はてなキーワード: ピーとは
タコピーが嫌、いじめの描写をみたくない、描き方が嫌い。そういうひともいるだろうし好き嫌いがあるのは仕方ない。それでも作品は否定したくない。
世の中に披露するのは偉い!頭の中のたとえ最高の作品であろうとも、それを形作れなければ一生評価されない。それが凡作だろうが、最高傑作だろうが、我々がそれを読めるのは作った人がいるからなのだ。
今の世の中、作品を披露する機会はたくさん増えている。相対的に見たくないものも増えるだろうけど、今まで見られなかった作品に触れられるチャンスも増えたんだなーと感じる。そんな世の中、悪くないな、とか思った今日この頃。
駄文失礼。
(追記)こまっしゃくれるってなんとなく響き可愛くない?結構長いのに漢字変換できないところとかも特別感あって好き。(追記終わり)
例えば鬼滅の感想でさ(タコピーじゃなくてごめん実は読んでない)、俺は登場人物の心情がめっちゃセリフになってるのが面白いなと思ったのよ、言い回しとかも面白くて、うるせえな全員!って思った
そういうときに俺と友達は「心の中のセリフめっちゃ言うの好き」みたいな感想を言い合って楽しい
5chとかでみかける漠然とした「今週もピッカピカだな」みたいな感想言い合うのも結構好き
はてなだと「登場人物の心情をあえてセリフで描写することでキャラを引き立てつつこのシーンの奥行きを作り出すことに成功している、見事、漫画がうまい」みたいな感じになって、めんどくせえなこいつら、という気持ちが湧いてしまう
別に評論が嫌いなわけではない、むしろ「鬼滅の刃のセリフの魅力に迫る!」みたいな記事があれば喜び勇んで読むと思う
けどなんかこう、素人が上から目線で評価してる感じ、たまにならいいけど気に入るたびにそういうこと集団でしてる感じ、ちょっとうぜぇなって思う
はてなはそういう漫画の楽しみ方をする場なんだなと、好きな人は盛り上がって、苦手な人はそっと離れればいいと思う
俺は離れるぜ!そんじゃーね!
https://anond.hatelabo.jp/20220304184302
shields-pikes 過去の読み切りから追ってるけど、ずーっと「コンプレックス」をテーマに話を書いてる作者だよね。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4716259749275314210/comment/shields-pikes
これも、「そうかぁ?」と思ったので、タイザン5名義で読める読み切り作品を再読してきた。
『讃歌』(DAYS NEO)、『同人政治』(となりのヤングジャンプ)、『ヒーローコンプレックス』『キスしたい男』(ジャンプ+)
で、再読して、やっぱりそうだよな……となったのだが、自分は、タイザン5の一貫したテーマは「救済」だと思う。
いかにして人は救われうるか。どうしたらその瞬間を、説得力やカタルシスをもって描けるのか、という部分が焦点になっている。
より突き詰めて言えば「どんな状態で発せられる、どんな言葉なら、『嘘』でなくなるのか」が、読み切り4作品で見える、タイザン5の「テーマ」だ。
ハッピー星人は、説得力のない、しずかやまりなや東くんにとって「嘘」である、綺麗事しか言えない(理解できない)状態から始まる。
なので、テーマは1話で描かれている通り(もちろん、テーマというのは必ず1話に描かれているものだ)。
「たくさんお話して、もっと君を知って、いつか、いつかきっと、しずかちゃんをものすごい笑顔にしてみせるっピ!」
【公式】タコピーの原罪【上巻発売記念PV】 - https://youtu.be/vsPbfdv41-w
わかるわ。
思わせぶりに節操なく伏線貼りまくって、ファンにそれを考察させまくるけど畳み切れなさそうなところとか
思わせぶりにたくさんキャラ出していちいちそれぞれのキャラクター目立たせまくるけど実際はお母さんもお兄ちゃんもそんなに尺取る必要なかったところとか
しずかちゃんはすごそうに見えるけど実はただの頭のおかしい普通の女の子で、周りのリアクションによってすごそうに見えてるだけだってところとか。
AngelBeatsのときもそんな感じで盛り上がってたわ。ヘブンズバーンレッドもそんな感じ。
タコピーのすごいところは、麻枝准の冗長で虚飾まみれの部分を取っ払って初手から本題に入ったところ。
幼稚園児が冷凍のハンバーグを食べて目を輝かせているような状態。
ふ~~ん。
この程度が「神」なんだ?
