はてなキーワード: イントネーションとは
本増田は増田がもう5年前ぐらいにメモしておいて後で図を追加してブログに投稿しよーっとと思っていた記事です。
結局めんどくさくなって図を書かないまま寝かしていたんですが、さっき見たらなんか世に出して供養してあげたくなったので増田に。
内容ですが"コショカー"と勝手に定義した1人での外食(個食)を好む人向けのガイドというコンセプトの文章です。いきなり"コショカー"が出てくるので驚かないでください。
まるで、図があるかのような口ぶりですが、書くのはやはりめんどくさいのでぼやっとしたイメージを浮かべていただけると助かります。
それでは、かつや渋谷道玄坂店の座席に関するレビューをご覧ください。
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この店では2階に回されるとコショカーは辛い。
2階には2種の席があり1つはコの字型のカウンター、
1辺に3席ずつ計9席の構成となっているがほぼ全席がDead Chairなのである。
まず2つの角に位置する4席。角席to角席が近い、すっごく近い。
隣りに座るのが橋本環奈ちゃんならまだいいだけど十中十十一(じっちゅうじゅうじゅういち)は知らないおじさんが座る訳ですからもう角席だけは避けたい!
というか橋本環奈ちゃんでもこんなに近くに居られたらなんか辛くなるのでやめて欲しいレベル。
そしてその上に定食なんか頼んだ日にはお盆とお盆がごっつんこでもうどうしていいかわからない。
後から出た方は体の正面からお盆がズレざるを得ないので体のバランスが崩れる!体幹が狂う!
そして次にコの字の上辺、下辺に位置する4席。特に端の2席は辛い。
なぜかというと単純に道が狭い。手前の座席に人がいるとぶつからざるを得ないレベルの狭さなので、
まずはここしか席が空いていない場合には座るまでに1度きまずい思いをしなければいけない。
そして食べ終わって出るときになると決まって隣の席が一般的なサイジングよりアップサイジングされた
スーパーサイジンガー人の方に変わっているものだからもう出れない。
ただサイジンガー人のかたは10倍界王食が使えるので出入りが早い。
食べ終わって出るのを待って一緒に出ようとするのだが、あまりにすぐ出るのもあからさまに
てめぇがボトルネックで出れませんでした、むしろボトルネックというよりギッチギチのコルクで
出る隙間がございませんでした、と言わんばかりの行動になってしまうので、ちょっとだけ時間を空けてから席を立とうと思っていると、
すぐに橋本真也ちゃんが隣に座ってくるのでもう私はかつやに住むしかないのではと思ってしまう。さすがに出るけど。
残るは各辺の真ん中の3席、上辺下辺の2席は前述の通り、隅の方の出入りのボトルネックになってしまうので、
隅や角よりはまだ良いが食事中に後ろの出入りを気にしなくてはいけないのがちょっと悲しい。
となるとalive chairはど真ん中1席だけとなる訳である。しかしこのど真ん中であっても辛さを味わう可能性がある。
それが次のファクター(フィクサーと同じイントネーションで)だ。
このカウンター席のアイテム、何より配置が悪い、悪すぎる。最悪を追求したのではと思うほどの悪さ。
これらのアイテムから遠い席に座ったら最後、食事している人の前に手を伸ばしてメニューや箸を取らなくてはいけないのである。
そしてお茶。セルフなのは構わない。構わないんだけどポット2個って!2個ポットって!(倒置法)
こんな状態になってたらもう物理的に取れない!ダルシムがブロッケン、
もしくは原子力発電パンチでおなじみの原子力(はらこつとむ)なら取れるかもしれないけど常人にはムリ!
でも、でも基本的にはみんな気を遣いあってお茶を入れたら比較的みんなが取りやすいところに置くんですよ、
2個なので片辺ずつこのあたりに。
そう、おわかりだろうか。これが唯一のalive chairの弱点。弁慶の泣き所。安室奈美恵のポンキッキーズである。
ポットが2個故、みんなが取りやすい位置にポットを置こうとすると真ん中の席からは非常に取りにくくなるのである。
しかし、しかし恐らくこれが最適解。どう配置しても取りにくい人間は出てくるのでそれならば、
席的な不利が無い真ん中の席にこれぐらいの不利は負って欲しいのである。もしくはポットを3つ置いて欲しいナリ。
そしてもう一種の席がテーブル席である、基本的にコの字カウンターが空いていると通されるのだが、
有無を言わさずコショカーはコショカーと相席にされてしまうのである。地獄確定である。
そりゃもちろん聞かれる「相席になりますがよろしいでしょうか?」と。でも断れるか!!
