けているに違いないと私は思っている

 何故なら、あの作品がいわゆる商業ジュブナイル作品であるのが一つ。そして、もう一つはあの作品が失敗作だから

 あの作品は商品であると同時に、ある種の内的な息遣いというか、核となる生命力のようなものを欠いた作品だから


 あの作品において核となる生命力が欠如していることは、そもそもの作品のコンセプトを省みれば一目瞭然である

 というのも、あの作品のコンセプトが如何なるものかと言えば、

“何か特別な力を持っていない虚しい人間でも(まあ霊視のことはさておき)、人生を肯定するに足る思い出なり価値なりを享受できる”

ということに尽きるのである

 つまり、『あの花』はその基底となるコンセプトから言っても、中心的な何かを欠いた、ある種の虚しさを湛えた作品であるといって差障り無いのだ。

 ただ、ドラマツルギーとは往々にしてそういうものだ。それ単体ではさしたる価値を持たない物事の羅列が、ある種の偶然によって価値を持つようになるのは、ドラマツルギーの特徴だ。

 私は別に、そのようなドラマツルギー全般のことを空虚なシロモノだと言って否定しているわけではない。


 しかし、あのスタッフたちは、特にその中核的なスタッフたちは、あの作品によって生み出されたドラマに、どれほどの価値を感じているだろうか?

 恐らく大した価値を感じてはいるまい。私はそう思う。

あの花』とは、その程度の作品だ。


 しかし、私はそれ故に、その不甲斐ない出来の故に、『あの花』にある種の魅力が芽生えるのを感じるのだ。

 それは、あの作品が製作者たちのジュブナイルを、多少なりに切り売りした形で生み出された作品だからである

 そして、そのように思い出を切り売りしてまで作った作品に、あの程度のドラマしか付与できなかったということが、恐らくは中核的なスタッフの心をえぐり、ダメージを与えているかである

 ジュブナイル――つまりは彼らの思い出そのもの――というものを、はした金の為に切り売りして、そして結局あの程度のドラマしか作れなかったという事実は、恐らくスタッフの中の数人の、ナイーブで温かく息づいていた部分を傷つけたことだろう。


 そしてそのような失敗作としてのダイナミズムを持っているからこそ、私は『あの花』に対して好意を抱いているのである

 スタッフの方々、貴方達の後悔はすぐに貴方達本人によってさえ忘れられてしまうだろうが、しかしそのひとときの味わいが甘美であることには、間違いあるまい。

2011-12-26

けいおん!の平穏

けいおん劇場版をやっと観た。

実はテレビ放送は一期しかチェックしていなかったが、個人的にロンドンに思い出があり、今回の舞台ロンドンと聞いて鑑賞。

空気系、日常系と評される本作品の中にあってもとりわけ空気「系」・日常「系」 感の強い本作品。

中でも今作は、あえて感情を揺さぶらない。極めて蓋然的。

以下ネタバレ

軽音部員は泣かない。

夢のロンドン行きが決まった瞬間、澪の歓喜する顔は、画面にない。

卒業式の日の朝、三年生の四人にとっては高校生活の最後を締めくくる、記念すべきライブ。唯はいもの照れ笑いで、ステージを降りる。

ラストシーン軽音部ただ一人の後輩に捧げる、先輩からの最高のプレゼントあずにゃん拍手で応える。でも泣かない。

いわゆる「ドラマ」であればまず間違いなく涙で描かれるであろうシーンで、徹底的に涙が排除される。

許容されるのはただただ、回るものを怖がって怯える澪の涙だけ。萌え

宮台が震災以降の空気系の難しさを指摘しているが、

http://nikkan-spa.jp/37231

地震津波が明らかな非日常であったのに対し、原発事故による放射能リスク日常への疑念として、震災後も続く日常に影を落としている。この状況にあっては、日常はむしろ希求されるべき状態ではないか

夏祭りクリスマスイルミネーション

被災地では、一度は失いかけた日常を取り戻すべく活動が続いている。

未だ顕在化しないリスクを抱えたホットスポットとされる地域においては、(それが認知的不協和に基づくものであろうことはさておき)逃げ出そうとする人々は非難され、普段の生活を送ることこそが「平和」、「平穏」として志向される。

セカイ系」に対しての「空気系」・「日常系」と評された本作。けれどそれが否定したのは本当は「セカイ」ではなくて「ドラマなのだと思う。

ドラマ」に対しての「日常」

「感動」に対しての「平穏」。

世界は僕らを嬉しくさせない―だけでなくて、悲しかった。

涙は現実だけで十分。

今こそ平穏を取り戻そう。

2010-04-02

紅の豚

紅の豚ラストシーン紅の豚ことポルコと、アメリカ野郎ことカーチスの殴り合いのシーンで

最後にポルコが勝つんだが、実はこの殴り合いの勝負はカーチスが勝っていたと思われる。

おそらく年齢的な事を考えても、殴り合いで勝っていたのはカーチス

飛行艇の勝負で勝っていたのがポルコだろう。

証明になるかはあやふやだが、海辺の殴り合いのラストでポルコが先に立ち上がった後、カーチスが浮かび上がって目を開けて水を吐くシーンがある。

その後、カーチスは再び立ち上がりファイチングポーズを取って殴る素振りをみせ、ジーナに「もう終わったのよ」と言われてるが、もしカーチスが本当に勝負が終わったと気づいてなかったら、その前に目を開けるシーンがあるのはおかしい

カーチスは初めから勝負によってヒロインのフィオを貰う気がなかった可能性がある。しかも、それを誰にも悟らせないよう、さらにジーナの前におどけてファイチングポーズを取ってみせたりする。ここは、根本的に女性の前でおどけずに入られないような、結構あまのじゃくな性格なんだな、カーチスは。

そういう、あまのじゃくな所がポルコと少しにている部分がある。

ポルコがかっこいい、っていう視点が大きい気がするが、オレはマンマユート団(海賊)のオヤブンの豪気さや、カーチス三枚目でありながら、実力と哀愁を背負ってる所とかがかっこいい。

というか、オレはポルコよりカーチスのがカッコいいと思う。カーチス派だ。

2010-01-13

運命だった

今日仕事帰りに「(500)日のサマー」っていう映画を見てきた。渋谷なんて今じゃめったに行かないし、場内はカップルだらけだし、最初は来るとこ間違えたなと思ったけど、映画が終わる頃にはガン泣きで、これはおれの映画だって思っていた。他にもそう思ったやつがいたら、そいつとはいい酒が飲めそうだ。

あ、最初に書いておくけど、これは映画感想じゃないよ。

以下おれの話。

当時、おれはある居酒屋バイトをしていて、バイト代のほとんどを近所のレコ屋に費やしていた。

ある日、そのレコ屋に新しいバイト女の子が入ったって話を聞いて、休憩時間制服のまま、見に行ったことがあった。第一印象は「地味」だったけど、黒髪がつやつやしてんのと、表情が明るいのはちょっといいなとおもった。

でもそれだけ。おれはカウンターを通り過ぎ、いつも通り新入荷とエサ箱だけチェックして店を出た。

それから数ヶ月過ぎた頃、朝まで飲んだ帰りで、めずらしく午前中にそのレコ屋に行ったときのことだ。

店内には彼女だけがいて、かかっていたのは、あんまり有名じゃないかもしれないが、当時おれが一番好きなバンドだった。

気になってちらちらとカウンターを見ていると、彼女は店内に客が少ないのをいいことに、レコードプレイヤーCDプレイヤーを使って次々と好きな曲をかけているようだった。信じられないことに、そのどれもがおれが好きな曲で、正直おれのためにかけてるんじゃねーかと思うくらいだった。

それがきっかけで、おれは彼女意識するようになった。彼女カウンターにいるときを狙って、彼女の好きそうなレコードばかり買った。一度、今かかってるのは何か、とたずねてみたこともあるが(もちろん知っていてきいた)、対応はそっけなくてひどく落ち込んだ。

彼女とはじめて話をしたのは、彼女と同じレコ屋に友だちがいるバイト仲間がセッティングしてくれた飲み会でのことだ(合コンではない)。

シフトあがりで少し遅れて飲み屋に行くと、すでに飲んでいたらしい彼女は笑って手を振り、「ずっと話してみたいと思ってたんです」と言った。きいてみると、あの朝にかけてた曲も、おれが好きそうなの選んでかけてくれていたらしい。その日どうやって口説くかばっかり考えてたおれは、こりゃ運命じゃなきゃ嘘だろと思った。

そこから先はとんとん拍子だ。おれたちは連絡先を交換し、休みの日に映画を見に行った。その帰りに、俺は彼女に付き合ってくださいと言った。彼女は、付き合うとかよくわからないと言ったが、おれのこと嫌いですかときくと、そんなことはないと言った。「じゃあいいじゃん」といって、おれたちは恋人同士になった。

彼女といると話題は尽きなかった。彼女は良く笑ったし、笑うのを見るたびにおれは安心した。デートにはいつも、彼女に貸すものを持っていき、それを返してもらう口実でまた次の約束をした。

しかし彼女大学生で、おれはフリーターだった。そのうち、学校で何してんのかなと考えるだけで不安になった。いちど、彼女大学に遊びにいったことがあるが、大学に通ったことのないおれには異世界に思えて、具合が悪くなった。

だんだんと、おれは彼女をうたがうようになった。学校が忙しいというのは嘘だと思った。不機嫌そうな顔をしていると、彼女は必ず心配してくれるので、おれはそれを繰り返すようになった。彼女はあまり笑わなくなってしまったが、自分でもどうしていいのかわからなかった。

なんでいつも機嫌が悪いのか、と彼女がきいたとき、おれは何も言えなかった。いつまでもだまっていると、彼女は泣きながら「もう無理」と言った。おれのこと好きですかときくと、彼女はだまって首を振った。

付き合った期間は半年キスはしたけど手はつないでない。最後の方にいちどだけ、無理やりつないでみたけど、手に全然力が入ってなくて悲しかった。セックスは2回だけ。お互い実家だったしな。

まあそんな具合で、彼女とおれは別れた。

そしておれはなぜか怒っていた。最初から彼女はおれのこと好きじゃなかったんだなと思い、ムカついて仕方なかった。見返してやりたくて、すぐに別な女とつきあったが、そうこうしているうちに彼女はレコ屋を辞めてしまい、会うこともなくなった。

いざ会えないとわかると、おれはすげー落ち込んだ。お約束すぎて笑えるが、酒とパチンコにハマったりもした。

当時の彼女は、そんなおれの愚痴を嫌な顔ひとつせずにきいてくれ、おれは感動のあまり「おまえと親友になりたい」と言い、うまれてはじめてビンタされた。それが4年位前。

で、「(500)日のサマー」の話だけどさ、ダラダラと書いたおれの思い出話とは、音楽がきっかけってくらいしか似てない。

ただひとつでかいのは、ラストシーンサマーをみて、ああ彼女幸せに暮らしてるといいなって、たぶん初めて思えたことだ。

おれは彼女が好きだった。でもうまくやれなかった。それが運命だったってやっとわかった。

こんなこと書いてるの、嫁にばれたら恥ずかしいので、はじめて増田に書いた。読んでくれた人ありがとう。

2009-12-10

神様じゃ無ぇ!王様だ!!

