はてなキーワード: アーマードコアとは
『エルデンリング』気になってんだけど、難しいらしいから躊躇している。やってみたらまるっきりクリアできなかったらショックだしなー。
だから誰かお願いなんだけど、難しさが分かりやすいように『斑鳩』で例えてほしい。
例えば「『エルデンリング』をクリアする難しさは、『斑鳩』を難易度ノーマルで3面までノーミスクリアするぐらいの難しさ」みたいにさー。それならすごい分かりやすいんだけど。
「いやそんなのお前がたまたま『斑鳩』やってただけじゃん」って思うかもしれないけど、『斑鳩』の方がはるかに安いし短時間で体験できるわけじゃん。だからこの例えは多くの人にとって有用だと思うわけよ。
「『SEKIRO』は『斑鳩』を難易度ノーマルで4面までノーミスクリアするぐらいの難しさ。『アーマードコア6』は『斑鳩』を難易度ハードで全面ノーミスクリアするぐらいの難しさ。」とかいわれたらさー、「あー、はいはい」ってなるわけよ。
そして自分のウデマエならどこまで挑戦できるかが如実に分かるようになる、うん。
と言うわけで、誰かお願いします。
かつてアーマードコアの二次創作コミュニティーはファンにとって分かりやすい構造になっていた。
どこか有名どころのサイトにアクセスすれば、そのサイトから別の有名どころへとアクセスできるネットワークが発達していた。インターネットってそういうものよね。古き良きインターネット。
当初はそのような「有名どころ」について幾つか紹介しようと思っていたのだが、あんまり面白くなさそうなのでやめた。結局、ある一つの有名なAC小説について語ることにする。
タイトルは『人間の世界』である。今はもう削除されてしまっているが、ネット上のアーマードコア二次創作フリークの中にはこの小説を目にした者も多いであろう。冒頭で説明した通り、AC小説の有名どころに当時は簡単にアクセスできるようになっていたからだ。『人間の世界』が掲載されていたサイトもまた、そのような有名どころの一つだった。
小説『人間の世界』は、とあるアマチュア小説家によって書かれたアーマードコアの二次創作である。
主人公は黒人男性で、かつては妻子を儲けていたが今は独り身である。また、アーマードコアを操る"レイヴン"を生業としている。彼はある任務のブリーフィングにて、同じく黒人の、若い女性レイヴンと待機室で出会う。
レイヴンには人格破綻者が多く搾取主義的な人間も多いことから、二人は出会うなり警戒心を抱き、一触即発のような状態になる。しかし、最終的に主人公の次の言葉が、二人の諍いを鎮めることとなった。
あんたは俺の妻に似ている。
毒気を抜かれた女性レイヴンは、彼が今回の任務で市街地に潜伏したテロリストを殲滅する二人のレイヴンの片割れであることを知り、改めて協力関係を構築しようとする。二人はブリーフィングを経て、ACを輸送するキャリアに搭乗すると、任務が行われる当該地域へと移動することとなるのであった。
この小説の特徴は、死人が出る度にその数をカウントすることである。
例えばこんな具合だ。男のACの肩部からナパーム性の弾頭が発射され、検問の詰所に直撃した。加熱された半固体状の燃料を浴びて、検問所にいた二人の男性が死んだ。といった具合に。
男と女はそれぞれのACを駆り、テロリストの陣地奥深くへと侵攻していく。ACは作中世界――『大破壊』と呼ばれる破滅的戦争によって文明の恩寵を大きく失い、地下へと追放された人々によって構築された黙示録的世界――における最強の戦闘兵器であり、その前に立ちふさがった者は次々と死んでいった。老齢の戦士、二人の手練れのパイロット、若い兵士、女性、子供。それらが死ぬ度に作者は死者をカウントしていく。"MT(ACの廉価版兵器)に乗ったパイロットが二手に別れ、一方が囮としてACの背後に回り込もうとするものの、ACのパイロットである男はその目的を悟っていた。男は冷静に正面に立ちふさがるMTを破壊する。その後、回り込もうとしたもう一体のMTを破壊した。二人の男が死んだ。”といった具合に。