2階まで上がってきたんだよ!安価にカツが食いたくて上り詰めたんだよ、このかつや渋谷道玄坂店の頂点にな!
今更、どの面下げて相席嫌です。帰ります。なんて言えるんだよ。相席で食べるよ!
でもさ、私は知らない男と面と向かってカツが食べたい訳じゃないんだよ。面と向かなくたってさ、下向いてたってさ、
相手のカツとご飯が減っていく様子は視界に入るんですよ。そして相手の視界にも私のカツとご飯は入っているんですよ。
君の瞳に私の瞳ではなくて私のカツが映るだなんて、さっきまでは思ってみなかったのに。
( 君のカツに恋してる / Dreams come true('85) )
と散々書きましたが。揚げたてのカツがサッと食べられるかつやは最高!
店員さんもテキパキ動いてて気持ちが良い。お昼時の2階を1人で回してるとかほんとにすごいです。
その様子を見ているからこそ、見ているからこそお茶ポットが空でもお茶くださいとは言えない!
もうポットの位置取りとか関係なくお茶飲めないけど仕方が無い!
それも含めてのかつや、おいしいですが2階に通されるとコショカーにとっては思わぬ痛手を負うかもしれません。
ao-no ネットでタメ語使うことがあんまりないけんやろ 地元民どうしの会話でも敬語やったらイントネーションくらいにしか方言の形跡は残らんし
makopan 方言だとタメ口になるからちゃうの?書き言葉で敬語だと標準語っぽく見えるけど脳内では方言のイントネーション。
チャットについても徒然はあるけれど、今日は電話した徒然を書いてみる。そんなに文才はないし、頭もよくないから、ほんとうに徒然なるままの走り書きの発散メモ。ゆるしてね。
電話したとき、まず最初の1コール目でとってくれる人。いい人。番号教えてくれたにも関わらず、非通知拒否しているの。気持ちはわかるけれど、残念です。またの機会に。
そして、通じて次に。声の高さや低さ、の方言とか、いろんなイントネーションが楽しい。あと、その人の文化的背景が垣間見えたりする。
もしかしたらこの人はドヤ街系で生活されてるのかな?というタバコの吸いすぎで声がガラガラな方が、なぜか離婚した奥様と出会ってから結婚して育児して離婚した話を滔々と30分語られて「ありがとうございました」と終わったり、
たまに会話している背景音で不思議な音が聞こえることがあって、コッコッコッコッという船のエンジン音のような、でも波の音はしない。なんだろうとしばらく不思議に思っていたけれど、ある時、お話しやすい長距離トラック運転手の方に聞いたら、「あ、それはトラックの改造マフラーの音だ。俺はそんなに改造しないけどなー。改造好きなやつは好きだよ。」だって。
それから、たぶん、演技。ふだんの自分と切り離した、作った声、言葉を駆使して、相手の反応を楽しむ人もいる。楽しめる人もいる。ただ、効果音については賛否が分かれるかもしれない。だって、ローションとか使って音を作るのはまだ(まだ?)その人自身の気持ちよさにつながるかなと納得するけど、太ももの内側を平手打ちしてパンパンという音を出すのは、わかります。その人が狙った効果音に聞こえるよりは、その人が狙ってそんな効果音を出そうと内ももを平手打ちする姿が思い浮かんでしまって、反応に困ってしまう。
他には声がともかく美声で、そんなに話がおもしろかったのではないけれど、8時間くらい長電話したこともあった。でも、そんなに話すのは滅多になく、だいたい30分から1時間くらい。
あと、非通知発信にすると、なぜか音質が悪い。どうしてなんだろう。音声通話システムを使ったほうが良いくらいだけれど、それは逆にパケ死がこわくて、あんまり使わない。でもこれからの時代は変わっていくのかな。
ちなみに、かけ放題サービスを契約している。オプションで1000円から2000円の範囲内なので、遊びのコスパとしては良いと思う。時間は溶けてゆくけど、遊びとはそんなものだ。
基本的に、異性と話すことが目的のサイトなので、同性のことは異性経由でどんな人がいるのかを聞く。
意外にも、日本から離れた海外からアクセスしている人もいるらしい。別々の人から聞いた話だから、たぶん、複数いる。海外在住の人が日本語やら日本人やらが恋しくなって、利用することもあるらしい。