何度同じ事を言わせるんだ(笑)

「王」を自称した事は何回か有るが、「神」を自称した事は1回しか無い。

それも映画ラストシーンをパロった皮肉である。

破壊神シバ」と一度きり。

              〜T/H

http://anond.hatelabo.jp/20081031231537

大変今更な引用だが

■ぶっちぎり!二次創作

各作品で個人的ベストを発表するよ。

ゼロの使い魔は、ベイダー卿・2回目、いろいろ候補あるが

「気さくな王女

http://www35.atwiki.jp/anozero/pages/1501.html

何を言ってるのかと思ったが、読んでみて納得だ。呼び出された物の強さや派手さは面白さにはあんまり関係無いのだな。

実際は、先に『気さくな女王』を読んでから、その後レビューでも読もうかと思い検索してこの匿名記事を見つけたわけなのだが、それはどうでもいい。

かしこSS、何が凄いって元ネタ両方知らないで読んで楽しめたと言うのが凄い。

その後、元ネタの『ゼロの使い魔』も『鬼作』も読んだが、歌の部分の味わいが多少増したくらいだった。

ただラストシーンだけは別の感慨を憶えた。

鬼作、このSSの両方共通の最後のシーン。詳細は書かないが

イザベラには、この世にたった一人だけ自分を思ってくれた人がいた、鬼作には居なかった。両親も含め味方が居なかった。その人の存在の有無がこんなにも物語全体に違う印象を与えるとは思っても見なかった。

  

ただ、鬼作あってのこれという気はする。

結論

鬼作スゲエ。マジスゲエ。

2009-11-09

今週のウシジマくん

ラストシーンは二人が○される前の回想シーンってか、フラッシュバックって解釈おk

2009-07-22

http://anond.hatelabo.jp/20090720180809

読み終えた。

元増田増田を見ているかわからないが(宣伝だけして、増田を去ったかもしれない)、感想を述べたい。

文章力については問題ないと感じた。

元増田に考えてもらいたいのは、内容面だ。この小説増田に上げられてから私がこれを書いている時点までに掛かった時間がどれだけあったかだ。私が遅読だと言いたいわけではない。私に、これだけ読む時間をかけさせたのは、その内容の、訴求力のなさが原因だ。先を読もうと思わせる努力を、もう少しして欲しい。より具体的に言うならば、アンデルセンを殴った後と同等の訴求力が、それより前に欲しかった。

内容に関してもう一点。

二人の主要な登場人物のほかに、本当の意味での会話を成り立たせられる人物が存在しないこと、少年少女の二人だけの関係物語が進むことから、この作品がきっとセカイ系意識しているだろうことはわかる。

しかし、新しい才能を求めている小説賞に、使い古されたセカイ系を送るのは、どうだろう。

いや、この作品は、セカイ系ですらないのかもしれない。

この物語ラストシーンで描かれているのは、君と僕とセカイとの関係ではなく、それ以前の、君とセカイとの関係だ。僕が欠けた、いわばセカイ系の前段階だ。これでは、賞を設けた側が求めている、新しい想像力とは決して言えない。

辛口かもしれないが、私はプロ編集者です。

2009-07-07

THE END OF EVANGELION」の感想集 2

http://anond.hatelabo.jp/20090707100038 の続き

 弐拾六話では全ての人とあっさり和解でき、すんなり受け入れられた。
しかし世の中そんなに甘くないというか、実はそれこそが自己中心的世界
と言える。もっとリアルに描いてみよう、というのが26話ではないかと。

 何故なら「本質的に解り合うことのできない他者が存在する」というこ
と、他者を認識するとはそもそもそうしたことである筈だったから。庵野
氏の構図で言う幻想世界の内部において、シンジはどうしてもそのことを
容認できず、他者を理解できないまま、自分を理解するよう他者に縋り続
けた。補完計画が完成し、群体から単体に還元され、全てを包含レイに
抱擁された時点で、彼はやっとそのことに気付いた。
 ラストアスカを殺そうとしたのは、アスカが正に他者であることを、
彼が遂に知ってしまったから。でも結局殺せないし、前のようにエヴァの
胎内に逃げることもできない。そこは既に第弐拾六話の月面と同様に、後
戻りの聞かない場所、補完が導いた現実世界。・・・

 なんと、エヴァと融合し全てのヒトを包含した神が、人一人殺せず、孤
独に耐えかねて泣いているんです。
 私はここに最高のユーモアカタルシスを感じました。こんなに見事な
ラストは、これまで観たことも読んだことも恐らく無かったです。(^-^)
宮村優子さんのラジオ発言とか最近目にするようになった彼女の雑誌のコメント
を見ると、宮村さんは今回の劇場版をお気に召さなかったのかなとも思います。
自分でも「なかなかのモノが出来た、俺の選択って凄いぜ。フフン」と庵野監督
が思ってたのに、いざ、脚本を渡したら宮村嬢からの冷たい反応。それにショッ
クを受けてああいったラストにしたのかな(^^;?
無責任な憶測ですけど
 あのラストシーンは,シンジが選んだこの世界が決して「気持ちのいい世
界」ではないことを辛辣に描いていました。しかし同時に,そこには絶望だけ
でなく,わずかな希望もあることをも示していたと思います。


 希望アスカの手,シンジの涙。 
                  そして,『会いたい』という気持ち。
 ラストシーン絶望的。シンジはほんの少しだけ変わった。もうひとり、ほ
んの少しだけ変わったひとがいるみたい。でも、その「ほんの少し」への一歩
のなんて遠いこと。2人は、まだ変わっていないみたいに見える。だけど、絶
望は希望の裏返し。これからどうするか、それは、私たちに委ねられたのかも
しれない。
  ひとつだけ考えられるのは、シンジ物理世界に戻ろうと決意したのをアスカ
  も知っていて、そんなシンジとだったら一緒にいても良いかな、って思ったの
  かも知れない。
  でも、砂浜で再び自分の首を絞めてる彼を観て「ああ…やっぱり何も変わって
  ないんだな…」と思っちゃったとか。
 寂しいことを言ってしまえば、アスカにとって、自分のために泣いてくれた人
を身近で感じたのは初めての体験だったのかもしれません。初めてで慣れてない
から、「気持ち悪い」のかも。
庵野監督は最後までアスカの扱いに困ってしまったようですね。その苦悩がラス
トシーンにも出てしまったのでしょうか。「おまえがいるから滅茶苦茶になっち
ゃったんだ~!」ってね。でもその存在を消せない(笑)
 嫌悪も一つのコミュニケーション。心の壁は現実そのもの。
 そして、今までと同じ、自我と、人を代表とする非我との戦いがつづく。
 何度もそれを確認しながら、幸せにも不幸にもなれるラストだったと思います。

 ラストシーンアスカ。第1話のレイと同じ場所に包帯を巻き、首を絞められな
がらもシンジの頬をなでる。
 これって、つまりアスカの中の“母性”を表してるのかな、と思いました。綾波
レイは「母」のメタファーそのものと言っていいでしょう。そして、シンジの側に
横たわっているアスカレイと同じ姿であることは、彼女もやはりシンジを優しく
包み込む“母性”を内に秘めていることを意味しているように思えます。その後の、
シンジの頬に触れる行為も。

 しかし、彼女最後の言葉は「気持ち悪い」。シンジを拒絶する言葉です。これ
は“14歳の女の子”として、「私はあんたの母親になる気なんて、今のところ、
さらさら無いわよ」と言ってるんじゃないでしょうか。「あんたが何を求めてるの
か分かんないけど、受け止めてあげる気なんてないわよ。余裕もないしね」と。ま
あ、あのシンジ-自分を傷つけるかもしれない他人を殺すこともできないで、ただ
しゃくりあげている-を受け止めることなど、14歳の少女に過ぎない、もちろん
自身それなりに問題を抱えているアスカに、できるわけないでしょう。たとえ“母
性”を持っているにしても。むしろ、一方的に求める方が酷です。(さらに、相変
わらず求めるだけっていうのも、また問題だ)。

 しかし、将来的には彼らがどう成長し、変化するかは分かりません。そういう意
味では、もう多くの方が感想に書いてますが、「これから」を感じさせてくれるラ
ストシーンではありました。もう語られることのない物語の続きの中で、彼らは彼
らなりに成長していくのでしょう。
不快感(=気持ち悪い)」というのは、赤ん坊が最初に感じる感覚だということを聞いた
記憶があります(←記憶あやふや)。そうでなくとも、「気持ちがよくない」という感
覚は、まぁ、「夢」だとか「望んだ世界」ではなく、「現実」を示唆しているのかな、
とも深読みしましたが・・・深読みしすぎかな?
 シンジアスカは、それこそお互い誰でもよかったんだと思います。憎む相手も
愛する相手も。でも、自分を互いに真正面からぶつけ合った過去が、二人には出来
てしまった。互いに、相手に対する憎しみも、相手が欲しいという気持ちも、相手
を拒絶する言葉も告げてしまうほど、互いの気持ちを相手にぶつけた。そして、そ
の憎しみも欲求も、おそらく今後の彼ら自身の心を強く拘束していくでしょう。
 ラストシーンで、くびを絞め、瞳を動かし、頬をなぜ、涙を流し、気持ち悪いと
つぶやいた二人は、それこそ、愛よりも深い、憎しみもかなわない、たとえ離れて
も、ひととき忘れても、もう互いの心の一部そのものにまで結びついたように見え
ました。

 One more final:   I need you.
 
 もう一つの終局もすべてのおしまいではありません。英語のタイトルは『私はあ
なたが必要である』でした。
 そして、皆に等しく、同じ戦いが、始まり、続きます。
 でも生きてさえいれば、幸せになるチャンスはどこにだってあります。だって生
きてるんですから。

 愛よりも深く。
 夏の映画は誰も他人を受けいれられなかった二人が、とにかくも深く結びついて、
そこから再び、同じ戦いが始まる、終局であっても、何も解決していない、ラスト
でした。
シンジ内面に問いかける声も、もはや静かなレイの後ろ姿ではなく、アスカの
赤裸々な罵倒へと変化しました。「お願いですから、もう電話してこないで下さ
い。」「よりを戻すつもりは更々ないの。」「その、やっぱり、友達以上に思え
ないの。」「ハッキリ云って迷惑なの。」「これ以上付きまとわないで下さい。」
これらのセリフ作品の展開からは伺うことができない以上、庵野監督自身の人
生から引用してきたものと解釈されます(もちろん脚色を加えているでしょうけ
れど)。つまり、劇場版におけるアスカは、これまで庵野監督を傷つけてきた
「5人の女性」のような「他者」を象徴する役割を与えられるようになったのだ
というのが僕の理解です。
 そうすれば、ラストシンジアスカの首を絞めかけたり、アスカがその後で
「気持ち悪い」と言ったりする寒々しい展開も、すんなりと納得できるのです。
現実の他者は、お互い決して期待通りの反応をしてくれない存在ですから。
 オタク依存を打破するために作ったアニメが、逆にオタク依存の代表になっ
 てしまった苦い皮肉。昨日某アニメショップで見かけた会話。

 「これ買えば」(とシンジ君が表紙のアニメディアニュータイプを指さす少女)
 「えーいゃぁー」(と汚いものでも見るかのように嫌悪する少女B)

 彼女らの心の中にはカヲル君しかいないらしい。作品全体のテーマを見ようとせ
 ず、自分のお気に入りのパーツを使って幻想エヴァを作り上げて固執する。虚
 構からも逃げ続けている。自分以外のエヴァはいらないのだ。そして、そのこと
 を指摘されると過剰に反応し激怒する。「ぱふ」の一部読者はひどいものだ。無
 論、綾波アスカの一部ファンにも言える。
 そういう意味で、庵野さんが「気持ち悪い」と言わざるを得なかったのは良く分
 かる。だから実写を入れてこれでもかこれでもかというぐらいに観客に語りかけ
 た。でもそれは届かない。最も病んでいる人間、庵野さんが最も一言言いたい人
 間は嫌悪する現実ファンタジーに変えて消し去ってしまうのだ。
シンジくんの首締めはちょっと??な気もしましたが
アスカシンジの頬を撫でて「気持ち悪い」は、
頬を撫でるシーン拒否、否定の感情からではなかったと思ったので
集合体としての生命の海から浮上して「こ」の世界の「ここ」にいる
「こ」の自分を認識し他の存在シンジ認識し
「気持ち悪い」ことも沢山あるけど「ここ」に自分と他人が存在
することを知覚認識して噛みしめていると感じました。

いやぁすっかりアスカが主役でしたね。
ここまでアスカ映画になってくれるとは
嬉しい誤算でしたってのはアスカ者の偏見でしょうが。

      とでも思わなきゃやってらんないよなぁ。
かくして、シンちゃんはアスカちゃんのドレイとなり、
一生、幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。
                                                       <終劇>
       自分は性的嫌悪感からくる言葉だと思ってるんですけどネ。
       DEATHの新作カットの「ミサトやバカシンジの使ったお
       湯なんて~」の頃には、もうシンジ君が自分の事を性的対象
       して見てる事に気づいていたのでは?このぐらいのお年頃の
       と女性ってそういうのたまらなく嫌だと思うのですがどうで
       しょう?
シンジアスカを殺そうとするが思い止まる。アスカに優しい言葉を期待する
"ファン=シンジ"だが"虚構=アスカ"は"気持ち悪い"と突き放す。

そういうことか?ヒゲメガネよ。
それと映画アスカシンジを否定したのは
(自分の勝手解釈ですが・・)
「シンジアスカの事を、好きで求めているのではないのを、
アスカは気付いていた。なので、コーヒーメーカーに激突させ、
最後に’気持ち悪い’とまで言った」
好きで求めていない、というのは、恋愛感情のみ、でなく、
シンジは弱い自分を何とか持ちこたえさせる拠り所に「強く
見えるアスカ」にすがっていたふうに見えたからです。
アスカにしてみればそんなおかんのような役、あまり嬉しく
ない気が・・・。
 また、最後の台詞「気持チワルイ・・・」ですが、ラストシーンでのアスカ
の様子を見てみると、腕と頭部と目に包帯およびガーゼが当てられており、
これは第壱話においてストレッチャーに乗せられてシンジ君の前に初登場
した綾波レイそっくりの状態で、加えてあの目線から察するに、アスカの
中には、彼女自身の魂や人格に加えて、レイの魂が入り込んでいるのだと
私は感じました。

 いわば、アスカとしてはトラウマを刺激するモノとして忌み嫌っていた
レイの魂が自分の内面において(シンジへの想い故に)融合しつつある
ことについて現在のところ「ケンカカレー」(歳バレ?)の状態にある、
ということで「気持チワルイ・・・」という言葉に繋がったのだと私は考えた
のですが、みなさんはどう思いますか。
あのラストシーンは実はハッピーエンドである。
あの砂浜のシーンは補完直後のシーンではない。
実はその前にシンジアスカを見つけ、傷の手当をし、ミサトの墓を作ると
いう一連のシーンがあったのである。
しかしアスカは何も話さない、何も反応しない病室アスカの状態に戻ってし
まっていた。(偽りの復活)
そんなアスカを不憫におもったシンジは思い余った挙げ句、彼女の首に手を
のばす。
しかしその時、今まで何も反応しなかったアスカの腕が動き、シンジの頬を
撫ぜる。
嬉しさのあまり、涙を落とすシンジ。
更にアスカは言う。
「(あんたバカー、何泣いているのよ)気持ち悪い(わねえ)」

そうあのシーンは「クララが歩いた」パターン感動的なラストシーンなの
である。
しかし観客の期待を裏切る事ばかりを要求された監督は素直に感動的なシー
ンを作る事ができずにあのような解りにくい形にしてしまったのである。
だが安心したまえ、ビデオ・LD収録時には完全版として失われたカット台詞が収録され、誰の目にもハッピーエンドである事が解るに違いない。
(笑)
シンジ監督アスカ・観客に置き換えると、あのラストシーンは
また違った見方が出来ますね。
現実から遊離してしまっている観客を不憫に思った監督真心アスカが無反応だったら悲惨ですね。
それより、もし「気持ちいい」と言われたらどーする(笑)
 シンジ・観客、 アスカ監督ではどうでしょうか?