最終的に、二人はテロリストの陣地の最奥部へと侵攻する。その時二人が見たものは、ゲートの前に立ちふさがる複数の子供と女性たちであった。手には旗を掲げ、『Don’t fire !』と文字を書きつけている。
それに対して男は淡々と答える。
『レイヴンだろ、お前も』
『テロリストを排除するのが仕事だって聞いていたのに、こんなのって』
繰り返し攻撃を打診する男性レイヴンに対し、女性パイロットは否定の言葉を連ね、最終的にこう告げていた。
『こんなこと、人間のすることじゃない!』
その瞬間、男は溜息を吐き、突如として女性レイヴンの駆るACへと攻撃を開始するのであった。
男は逃げ惑う四脚型ACのフロート部位に攻撃を集中させ、ACの回避行動を停止させる。もう逃げることのできなくなったACを前に、男はゆっくりと距離を詰めていく。女性レイヴンは絶叫する。
私はあんたの妻に似てたんじゃないの
しかし、それに対して男は冷たく答える。
男は女性の駆る四脚ACを破壊する。作者はその淡々とした描写に更に付け加える。女が一人死んだと。
そして、男は周囲一帯にナパーム弾頭をばら撒き続ける。男たちが暮らす地下世界において空気循環は最重要インフラである。男は炎の巡りが十分であることを確認すると、ACでゲートを突破し、区画の最奥部にある空気循環装置を破壊する。男は全ての仕事を終え、燃え盛る地下区画にてACを停止させた。
男はかつて妻と娘がいたが、一緒に暮らすにつれて妻は男に対して憎悪を抱くようになってきた。妻はレイヴンである男を憎んだ。あんたみたいな男は人間じゃない、と。
叫ぶ妻を前に溜息を吐くと、男は妻を殺害し、ガレージの土壌がむき出しになった部分に埋めた。
更に年月が経ち、娘は男に対して反抗的になってきた。
ある時、男はふとしたきっかけで娘を殺し、再び妻を埋めたガレージの一角に娘を埋めることになった。男は溜息を吐いた。また一人になってしまった、と。
そして、物語のラストシーン。再び男のACが炎上する町に佇んでいるシーンに合流する。そして、次のように語られる。
街が炎に包まれていた。
30679人死んだ。
そこにACが佇んでいた。パイロットは暫く死ぬ予定に無い。その男は優れた人間だからだ。そしてその男は世界中の全ての愚者を嘲っていた。
これはあくまでフロムソフトウェアの手を離れた創作であり、あるいは、フロムソフトウェアの作品であるACの世界観とは、直接何の関係も無いと、そう断じることもできると思う。しかし、フロムソフトウェアがACという作品を通じて描こうとしていたテーマに、底無しの悪意があるということは明らかである。
市街地を襲撃して護衛の兵器を破壊する任務。鉄道インフラを襲撃しモノレールを破壊する任務。多数の民間人の乗る航空ユニットを破壊する任務。
それらのゲーム中の要素はフロムソフトウェアが二十年以上前から描き続けてきたテーマであった。つまりは悪だ。
人間は容易に悪になることはできない。ある種の人間にとっては、それは息の詰まる事実である。そこで、フロムソフトウェアはその息苦しい現実に僅かばかりの空気穴を設けようとしてくれたのである。それは、例えば有名なソウルシリーズにおける、聖女アストラエアを自殺に追い込む一連のストーリーなどがそれに当たる。
崇高な目的を以て活動する聖女の、護衛役である男性を殺害し、その事実を告げることで女性を自殺に追い込むというストーリーがデモンズソウルには存在している。このように、フロムソフトウェアは明らかに暴力や悪意や、煎じ詰めれば悪そのものを描き、時にそのテーマをプレイヤーたちが演じられるように取り計らってさえくれているのである。
先日発表された最新作、アーマードコア6の副題は『ルビコンの炎』である。つまり、かの英雄カエサルが渡ったルビコン川の存在を、象徴的に用いている。
