はてなキーワード: ラストシーンとは
昔、映画「カサブランカ」のラストシーンのセリフとそのシチュエーションを勘違いしていて(どうも時々そういうことがある)、有名な
「I think this is a biginning of our beauriful friendship.(これが美しい友情の始まりってやつだな。)」
というセリフを、てっきり主演の男女二人の間のセリフだと思っていたのだった。
http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/CASABLANCA.htm
そんなわけで、初めてカサブランカを見たとき、ラストシーンまで「一体いつ主演の二人の間に『美しい友情』が始まるのだろう…」とワクテカしながら見ていたら、飛行機は飛び立って、あれれおいおい、え、そこでそのセリフ言うんすか。ちょっと、ねえ、という感じになって唖然とした。おいおい、男女間で使われると思ってたから超かっこいいセリフだあ、と思ってたのによー。いやすいません、根がハードボイルドじゃないもので、あのラストシーンのすばらしさが理解できないのだと分かってはいるんですけど。
そしたら、今上のリンク先ページ見てたらこんな記述があって、また少し驚いた。
「カサブランカ」は戦争の混乱の中、製作されましたが、脚本は未完成、毎日メモが役者に渡され、ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンが結ばれるのか、別れるのか、最後まで決まっておらず、二通りのラストシーンが作られたとか。多分、今の形が正解だったと思いますが、できることならもう一方も観てみたいものです。
へえええ、そうだったんだ。確かに、主演の二人が結ばれるラストも見れるものならみてみたいなあ…。そこで件のセリフが主演の二人の間で使われてたらちょっとグッとくる。あああ、ハリウッドのどこかのフィルムセンターの倉庫にひっそりと眠っているのだろうか、理想のカサブランカ……。
俺が思うにですよ。
ウォンカは親御さんと喧嘩したというか、まぁそんな感じであれ、子供のまま大きくなったよな、あんなんなっちゃってたわけですけど、要はまー縛られてたんですよね。親御さんに。遠ざけようとするがゆえに尚更。んで、和解することによって過去を清算してその呪縛から解放されてようやく一個の人間として「オトナ」になれた。巣立ちが出来た。新しい「家族」が持てた。
別の言い方をすれば、古い家族を捨てたわけですよ。
だから、親御さん相変わらずあの寂しい土地に置いてけぼりでラストシーンには出なかった。
まー切り捨てたわけですね。自分の家族を。親を。
でも、あの映画はそもそもディズニーアニメライクな88%ミュージカルですから、四人のガキどもの退場シーンを素直に楽しめばよろしかろうと思います!
俺も冬の巨人はあまり気に入らなかった。
前半のじっくりペースでラストまでゆっくり導いてくれれば良かったのにー。ばっさりといそいでラストシーン、みたいなのがもったいなかった。たとえるなら「ラピュタは本当にあったんdヴァルス!」ぐらいの早さ。
しかしシスマゲドンは何を急いでるんだってぐらい急展開だったがすげー大好き。
なんか、バイオレンスなケイオスヘキサものからの脱却をしたいのかなってのはわかるんだ。何かいてもそこそこうまくて面白いし。難点は「完結してないシリーズが心残りすぎる」ぐらいだ。
を読むとよいと思うんだ。ノウェムとかソリッドファイターとかタツモリ家の食卓とかで始めるな。面白いけど、続かないから。飢えに乾きたいなら止めないが。
http://anond.hatelabo.jp/20080111225520
だよね!面白いよね!!