羨ましくはあるね。
贅沢って知らないほうが幸福なのかもね。
良い物を知らないのは不幸なんだと思って生きてきたけど、逆なのかしら?
巷で話題のブックマークサイト『はてなブックマーク』についだ。
最初に言っておくと、あれだけ話題になるサイトを作り上げた株式会社はてなはすごい。そしてその会社に出資している株主を責めたいわけではない。
ただ、俺には本当に合わないし、「だったら見なければいいでしょ」とか言い出すしたり顔のクソトラバとケンカしてもしゃーないのでこの文章をいている。
つまり、「ネットの使い方なんて人それぞれ」という前提のもと、それでも「こんなコメントが増えるサイトじゃねえだろ」という嫌悪感を言語化し、満足したらアカウントを削除することで救われたい。
俺はバズった自分の記事のブコメを読んでキレたし、その後話題になる度にブコメを読んで、読む度にキレてる。
なんでキレてるかって、はてなーの言いたいことが「おれの考えた最強の袋田叩きチャンスをお届け」だと思ったから。
「無知なネット住民に本当の知識を与える」とか「建設的な議論による多文化の交流でアウフヘーベンを生み出す」とかじゃないわけ。
テンプレも風潮も、全部袋叩きに出来るチャンスを作る装置なんだよ。ポリコレ意識も、政治への問題提議も、全部リンチ装置。
ちょっと前に、不幸なおじさんを暴走させて人殺しにまで発展したなんてニュースがあったけど、リンチを繰り返すだけのサイトなんだからそりゃそういうこと起きるよ。
言ってみりゃ、メンヘラ病院なんだよな。ネットモラルの限界に挑みますってか。
で、それ自体はいいわけ。人間が狂って事件が起きるなんてよくあることだし、そういういことが起きる程度の人口は十分なほどあるから。
だけどさあ、それ見てキャッキャしてるブクマがクズすぎて辛い。
マスコミがオブラートに包んで散りばめた趣味の悪い個人情報を拾ってキャッキャッキャと考察まつり。
なぁ~にが「瞑想運動野菜の足りてないものの末路は悲惨だ。恐ろしい恐ろしい」だよ。人が死んでるんだぞ?
上のコメントが書き込まれてたかは覚えてないけど探すのも面倒だ検証はお前らがやれ。
毎秒毎秒いい年齢の大人が寄ってたかって揚げ足取りしあってバカ騒ぎしてるのが本当にキツくて無理。
そりゃバズりまくっている話題なら皆一緒になって叩いてるから安全ですよ?1VS1000とかなんで。
だけどクズ民度のエコチェン脳どもさ、その醜悪なムラの陰湿さを直視できてるの?自殺者を生み出す学校の教室になっていることに。
本当はもっと文章力高くして褒められたかったのだが、そもそも文章力褒められてもしゃーないのでこんなもんだろう。
で、俺の主張を読んだ上で「イジメが生まれるのは当たり前じゃん面白いんだから」っていう開き直った露悪趣味のバカはしょうがない。
サカナくんもそんな話してたしな。
ただ、「インターネットは始めてか?こういったリンチが楽しいから何十年もかけて発展したんでしょっw」みたいな老人会自慢のクソ古参気取りだけは許さん。
俺は「ポリコレ意識あるふりしてるいじめっ子」が死ぬほど嫌いなんだよ。面白くねえっつか見飽きてんだよそういう振る舞い。
次にお前が何て言うか当ててやるよ
「わかる」だ
わかる
https://anond.hatelabo.jp/20220304184302
オッケー。
まずは予想通りの反応をありがとう。
・袋田叩き
・つまり好きなんだろ?