 シンジ「わーん。こんなEVAはいらないよぉ~。
     謎もあまり解明されてないし~
     そこで気絶してないで、もう一回EVA作り直してよ~」
 アスカ「(まだやれっての?)気持ち悪い....」
1:呼吸困難になった為の気持ち悪い
  えー、シンちゃんに首をギュッとね!(爆)された惣流ちゃんですけど意識
  の無い状態で首を思いっきり絞められては血のめぐりも悪くなり気分が悪く
  なったという、低血圧で良く立ち眩みしてる女の子意見がありました(苦笑)
2:あのセリフみやむーちゃんのアドリブ説
  庵野監督に捧げるアドリブ説(黒い説ですわねぇ(苦笑))という人若干名
3:怪我のために気分が悪い説
  右手の謎の治療跡で判ると思いますが怪我してる場合気分が悪くなるもんです
  (経験者談)
4:2日目説
  ・・・・・・(^^;)・・・・・・
5:観劇してる人へのメッセージ説
  ・・・・・・
 「きもちわるい」。
 他人の体温が気持ち悪いことって、ないですか?
 でも、その嫌悪感を、人は「愛情」で中和させる。
 けれどそれは「無理をしている」のかもしれない。
 本当は、人なんて、生まれてこない方が良かったのかもしれない。

 だけれど、生きている。
 それでも、生きている。
 生きていなければならない。
 
 決して理解できない「他人」の隣で、それでも「一人ではなく」生きている。
 エヴァみたいな「黙示録もの」のラストって、和解・融合、善悪何れかによ
る統一、純粋な荒廃、・・・みたいな一元的な世界の出現で終わるのが相場じゃ
ないですか。これは魅力的だけど、弱点があります。つまり、解り難いんです。
 具体的にどんな世界になるのかが想像できない。私達の周りにあるのは、一
元的把握が通用しない、それこそ「他者」が存在する世界です。争いの無い平
和な世界、とあっさり書くことはできるけれども、そこがどんなところなのか、
人或いは人々が何を考えて生きるのか、よく考えると理解できない。
 放映版の受け入れ難さって、ラストのそういう典型的ユートピアが、観る側
の想像力を麻痺させたせいがあると思うんですよね。

 映画版は、そうした典型から脱したところが凄いと思います。シンジとゼー
レの意思に従って、一元的な新世界を一度は成就しておきながら、シンジの成
長というモチーフを重ねて「その先」を開いてしまった。この点に限れば、黙
示録を越えちゃってますよね。そうして出来上がった「他者の居る新世界」に
は、シンジがその成長の代償として手に入れた、純粋で人間的な憎悪や悩みや
悲しみがあり、観る側として非常に素直に感応できる。これがユーモアやカタ
ルシスでなくて何であろうかと。そしてまたそうした世界を、アスカの最後の
台詞一つで完成したところがまた見事なんですよね。
インパクトのある、出来るだけ短い、どうとでもとれる演出、ということで
ああなったんではないでしょうか。鏡のように、見たいものが見える、見た
くないものが見える、うがった人にはうがった見方が見えるラストシーンだ
と感じてます。
最後にアスカが包帯をしている意味は、
「アスカ自身が女になった」
「シンジにとってアスカが女になった」
という二つの意味を同時に持っていると思います。
「気持ちわる」という言葉には、リアリティを持たす効果と、
触れあいによって「産むことが可能な存在となった」=妊娠イメージを出す効果、
それに、存在が個に分かれていることの実感(喜びも悲しみも)が
表現されていたように捉えられました。
 最後のシーンについてはアダムとイブというよりアジア系神話 洪水で生き残った
兄妹の話(日本のイザナギイザナミの話でもこういう始まりのものもあります)
の方を連想しました。

 アスカの気持ち悪いのセリフですが考えによっては色々とれるセリフですね。
私はシンジと一線を引くセリフと取りました。
(ここから他人としてスタートとして2人の関係はどうなるかという・・・)
この最後はFANが自分たちで考える宿題だと思えました
最後のアスカも女っぷりがよかった!きっと、あれがアスカのやさしさじゃないの
かな?と思った。急にわかったようなアスカになったら余計かなしいもん。
とっても、ハッピーエンドだったと思います。映画みたあと結構すがすがしかった。

気持ち悪い,はよかった。絶望とそれでも幻想を構築しなくてはならないという
意志が感じられ・・・るか? 絶望だけか? 慰めてもらいたいのか?
立派に完結していたと私は感じましたし、救いもあったと思います。
ラストセリフは、生々しい接触も含めてアスカシンジを受け入れ始める、
という言葉ではないのか、と思うのですが。
少なくとも、突き放されて終わったとは感じませんでした。
私、あのシーンは本編に絡まないと思ってます。
庵野のファンに対する愚痴だと思ってます。
ファンによって傷つき首を絞められた「エヴァ」から、
おおよそ倒錯しているファンの一番多いアスカの声で、
ファンに対して文句を言ったんだと思います。 
創世記によればエデンの園では人も含めてすべての生き物は裸で(つまり自分自身
をすべて晒して)いても恥ずかしいとは考えなかった。ところがアダムエヴァが
禁断の知恵の木の実を食べた途端に裸でいることに気づいて恥ずかしくなり、身体
を覆って隠した。このことが神の怒りに触れ、2人はエデンを追放された。
・・・ラストシーンの2人はやはり楽園を追われたアダムエヴァなのですね。
自分の殻(ATフィールド?)を壊すことができなかった(あるいは自分の殻に閉じ
こもって出ることができなかった)シンジアスカだけは結局補完されることなく、
荒廃した世界に取り残された・・。それでもアスカシンジを拒絶するかもしれな
い・・と。
この映画を、人間の内面の描写をメインとして考えると、まさしく、私の好きな
ジャンルに入るんですよね。いっかい、救っておいて、最後にもう一回、落とし
ちゃうっていう。(笑)でも、最後は、あれでよかったと思います。だって、簡
単にシンジが、他人を認め、世界も、そんなシンジを喜んで、迎え入れるで終わ
ってたら(テレビの終わり方かな?これは。)、面白さ半減だと思います。そこ
で、アスカに気持ち悪いといわれて、自分の選んだ世界の厳しさというものを示
して、終わった方が、なんか、心に重ーくのこるじゃないですか!(だから、
ONE MORE FINAL なんだとおもいます。)

  補完中にシンジアスカと、ものすごい勢いで傷つけあいます。
彼は最後には彼女の首に、手をかけるのです。
そこまで他人というのは自分にとって厄介なものなんです。
理解不能ですからね。

  それでも、シンジは「融合」ではなく「他者との並存」を選びました。

  「共生」だとか「相互理解」とか美辞麗句に彩られた根拠なんて、
これっぽっちも示されないのに。
根拠があるのだとしたら、寂しさゆえの「I need you」くらいなものです。
単体になってしまったら永遠に孤独ですからね。
(この辺、あまり自信無いな。二回目を見たほうがいいかな?)

  目の覚めた彼は、隣で寝ているアスカの首を、再び絞めにかかります。
そりゃ、あたりまえです。
自らの選択とはいえ、自分を苦しめる元凶が、
現実に厳然と、そこにいるわけですから。
ほっとくと、こっちが殺されるかもしれませんし。
「他人がいる」─────本当に深刻です。この問題は。

  なぜか生きていたアスカが、そんなシンジの頬に手をやって、
彼に「他者のいいところ」をちょっち認識させます。
苦しみとともに、ヨロコビもまた確実にあるのです。
シンジの手から、力が抜けて、その後のアスカの一言で
「終わらない夏の物語」の幕が引けます。
 アスカの「キモチワルイ」発言は、相当ショックだったのですが、
彼女らしい発言だなとも思います。少なくとも、病院のベッドで
息だけしてる状態で生きている彼女より、ずっといいです。
 「詩編 The End of Evangelion」では、アスカの言葉は、
「あんたなんかに殺されてやるもんですか」が入っていますが・・。
 現実は、そうそう、都合のいいようにはならないんだという事に
通じている気もします。
私が思ったのは、アスカはショックで植物人間状態がある程度つづいており、
(目がサカナだった)シンジはいっそ楽にしてあげようとしたと見えたのです
が。包帯をきれいに巻いてあるところを見るとシンジが悩むに十分な時間はあ
ったのでしょう。(だからエントリープラグから気が付いたらあの場面、てい
う訳ではない。)そしたらもう動かないはずのアスカの手が動いたので、嬉し
くて涙が出た。ついでに「気持ち悪い」という正常なアスカがはくセリフが出
て、アスカが完全復活したという、無条件ハッピーエンドだと迷いもなく思っ
たのですが。
あの最後のアスカ首しめられシ-ンですが、そのあと
のアスカセリフが最後の最後に観客を現実に引き戻すオチ
みたいにかんじました。首しめ、まえふり?みたいな(笑)

 TVシリーズを見る限り、アスカシンジに対して14歳の少女らしい「嫌いだ
けど好き」という心理を抱いているようです(まぁ25話で助けられなかったこと
がしばらくもめる原因にはなるでしょうが)。それゆえに、シンジ腑抜けさに我
慢がならないのでしょうか。ただ、その心理とは別にエヴァパイロットとしての
ライバル意識も強烈ですから、非常に言動もわかりづらくなるのでしょう。

 シンジの方は、ミサトさんレイアスカもいいという宙ぶらりん状態ですが、
考えてみれば男ならたいていは心理的二股、三股は当たり前です。しかし、この中
で本当に可能性があるのはアスカだけなのですから(ミサトは年上過ぎ、レイは・
・・実の所は母、ユイですから)、将来的になんとか努力するでしょう。そのため
に現世に戻ったのですから。

 で、最初のコミュニケーションが首締めと「気持ちわるい」。一種ダークな感じ
もしますが、「他人とのコミュニケーションが最初からうまくいってたまるか」と
いうことであれば、先がどうなるかは・・・
 しかし、あのラスト必然とはいえ悲しい物がありましたね。
アダムにとってイブとは所詮他人であり、殺意を抱く対象であ
り、自分を傷つける存在なわけですから。
しかし、やはり最後はきついです。安易な現実礼賛はもっと嫌ですけれども
あそこにはやはり意地の悪さは感ぜずにはいられません。
少数派なのかもしれませんが、肯定否定はともかく「私の趣味としては嫌だ」
というのだけは間違いないです。こんな人もいるということで、一応、存在
を認めていただけるとありがたいです。
やはり、あれは監督からのメッセージと取るべきではないかと。
月に斜線が入っているように、もうこの「エヴァ」は終ったんだ、
もう人の作品に自分の考えに目くじら立てて攻めるのはやめてくれ、
見る側と自分は「他人」なんだ、そこまで立ち入らないでくれ、攻めないでくれ、
こっちにしたら「気持ち悪い」んだ、
エヴァ庵野の首を絞めるのはもうやめてくれ・・・
そういう事だと私は感じました。いつまでも他人に依存されると気持ち悪いって
事だと・・・そういう意味の、監督の「エヴァは終ったんだ!」という宣言
ではないだろうか。
私はあのラストシーンは
「自分に棘があることも、相手が針を持つことも、
全てを承知した上で敢えて一歩前に進む事が出来るようになった
シンジ君」に成長した、と言う風に考えています。