それから、北島マヤかというくらい「はい、いいえ、ありがとう」の3語くらいでずっと会話を続ける人もいるとか。ただ、そういう人に対して、これはとあるチャット覗いてて見かけたんだけれど、うまーく質問と、引き出した言葉をおうむ返しして、徐々に徐々に話の核心に入っていって、「えぇ?!そんな言質を引っ張り出すんだ」という達人もいるから、奥が深い。一方で、「はぁ、、はぁはぁ」と息だけで、会話なくて切れる人もいる。その人なりの目的が達せられると切るのか。寂しいものだ。少しは会話してくれてもいいのにな。
さみしいから、今日もチャットした。きっと、明日もチャットしたり、電話したりする。
普段、交わることのないような人と、1対1で話す。匿名で。性的に。
Clubhouseより、ぜんぜん楽しい。
大阪で生まれ育って26年、東京に出てきてもうすぐ丸7年になろうとしているんだけれども、すっかり東京弁が板についてきたな、と思う。特に仕事中はかなりスムーズに東京弁がすらすらと出るので、しばらく会話した相手に自分が大阪出身であることをいうと「分からなかった」と言われるまでには東京弁をマスターしてきたかな、と思う。東京弁とは、べらんめぇの江戸訛りというよりかは、一般的には標準語というのかもしれないが、ここは関西人の言う「東京弁」のことだと思ってもらいたい。
7年前に東京に出てきた最初の一瞬は、特に意識することもなく相手が誰であろうと関西弁で会話していたものの、これを続けるのはやはり難しかった。というのも、いわゆる「でんがなまんがな」までとは言わないまでも、それなりにもともと関西弁が強い方なので、人の名前を呼ぶときも関西弁丸出しのイントネーションで声をかけるんだけども、聞き慣れないイントネーションで呼ばれても、相手に自分のことだと思ってもらえない。何度か声をかけるうちに「あ、もしかして俺のことを呼んでたの?」と言うふうに、そもそも聞き慣れない方言はすんなり頭の中で処理できない人が多い、と言うことに気づき、無意識のうちになるべく聞き取りやすい言葉=東京弁で喋らないといけない、という意識が湧いてきたと思う。すると今度は、自分の中に東京弁が無いので、思っていることがスッと言葉に出てこず、頭の中で変換するのに時間が掛かる。そうなると、話すこと自体が億劫になったり、ストレスに感じたりして、一時期比較的無口な時期が続いたりもした。比較的喋る方だと思っていたのに。
当然ながら東京では日常が東京弁に溢れ、自身も多少頭で変換しながら東京弁を話す、という作業を続けること数年。触れる関西弁といえばテレビに出ているお笑い芸人のみ。関西芸人の露出も大阪にいた頃の比ではない少なさで、東京弁が少しずつ耳に馴染んでいくにつれ、いつのまにか頭の中の思考もハナから東京弁で行われるようになり、すっかり東京弁をマスターした、と言えるようになった。
すると今度は、たまに関西人と会話するときに、関西弁がすんなり出ない、ということが増えてきた。これは他の地方出身者なら気にならない人も居るのかもしれないけども、本来大阪の東京へのライバル心たるや凄まじく、文化においては関西の方が上、つまり江戸に対しての上方であると言っていたり、ただの対戦相手のひとつである読売巨人軍に並々ならぬ敵対心を燃やしたりというので、関西人に対して東京弁を話すと「もうおまはんは大阪の人間ではない」「東京に心を売ったんか」というようなことを言う人もあり、アイデンティティが薄れていってると言う心持ちがして少し寂しいな、と思うことがあった。
一方で、ここ最近芽生えてきた思いがある。それは「東京弁、ありじゃないか」というので、実は結構東京弁が好きになってきている。
というのも、最近芸人がパーソナリティを務める深夜ラジオをradikoで聴くようになって、関西芸人関東芸人問わず色々聞いてるんだけども、関東芸人の話すエピソードトークが、どれも壮絶なオチがあるわけでもなく、とはいえしみじみと相手に訴えかける話が展開されて、これが滅茶苦茶に良い。これは恐らく、良くも悪くも方言にサービス精神が乗っかる、例えばとにかく大袈裟にであったり、少しでも相手に面白おかしく伝える関西弁の悪いところが一切排除されているからで、このサービス精神の要素が無く、かつ話術に長けたエピソードトークは、粋を感じさせて良いな、という気がしてきている。