・他でやれ
・つまんない/わからない
ああ見事だ。
そして見事にその8割9割が予想通りのテンプレだ。
実に建設的だ。ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ
自分にしか見えないものが見えている自称エスパーもいるのはちょっとサービスが良すぎるぐらいだな。
今ハッキリ分かった。
俺はやっぱりはてなが嫌いなんだ。
露骨な釣り針だろうと喰らいついけっていう義務感に満ちた姿勢も
誤字脱字弄るのが楽しいって信じ切ってるオヤジギャグなセンスも
自ら自分らの評価を下げることで批判をウヤムヤにしようって態度も
とにかく相手が自分に感情を揺らがせばそれが愛だと信じるストーカー気質も
自分らで自分らを下げておいてそこを必死に守ろうとする帰属意識も
やたらメンヘラだのADHDだの精神病院系の話題が好きなところも
気に入らない話が飛んできたら理解力を急に下げるところも
つまんねつまんね言ってれば封殺出来るっていういじめっ子のキモイ連呼みたいな思考回路も
全部本当にいい加減もう見飽きたんだわ。
そしてそういうった気持ちで見るとよ。
いい大人がやるようなことじゃないなって気づいちまったんだよな。
するともう、ここには居られないかなってな。
最後に
このコメントは実に的確だった。
俺もお前も打たれ弱い。
打たれ弱いからこんなネットの隅っこの陰口の言い合いに必死になっちゃってるんだ。
そしてその弱さを認められないから、感覚を麻痺させていつまでも同じことを繰り返すことをやめられないんだ。
『テスカトリポカ』の佐藤究がどういう作家なのかを知るための入門書として一部じゃ扱われている作品なんだが。
この作品でギャンブルにのめり込んで身を持ち崩した青年がその事実から逃げ続けるために更にギャンブルにのめり込む情景が描かれるんだがこれが実にいいいんだな。
なんで急にこんな話をしたのかっていうと俺はまさに俺たちのインターネット観がそうだと思うからだ。
自分のプライドを配当率スーパーウンコのレスバギャンブルに描け続けてはすり減らし続けるその姿だ。
『サージウスの死神』の主人公は、ギャンブルに勝つたびに気が狂っていき負けても気が狂っていき最後まで気が狂い続けるのさ。
俺たちだってまさにそうだ。
でも俺はこんなので行く所まで行こうなんて思っちゃいないんだわ。
そろそろ何個目かの崖が見えてきたしいい加減ブレーキ踏んでチキンレースからサヨナラバイバイって気分なのよ。
ひとまず足を洗っておきたいんだ。
そのためには、自分は愚かなことに自分から突っ込んでいくことで自分を麻痺させ続けているんだって現実をまずは認めないといけない。
チャチな揚げ足取り、効いてないよアピールのための「つまんねー」、ここは場末の便所の落書きだぞ、なに必死になっちゃってんの、オウム返し、オヤジギャグ、謎の決め台詞、界隈定番の決り文句、お前らが今回したコメントの中で、俺が今まで似たようなことをしたことがないものはないよ。
全部クッソくだらねえと思うが、俺はそのくっだらねえことを間違いなく何度となく書き込んできた。
それが心底面白いと思ってたこともあるし、つまんねえけど馴れ合いたいから付き合ったこともある。
伸びそうなブクマを急いで見つけて、テンプレの言い回しを早めに書き込んでトップコメになってスターを貰うのが大事だって本気で信じてたときもあったよ。
今俺のことをバカにしてるお前らだって心当たりがあるはずなんだ。
はてブのコメント欄見て「さて、どうすればスターがもらえるだろう?」って一瞬でも首を捻ったことがあったらもう同類なんだ。
沼に浸かった深みは違っても同じ水源の水に身体が触れたのは変わらねえんだ。
科学的に考えると比重やなんやらで実際の沼は成分が違うってことぐらい俺も知ってるよいちいちそういうツッコミを思いつくこと自体が気持ち悪いなあ自分で自分が。
成分の違いとかじゃなくて呪術的に同じってことだよ。
一部の宗教じゃ水に身体が触れたら清められると言うが、その逆で触れたら汚れる水があるってことだ。