「気持ち悪う。」の台詞に関しては、あそこから人類の新しい
時代が始まる的な雰囲気(オーケストラが聞こえてきそうな、
とでも申しましょうか。)の中で、劇の中の世界ではこれは
現実なんだ、と言う目的で入れたのではないでしょうか。
(日常性を出したと言った方がいいかもしれません。)
まあ、いわゆるハリウッド的な大円団では無いよ。ってとこですか。
私はいい出来だったと思ってます。
 アスカは「気持ち悪い」よりもその前に差し出した手の方が重要だと思います。
敗北の象徴である同じ右手だというのがヒントでしょう。
 シンジが心象世界ラストシーンアスカを求めて首を締める
シーンはレイプメタファーじゃないかという意見がありました。
確かにそう解釈するとあのラストも非常に理解しやすくなるんで
すよね。
そしてラスト台詞ですが、私はシンジだけでなく、世界の全て(自分も)
に対して感じたメッセージだと感じました。生きていくには気持ち悪い世
界だけど、やっぱり死ぬのは嫌だ、と。そもそもアスカシンジを好きだ
とは思ってなかったのでショックではありませんでしたが、手も触れず、
目も動かさなくてあの台詞だったら、やっぱつらかったかな(^^;)。ともかく、
我が儘を貫き通した監督に拍手!
やっぱシンジアスカの首を絞めたのは、ATフィールドの象徴で
しょうな。人は生まれながらにして、他人を拒絶すると


  

THE END OF EVANGELION」の感想集

上のエントリは,「EOEが公開された頃は今ほどインターネットが普及しておらず,情報が欲しい人や感想を言いたい人はNIFTY-Serveなどのパソコン通信で細々と交流していた」という話。この話を読んで「そういえば当時パソコン通信上でさかんに議論されてた『ラストシーン解釈』をまとめたものがあったはず」と思ってディスクサルベージしてみた。分量が多いので二回に分けて投下してみる。

当時から「観ると語りたくなる映画」だったんだなあとか,昔も今もみんな同じようなことしてるなあとか,いろいろ懐かしい。

  首を絞められながらシンジの頬に手を添えたアスカ。
このまま終わったら、アスカはただの聖人になってしまいます。(^^;

  アスカだって、問題のあるリアル人間なのです。(アニメの中だけど。)
それ描く為に製作者は、イメージ的には顔を「殺してやる」の時のまんまにして、
アスカ側からのシンジとの不一致を出すための行為として、「気持ち悪い」の悪口
を言わせたのでは無いでしょうか。
ここで「バカシンジ」だったら悪口に聞こえないし。
またこれは観客に向かって庵野監督が言ってるのかなとも思いました。
庵野氏はかつてEVAファンに失望しているようなことを言ってましたし、
アニメから現実に戻れということも言ってたと思います。それが実写で
観客をうつしたり、「現実は夢の終わり」などと言っていることに表れている
ように思います。ラストセリフ駄目押しかなと・・・。
シンジが“男のくせに泣いている”ことに対する非難
あるいは、監督自身の制作後感を語っているようにも思いました。
大きな期待をかけられ、やりたいことは膨らみ、当初の完成予定は遅れ、
賞賛と非難が入り交じる中、ファンの期待を(たぶん)裏切らない形で作品を
完結させた・・・。それは「疲れた」を通り越して「気持ち悪い」こと
だったのかもしれない。
 「きもちわるい」アスカにとっては、感覚的なものじゃなく、生理的にただ気持ち
悪かっただけかもしんないしんですよね。
シンジ綾波はあれでいいかもしれないけど、彼女性格から
して、今までの数々の屈辱を背負ってこれからまだ生きていく
ってことは「気持ち悪い」そのものじゃないかなぁ…。
えっと、アスカシンジに「加持さんはもういないんだよー(うろおぼえ)」と
言われてあ然とした後で風呂のシーンになって、湯船の水面を見つめながら

「ミサトやばかシンジの使ったお湯なんかに誰が入るもんか…
 ミサトやばかシンジの使った洗濯機なんか誰が使うもんか…
 ミサトやばかシンジの……・・・」

で、

『気持ち悪い』

で、「ミサトもいや!シンジもいや!ファーストはもっといや!!…」と
爆発したように思います、あぁ、うろおぼえなんすけど、すいません。

あと、ここのシーンって「DEATH編」の中でもテレビにはない
新作のとこだったような気もしてます、あぁ、
なんせうろおぼえなんで許して下さい、あぁ。

んで、そういうとこに、この『気持ち悪い』というセリフが使われていたことに、
そのなんだあれです、あたくし的には興味あるです。
最後のセリフのフックとして使ってるのかしら、とかとか。
 つまり、あれだけ首を絞められても死ねない、という
 アスカの、自分自身に対する言葉かな、と思っています。

 「生命の実」も取り込んだ、って事なのかな?
アスカの「キモチわるい」は、シリアスすぎる雰囲気になるのがイヤさの、テレ
かくし半分だと思います(^^)。
ラストアスカ台詞ですが、案外、怪我のショック症状で本当に気持ちが
悪かったんじゃないかなぐらいに思っています。アスカがまともな性格なら
ともかく、シンジと同じくらい壊れているアスカにいわれても、オタクのオ
タク批判のようなもので、まともに受け取る必要はないと思っていますから
これから二人が“アダムとイブ”として生きていかなければならないことに対する
嫌悪感
この映画が凄いところは、(中略)その後の砂浜のシーンでシンジが、
結局アスカに投げつけられる言葉「気持ち悪い。」が、
がんばったからと言ってそんなにほいほいうまく行くものじゃない、
現実は甘くない、という点を突きつけていた点にあるとおもいます。
 最後のシーンについて僕は、シンジに叩き付けられた現実世界
ではないかと思います。
 倒れているアスカの光を失った目、シンジの頬に触れた手とちぐ
はぐな「気持ち悪い」という言葉アスカシンジに対し「気持ち
悪い」って言うのは結構普通だけど、ちょっとおかしいなと思いま
した。以前にキス騒動で似たようなことがあったけど、今回は首を
絞められてる最中だし........。

 ここで僕は自分と他人の境界がわからないLCL世界(原始
地球の海に酷似した世界。海に象徴される)から、他人との境界が
はっきりし互いに気持ちを理解し合うのができない世界(海に対し陸、
すなわち二人がいた浜)に戻ったら、アスカはあの戦闘で気がふれて
しまっていたのではないかと思いました。(心を失ってしまった?)
シンジは共に歩いて行こうと思っていた女性が以前の姿を失っていて、
人形の様になっていた。彼女のことを考えいっそのこと殺そうと考える
シンジ。しかしできない。
 アスカが包帯をしているのを見ると、あれはあの出来事の直後では
ないですよね。(戦闘以前、戦闘中は頭に包帯をしてなかった。)
となると、あれは後日、もしくは後に起こってくることの提示だと
思うんですがどうでしょうか。
 もしこうなると、アスカは最も嫌っていた心のない人形自分が
なってしまったというかなり皮肉な結果になってしまいますが.......。
まごころを君に..... シンジアスカへ対するものだったのだろうか。
結局ある意味テレビと同じ。
つまり、自分じゃ最後を書けない、だからそれなりのを書いて
皆さんそれなりに満足(または不満)
というところですかね。
22話で精神的に侵食されたアスカは、25話で今度は肉体的に侵食
されてしまったわけですね。
こう考えると、なんとなくラストシーンアスカ言葉も納得がいく。
「気持ち悪い」というのは、世に存在する「男」に対する嫌悪感が発せさせ
た、ごく自然言葉だったのでしょう。
あれは(監督の考えている)アニメファンに対する痛烈な嘲りだと感じました。

世界の全てを破壊し飲み込んだ初号機とシンジには、同時にその世界に
対する全能の力も与えられました。世界をどうするかは、全てシンジに
まかされました。全てを虚無へと帰すことも、虚構の世界を構築して再び
そこへ逃げ込むことも、つらい現実世界へと歩き出していくことも、
すべて、彼が心を決めるだけで可能となるのです。

そして同時にそれは、観客一人一人に突きつけられた選択でもありました。
これはシンジの選択であるだけでなく、あなたたち自身の選択でもあるのだと。
画面に現れた、実写シーンや春の映画の観客たち、パソ通上での繰り返される
監督の悪口などは、そのメッセージじゃないかと思いました。

当然、答えは観客の数だけあります。

その中の一つの可能性をえがいてみせたのが、#26のBパートだったん
じゃないでしょうか。あれは「それでもエヴァ依存しようとする人々」を
象徴しているのではないかと。

あれはある意味、多くのファンが予想し望んでいた結末でした。
世界が変化し、その中に二人だけ生き残ったアダムとイブ。
しかも、ご丁寧にもアスカにはレイの象徴である包帯と眼帯まで
まいてあります。

しかし、そこにあるのは、おぞましいレイ死体。血の色の海。
シンジ殺意アスカの蔑みの表情。と、監督は甘い幻想を徹底的に
打ち砕いていきます。

そして、とどめにアスカがあの台詞をいうのです。
 他者が存在する世界に戻ってきたシンジは、自分の選択に絶対の自信が持てなかっ
たんでしょう。
 あそこでアスカの首を絞めきれたら、シンジ自分世界も終わらせていたと思う。
でも、できなかった。甘い希望にすがりついたんだよね。で、自分の弱さに泣く。オ
イオイ泣く。
 なにかわけのわかんないことで泣かれたら、きもちわるいよね。絶対、きもちわる
い。
 あそこでシンジを無条件に受け入れるアスカだったら、他者として成立しないと思
う。
 帰ってきたシンジは、体を再構成したアスカを弐号機のエントリープラグか
ら引っ張り出し手当てをしたが、彼女植物人間状態のままであった。
 シンジは、毎日みんなの十字架を作りながらアスカ意識を取り戻すのを
待っていた。
 いっこうに意識の戻らないアスカを横に、途方に暮れるシンジは、ふと水面
を見ると綾波の姿が、衝動的にアスカの首を締めるが、彼女の手が彼の頬に触
れた。彼は、意識を取り戻した喜びと彼女を殺そうとした自分に涙した。
 意識を取り戻したアスカは、生理的不快感と、自分を見殺しにしたシンジ
が目の前にいることに対し「気持ち悪い」といった。
 
 物語としてはこんな感じかなと思います。
  多数の人間犠牲にすることによって現実を取り戻した。
 自分の為した罪を背負い生きることを選んだ。
  飛び立つことは美しく、気持ちのいいこと。
  醜いかもしれないが「気持ち悪い」かもしれないが、
 本当の快楽とは、地に足を付け
 他人の首を締め続けることによってしか得られないのか?
    この言葉はもっと前向きに捉えて良いのでは?
    アスカと言えば「唯我独尊」な状態だったわけですが、彼女シンジを見て
    「気持ち悪い」と言うのは、それは彼女が本気で他人を受け入れようとし始め
    たからこそだと思います。

    他人を自分の心の領域に踏み込ませることは勇気のいることでしょうし、気持
    ちの悪いことでしょうが、それを彼女が始めたからこそ、「気持ち悪い」とい
    う言葉も出てきたのでしょう。

    ある意味彼女シンジ以上にATフィールドの強い人間であったかもしれな
    い、その彼女が(サードインパクトによって強制的に取り払われるのではなく
    て)自らの意志で心の壁を開放しようとしていることが重要なことのように思
    えます。
シンジアスカを求め続け
アスカシンジを拒み続けた。
最後にシンジアスカを殺そうとした。
なぜだ?
でも出来なかった。殺せなかった
そして、やはり最後までアスカシンジを拒んだ。
それが現実なのだ。
けど、首絞められて、そいつがいきなり泣き出したら
「気持ち悪い」
というか、そういう似た様なことを思うだろうね、やっぱり。
  私はこのI need youのテーマをアンビバレンツと理解した。
 人間の行動は大半がこのアンビバレンツの要素をおおかれすくなかれ含んでいる。
 合いと憎しみ,冷たさと優しさ,強さと弱さ。恐怖と怒り。悲しみと喜び,希望
 と絶望,これらはみな表裏一体で切り離す事は出来ない。
  シンジアスカの行動と言葉はこのアンビバレンツを象徴しているのではなかろう
 か。私にはそう思えた。
  シンジの嗚咽はこのアンビバレンツの悲しみを,そしてアスカ言葉はこのアン
 ビバレッンツに対する嫌悪をそれぞれ象徴していたのではないだろうか。
 アンビバレンツに苦しみながらシンジアスカも生きてゆくのだ。
 さて、シンジが他人との共存を選んで現実世界に帰ってきてアスカと砂浜
に寝てる訳ですが、ミサトの墓標があった事からいくらか時間の経過があった
様です。
 アスカが怪我をして包帯を巻いているのはアスカATフィールドを失わなか
ったからLCLにならなかった様です。(レイの迎えが来てない)プラグスー
ツを着ている事からも説明出来ると思います。きっとあんな状態でも弐号機が
守ってくれたんでしょう。(ここは希望的観測)
 そして戻ってきたシンジが弐号機のエントリープラグを探し出しアスカを助
け出します。包帯等はきっとエントリープラグに備え付けてあるはずです。
 そして砂浜、、、。