そして恐らくは、そのタイトルは原初の戦火を、つまりは暴力の始まりを指しているのであろうと推察される。
先日公開されたティザームービーでは、凍結し白化した地球の映像と、人工の構造物の映像ばかりが流れる中で、川や森といった自然の造形物は映し出されなかった。一方で、過剰なほどにクローズアップされていたのは、ACの頭部に映ったカメラアイの赤い光である。
人間を模した頭部の、瞳を模した部分に絶えず映り続ける、赤い光。暴力を目的とした兵器の頭部に映り続ける、赤い炎。
恐らく、ルビコンの炎とはそれのことだ。人の瞳の奥底に映る、仄暗い暴力と、憎悪と、悪意を秘めた炎。
古代における戦争の端緒は、兵器にあったのではなく、人間のそのような悪意にあったのではないだろうか。ルビコンの炎とは、我々の中に巣食う原初の悪意と暴力を名指しているのではないだろうか。そのような印象は、前作タイトルAC5のキャッチコピーが、『全てを焼き尽くす暴力』であったことからも無理なく推察できると思われる。
我々人間は悪意を時に成す。我々の瞳の奥底には仄暗い炎が灯っている。それは、いずれ戦火の発端となるだろう。この世界のどこかでは、そのような炎は未だ燃え広がり、人を殺し続けている。
灰の最後の一片に至るまで燃やし尽くす、暴力と悪意の火を焚べること。それが、AC6の描こうとしているテーマであろうと私は推察している。
オープンワールドのACをやりたいとかロボットゲーをやりたいって話ならわかるけど、プロのゲームクリエイター集団が検討と検証を重ねて出したであろう結論に対して匿名で「◯◯しなければならなかった 」と言える感覚がわからん。
そもそもフロムはオープンワールドを作りたいんじゃなくてアーマードコアを作りたいんだろうから前提が違うんじゃないかな。
>「ジェネレーターを変えれば長時間飛行できるが戦闘では不利」とか
> 移動速度は遅いけど積載量が大きいだとかで差別化できる
移動に比重を置かれるオープンワールドで、その移動がアセン次第で他の能力とトレードオフになるのが良くない、という判断への反論にはなってないと思う。
最近、はてな内でインターネット老人会やおい腐女子部の方が過去を振り返っていたので、それに関連して無断リンク禁止からリンクフリーへ至った足跡を記憶を振り返りながら記そうと思う。
ただし、当該エントリのリアクションでも触れられている通り、まだまだ規模が小さかったとは言え個人視点で見れば広大なインターネットの全てを捕捉するのは難しく微妙に個人間で差異があるものと思われる。
違いがあれば私はこうだったと教えてもらえると更におもしろくなるかも知れない。
さて、若者の皆さんはインターネットのオンラインコミュニティではその当初「実名文化」であったことをご存知だろうか?
実名文化となった要因は様々あると考えられるけど、大きく影響を示した要因の1つは「JUNET」であると言われれば、まぁ納得はするのではないだろうか。少なくとも影響ゼロではないだろうなと。
JUNETは学術系ネットワークで、その主要コンテンツは今日における電子掲示板群と非常に似通ったものがあり、つまりは話題カテゴリごとに整理されたページが存在したのだ。
建前上、JUNETはごく真面目な学術系ネットワークだったので書き込みの責任は個々人にあり、書き込みへ責任持ってもらうため実名制が取られていたとされる。
電子掲示板群で「である」調の文体もJUNETで使われていた文体であり、由来は論文に使われていた文体なのだ。
まぁ実名であっても責任?なにそれ?みたいな感じで至るところへ噛み付いたり、唐突にまったく脈絡なく関係のない話をはじめ、それを指摘され叱られたら逆ギレして大暴れする抜き身のナイフみたいな方が居たんだが・・・そのことについては別の機会に。
えっソイツどうなったかって?今でもTwitterで元気に至るところへ噛み付いてレスバしてるけど?