そこに全身を浸してたっぷり飲み込んでいる俺たちは救いようがないんだけどな。
ガンジス川で沐浴を繰り返してガンジス川の水を飲む奴らが全身寄生虫まみれなようにこの身体は毒への免疫に覆われすぎて穢らわしすぎると俺自身が知っている。
そこからいい加減足を洗うって話なんだよ。
宗教的な洗礼に使えるようなキレイな水なんてぶっちゃけこの世界のどこにもないと思うが、せめてこの沼からは身体を引っ張り上げて別の場所で暮らそうってことだ。
そんでまあ最後にこんな話をしたってことだよ。
また明日な、ってことだな。
よく分かってんじゃねえか。
でも今回こそは最後のアバヨだ。
実際俺はこれでいくつか辞めてるからな。
古くはラグオル・FF11・VIP・ふたばちゃんねる・売りスレ・Tor・Xvideosいい加減辞めなきゃいけねえと思ったものを何度も辞めてきた。
その一つを今回もするってことだよ。
どうせすぐに別の穢に染まるんだろうな。
まあ結局の所は飽きたんだな。
そして、飽きたって気持ちで眺めてみるとだ。
ここはもうここに所属していることが誇れるような場所じゃなくなってたんだな。
はてなブログに書くだけ書いてブクマはしないとかならまだしも、ブクマカなんてもう辞めた方がいいんだってつくづく感じてんだ最近。
はてブじゃ増田の方がはてブより酷いって風潮あるけどよ、ぶっちゃけ増田なんてもうとっくに目じゃないぐらい今のブクマカはキッツいんだわ。
こりゃよくねえなって。
あばよ。
お前らと遊んでるがのそれなりに楽しかった時期はあったぜ。
ニュースの副読資料を探すのに役立つサイトだって信じられた時期もな。
そもそもそれが間違ってたのかもだけどな。
名作の条件の一つに「新しい概念を生み出す、持ち込むこと」があると思うんですよ。
一般漫画にはなかった概念が持ち込まれ、広く読まれた、この点でタコピーは明らかに名作。これは認めないといけない。
これが認められないのは絶賛している側と同じザコセンスよ。何が新しい概念なのかって?
少年少女がひどい目にあう話はありふれてる。胸糞展開もありふれてる。それはそう。
これね。悪意のなさそうなマスコット的なキャラクターを虐待する文化があるんですよ。代表的なのは「ゆ虐」かな。
ロリとかリョナとか言ってあなたの言う「ザコセンス」が喜んでいるけれど、しかし子どもだってそれほど純粋ではないことはもう常識の範囲内になってしまった。
タコピーもそれはベースとして書かれているよね。ファムファタルとか言われているアレとか。
そんで我々醜悪な人間が次に手を付けるのが幻想の無垢、マスコット、タコピーなわけ。
絶賛している側が意識的か無意識的は別として、タコピー虐待抜きにこのムーブメントはなかったはずだ。
一部ではそういう文化は脈々とあったんだけども、なかなか一般に出てきてここまで人口に膾炙することはなかった。
人類が新たなステージに達したなあ、という感慨があり、そのステージを押し上げる(押し下げる?)のに一役買ったのがタコピーなわけで。
これを名作と言わずしてなんと言うのか。
今は個人情報の問題があって難しいと思うが、私が子供の頃は、担任の先生から必ず年賀状が来ていた。
よく考えたら、年賀状代はおそらく私費なんだろうし、40人分近く印刷するのだって、それなりに手間がかかる。
そんなふうに、プライベートな費用と手間まで費して、教員というのは本当に大変な職業だと思う。
その点ではむしろ、教員が生徒に向けて年賀状を出す習慣というのは、無くなった方が平和なのかもしれない。
さて、年賀状は来たら基本的に返信するものである。私も担任の先生に返信していた。
そして、担任から外れた次の年からは、感謝なのか慣習からなのか、年賀状は自分から出すようになった。
すると、いつ辞めるかが問題になる。私の場合は大学生になってようやく辞めた。
逆に言うと、大学生になるまで、担任だった先生への年賀状を延々と出し続けていたのだ。
初めてもらった年賀状は幼稚園の先生からだった。なので、一番長い先生だと10年以上やりとりを続けていたことになる。
そんなに長くやりとりが続いて、微笑ましいことだって?
