ネタバレ有
既に結末は二回描かれている。そして数多の二次創作によって様々なEVAが描かれ、消費されている。
この作品がシンジの成長物語でしかないのであれば、シンジは描かれる度に、「物語」に翻弄され、何度も何度も身を削られ、苦痛に顔を歪まされ、辛い思いをさせられ、凌辱され、蔑まされる。それはあたかも2000年以上も磔にされ続けている「彼」のようである。
「破」はその無限円環に続く原罪からシンジを救う物語であった。
10年前、シンジは全てを失い、その代償として、ここにいても良い理由を見つけた。失ったものは余りに大きく、観る者には不快感と絶望を与えた。庵野は観客からも全てを奪い去っていった。
TV版も劇場版も、共に「大きな物語」に翻弄される「弱い子供のビルドゥングスロマン」だった。
大人になると解る
「この世界には自分の為に用意されたセットなど何も無く、スポットライトすら無く、自らの居場所は自ら創りだし奪い取って行くものだ」
自愛から慈愛への転換。
真希波という新しいキャラクターは「幸せは歩いて来ない、だから歩いて行くんだね」と謡った。彼女は前作へのアンチテーゼとなっている。
その真希波に誘われるように新しい物語は進み、シンジは彼女の信条を転移したかのように、その意志で自らの道を歩み出した。大切な、かけがえのないものを守る為の自己犠牲という愛の形。
綾波の命が失われずに済んだのも、トウジの妹が退院し、トウジの片足が失われずに済んだのも、アスカがメンヘラーにならずに済んだのも、全ては「破」においてシンジが慈愛に目覚めたからである。
アスカは予告において、旧劇場版のラストシーンでTV版第一話の綾波と同じように「包帯」で巻かれた左目を、伊達公宜しく威風堂々たる「漆黒の眼帯」に変えて現れた。アスカは明らかに、前作よりもキュートに、セクシィに、力強く描かれている。
庵野秀明は、「誰も不幸にならない世界」を描こうとしているのかも知れない。稚拙かも知れないが、物語として、純粋に強度のある作品を創ろうとしている。最高のエンターテイメントを。
EVAは、日本製アニメーションには珍しく、海外での評価が低く国内、国外での温度差が激しい。理由としては、特にシンジの評価が低い点が挙げられる。庵野秀明のように才能のある作家の作品としては珍しい。
シンジは、最高のエンターテイメントを指向する際に、庵野自身にとって克服すべきハードルであった。
新劇場版で庵野は「破」において、既に数多描かれている「弱い子供のビルドゥングスロマン」を早々に切り捨て、新たなステージへ観客を誘っている。
乗るか反るか、観客は庵野に試されているとも言える。庵野が今までも、観客の期待を裏切り続けてきた事を鑑みると、私達は新劇場版を、数多のEVAとは全く異なるモノとして観る必要があるだろう。
次世代を担う若者へ、不安が支配するこの世界で希望を与える物語として、新たに書き換えられたエバの全く異なるもう一つの姿に、観客は堪えられるか。
私達の強度が試されている。
おいおい… よりによって増田でネタばれ書くなよ。 観たんなら、ネタばれされるのがどんだけ不幸か理解できるだろ?
ほんと。ネタバレ増田が多くて涙目だよ。 でも、今のところ憤怒するほどのネタバレ具合じゃないからまだいいか。