2008-03-20

はてな」に本名を書いて悲しくなった

 ブログを始めたのはどのくらい前だろ。当初は知人向けに書いていた。

 慣れてくると、政治的な意見なんかも出すようになった。

 僕は自分の文章を読むのが好きだ。それで眺めているうちに、これは他人が読んでも面白に違いないと確信した。

 というわけで実名を出した。もし自分が歴史的に重要な文章を書いたとしたら、後世の教科書でレカグナイズされてしかるべきと思ったからだ。

 先日はこれをネタにしようと思った。

 http://jp.youtube.com/watch?v=cwdhdGimFOw

 けれど書けなかったという話を書きたくて、はじめて増田です。なぜためらったかというと、その日に仕事関係で僕のブログが問題になっていたから。その上またこんなことを書いたら、と思ってしまった。

 もちろんわざわざ自分から「こんな記事を書いてます」とアピールしたわけじゃないけど、見つかるんだねやっぱ。当たり前だけどさ。いやていうか普段は自分から宣伝しまくってるからな。

 怖かったよ。

 橋下府知事に対する若手職員の異議申し立てについてエントリーを書きたいと思ったのは、彼女の名前を特定し、攻撃を加えようとする奴らがいたからだ。なんと滑稽なことだろう。彼女カメラが何十台とある前で自ら立ち上がっていたというのに。

 そして彼女の発言は真っ当なものだった。けれども真っ当なことを真っ当に言う人が集中砲火を浴びるとしたら? それで僕が黙っているとしたら?

 ってなことを書けば、はてブを稼げるかと思って書きたくなった。けど、怖い。グーグルというものがあるということはわかってたのにね。

 かつて東欧諸国は、全体主義社会だった。共産党を批判することは許されなかった。けれども、ガチで党の思想を信じている人はむしろ少数派だったのだそうだ。むしろ、気の知れた仲間同士では指導部をからかったりし合っていたという。イデオロギー的支配は、むしろ公の場での行動のレベルにあった。独裁者を本気で崇拝なんかしない。けども、多くの人はあたかも党に帰依している「かのように」振る舞っていた。秩序はそうして維持されていたのだ。

 というわけで、東欧民主化は、まさに『裸の王様』のラストシーンのように進行した。ルーマニア独裁者チャウシェシュクが最後の演説に立った時、広場に集まった群衆の中に彼を支持する者はほとんどいなかった。チャウシェシュク自身、もちろんそれはわかっていた。なのに彼がなぜのうのうと群集の前に自ら登場するような選択をしたのかというと、それまでもずっとそうだったからだ。これまでと同じように、誰も信じないような演説が行われ、誰も信じていないのに誰もが信じている「かのように」拍手喝采が行われるはずだった。

 ところがどこからともなくブーイングが始まる。あっという間に広がっていく。気がつくと隣に立っている奴までもがやっている。もう誰も止めることはできない。独裁者は演説の中断を余儀なくされる。

 人々は、「王様は裸だ」と気づいたのではない。そんなことは何十年も前からわかっていた。ブーイングが広がった瞬間は、真実が暴露された瞬間ではなく、裸の王様が裸であることを知らないかのように振舞うことを人々がしなくなった瞬間である。

  「人々」と書いた。一人が声を上げても、それが「人々」にならなければ抹殺されるかスルーされるだろう。けれども「人々」は一人から始まる。上の動画で、その一人を見た。そのことについて書きたかった。そしてできなかった。今僕は、「一人」をたしかに目撃している。後になって、「ブーイング」はもう始まっていたと気づくかもしれない。それでいて声がだせない。

 何が悲しいのか? 本名を出したことか? 今までの全てのエントリーが虚しいことか?

 何が怖いのか? 問題にされることか? それとも、問題にされるとわかっていて彼女が立ち上がったということは、こんな自分でも思わず何かやらかしてしまうかもしれないという不安か。 

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