なぜなら、担任の先生が年賀状を送るのは、おそらく「学級通信」の延長みたいなもので、
担任としてのコミュニケーションを円滑にするためであろう。そうであるならば、担任と生徒の関係が終わったあとは、
こんなに長く年賀状をやりとりするなんて望んでいなかったんじゃないかと思うのだ。
年賀状でしか接点の無い単なる一生徒から、10年以上も年賀状を送り続けられて、果たして嬉しかったのだろうか。
「○○高校に行きました」と報告されても、多数居る教え子の一例でしかないのだ。
そんな多数の中の一情報に「嬉しい」と感じられるものなんだろうか。私が教員なら無理だと思う。
それに、この件で何が一番たちが悪いかというと、私自身の対応の仕方だ。
大学生になるまで担任だった人に年賀状を出し続けるというのは、そもそも私の本意ではなかったのだ。
他人と年賀状をやり取りできる嬉しさで、10年以上も会っていない人に年賀状を出し続けたわけではなかった。
具体的には、「担任だった先生に年賀状を出さないなんて礼儀を失している」と親に怒られるんじゃないかと思っていた。
担任の先生を想ってではなく、親に怒られるのが怖いという一心で、出したくもない年賀状を出していたのだ。
先生も年賀状を作るのは手間だったろうが、当時子供だった私には、年賀状作りなんて冬休みが憂鬱になるほど面倒な作業だった。
30代を終えようとしている私が子供の頃は、PCなんて普及していなかった。
そのため、自分で干支のイラストをクーピーで書き、「高校では○○部に入り、云々」みたいな近況を知らせる文面を考え、
ペン書きなので、書き損じにならないよう(つまり、無駄になったと親に怒られないよう)、必死に気を使って書き付ける。
そんな、夏休みの工作みたいなことを大学生になるまで毎年繰り返していた。
高校3年生の受験シーズンでも、受験時のナーバスな時期だからこそ、親に怒られるなんて絶対に嫌だと思って、
干支の絵をお絵描きしていた。そしてそれを、例えば幼稚園のときの先生に送っていたのだ。
こうして、改めて今になってよく考えると、本当に頭のおかしいことをしてたんじゃないかと思う。
高校生になっただろう相手(男性)が、小学生みたいな干支のイラストで毎年年賀状を送りつけてくる。
きっと、なんでこんな稚拙な絵を延々と送り続けてくるのか、新年早々の疑問になっていただろう。
などと客観的に考え出すと、我ながら恥ずかしいことをしてきたと、枕に顔を押し付けて叫びたくなるほど後悔する。
受験勉強をセーブしてまで、やりたくも無いお絵描きを10枚近く、きっと存在しなかった親の怒りを恐怖するために書き続けていた。
そう、この恥ずかしい行動の原動力は「親への恐怖」だったのだ。ここがいまだに、自分のことながら意味がわからない。
どうして、そこまで親に恐怖していたのだろう。別にそこまで仲が悪いわけでも無かったのに。
12月になると、特に希望もしていないのに、親から毎年無地の年賀状を10枚渡されて、
それを無駄にすると怒られると思ったから?それにしたって、「もう高校生だから」と断ればよかったのだ。
本当に、私は頭のおかしなことをしてたと思う。「親への恐怖」という妄想で、かつて担任だった人々に迷惑をかけた。
まあそれでも、大学生のときには、担任だった先生への年賀状を辞めることができた。
大学生になったので、塾のバイトを始めて給料が手に入り、年賀状くらい自分で買えるようになる。
当然、親から年賀状をもらう必要も無い。「年賀状は自分で買うから」と、ようやく断ることができたのだ。
そして、自費で年賀状を買う段になって気づいた。気づいたことは2つある。
まずは、それなりの額を出せば、イラストが付いた年賀状が買えるのだということだ。
それまで、イラストと挨拶が書かれた年賀状は、大人が業者に頼んで大量注文しないと手に入らないものだと思っていた。
それが、大学生協に並んでいたのだ。これは、本当に救われた!という気分になった。