ROBO-ONEって何だっけとググって公式サイトに行き、すぐに2007年度テーマソングをAmazonで購入。
それはともかく、これをベースにするとプラレスになっちゃいそう。
むしろ桜坂洋のスラムオンラインみたいに、バーチャル世界での格ゲーって方向ではないかと思うがどうか。
http://anond.hatelabo.jp/20080111225801
「ある日、爆弾がおちてきて」は読んでないんだけど、ウィキペディアには
これまでの作者の作風とは一風違った話
とある。
とはいえ、どっちにしろバイオレンスな初期の古橋の作風はあなたの求めるものとは違うんじゃないかなーって気がするよ。
http://www.imdb.com/title/tt0382932/
感動した。
最初は「The Lion and Lambs」観ようと思って映画館行ったけど
上映開始時間が微妙にこっちの方が早かったので変更。
正直、ピクサーは「ニモ」以降終わった会社だと切り捨ててきてさ
いや、つまらないわけじゃないんだよ。ただ、
マダガスカルとかオープンだの作ってる会社のと混ぜてもあんま変わらないよね、
みたいな評価でさ。あ、俺の中では、ね。まぁ進んで観るようなもんじゃないなっていうね。
そんなわけで見る前ノ期待値ってのは断然低かったのね。
だって響きがもっぱらつまらないと噂の(だから観た事ない)の「ライアンを捜せ」みたいじゃん。
「キャラ名+何か」の3Dアニメってなんか微妙な匂いがするじゃん。
まぁ、でもふさふさしたネズミが毎回クオリティーがやたら高いディズニーミュージックに乗って
歌って踊るのを見れればいいかなって思って金払ったんだよ。
あれから大分経ってるし、かなーり、ふさふさになってんだろうなぁ。
もう毛の間のノミとか視認できるくらいに、すげー、ってカンジで。
んでね、最初はね、うん。最初のーそうだなー40分くらい目まで、かな?
は
「人間主人公の名前がリングィーネだったから舞台イタリアかと思ったらフランスかよ」
とか
「なんだよ導入部クソ長ぇな」
とか
とか
「段々とフランス訛りの演技を放棄してく声優陣(笑)。その方がありがたいけど」
中盤あたりくらいからね
もうそんなことどうでもよくなってさ、
思わず姿勢が前のめりになるくらいにスクリーン凝視しちゃってんの。俺。
んで、観終わった瞬間、気づいたね。
「ああ、俺今回全然あくびしなかったな」
って。
んとね、今まで俺はどの映画見ても上映中、必ず一回はあくびしてたの。
いや、つまらないわけじゃないんだよ。
むしろ、つまらない映画なんて無いって信じてたくらいだから。
だって、大体解るじゃん。予告編やポスターや、今はネットもかな、
それでさ、観る前に最悪「クソっぽい映画」は回避できるじゃん。
大体映画なんて自分が興味あっておもしろそうな匂いがするから観に行くもんじゃん。
少なくとも、俺が見てきた映画はそうだったよ。
んで、映画観終わった後、全部「ああ面白かった。なんとなくだけど」で帰ってたのね。
でも、今回それは言い換えれば
「面白かったし、(最低『つまらなくはなかったし』)まぁ良かったけど、
感動はしないよね」だったってことに気づいたの。
実際俺映画でも本でもドラマでもドキュメンタリーでも「感動して泣く」ってことなかったし
まぁ、今回も泣きはしなかったし、別にそれはどうでもいいんだけど、
そのせいか知らんけど俺は「ネットで映画や本の批評とか感想が書ける人」
ってのを理解できなかった。だって、タダ単に「おもしろいか、つまらないか」の違いだけじゃん。
「つまらん映画にひっかかった!」って延々と怒りながら語る人もいるけど
俺にとってはそもそもそんなん「俺は観る前に映画が自分に合うか合わないかも判断ができんアホでーす!」
って看板ぶら下げて語ってるようなもんだったのね。まぁ、お仕事で観る人は仕方ないんでしょうけ、ど。
そんなわけでみんな役者とか監督とか映画の歴史の話とかして文章引き伸ばしてるだけでしょ?実際。
と信じてたわけ。
違ったね。俺。
間違ってたね。俺。
本当に魅力、というか何かパワーがある映画ってのは人を
「俺こんなん観てきたぜ!お前らも観ろよ!」
って言わせたり、文章にさせるだけの何かを持ってるんだね。
多分、前述の「つまらない、ということを長々語れる映画」ってのはそれだけの
マイナス方向へのパワーを持っているんだろうね。俺はこの先一生出合うことはないんだろうけど。
ストーリーの良し悪しや映像自体の細かな技術は俺には語れない。
種族を越えた友情や(男女・家族)愛、だけじゃなくて人種差別や「批評」そのもの等の要素を織り込んだ脚本。
胸に残るセリフ。
解る。それらは理解できる。けど、「他人に語れるほど細やかに消化して吐き出す」のはできない。
それでもこの映画には、
って思わせられるだけの物があった。SDI。
ラストシーンのあの「Ratatouille」の場面で、密かに拍手をするくらいの、何かがあった。
子供の鑑賞にしか堪えられないメリケンのアニメのどちらでもない
何かが。
いかにもつまらなさプンプンな邦題を墨塗りにして上から原題を貼るべきだよね!