自分が大阪に居た頃、いかに会話を話しかたで誤魔化してきてたか、曖昧なニュアンスを曖昧なまま伝えていたか、勢いのある方言に頼っていたか、という反省と、東京弁だからこそ活きる言葉の選び方の妙、相手に与える印象みたいなものの面白さに趣きを感じつつ、この感覚は東京と大阪を両方を体感して初めて味わえるものだし、言語化が難しそうだけれども、稚拙でも良いから明文化して残しておこう、そして自分は東京弁と関西弁のどちらの良いところも扱いながら、言葉の妙を使いこなすバイリンガルを目指していこう、と心に決めたのでした。
そんな矢先。毎年実家から年末年始の関西ローカル番組の録画をブルーレイに焼いたものを送ってもらっており、週末に計10時間以上の関西弁を浴び続けた結果、東京で育った家人に「なんか急に早口な関西弁になって、心なしか性格までキツくなった気がする」と言われました。わずか7年では、たった10時間のテレビ番組に打ち負ける。バイリンガルの道は程遠い。
この手の話題のブコメはいつもそうだが、「京阪式アクセント」というものを理解してない文盲しか集まらないな。
元記事や引用してるTwitterの人は「アクセント違うから関西弁を真似るのは難しい」という話しかしてないのに、なぜかその最大のテーマを無視して、関西の更に細分化された地域ごとの「方言」の話をしている。
そうではない、これは京阪式アクセント(分布図: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/10/Japanese_pitch_accent_map-ja.png )の話をしている。
[B! 言語] 2015年日経記事「エセ関西弁、なぜバレるの」から抜粋・分類4の名詞の存在 - Togetter
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1646569
不正解例です。
natu3kan 関西弁ですら、地方ごとにイントネーションが微妙に違って、別の地方の関西弁を似非だって言い出す別の地方の関西弁を知らない関西弁警察が居て更に混迷を極める。 twitter togetter
yaneshin 南河内出身ですが、社会人になって泉州のお客さんと話した時の衝撃は未だに忘れられません。大阪府下でもそれほど言葉に違いがあります。
sds-page 関西人同士でエセ関西弁扱いしてるのを見て全てを察する togetter 関西 方言
camellow 京都の山奥、神戸、大阪府北部(東京在住長い)、奈良、和歌山などが混在する職場では誰の関西弁が正しいかなんてわからないと言われている。むしろお互いに微妙な違和感を持ってすらいるらしい。
WinterMute 「関西弁」のバリエーションに無自覚な関西人が、自分のと違う!みたいなクレーム入れてくる(そして別の関西人はまた別のことを言う)だけなので無視に限る
Wafer 関西弁と一言で申しましても、神戸、大阪、京都で違いますし、大阪と一言で申しましても和泉、河内、摂津とそれぞれで個性がございますな。(脳内の米朝さんに読み上げてもらいました)
gnta 関西弁と一括りにする乱暴さ。大阪と兵庫と京都と奈良と和歌山じゃ全然言葉が違う。さらに同じ府県でも北と南と東と西で言葉が違う
tekitou-manga こんなの別に関西弁に限らなくて、相当聞きこまないとちゃんと真似るのは無理。大学で仲いい友達の使う福岡弁や佐賀弁を真似しようとしても全然ちゃんと真似できなかった。回り皆その言葉レベルならそのうちできる
RIP-1202 ドラマ「カーネーション」に出演してた京都出身の安田美沙子でさえ、河内弁とはずいぶんムードが違って違和感あったし、関西の中でももう一つ二つ分類あるんじゃないかしら。アタックの問題?