そんなの、コンビニやスーパーにも並んでるから大学生にならなくとも気づくだろ、と思われるかもしれない。
しかし、私は大学生になるまで、ろくにコンビニに入ったことが無かったのだ。
その理由は、私の家ではお小遣い制度が無かった(金銭は必要なときに必要なだけもらえる)というのが大きい。
学級帰りにコンビニに立ち寄ってパンでも買って帰ってくる、みたいなことをするお小遣いが手元に無かったのだ。
スーパーにしたって、中学生以降は親と行動するのが恥ずかしくなるわけで、ろくに立ち入ることが無かった。
まあ、そもそも田舎に住んでいたので、自宅から歩く距離にはコンビニもスーパーも無かったわけだが。
話が横道に逸れたが、とにかく、金を出せば年賀状に稚拙なイラストを載せなくてもよいと知ったわけだ。
そして、もう一つ気づいたことは、そもそも論になるが、担任への年賀状に意味はあるのかということだ。
それは大学生になって、担任というシステムから解放されたのが大きい。
(いや正確には、学年全体での担当教授は居た気がする。しかし、有名無実というか空気みたいな存在だった。)
大学では、自分の知識は多くの教員がバラバラと与えてくるものであり、担任という唯一の存在に依存する必要が無い。
(まあ、ここについても、研究室に配属されるようになると、考えはまた変わってくるわけだが。)
そう考えると、それまでの「担任」という人々に、こんな10年も経ってまで感謝を示し続ける必要があるのか疑問になってきたのだ。
そういうわけで結局、大学一年生のときに年賀状は完全に取り止めた。
ちなみに、当時は実家暮らしだったため、自分が年賀状を出していないというのは、親にも当然バレるはずだった。
正月以降に、毎年来るはずの担任の先生たちから年賀状が全く来ない、という形でバレるはずであり、戦々恐々としながら新しい年を迎えた。
しかし、親には怒られなかった。
今考えれば、親に怒られるなんて全て私の妄想だったので、当然の結果だったわけだが、当時は心の底からホッとした。
まあ、そこからようやく「親への恐怖」が自分の妄想であることに気づくようになり、
前述のとおり、これまで稚拙な年賀状を出してきたことをトラウマに感じるようになってしまうわけだが。
結局、自分の妄想で他人を振り回してしまったわけで、その点は今でも申し訳なく思っている。
そして何より、自分自身も稚拙なイラストを書いたり本当に苦痛だった。
そんなお互いに苦痛な習慣を、自身の勘違いで長年続けてしまったのは本当に黒歴史だ。
リアルな相手にはとても言えないけど、黒歴史な思い出は文章にしてちゃんと客観視しないと、
いつまでも「思い出しアー」になって苦しむことになる(実際、毎年年末に思い出して苦しんでいる)ので、一通り書き出した。
あとはこうして、匿名掲示板に記して供養としたい。
ちなみに、年賀状はトラウマになったので、大学生以来誰にも出していません…
となれば、お話し的にはキレイな展開なんだと思うが、高校のときの友人との年賀状は、数枚ながらもまだ続いている。
大学生の頃は、年賀状なんか一生出すもんか!とも思っていたのだが、卒業すると就職で散り散りとなり、お互いの近況を知りたくなった。
現在であれば、それはLINEか何かで実現できるのだろうが、15年以上前の話なので、そこはやはり年賀状でのやり取りとなった。
携帯メールはあったんだけど、何かこう、正月だとかのきっかけがないと、お互いやりとりしないよね。
って、やっぱり私も古い人間なのかも。
まあとにかく、子供の頃は色々やってしまったけれど、年賀状を誰かに出す習慣はまだ潰えていない。
今はさすがに年賀状はコンビニで買ってきたものを使っているけれど、その印刷された文面の端っこに、
読んでて辛くなるし悲しくなるし読むのやめたいなと思ってるけど、作者の方の作風的に高い確率でハッピーエンドに落ち着くらしいのでどうにか幸せに片付いてほしくて読み続けている