 しかしアスカ自我崩壊状態。「生きる意志」を無くしてます。半ば絶望気
味のシンジ。 そこにレイが現れ、そして消える。シンジは何かを悟りそして
危険な賭に出ます。ここからが僕の新解釈なんですが、、、
 
 アスカの「生きる意志」を試すために彼女の首に手をかけます。そしてシン
ジの願いは叶い、アスカシンジの頬にふれ、シンジに「生きる意志」を示し
ます。
 喜びに泣き崩れるシンジ。そして最後のセリフアスカが元に戻った事を表
してると考えたいです。
なんか、ラストの泣き虫シンジアスカセリフマイナスなショックを受けている
ファンが多いようですが、ボクにはそれが良く理解できない。どう見てもラストのシ
ンジはうれし(はずかし)泣きだと思うし、アスカセリフも前向きなモノだったと
解釈しました。
 砂浜でアスカは無表情で寝ている訳ですがあれは再び精神崩壊にあった状態
だと思います。やはり弐号機のなかでの復活はサントラタイトルにもある「
偽りの、再生」です。弐号機(母親)を失ったので元の状態に戻ったのと、エ
ヴァシリーズによる陵辱によるところも大きいでしょう。

 そんなアスカシンジは見つけます。シンジを受け入れないアスカ。
ここにシンジの成長があります。ここでアスカに「目を覚ましてよ」とか「僕
を一人にしないで」とか声をかけたら303号病室の時と一緒です。成長の跡
が感じられ無かったでしょう。彼は首を絞めるという行為でアスカ自身に存在
の是非を問いました。 
 しかし、何故首を絞めたのか? 首を絞めるという行為はアスカにとって特
別な意味があります。母親との事のトラウマであり、それが頭にあった為にシ
ンジとの抗論の時、彼に首を絞められたとき抵抗できませんでした。(そう見
えた)
 首を絞められた事に抵抗する行為は母親トラウマを乗り越えた事も表しま
す。シンジがここまで考えたとは思えないのでこっちは結果論ですが。 

 シンジアスカの首を絞めた真意は確信には到りませんが、結果としてシン
ジの成長と同時にアスカの生きるという意志表示、トラウマの克服、などアス
カの補完も表したシーンに思えます。あらためて考えるとこのシーンはすごく
前向きなシーンです。
アスカが「気持ち悪い」と言ったときの目は、心底嫌いなものを見る
ときの目に見えるんですがどう思いますか。
  だがそれは、おぞましい虚偽に統合=補完されない真実へ至るユイ一の可能性
 でもある。互いをさらにバラバラにしようと「噛み合う」者同士の断面が、なぜ
 か一致し「噛み合う」という皮肉意図せざる結果こそが、コミニュケーション
 の「奇跡的」な本質なのである。(だからG.バタイユのような思想家はそのよう
 なコミュニケーションを「聖なる」ものと形容する。)

  これは「コミュニケーション癒し」、あるいは「他者を傷つけるな(あるい
 は、他人を傷つけない限り何をしてもよい)」という価値観に対する、やはり根
 底的な批判である。――「希望」に向けてシンジは言う。「それでもいいんだ」

  ラストシーン「I need you.」はその明確な寓意である。 ――補完という「夢
 は現実の中に」意図せざる形である。互いをさらにバラバラに引き裂こうとして
 いる二人(アスカを絞殺しようとするシンジシンジを「気持ち悪い」と拒絶す
 るアスカ)の間には明確なコミュニケーションが成り立っていた。
  それは、「自分の横にいる人と普通につき合う」ことができている者なら、も
 っと上手にしているのとまったく同じことだ。われわれが自他を分断するべく振
 るうに決まっている暴力を、相手(あるいは自分)が死なない程度に、和らげて振
 るうこと。逆に言えば、もうすでに暴力が和らげられてしまっているからこそ、
 われわれは今ここで生きているとも言える。
  われわれは日常の中では分断の暴力を、「人の気持ちを些細に傷つける」ような
 隠微な形で振るい、致命傷への短絡が「結果的に」「意図に反して」回避されてい
 たりもする。些末な暴力遍在状態の中で、われわれはなぜか、「まだ生きてる」
 のである。
監督「君たち…、気持ちいいの?」
監督「おれは見てて、気持ち悪いと思うゾ。」
                  終劇
「気持ち悪い?つわりじゃないの?
 ちゃんと病院行って検査してもらった方がいいよ。
 サードインパクトベビー誕生!」

 ・・・・・・・なーんてね。
結局エヴァ劇場版って、エヴァという永遠に終わりそうもない物語を、
完璧に終わらせることだけが目的だったような気がします。その意味ラストの気持ち悪いというのもエヴァ完璧に終わらせる為の台詞とし
ては最高の決め台詞だったかもしれません。
あれは劇中の「気持ちいいの?」に呼応するものだと思います。
そうでないと「気持ちいいの?」という言葉の出現が唐突すぎると思います。
なぜアスカの首を絞めなければならないかはわからなかったが最後一緒にいたの
がアスカで最後の台詞があの台詞だったのも現実の厳しさをあらわしていて非常
にリアリティがあって良かった。あれが綾波でもミサトさんでも母さんでもシン
ジを受け入れてしまうだろうから、あの台詞にはならなかっただろうし、やっぱ
り最後はアスカしかなかったんだろうな
 あれほど激しく、直接ぶつかりあった2人って、あの話の中にいるかな。
 そんな風に思います。
 これからが、大変なんだよ、と。
 あらためてひとに触れるわけで、それが初めてなんだから、
 「…気持ち悪い…」というのは、仕方ないんじゃないかな、と。
 まずはそれでいい、それからどうするかなんだっていうこと、かな。

 シンジの髪に、頬に触れたアスカの手が、痛々しいけど、やさしかった。
ヒゲメガネが,ふられたみやむー嫌がらせしてるだけ。
  で、アスカ最後の言葉が「ありがとう。」でもなく、
 「バカシンジ」でもなく、
 ましてや、「あんたなんかに殺されてやるもんか」でもなかった。
  「気持ち悪い」。誰に言った言葉自分に?シンジに?それとも観ている
 俺にか?
 最後までアスカシンジはわかりあえなかったんだね。
 そして、唐突におわる物語。何だったんだ?気持ち悪いよ、ほんとに。
 
  「現実を見ろ。」言いたかったことはこれか。
 やっぱり大きなお世話だと思うよ。映画ぐらい現実をわすれていい気分で
 いたかったよ。その証拠に明日は休日出勤だ。とほほ。
 最後のセリフ「気持ち悪い」は「けして〔アダム&イブ〕は、みんなが
 思っている程に仲むつまじいモノではない」と言う意味かと(^^;)
 「とってもきもちいいこと」。身体の、心の境界線がなくなること、とけあう
こと…から、もどることをえらんだ、そして生きることを選んだシンジ。
 「…気持ち悪い…」は、アスカシンジへの嫌悪言葉、としてではなく、シ
ンジが、「とってもきもちいい」世界から、とけあう世界からもどってきたのだ、
ということをしめす、そこが、「生きる世界」なんだということをしめす、サイ
ンのセリフではないでしょうか。
 他人に触れる。それはわからない存在、「気持ち悪い」。でも、アスカのあの
手は、シンジを拒んではいないから。
 進んでいけると思う。もっといっぱいお互いをさわっていくとおもう。ずっと
「気持ち悪い」かもしれないけれど。それでも手をのばしつづけることをやめな
いだろう。生きていくから、シンジアスカを殺さなかったのだから。
拒絶も離別で辛い思いをしても人として生きたかった。
だから、人として戻ってきた、アスカを連れて。
人として生きるのに、1番いっしょにいてほしかった(1番好きだった)
のが、アスカだったのでしょう。

しかし、アスカの魂は戻ってこなかった。
人としていっしょに生きることすら拒絶された。
だから、シンジアスカの首を絞めた。

だけど、アスカは戻ってきてくれてた。
最後の「気持ち悪い」というセリフも

「心の壁を作ってくれた = 人として生きてくれた」

という意味があったと考えます。
あの、ラストアスカ台詞が「よかった」と言えるのは、
そこにどんな意味が込められているからなのでしょう。
僕は、何という救いのないエンディングだ・・・と思ってしまった。
教えてくださーい。
 ただ、ラストアスカの首を絞めようとしたシンジの頬をアスカがなでる。アスカ
が生きていることが判りシンジは涙を流す。何故かは判らない。独りでない、という
ことかもしれない。最後の「気持ち悪い」の一言が「アスカアスカである」ことを
物語っているのことに救われた気はする。
 私はシンジアスカの中に入ろうとしたのだと思います。
 しかしアスカATフィールドはそれを拒む。されどアスカシンジの頬を
 撫でることで、わずかながらの意志表示を示す。それにシンジは涙するも、
 アスカはそれに対して一言。「気持ち悪い」と。
 アスカが、シンジ罵倒し、拒絶し、否定する、その言動の端々から、アスカシンジに対する強烈なまでの「想い(愛・・・はやめとこ(^^;)」がにじみ出
ているような気がして、なんだかジーンと来るのです(←ヤバイかも(笑))。
そう思えば、物議を醸しだしているあのラストにも、一筋の光明が射し込んで見
えるから不思議なものですね~(←確実にヤバイかも(T-T))。
なんだか、見終わった後で妙にさめている自分を感じてます。
アスカの最後のシーン、最後の言葉、それがそのまま感想のひと、
結構いたりして……
  あれが二人の愛情表現だったらすっごく恐い・・・。アスカは「一緒に死んで
ちょうだい」ってことで母親に首を絞められた事があるみたいだから、自分を愛
してくれる者が首絞めてくれるのは気持ち良いことなのかとか、思ったりもして。
まさに命懸けのSMだな。
  って、ことは初号機が3号機(バルディエル)の首絞めたのも愛情表現(シンジ
×トウジ)な訳で、首が落ちたカヲルなんかはもう、最高に愛されてたのかな。

  で、ラストアスカの首を絞めるシンジが鳴咽し、アスカが「気持ち悪い」の
は、そういう歪んだ愛情表現を憂いての事なのかなぁと。
 ラストの「気持ち悪い」は、私の場合は
「アンタなんかに触られて汚らわしくて気持ち悪い」と「首締められて気持ち
悪い」程度しか思い付きませんでした。
深手を負った状態で気絶していたのに首まで締められたら当然、気持ち悪くなる
アスカの最後のセリフは、自分自身に対してなのかと思うの
ですが...アスカが嫌いなシンジの頬を優しくなでている行為(矛盾し
た行為)がそう思わせたのですが...
 うまく言えないけれど,とても嬉しかった。あのラストシンジアスカ
も,そしておそらく庵野監督も「こっちの世界」(ってどこ?(^^;))に還っ
てきたと思いました。それが無性に嬉しかった。
最後のアスカセリフで、シンジアスカ人間として認めあえるんじゃない
かな?という気になりました。少なくともこれまでとは一つ違ったステージに
進めたのでは?と思います。すごく暗ーい感じで終わったけど、大団円ではあ
ると思います。
 もっと救いのある,後味のいいエンディングを作ろうと思えば作れたと思い
ます。それでもああいう終わり方を選んだところに,わたしは庵野監督なり
の「誠実さ」と「正直さ」を感じました。わたしの「よかった」はそういう意
味です。(でも「好き」にはなれません(笑)
ラストで描かれた少しの「前進」、その程度の変化ならば、
ちょっと心の持ち方を変えるだけで十分な気がするのです。
あんな経験をした後で、普通なら生きていてくれてよかったって、レイが
生きてた時のように泣いてるところだと思うのですが、どうしてほんとに
首を絞めたんでしょうね。
僕は、ニーチェが言ったように、この世はただ繰り返す、楽しいことも苦しいことも
含めて。でもそれを勇気を持って受け入れることが、人間の生きる道なんだっていう
ことを言いたかったのかなって思いました。

2009-07-02

ヱヴァンゲリヲン「破」

EVANGELION2.0感想

ネタバレ

既に結末は二回描かれている。そして数多の二次創作によって様々なEVAが描かれ、消費されている。

この作品シンジ成長物語でしかないのであれば、シンジは描かれる度に、「物語」に翻弄され、何度も何度も身を削られ、苦痛に顔を歪まされ、辛い思いをさせられ、凌辱され、蔑まされる。それはあたかも2000年以上も磔にされ続けている「彼」のようである。

「破」はその無限円環に続く原罪からシンジを救う物語であった。

10年前、シンジは全てを失い、その代償として、ここにいても良い理由を見つけた。失ったものは余りに大きく、観る者には不快感絶望を与えた。庵野は観客からも全てを奪い去っていった。

TV版も劇場版も、共に「大きな物語」に翻弄される「弱い子供ビルドゥングスロマン」だった。

大人になると解る

「この世界には自分の為に用意されたセットなど何も無く、スポットライトすら無く、自らの居場所は自ら創りだし奪い取って行くものだ」

という基本的な認識を、シンジは「破」で体現して見せた。

自愛から慈愛への転換。

真希波という新しいキャラクターは「幸せは歩いて来ない、だから歩いて行くんだね」と謡った。彼女は前作へのアンチテーゼとなっている。

その真希波に誘われるように新しい物語は進み、シンジ彼女信条転移したかのように、その意志で自らの道を歩み出した。大切な、かけがえのないものを守る為の自己犠牲という愛の形。