私の年甲斐もなく落ち着かない性分はなかなかだと自覚してるが彼女には負ける。私はそろそろ落ち着かないとと思ってるがキミはそのままで良いと思うよ。
まぁそんなこんなで日本のインターネットはその当初実名文化であり、TCP/IPやWWWがデファクトスタンダードとなりWindows 95が社会現象になるほど売れた時代、ホームページ開設ブームなんてものがあった。
まぁブームと言っても現在に比べればまだまだ小規模のものではあったが、個人が自宅からウェブへアクセスし、何ならウェブサイトを公開するというのは中々に特別感があったのだ。
そのホームページ開設ブーム期のホームページは実名文化の影響下にあり、住所から氏名、電話番号、家族構成、勤め先などなどを載せているホームページが数多く存在した。現代の個人情報保護の感覚からすると実におおらかと言える。
言ってみれば、その当時のホームページは後の時代に登場する「前略プロフィール」みたいなものだったのである。
書いてある内容も個人の日記帳、しかも実像へかなり近い個人の日記帳のようなものであった。実名で交友関係がわかったし、ホームページの管理者が学生であれば甘酸っぱい恋の悩みとかを隠すこともなく実名で書いていた。
この当時のホームページはあまりにもリアルすぎる個人情報の塊であり「ホームページの管理者が広く公開していないURLを無断で他所に転載することはネチケットに反していた」という古の文言を現代で記すこととなる。
現代の感覚からしてみると「広く公開していないURLって何なんだよ」と言いたくなるし、情報技術者から見れば「ローカルにDNSサーバでも立てたのかな?プライベートIPアドレスならば個人利用だと事実上無限みたいなもんだ」と広く公開していないプライベートなURLの可能性を探り始めるが、当時の人の感覚からするとインターネットなんてドマイナーなのでインターネットを使ってる時点で隠しているつもりだったのだ。
実にバカバカしいと現代人は感じるかも知れないが当時の大半のインターネットユーザは至って真面目に本気でそう考えていた。
例えば過去の時代、NTTはハローページという個人の電話番号を膨大に載せていた冊子を発行していた。
この個人情報は公開情報であるが、電話番号所有者に無断で何ら関係しない他所へ公開した場合、倫理的に問題ないか?と言われれば現代人でも問題と感じるはずだ。現代では特殊詐欺とかあるしね。
じゃあ何でNTTはそんなもん発行していたのか?と言えば、当時の電話番号を取得するには加入権というものが必要であり、加入権は金融商品としての側面を持っていたことから、ハローページへ記載されているということはNTTがその個人の信用をある意味で担保しているという判定が得られることがあったのだ。
まぁつまり電話番号すら持ってないヤツは信用ならんから取引しないという考え方がマジで存在したんだ。
現代の、それこそ若者の感覚からするとNVNOで気軽に電話番号を入手できてしまう今では考えられない価値観だ。
ちなみに加入権の反動からか約20年前に契約書すら必要のないプリペイド携帯電話で詐欺が横行するっていう失敗があったので約20年前が最も電話番号の価値は低かった。
まぁそんなこんなで、URLは公開情報であっても勝手に使うのはダメなんだ、URL無断転載禁止なんだ、無断リンク禁止なんだという価値観の時代は存在したが、それが急速に失われて「リンクフリー」が台頭する時代が来る。
リンクフリーが何故一気に広まったのか?と言えば「Yahoo!」が日本国内で営業開始したからであった。
当時のYahoo!はディレクトリ型と呼ばれるウェブ検索エンジン方式で、これはハローページなどと同様に人力でURL情報を収集して掲載するという形のウェブ検索エンジンだった。
掲載されるには審査が必要で、Yahoo!に掲載されるということはウェブサイトへ一定の価値と信用を与えてくれるものだった。まるで本当にハローページみたいだ。
この価値が失われるのは「Google」がロボット型と呼ばれるウェブ検索エンジンを開発したからであったが、リンクフリーはGoogleが登場する前から使われ始めている。
リンクフリーはYahoo!が登場したからだけでは実は説明しきれず、Yahoo!が人気サイトをランキング形式で掲載するようになったからというのが実際の答えである。
人気ランキングが存在するようになると競争が生まれる、当時のウェブサイトにおいてはアクセス数(≠ユニークユーザ数)こそが人気の指標であり、URL無断転載禁止・無断リンク禁止のスローガンはこの人気争いの中で邪魔になっていった。
そして同時にインターネット芸人みたいな人たちも続々と登場するようになり、個人の赤裸々な情報が詰まった日記帳のようなホームページは段々と廃れていき、匿名のインターネット芸人が笑い話やお涙話で人気を集めるようになった。