akikonian 関西てどこやねん。さんまのあれは河内弁。住んでる人には申し訳ないけど言葉の響きがアレなのであれを代表的とかやめてほしい。ちなみに米朝師匠のは船場言葉。
aa_R_waiwai そもそも関西って行っても広いしな。自分も一応、関西圏の出身だけど、さんまの喋り方は正直、馴染みがないし、大阪人の喋り方が自分たちと似てると思ったこともない。 文化歴史
mutinomuti まず関西弁って雑すぎない?(´・_・`)
これは正解例です。
behuckleberry02 古代の日本語は声調言語だった。東に進むにつれて声調が無視されるようになったが、西日本には未だに声調が残っている。声調は一般的なイントネーションよりも厳格なものなので間違えると違和感がすごい。
今やってる朝ドラもそう。大大阪時代の栄華にすがってる時点で寒いと思ってしまう
ほんとそれ。
朝ドラ大阪制作の、わざとコッテコテの、今時芸人しか使わないような大阪弁をわざと使うのとか、面白くない滑りギャグとか織り込むのなんなんだろ。
大大阪時代というより、製作陣の「大阪制作やから、大阪らしくオモロくしないと!」という変な方向に気合入ったプライドあるよきっと。だからいつも脇に吉本芸人てんこ盛り。ほんまに寒い。みてて恥ずかしいからみなくなった。
たとえば「それおいくらですか?」は大阪弁だと「それなんぼでっか」になるよね。
大阪差別の一つとして、よく関西人は「東京でも関西弁を直さなくて郷に従わない」とか言ってディスられるけど、東京の人間こそどうなんだ。
違うだろ?
「標準語だから」「無理に関西弁使ってもうまく話せなくて怒られるから」とか言って、自分の言葉を通すだろ?
標準語イントネーションだとうまく話せなかったり、おかしな日本語になったり、本人は標準語のつもりで話してても直ってなかったり、いろいろあるんだよ。
それを「直す気がない」とか「郷に従え」とか、何様なんだよ。
別にどこで何弁話してもいいでしょ。
現時点で、国際語となっている英語には、すでに多数のバリエーション(つまり方言)が存在しているのだ。イギリス英語、アメリカ英語、オーストラリア英語が違うことはよくネタにもされるので普通に知っているだろうが、英語を母語とする話者が一定いる地域が誕生すればそこには必ず方言が誕生するのだ。仮に日本が公用語を英語と定め、数世代あとに日本人が英語を母語とするようになっても、気候、歴史、文化等々が他とことなるこの地で話される英語は必ず「日本的英語」、ジャパニーズイングリッシュ、英語の日本弁になってしまうのだ。つまり「統一」など最初からできないのだ。(そして、極めてリアルに想像すれば、方言である「日本的英語」は、英語話者の中では、おそらく社会的に差別される方言になるのだ。日本でも、方言話者がどのように扱われるかを見れば、それは簡単に理解できるのだ。)
なぜなら、言うまでも無く、日本という地や文化、歴史等々についてこれまで書かれた文献はそのほとんどが「日本語」で記されているのだ。日本に住む者にとって極めて重要な情報源のほとんどが「日本語」なのだ。にも関わらず、それらの文化的リソースを、数世代後の我々の子孫はそれを母語レベルで理解することができなくなってしまうのだ。これはものすごいロスなのだ。もちろん、「その代わりに膨大な英語圏に関する文化的リソースを手に入れられる」じゃない?と反論したいのだろうが、それは怪しいのだ。なぜならば、言葉と文化はセットだからなのだ。文化的な背景、自然、文物に対する理解がない中で言葉だけを習得しても、それは月面で育つ地球人のようなもので、言語的文化的資産の十全な継承などおぼつかない、それは単に「全く新しい文化を一から作る」のとほとんど同じことなのだ。それは「古文・漢文」がかなりの割合で読めなくなってきている現代の日本が抱える問題でもあるのだ。