綾波の命が失われずに済んだのも、トウジの妹が退院し、トウジの片足が失われずに済んだのも、アスカメンヘラーにならずに済んだのも、全ては「破」においてシンジが慈愛に目覚めたからである。

アスカは予告において、旧劇場版ラストシーンTV版第一話の綾波と同じように「包帯」で巻かれた左目を、伊達公宜しく威風堂々たる「漆黒の眼帯」に変えて現れた。アスカは明らかに、前作よりもキュートに、セクシィに、力強く描かれている。

庵野秀明は、「誰も不幸にならない世界」を描こうとしているのかも知れない。稚拙かも知れないが、物語として、純粋に強度のある作品を創ろうとしている。最高のエンターテイメントを。

EVAは、日本製アニメーションには珍しく、海外での評価が低く国内、国外での温度差が激しい。理由としては、特にシンジの評価が低い点が挙げられる。庵野秀明のように才能のある作家作品としては珍しい。

シンジは、最高のエンターテイメントを指向する際に、庵野自身にとって克服すべきハードルであった。

新劇場版庵野は「破」において、既に数多描かれている「弱い子供ビルドゥングスロマン」を早々に切り捨て、新たなステージへ観客を誘っている。

乗るか反るか、観客は庵野に試されているとも言える。庵野が今までも、観客の期待を裏切り続けてきた事を鑑みると、私達は新劇場版を、数多のEVAとは全く異なるモノとして観る必要があるだろう。

次世代を担う若者へ、不安が支配するこの世界希望を与える物語として、新たに書き換えられたエバの全く異なるもう一つの姿に、観客は堪えられるか。

私達の強度が試されている。

2009-06-29

なぜ増田小説概論 (須江岳史)

ブックマーク数がとんでもないことになったため、元増田はうかれている。なので匿名ダイアリーなのに、ペンネームまで書いてしまった。タイトルに大きく、須江岳史、と。しかし、プロ小説家でもない一人のプータロウが書いた文章がこんなにもてはやされることを、すこし疑問にも思っている。ちょっと足を伸ばして図書館に行けば、小説の書き方についての本はいくらでも手に入るはずだ。何かを学び取る目的ではなく、長すぎるからブックマークしておいた、というのなら、納得する。

というかこの論は物語小説ニアリーイコール扱いしていて、小説論としてはちょっと古いというか、語りという小説の大問題がスルーされていて厳しい。

http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20090703/p1

という指摘も当然のことで、普段、一人称小説ばかり書いている自分には、人称とか視点とかいった物語を語る上での問題について取り組む実力は無い。「小説自己表現なんだから、各々が語りたいように語ればよいと思う」のような言葉で、逃げることしか出来ない。

僕の小説の実力がどの程度かは、http://texpo.jp/texpo/disp/16732を読めばわかると思います)

Ⅰ、小説概論

まず話の筋の作り方を考え、次にそれをどのように小説として表現するかを見、最後に小説を書く上での国語的諸注意事項を述べる。

§1、小説とは?

 そもそも小説がどのような構成要素から成り立っているかを考える。


§2、物語られるもの

2.1.1話の筋

 まず、小説だけではなく物語一般の話の筋がどのように出来ているかを考える。

多くの物語は、欠損-充足の形を持つ。多くの物語は主人公に何かが足りない状態から始まり、それが満ち足りた状態で終わる場合が多いということである。

また、満ち足りた状態にたどり着くためには満ち足りた状態になるための行動が必要になる。そして行動をとるためにはその機会が与えられないとならない。

ここまでをまとめると、物語の筋は

欠損 – 機会 - 行動 - 充足

となる。

具体例としては、

少女は城で行われる舞踏会に行き、王子に会いたかった(欠損)。

少女魔女カボチャの馬車を与えられる(機会)。

少女カボチャの馬車で城に行く(行動)。

そして王子に会うことが出来た(充足)。


ただ、物語の面白みのためには、充足が起こらないほうが良いかもしれない。行動の結果が、充足の起こらない失敗に終わり、それが新たな欠損となり次の話の筋を紡ぎだすこともありうる。

よって、物語を構成する基本的な四つの要素は

欠損 - 機会 - 行動 - 結果(充足または失敗)

であるとする。この一連の流れが組み合わさることによって、物語は出来上がる。

具体例としては、

少女は城で行われる舞踏会に行き、王子に会いたかった(欠損)。

少女魔女カボチャの馬車を与えられる(機会)。

少女カボチャの馬車で城に行く(行動)。

そして王子に会うことが出来たが、十二時の鐘がなったので帰宅しなければならない(失敗に終わった結果、新たな欠損)。

王子少女の落し物の靴を持って少女を探す(機会)。

少女は名乗り出て靴をはく(行動)。

王子少女舞踏会で出会った少女であると認識して、二人は結ばれる(充足)。


後味の良し悪しの面から見て、最終的には充足で終わった方が良いように思われる。

また、欠損があって、それを解決する機会を与えられれば物語が始まることがわかる。

また、欠損を細分化したうえで見つかる欠損というのも考えられる。

たとえば、

鬼を退治するためにはお供を仲間にしなければならない。

お供を仲間にするためには黍団子を持っていなければならない。

黍団子を持つためにはおばあさんから黍団子をもらわなければならない。

おばあさんから黍団子をもらうためには黍団子の材料を買ってこなければならない。

というように。

 このようにすれば物語はいくらでも引き伸ばすことが出来る。書くべき物語の分量によって、どの程度まで細分化できる欠損なのかを慎重に選ばなければならない。

 一つの物語で充足される欠損は一つとは限らないし、主人公たちの欠損が充足されるとも限らない。『ロミオとジュリエット』では、主人公たちの恋愛成就しないが、キャピュレット家とモンタギュー家の関係が、対立から和解へと移り変わる。

2.1.2伏線

 物語は、話の筋それ自体で面白いことが最善であるけれども、それが出来ない場合には伏線によって面白さを増幅させるしかない。

 ここでは、仮に伏線には四種類あるとする。

ⅰ)質問―答え

ⅱ)ある現象/行為への意味の付加―行為/現象の再現

ⅲ)行為・現象―行為・現象のリフレイン

ⅳ)思い込み―認知

ⅴ)認知―逆転型の伏線


 それぞれ、順を追って説明する。

ⅰ)質問―答え

 物語冒頭に置かれた質問に、ラストシーンで答えることで感動を増す。

 具体例:どうしてキノはこの汚い世界を旅しているの?(冒頭の質問)

この世界が綺麗だからさ(ラストシーンの答え)

ⅱ)ある現象・行為への意味の付加―行為・現象の再現

 ある現象・行為にはある意味が隠されている、と登場人物が語り、その現象・行為が実際に現れる。

 『アヒルと鴨のコインロッカー』だと、

『「(とにかく面倒だから、神様を閉じ込めて、全部なかったことにしてもらえばいいって。そうすれば、ばれない)」』(70ページ)という免罪の方法を提案して、実際に物語の最後付近でそれを行っている。

 

ⅲ)行為・現象―行為・現象のリフレイン

物語の中で起こった行為・現象が物語の終盤で再現されることにより、面白みが増す。

アヒルと鴨のコインロッカー』だと、

『聞いてるわたしにも、どうやらこの姉弟がレッサーパンダを盗む気らしい、ということはわかった。』(216ページ)

動物園を振り返って、「さっきの子供たち、うまくやり遂げるかな?」と。』(222ページ)

というようなレッサーパンダを盗むという行為があった上で、

『「あれ、レッサーパンダだ」』

『「盗んだんだよ、あの子供たちは」』(339ページ)


ⅳ)思い込み―認知

 間違った方法を目的を得るための方法だと思い込み、それが間違いであったことに気づく。多くの場合、気づくまでに行ってきた行為が主人公に、行為の目的とは反対の結果を持って跳ね返ってくる。

物語の筋が悲劇的に終わっても、ⅰ、ⅱ、ⅲの伏線幸福を含意していると悲劇性を和らげることが出来る。

ⅴ) 認知―逆転型の伏線

 目的達成を阻むものが、あるものだと仮定して行動していたが、その仮定が正しくなかったことに気づくタイプ伏線。多くの場合、気づく前の行動が気づいた後に本来の意味とは反対の意味を持って主人公に跳ね返ってくる。

 認知は、約束―報いの伏線によって引き起こすのが最も容易である。

 主人公の目的を阻むものは四種類ある。カッコの中の左側は存在場所、右側は存在原因を意味する。

 (自己自己)例:主人公の性格の欠陥

自己,他者)例:主人公の抱えるトラウマ

(他者,自己)例:主人公に対して恨みを持っている敵

(他者,他者)例:絶対悪


 敵の仮定が4パターン真実の敵が4パターンあるので、認知型の伏線には全てで16パターンあることになる。

 これは、『あらすじ.com』の三匹のモンスター概念を内包している。

 (自己自己狼男

自己,他者)対応しない

(他者,自己フランケンシュタイン

(他者,他者)ドラキュラ


2.2登場人物
2.2.1行為項モデル

 物語には六種類の登場人物がある。

主体:物語の主人公。欠損を解決する。

送り手:主人公に、欠損を解決する動機を与える者。

援助者:主人公に、欠損を解決する能力を与える者。

受け手:欠損の解決の享受者。

敵対者:主人公の欠損解決行動を阻む者。

目的:主人公が得ようとする目的。主人公が得ていない欠損。


 それぞれ、同一人物が複数の行為項を演じても良いし、ひとつの行為項に複数人が入っても良い。たとえば、送り手と援助者が同一人物であることは大いにありうる。また、それぞれが必ずしも人間である必要もない。

 欠損ごとに行為項モデルは立てられるので、ある場面では敵対者であった存在がある場面では援助者になることもありうる。

 物語に出てくる全ての欠損について、行為項モデルの六つの登場人物を生めることが出来れば、それ以上の登場人物は物語に必要ではない。

 

2.3シチュエーション

 物語の冒頭やクライマックスを盛り上げるためにシチュエーションは使われる。

 面白いシチュエーションとは、即ちギャップである。

 それは場所と行動のギャップであるかもしれないし、それまである登場人物のそれまでの行動とはかけ離れた行動かもしれない。いずれにしろ、「~であるにもかかわらず」という言葉で表される。

 たとえば、「日ごろ温和な性格であるにもかかわらず、暴れ狂う」とか「静粛でいなければならない図書館であるにもかかわらず、暴れ狂う」とか、「たかが100円のアンパンを食べてしまっただけのことであるにもかかわらず、暴れ狂う」とか。

2.4実際に物語を組む

 物語を組む順番として、『欠損-伏線シチュエーション-細分化されていない欠損の話の筋-細分化されていない欠損の行為項モデル-細分化された欠損の話の筋-細分化された欠損の行為項モデル』といった順番で組んでいくのがスマートに行く。なぜならば、欠損がなければ物語は動き出さないし、伏線シチュエーションは話の筋や行為項モデルあとから考えるとそれらに縛られて上手くいかないからである。

①、主人公が向かう目的を定める。

②、主人公が見舞われる危機を定める。または、どのようなギャップがある状況に立たされるかを決める。

③、危機・ギャップが何故起こるのかを決める。(伏線の回収の仕方を決める)

④、危機がどのように回避されるのかを決める。(伏線の回収の仕方を決める)

⑤、伏線が置かれる場所を決める。(下位物語を作る)

⑥、必要ならば、下位物語にも①~⑤を施す。

⑦、物語(下位物語も含む)の適所に、ギャップによる面白みを与える。

⑧、整合性を与える。


 また、どのような魅力的な登場人物・伏線シチュエーションでも物語自然な流れを妨げるなら切り捨てるべきである。

§3、小説技法


3.1場面法

 場面では、人物、場所、時間が描かれる。人物、場所、時間のうちのいずれかが変わったとき、場面が転換されたという。また、場面は一人称であれ三人称であれ場面に登場する一人の人物の視点を通して描かれることが多い。

 場面の特徴として、行為・現象の一回性が挙げられる。場面は、一度しか起こらない行為・現象を場面に登場する人物の感覚を通じて読者に体験させる。

 場面の始まり方として、人物・場所・時間を指し示して始まる場合、登場人物の行動から始まる場合とがある(台詞から始まる場合は、登場人物の行動から始まる場合の特殊例とみなす)が、そのいずれにせよイメージすることが出来るか否かが読解の容易さを決めるので、場面の開始からまもなく人物・場所・時間を明らかにしなければならない。