そうつまり「テキストサイトブーム」の到来である。
テキストサイトの思い出についてはこのエントリを読むインターネットユニークユーザ諸氏の方が詳しいしバラエイティに富んでいると思われるので任せた。
ディレクトリ型ウェブ検索Yahoo!の登場は別にテキストサイトだけへ影響を及ぼしたわけでなく、2ちゃんねるの元になった電子掲示板群「あめぞう」の前身である「あめぞうリンク」は「リンクサイト」と呼ばれる種別のウェブサイトであった。
そのほか後年にはリンクサイトの発展型である「ランキングサイト」も登場しており、ここまで来るともはや牧歌的なインターネットなど想像も付かないような喧騒が起きるようになり、更に現代では当時を喧騒と表現しても良いのか迷う程度に現代インターネットは闘争本能が強すぎる人たちが多く生息している。
アーマードコアの新作発表されたしそっちでやれよ。
URL無断転載禁止・無断リンク禁止派の最後の抵抗はやはりGoogleによるクローリングだろう。
前述したロボット型と呼ばれるウェブ検索エンジンはウェブページからウェブページへのページリンクを自動的に収集するというもので、人力で登録していたYahoo!よりも収集効率が物凄く高かった。
しかし自動で収集するからこそウェブサイト管理者からすると謎のアクセスが急激に増え、何なら当時「Google」という単語など知る由もなかったので特にリンクを多く持っていたウェブサイト管理者からするとDDoSアタックか?と疑念を抱かせる程度には迷惑千万だった。
もちろん静かに仲間内だけで楽しんでいるようなウェブサイト管理者としても急にアクセスが増えることは不快感でしかなく、Googleの人気が増えていくに連れてリンクされない権利を求めるユーザもまた増えていったのだ。
この件であまりにも叩かれすぎたGoogleはウェブ検索エンジンの検索結果に記載されない「noindex」という施策を取ることとなり現代でも運用されている。
ただしこのnoindex、性善説で運用されておりウェブクローリングする側がnoindexを無視すりゃ普通にクローリングできるので完璧な解決手段ではない。
まぁこんな感じでテキストサイトあたりから日本のインターネットは匿名文化へ傾倒するようになりリンクフリーが一般的になっていったのだ。何ならリンクフリーって言葉すら見なくなる程度にはリンクフリーが当たり前の価値観であるインターネットになった。
そう言えば、はてなブックマークでも無断リンク禁止、勝手にウェブブックマークするなという意見が取り沙汰されたこともあったが、その辺の思い出話はブクマカのほうがよく記憶しているだろうし任せた。
フロムのIPのなかで最もその条件を満たしやすいのがアーマードコアだった。
なにせ元のゲームシステムがそもそも3Dフィールドを自由に飛び回るものなのだ(特に4系はその傾向が強かった)。
ソウル系などと違い、フィールドに対してどの方向から攻め込んでもいいノンリニアなミッションを(ある程度は)実現できていた。
そのフィールドを際限なく広げていくだけで優れたオープンワールドになる。
あとはミッションの開始をシームレスにしたりハクスラ要素を付け足したり昼夜の概念などを導入するだけでいい。
相棒のACに乗って広大な世界を旅しながら次第に企業間戦争に巻き込まれていくゲームプレイを容易に思い描くことができる。
が、すでにAC6はオープンワールドではないと明言されてしまった。
アーマードコアのオープンワールド化はシリーズのリブートに相応しい変革となったであろうに。
非常に残念だ。
そもそもDXMはオープンワールドとして設計されてないし、個人的にもDXMは普通に楽しんだので分からないな。
私がAC系でいちばんストレスを感じるのは「移動してるうちにすぐ戦場の端にぶつかること」なので、
戦場が広いDXMはストレスが少なかったし、「戦場の端」が存在しないオープンワールドは最高だと思う。
「フィールドが広すぎて移動がだるい」は移動システムやイベント密度の問題だよ。
むしろ「ジェネレーターを変えれば長時間飛行できるが戦闘では不利」とか「ブースターを変えたら今まで飛び越えられなかった崖を越えられる」とかのほうが面白そうだろ!
というか「どこまで飛び越えられるのかを開発側で計算したい」みたいな考えはオープンワールド開発では捨てろってことなんですよ。
それは結局「ゲームの都合のためにプレイヤーの行動を制限する」という発想から抜け出せてない。
オープンワールドはシチュエーション的ロープレとしては価値がでるけどアクションゲームとして価値をだすのはBotW級に0から練り込まないと難しい
スパイダーマンやれ。
オープンワールドってむしろオンオフがあったほうがいいと思う。
そこでハクスラですよ。
移動速度は遅いけど積載量が大きいだとかで差別化できるでしょ。戦闘では有利とか行商人プレイしやすいとかさ。