移行期間といっても、切り替えるだけなら実はそれほど時間はかからず、おそらく数世代で完了するのだ。上で触れた「文語→口語」の切り替えなど、一世代もかからなかったのだ。つまりそういうことは大した問題ではないのだ。ただ、その先に誕生するのは、上で述べたように「日本語的英語を使い、英語文化のバックボーンはなく、かつ過去の自分たち自身のリソースへのアクセス力までも失った、新しい文化を一から創出しなくてはならない1億人」なのだ。人口1,000人の小さな島で起きたことなら、その悲劇を理解する人すらやがていなくなるだけで終わるだろうが、世界に大きな影響を与えるそれなりの規模の国家で行ったらどうなるか、想像するだに悲惨なのだ。まあ、日本が没落することで喜ぶ国があるとすれば、その国にとっては喜ばしいことなのだ。
英語が公用化された第一世代は、日本語が入り交じった、たどたどしい英語を使うのだ(これを「ピジン」という。)一部の人は、留学などを通して「正しい英語」を身に付け特権階級化するが、だいたいの人はピジンの方を使うのだ。そうして次の世代になると、最初からピジンを母語として使いこなし始めるのだ(これを「クレオール」という。)上の方で、日本の公用語を英語にしても、使用されるのは「日本語的英語」になる、というのは、つまりこの「クレオール」のことを指しているのだ。
たとえば「洋食」。カツ。カレーライス。いずれも食のクレオールなのだ。仮に「正しいカツレツとは○○である」とか「カリアー&ライスは一バリエーションであってそもそも英国式はカリアースパイスドシチューだ」みたいな蘊蓄を並べて啓蒙しようとする人がいても、残念ながら世間では「かつ丼」やら「カレー」が登場し、オリジナルの「カツレツ」や「カリアー&ライス」とは全く別の料理が定着し文化になってしまうのだ。かつ丼もカレーもうまいから仕方ないのだ。言語でも、それと全く同じ事が起こるのだ。仮に最初に一所懸命カツレツを作るフランス料理人を招いて教えてもらったところで、最終的に定着するのは「かつ丼」なのだ。従って、「日本語を廃して英語を公用語化しよう」なんて主張しても、「日本の食を全て『フランス料理』にするために和食を廃止する」ことにはならなくて、単に「日本の食を全て『かつ丼』にするために、和食を廃止する」みたいな訳分からないことにしかならないのだ。そもそもかつ丼がうまいのは、和食がうまいからなのだ。つまり本末が七転八倒なのだ。
ここまで書いて何だが、元ネタの話に戻るなら、結局「言語は滅ぶもの」なのだ。これは避けられないことなのだ。日本語だって、10年前と現在ではかなり違うのだ。むしろ、言語は日々滅びており、そして日々滅びることをやめたとき、言語は「死ぬ」のだ。方言が生まれるのも、見方を変えれば「標準語の滅び」だし、方言が消えるのも、見方を変えれば「標準語(という新たな方言)の誕生」なのだ。そこに貴賤はないのだ。だから、言語学者は「言語が滅びてはいけない」というような価値判断をもって言語に向き合うべきではないのだ。もちろん、自分が研究対象としていた言語の話者が絶滅したら途方にくれるのは理解するが、それは文化史論的な見地から言うと、一つの現象に過ぎないのだ。たとえば、関西では最近TV等の影響もあり、日常的にかなり関東風のイントネーションで話す姿を多く見かけるようになってきているのだ。これは、一種の「滅び」でもあるし「誕生」でもあるのだ。なのに、「滅び行く関西弁を守れ」とか言い出したら、それは愚かなのだ。そういうのは、たとえば生物多様性が失われる……といった話とは全く違ってただの懐古厨なのだ。そのあたりを勘違いすると、元ネタの言語学者のように妙なエッセイを書き散らすことになるのだ。
日本語廃止論への反論は、上に書いたように政策的にマイナスであり、そして現実的にも不可能だという話に尽きるのであって、「滅び行く言語を守れ」みたいな感情論に落とし込んではいけないのだ。感情論は現実の利の前には極めて無力なのだ。