3.1.1場所・時間

 小説を読む上では情景をイメージしやすいほうが読解が容易であるといわれているので、色彩や位置関係を表す語を使って場所や時間を説明するべきである。

 場所・時間の説明は描写法的だといえるが、その場所・時間におかれたものを登場人物の行動の目的語にすると、スムーズに場面を始められる。

 また、場所・時間は登場人物の心境や状況・未来を暗示する。

3.1.2人物

 何かが起こるたびに、その場面に登場している人物全員の反応を描くべきである。また、その感情は、どのような身体的動作を持って表情として表されたかを描くべきである。なぜならばイメージしやすいほうが読解が容易であるからである。

3.2要約法

 要約法は、登場人物が何度も行った行動や何度も起こった現象を記述する。場面法とは違い、複数の時間や場所をまたがる事が出来る。そのため、時間や場所の離れた場面と場面をつなぐのに要約法は用いられる。

 要約法は場面と場面とをつなぐためにしか存在しない。

3.3描写法

 場面法が動画だとすれば、描写法は静止画である。

 描写法は、場面が行われている空間にあるものを描写する。場面が行われているなか描写がはさまれると、場面の時間を止めることが出来る。

3.4台詞と地の文

 台詞音楽で言えばフォルテ、地の文は音楽で言えばピアノのような効果を持つ。多くの場合、台詞はカッコにくくられる為に強調されるが、台詞続きの中で地の文が出てくると大きな強調効果を持つことがある。たとえば強調すべき台詞をあえてカッコでくくらずに地の文で処理することで大きな強調効果を与えることができる。

 台詞台詞の間の間をつなぐために、地の文をおきたくなることがしばしばある。こういったときのために、場面の情景を刻々と変化させるとか場面の登場人物に場面開始と同時に何か動作をさせる方法がある。

§4、書記言語


 書き手の中で起こった感動が読み手の中でも起こるためには、文が書き手の意図するとおりに伝わらなければならない。誤読を少なくする方法をここでは述べる。誤読を避けるために、修飾語と被修飾語主語と述語は可能な限り近づける必要がある。

4.1主語の位置

4.1.1.ガーデンパス

 「私は走る車に飛び乗る」のような文は、読者が「私は走る」と理解した後で、走っているものは車だと改めて理解する。このような事をなくするために、「走る車に私は飛び乗る」のように主語と述語を近づける必要がある。

4.1.2複文

 主語と述語の対が二個以上あり、どちらかがどちらかの文の成分になっているような文を複文という。

 「私はリンゴを片手で握りつぶす彼はとても握力が強いと思う」というような文は読解が難解である。これも、主語と述語を出来る限り近づけ、「リンゴを片手で握りつぶす彼はとても握力が強いと私は思う」とすると読解が容易になる。また、複文を単文(主語と述語の対が一つである文)に分解し、「彼はリンゴを片手で握りつぶす。彼は握力がとても強いと私は思う」というようにすると、誤読は少なくなる。

4.2修飾の範囲

日本語は上から下に修飾が行われるため、様々な不都合な事が起こる。

4.2.1修飾語と並立

「美しい獣と女」は、美しいのが獣だけなのか、獣と女の両方が美しいのかが判然としてない。美しいのが獣だけである場合は、「女と美しい獣」のように順序を入れ替えるか、「賢い女と美しい獣」のように両方に修飾語を与えてしまう方法がある。

 

4.2.2句・節の修飾

地中海で育った少年からもらったトマト」は、トマト地中海で育ったのか少年地中海で育ったのかはっきりしない。トマト地中海で育ったのであれば、「地中海で育った、少年からもらったトマト」のように読点を打つか、「少年からもらった地中海で育ったトマト」のように順序を入れ替えればよい。ただし後者の場合、地中海少年からもらったように誤読される可能性が無くもない。

4.3誤読の少ない順序

ガーデンパス文や修飾の範囲の判然とない文を作らないために、長い修飾を伴う語を文の始めに持っていく方法がある。

「僕は地中海で育った、青白い肌をした細身の少年から貰ったトマトを食べた」よりは「青白い肌をした細身の少年から貰った、地中海で育ったトマトを僕は食べた」の方が誤読が少ないとされる。

4.4文体

4.4.1速さ

一文の中に含まれる用言形容詞形容動詞動詞)と難読語の量、読者の視線の移動距離に依存して、文章の体感時間は定まるとされている。

たとえば①、「彼が作った美しいサッカーボールを僕は強い力で蹴飛ばす」よりは②、「彼が作った美しいサッカーボール。それを僕は強い力で蹴飛ばす」の法が一文に含まれる用言が少ないために体感速度が短いとされる。③、「ええい、お前は畢竟、俺が死ぬのが怖いだけだ」の『畢竟』が難読語だと見なす人にとっては④、「ええい、お前は結局、俺が死ぬのが怖いだけだ」の方が体感速度は短いかもしれない。また、⑤、「やわらかいネコ」よりは⑥、「柔かい猫」の方が、視線の移動距離が少ないために体感時間が短いとされる。

4.5原稿の使い方

小説の場合、論説文とは違い改行は自由に行える。

 行を改めたときは一段下げる。

「しかしカギカッコで新たな行が始まるときはその限りではないというのが最近の主流である。また、主流では閉じカッコの前では句点は打たない」

 ――また、三点リーダー(…)とダッシュ(―)は二つで一つの扱いをする……。

続き http://anond.hatelabo.jp/20090629224306

2008-11-30

http://anond.hatelabo.jp/20081129172410

ちょっと違うような気がする。

ムービーゲーはキャラゲーだ。

あれは究極的にはゲームを楽しむものじゃない。

用意されたシチュエーションキャラクターに酔うためのゲームだ。

オブリビオンのように「自由」を楽しむゲームとは真逆のもの。

世界を救わなくても良い

・最初から世界中を旅することが出来る

重要なもの以外でも、何でもかんでも拾える(窃盗可能)

・そこらへんに生えてる草花すら採取可能

・街の人間も殺せる

NPC自分の生活を持っている

これらのことは

・何をして良いか分からない

情報が多すぎて混乱する

・操作ミス犯罪者にされ嫌気がさす

などのデメリットが多く、能動的に主人公になろうとしてる人でないと、さっぱり楽しめない。

ムービーゲーは自由度を捨てた代わりに、やるべきことが単純化されて難易度も下がり、カジュアルプレイヤーにやりやすいゲームになってる。

ボス戦で微調整なんぞしなくとも、とどめは必殺技で決めてくれるし、格好良いEDシーンがプレイヤーが慌てて凡庸なシーンに成り下がる事もない。

CoD4ラストシーンで、格好良く3発で決めるか、無駄弾撃ちまくってクールじゃなくなるか、操作したい人もいるだろうし、勝手に殺って欲しい人もいる。


ムービープレイバランスが悪いと感じたなら、あなたのバランス感覚が、メーカーが期待してる購買層のそれと噛み合わなかったと言うだけの話だと思う。

それに嫌気がさして、だからといって他のゲームを探すほどゲームが好きでもないなら、止めるのをお勧めする。

娯楽を買って、ストレスを感じるなんて、ばかげている。


ちなみに、こうしたときに「絶妙なバランスゲームを出してくれ」とか言う論調は、好きではない。

それは「あなたの感性に合う」だけで、私の感性には合わないかも知れないから。

どのくらいが絶妙なんだろうか、どの程度までならムービーが許せるのか、さっぱり分からないし、多分私とは異なっていると思う。

2008-10-27

http://anond.hatelabo.jp/20081027162022

俺、「NHKにようこそ」の漫画版の最終巻でちょっと泣きが入ったんだよ。小説では平気だったのに。

ラストシーンじゃなくて、先輩や岬ちゃんのイタイタしいシーンでね。あと山崎台詞も泣けたけど。

あの原作を滝本が書いてるんだとしたら、彼はまだ作家として死んでないなあと思う。

女性経験がある意味創作に生きてるよーな気はしなくもないような。

2008-10-21

悪夢くん

 ぼくは眠っているとたまに、体はまったく動かないけど外の景色が見える(またテレビとかの音が聞こえる)という状態になることがある。これは一種の金縛りらしいけど、恐怖感はない(さらに言えば、このとき見えている外の景色、たいていは部屋、は実際に見えているわけではなく、寝る直前に見た映像再生されている一種の夢らしい)。ぼくは恐怖をともなう金縛りにもよくなるのだけど、この場合、目は閉じたままで外の景色は見えないから、とにかく目を閉じたままでいればとくに問題はない(おそらく目を開くと、お化けとか、何か怖いと思っているものを見てしまうのだろう)。しかし、外の景色が見えているのに体が動かないという状態のほうはかなりつらい。いまぼくが寝ていることとか、これが金縛りの一種であることとか、見ている映像が、リアルだけど、夢であることとかを冷静に考えられるのだけど、なんだか息が苦しいからこのまま死ぬんじゃないかと不安になって(この意味ではお化けとかとは別の恐怖感がある)、なんとか体を動かそうとする(思う)けど何もできないのです(『マルコビッチの穴』のラストシーンはたぶんこんな感じだろう)。そんな感じで(頭の中で)五分くらいもがいていると、起き上がるような感覚とともに目が覚めて解放されます。起きれてというか、生きててよかったと思うけど、これは究極的にひどい悪夢だとも思う。悪夢の臨海というか。童夢くんのOPCHA-CHA

2008-10-12

http://anond.hatelabo.jp/20081012163501

ラストシーンを見る限り、C.C.と旅しているように見えるんだが?

御者がルルーシュって暗喩じゃなかったの?あれ?俺だけ?

2008-03-20

はてな」に本名を書いて悲しくなった

 ブログを始めたのはどのくらい前だろ。当初は知人向けに書いていた。

 慣れてくると、政治的な意見なんかも出すようになった。

 僕は自分の文章を読むのが好きだ。それで眺めているうちに、これは他人が読んでも面白に違いないと確信した。

 というわけで実名を出した。もし自分が歴史的に重要な文章を書いたとしたら、後世の教科書でレカグナイズされてしかるべきと思ったからだ。

 先日はこれをネタにしようと思った。

 http://jp.youtube.com/watch?v=cwdhdGimFOw

 けれど書けなかったという話を書きたくて、はじめて増田です。なぜためらったかというと、その日に仕事関係で僕のブログが問題になっていたから。その上またこんなことを書いたら、と思ってしまった。

 もちろんわざわざ自分から「こんな記事を書いてます」とアピールしたわけじゃないけど、見つかるんだねやっぱ。当たり前だけどさ。いやていうか普段は自分から宣伝しまくってるからな。

 怖かったよ。

 橋下府知事に対する若手職員の異議申し立てについてエントリーを書きたいと思ったのは、彼女の名前を特定し、攻撃を加えようとする奴らがいたからだ。なんと滑稽なことだろう。彼女カメラが何十台とある前で自ら立ち上がっていたというのに。

 そして彼女の発言は真っ当なものだった。けれども真っ当なことを真っ当に言う人が集中砲火を浴びるとしたら? それで僕が黙っているとしたら?

 ってなことを書けば、はてブを稼げるかと思って書きたくなった。けど、怖い。グーグルというものがあるということはわかってたのにね。

 かつて東欧諸国は、全体主義社会だった。共産党を批判することは許されなかった。けれども、ガチで党の思想を信じている人はむしろ少数派だったのだそうだ。むしろ、気の知れた仲間同士では指導部をからかったりし合っていたという。イデオロギー的支配は、むしろ公の場での行動のレベルにあった。独裁者を本気で崇拝なんかしない。けども、多くの人はあたかも党に帰依している「かのように」振る舞っていた。秩序はそうして維持されていたのだ。

 というわけで、東欧民主化は、まさに『裸の王様』のラストシーンのように進行した。ルーマニア独裁者チャウシェシュクが最後の演説に立った時、広場に集まった群衆の中に彼を支持する者はほとんどいなかった。チャウシェシュク自身、もちろんそれはわかっていた。なのに彼がなぜのうのうと群集の前に自ら登場するような選択をしたのかというと、それまでもずっとそうだったからだ。これまでと同じように、誰も信じないような演説が行われ、誰も信じていないのに誰もが信じている「かのように」拍手喝采が行われるはずだった。

 ところがどこからともなくブーイングが始まる。あっという間に広がっていく。気がつくと隣に立っている奴までもがやっている。もう誰も止めることはできない。独裁者は演説の中断を余儀なくされる。

 人々は、「王様は裸だ」と気づいたのではない。そんなことは何十年も前からわかっていた。ブーイングが広がった瞬間は、真実が暴露された瞬間ではなく、裸の王様が裸であることを知らないかのように振舞うことを人々がしなくなった瞬間である。

  「人々」と書いた。一人が声を上げても、それが「人々」にならなければ抹殺されるかスルーされるだろう。けれども「人々」は一人から始まる。上の動画で、その一人を見た。そのことについて書きたかった。そしてできなかった。今僕は、「一人」をたしかに目撃している。後になって、「ブーイング」はもう始まっていたと気づくかもしれない。それでいて声がだせない。

 何が悲しいのか? 本名を出したことか? 今までの全てのエントリーが虚しいことか?