今もやってるかは知らんけど。
たとえばさ、くそつまんねー映画とか見てさ、
「あー、あそこ、こーすればおもしれーのに」とか「なんで、このキャスティングなんだよ!」とかいろいろ思うわけですよ。
だけど、いくら「思った」ところで、その映画は一切変わらないわけですよ。
誰かにそれを訴えたところで、訴えられた人は何もしない。もちろん映画は変わらない。
で、どーすりゃいいか?って話になると、それはもう、「自分でおもしれー映画作って、それを見る」しかないわけ。
おーけー?
幸いなことに、その映画の監督であり、主演であり、脚本であり、プロデューサーであり、
アシスタントであり、観客であるのも「自分」なわけ。
もし、今の自分が嫌いだったら、
ハイ、そこで頭の中にスクリーンを描いて、そこに「自分のことが嫌いな主人公」を写してみる。
観客である自分は、この「自分のことが嫌いな主人公」がどうすれば、このストーリーがおもしろいと感じるか。
ハイ、そこで頭の中に撮影現場を描いて、監督(脚本家)になってみよう。
そのために必要な道具ある?誰と絡ませる?
ハイ、そこで大道具、小道具さんになってみよう。
監督から言われたその道具、どうやって手にいれる?作る?買ってくる?
監督から言われたその役者、どこから連れてくる?どこにいる?
誰に言えば、その役者に出演依頼できる?どう頼めば出演してくれる?
ハイ、そこでプロデューサーになってみよう。
大道具さんから、こんなのが必要なんで予算下さい、って言われた。
どこからお金工面する?その時、誰にどんな風に頼む?
自分のポケットマネー?そのポケットマネーはどこから?降ってはこないから、アルバイト?
などなど、それぞれの役職を自分でやれば、おもしれー映画が手にはいるだろ?
死ぬまで、ずーっと続くストーリーだ。大概の苦労、イベントは、ラストシーンへの伏線だ。
その伏線を回収できなかったら、つまんねーだろうね。どーすれば、観客は納得するかね?
監督の腕の見せどころだよぃ。
あー、もちろん、うじうじした主人公がそのまま死んでくのも、脚本としてはアリだけど、
それを観客である自分が「おもしれー」と思えるかだよねぇ。
と、子供に教えることにした。
共同体を揃える必要はないんじゃない?
チャップリンは戦後一作目となった「殺人狂時代」のラストシーンでこんなメッセージを残しました。
「1人殺せば悪党で、100万人殺せば英雄になる。数が殺人を神聖なものにするのだ」。
前提:
2)重要視されるべきは「殺した事実」だけで「誰を殺したのか」は問題になってない。
敵とか味方とかいうセコい話をしてるわけじゃなくて、
「人の命を奪うこと=悪」を前提としたメッセージじゃないかな。
つまり本文は
「物量による正当化」について言いたいわけではなくて、
昔P.K.ディックの「高い城の男」を読んで、ラストシーンに感動したんで思わず感想を2chにかきこんだところ「どんな的外れな解釈だよそれw」って笑われたことあったなぁ
第二次世界大戦でドイツ・日本が勝利した後の世界って設定なんだけどね。
ラストはてっきり小説の中の人物が、小説の外の現実を幻視する。というなんともメタなオチだと思ってたんだけど。
実際のところは、「小説中で」現実と同じようにアメリカが勝利しており、それを何らかの理由から隠していると言う世界らしい。
こっちは「最後から二番目の世界」と違って民衆にそういう欺瞞を植え付ける必要性なんてさらさらない気がするんだけど?
要するに逆が言いたかったのかな?
今はアメリカが勝利したことになってるけど、実はドイツが勝ってるのかもしれないよ
って