 何が怖いのか? 問題にされることか? それとも、問題にされるとわかっていて彼女が立ち上がったということは、こんな自分でも思わず何かやらかしてしまうかもしれないという不安か。 

2008-03-13

宇宙一詳しいデビルマンのあらすじ 4/4

http://anond.hatelabo.jp/20080313111147←この続きです。

1.29.20 おじさんおばさん、ただいま!お帰りあきら君っていう情景を想像していたのに、玄関からちらりと見える景色はいつもと違う。

1.29.50 ヒゲヒゲ妻の死体を見る。どこで拾ったのか分からないけどパーカーのフードを被る。「おじさん」と言ったあと、右下を見て「おばさん」と言う。期待を裏切らぬ棒読み

1.29.55 上から(上ってどこ?)ヒロイン携帯がだらーんとぶら下がって落ちてくる。

1.30.50 画面が赤くなる。(恐らく、携帯をきっかけに、黒髪がデーモンとしての直感を用いてヒロインの最後を知ったことの象徴なのだと思う)

糞台詞:ヒロインの最後

ヒロイン包丁を持って「あたしは魔女よ!なめるな!」と言う。暴漢はヒロインの背中にピストルを一発。うつぶせに倒れたヒロインが一言。「あたしは魔女じゃない・・・」

糞台詞終了。最後は「アキラクーン」となって死亡。

1.31.00 黒髪「みきちゃん・・・ぅふうわぁ・・・はああああ」

1.31.05 ヒロインの生首が串刺しになって目の前に。

1.31.20 へあー。へあーへあーと三回叫ぶ黒髪。おまえ絶対にタバコ吸ってるだろ。肺活量と腹筋が無いに等しいので、何の迫力も無いシーン。

1.33.30 二分以上も延々とマネキンの首を持ってそこらへんをうろつく黒髪。荒廃してしまったかつての町を歩いている。まあ、ここまではっきりとCGって分かるとすがすがしいね。NHKの大人向け医学番組CGで今から赤血球の働きを見ましょう、って感じの景色の中を歩く黒髪。

1.34.20 教会に到着。町には建物が一つも無かったはずなのにガラス一枚割れていない教会。謎の教会。祭壇に生首を供えて一言、「みきちゃん・・・着いたよ。」

1.34.35 生首を撫でる黒髪。泣いてるって設定なんだけど、思いっきり目薬。ミーコを見習え。

1.35.15 ゆっくり祭壇から離れてくれ、と演技指導された黒髪は、混乱したらしく、ロボットダンスみたいな動きで祭壇から離れ、教会内の椅子にどすっと座ります。

1.36.10 ヒロインの「子宝に恵まれますように」のお祈りを思い出して、黒髪が薄笑いを浮かべる、どうした?と思ったが、どうやら泣く演技をしたいらしい。でも泣けない。ナス!泣けないんだから顔のアップはやめろ。

1.36.30 後ろから人の気配。振り向くと銀髪。そこで銀髪が一言「神はいたかぁ?」はいよくできました。

1.36.35 銀髪がコートを脱ぐと、下はスーツ。なぜぬぐ?人間は守る価値があったか、アキラ

1.37.05 黒髪が振り向きながら立ち上がる。そこで一言糞台詞。「おまえは最初からサタンだったんだな。おまえは俺をだましていたんだな。」・・・よく整理して考えてみよう。だますって、何について?銀髪が自分はサタンじゃないってだましていたってこと?いや、だましてないよ。最初から正体をばらしてたし。つうか、一時間二分五十秒のときにいってたよね。「サタンだから」って。ばか?いや、糞なんですよ。ナス夫妻が糞。

1.37.40 痴話喧嘩開始。新しい世界を俺と生きてくれってさ。

1.37.45 銀髪頑張る。「再び」両手を広げる。「デーモン世界を俺は目指した。」右手だけ胸に、左手は体側に。「しかし」右手だけ広げる。「人間の数は異常に多かった。」右手を元に戻す。「いくらデーモンをよみがえらせても」右手を広げる。「人間を滅ぼすことは不可能だった。」右手を体側に戻して、はい、がんばりましたねー。学芸会以下の演技指導でしたねー

1.38.35 銀髪「でも人間同士で殺し合いを始めた。笑えたね。」と言ってヒロインの生首のアップ。彼女の死の事も笑えたのでしょう。黒髪がキレる!そして一言「おれをころせぇ」、ってキレ無いの?

1.38.45 黒髪「おれあけ生かして、なんにあうー」カツゼツが・・・

1.40.15 例によって会話が成り立たないので要約。銀:俺と一緒に来い⇒黒:嫌だ、おまえを殺す(何故こうなる?)⇒銀:ならば俺がおまえを殺す。 こいつら幼稚園児です。何の理由も無く殺し合いをしているようにしか見えません。カツゼツが相変わらず悪いし。俺はデビルマンだぁらな!ってなんだよ。

1.40.40 見詰め合う二人。デビルマン、変身。サタン、変身。

1.40.50 二人の闘気がぶつかり合い、空襲を絶えぬいた教会が爆発し、教会の床が抜けて、実は床下には巨大な空間がありましたとさ。

1.41.00 いつものデビルポーズ。滅びよ、サタン。滅ぶのはおまえだ、デビルマン

1.41.10 バトル開始。どうでもいいです。いろいろな人がプレステのオープニングだとか、色んなことを言ってますが、一言で言うと、価値の無い映像。二言で言うと、ありきたりで安っぽい映像サタンビーム系の技。デビルマンは直接当てる技です。よく引用されてる「地球を割る」って技は1.42.00にでます。地面がぴしぴしなるだけです。

1.42.10 デビルポーズ。ここで、地割れが起きます。さっきの技とは無関係だと思います。

1.42.45 どちらの攻撃も有効打は無く、地球の一割くらいが炎でできたキノコ雲に覆われます。

1.43.00 荒廃したニューヨーク自由の女神夕焼け

1.43.30 人間が塔のように重なり合いながらうねっています。(人間竜巻?)私が読んだことがあるのは文庫本デビルマンだけなので、原作でのこの塔の位置付けは良く分かりません。というか、ただ、出したかっただけなんだろう、ナスの場合。

1.44.00 その更に上空でサタンデビルマンが対峙してます。サタンデーモン軍団をつれています。デビルマンは隕石みたいなのに乗っています。

1.44.20 ほわーと言いながらデビルマン、青い炎に包まれて巨大化。それを見るサタンの目に涙。

1.44.35 ここでも「滅びろ、サタン」と言って、青いまま特攻。ザコデーモンは全員死亡。サタンは耐えます。

1.44.50 炎を使い果たしたのか、デビルマンサタンが右のミドルキックデビルマンは右ストレートデビルマンの胴体が削れます。

1.45.05 ぐおぐおいってたデビルマンが、空から落ちます。落ちながら黒髪に戻ります。黒髪になってもぐおぐお言ってます。

1.45.15 回想シーン。黒髪の餓鬼と金髪メッシュの餓鬼が、海辺で砂の城を作り終えたところです。

1.45.45 雨が降ってきたので、二人が自分達の体でその城を守ろうとしているところで回想終わり。

以下は、あの有名なラストシーン

1.46.10 黒髪、生きてます。目を開けます。きょろきょろします。岩の上で仰向けになっているようです。

1.46.20 岩の下から銀髪が這い上がってきます。

1.46.40 アキラ、リョウ、とか言い合ってます。わざとらしくぶほっと血のりを吐く黒髪。

1.46.55 銀髪「死ぬなよ、生き残れよ。デビルマンだろ。」

1.47.15 黒髪「おまえが生き残ればそれでいい。」・・・この人の発言の意味がわかりません。何故こんな台詞を言わないといけないのがが分かりません。で、そのまま黒髪は目を瞑ります。

1.47.20 銀髪が名前を呼んでも黒髪は返事をせず、黒髪の下半身に目を向けると・・・

1.47.50 下半身がやばいことになってる、と。二人無言。

1.46.00 銀髪が吐血。え?サタンなのに吐血?ナスにとってのサタンってのはいったいなんなのでしょう。かつての神と同じことをしようとして、しかし、愛を持っていたゆえに失敗してしまった堕天使、ってのがサタンなんじゃないの?まあ、どうでもいいや。

1.48.15 「まってろよ、アキラ、すぐ行くぞ。」と銀髪。

1.48.30 それを聞いた黒髪が、死んだはずなのににやっとわらって、それをみて銀髪もひひひひと笑う。

1.48.40 真っ赤な月の下、銀髪の笑い声が響く。「明が笑った。ふひふひふひ」

以上、原作の有名なラストシーンリメイク

1.48.50 崩れたコンクリートの壁にもたれかかって座るミーコ。

1.49.04 「おねえちゃん!」とススムの声が聞こえると虚ろだったミーコの表情に生気が戻る。ススムがミーコに駆け寄る。

1.49.20 「何を見ていたの?」とススム。「心の中を見ていたの」とミーコ。アホか、ナス妻。心の中ってなんですか。ミーコは、地球平和だった頃の海、空、森を思い出していたらしい。と、語りながら涙をこらえるミーコ。

1.49.30 泣きそうになるミーコの顔をみて、ススムがボソッと言う。「そんなとこ、もう無いよ。」

1.49.50 表情を引き締めるミーコ。頬には涙が一筋。ススムと見詰め合い、「生き延びるのよ。私達だけでも」

1.50.10 手のひらを握り締める。その中にはヒロインが渡した口紅。「牧村さんと約束したんだから。」「うん」とススムも表情を硬くしながら言う。どっかのアイドルの歌がBGMに流れる。

1.50.25 ミーコが立ち上がり、続いてススムも立ち上がる。口紅を握り締めたミーコの掌をススムがその上から握る。

1.50.30 二人が手を繋いで、このペースで歩いてねーってのはナス陰謀だな。だって、危機管理としてなってないじゃん。こんなヨチヨチ歩くなんて、普通想像力ではありえない歩き方。かわいそうな二人。せっかくの感動シーンを台無しにするナス

1.51.00 二人は今までいたコンクリートの残骸の出口に立つ。画面がセピア色になる。カメラがぐーっと引いて、周りの荒廃しきった景色を写す。周りに人間の塔(人間竜巻?)が山ほどある。

 THE END

映画デビルマンの悪評を聞いて、どれだけバカな映画かを見に行きたくなってしまった人は、上のあらすじを読んでうんざりしてください。

追記。(2005年6月10日)

東映さん、怒ってます?

これから一生東映映画を私は見に行かないので、(東映映画に関しては「観る」という漢字を使わずに「見る」という漢字を用いますよ。ポリシーの問題です。)べつに怒ってくれても全くかまいません。怒った後にきちんと反省してください。(どれほど反省したとしても私はこれから先一生東映映画を”見に”いきませんが)

一番嫌な状況は、東映から圧力がかかってこのblogそのものが消えることです。

圧力のかけ方として、一番考えられるのは著作権違反を理由とするものだと思うので(何せ宇宙一詳しいあらすじなので、翻案権に関してはかなりやばい。抗議を受けたら必ず消される。)、東映と対立することは全然平気なのですが、blogが消えるのは凄く嫌だ。

以下、考えました。頑張れ、自分。

この文章は著作権違反になるのだろうか?

翻案権は完全に侵害しているけれど、その上で引用をしているので、少しだけ状況が複雑なのだろうと思う。

血液型と性格」事件の判示(東京地裁判決平成10年10月30日、学者の間でも評判は悪くない)によると

新たな言語著作物創作する上で、他人の言語著作物の全体あるいは相当広い範囲の趣旨を引用する必要のある場合があるが、その場合、それを原文のまま引用するのでは、引用の名の下に他人の著作物の全部または広範な部分の複製を認めることになり、その著作者の権利を侵害する程度が大きくなる結果となり、公正な慣行に合致するものとも、正当な範囲内のものともいえなくなるおそれがある

とあり、

簡単に言うと、

映画のワンシーン・ワンシーンに突っ込みたいとき、

<1>映画そのものを皆さんに配布する

<2>映画そのものは配布せず、自分で翻案・要約した文章をオマケとしてくっつける

の2つの方法が考えられ、

それなら<2>の「要約引用」で行った方が良いんじゃない?みんなやってるし、普通でしょう?

ということです。

ちなみにススム君ピンチのシーンは一切ネタバレしてないよ。

あのシーンは「映画」だったからね。

つまり、必要な部分だけしか引用していないのです。

以上から、私の文章は、著作権法32条1項引用の場合の著作権行使の制限)の適用を受けるので、著作権を侵害していないと言える。

のだと思います。そう思いたいです。

blog人のサーバーが落ちるたびに、

うお、もしかして私のブログが消された?東映から苦情が来たのか?と自意識過剰な不安に駆られるのです。

今日、つれづれなるままに考えてみて良かった。

多分、(多分、としか言えない。何せ要約引用判例なんて、ましてや映画の翻案に関する判例なんて、かなり少ないし多分存在しない。)、私は不正なことをしていない。

だれかエロイ人、詳しいこと教えてください。(txmailjp☆yahoo.co.jp(☆を@に変えてください))

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