はてなキーワード: 精神障害者とは
俺は弱者男性だ。こう言うと「どうせ自称でしょ?」などと穿った目で見る輩も出てくるだろう。実際、日本の年収中央値から見れば高年収の者が「弱者」を名乗っている時点で自慢気で腹立たしいのである。
俺がこれから書くことは「嘘松」ではない。俺のありママの状況を話そうと思う。
ほら、お前がなんと言おうと、俺は弱者男性だというわけだ。
ここからが肝心だが、俺は人生において何も困ってないし、何ならかなり幸せに生きているということだ。
どっかの国の自称サイエンティストが「お金の余裕こそが心の余裕である」と馬鹿げたことを言っていたが、少なくともそれは俺には当てはまらねぇな。
「少ないものに満足する。身近な善行を行う。そうすれば幸せになれる」というのが俺の論だ。
ミニマリストと言えばそうかもしれないが、どちらかというと、思い出を大切にしている。
今思えばガキの頃に感謝するべき人たちがたくさんいた。水泳を辞めたときも、初めてのバイトを辞めたときも、高校を卒業したときも、俺程度の人間に色紙をくれた人たちがいた。
そういう思い出に浸るだけで、世界は優しい人たちで溢れていると思うのである。
俺はかなり共感性欠如のADHD的なところがあり、様々な人たちに迷惑をかけてしまった。いじめをされたこともしたこともあった。
だが、それも神が善性を試していると思えば、試練に思えてくるし、試練ならば見栄や虚飾を張る必要はないと思うのである。
生きている。それだけで神からの贈り物である。日本に生まれたという幸運にも感謝しているし、今の両親の元で生まれたことも感謝している。
従業員10名ぐらいの零細企業を経営している40歳独身男性なんだが、自分の人生の終わらせ方ばかりを考えている
たぶん働くのやめて不動産経営だけに振っても年300万ぐらいの所得は得られる気がする
別にそれでいい気もするが、高齢の親や軽度精神障害者の無職の弟がいることを考えるとなんか不安だ
働くことを選択するとそれなりの激務にならざるを得ず、週休1日で毎日20時程度までは働く必要はある
自分の仕事の軽減のために人を雇えばと思うけど、その人の権限管理やその人の将来のことを考えなきゃいけないとなると、なんか雇うのめんどくさいなぁと思ってしまう
自分の仕事を任せるとなると社内で偉くなってもらわないといけないが、偉い人を雇うのはいろいろめんどうなのだ
今は仕事よりもプライベートの方が楽しいし、加齢でこれからどんどん動けなくなることを感じているので、プライベートに自由な時間がほしい
金がかかることは元から趣味ではないので、ほどほどの収入でいいんだよなぁ
資産を切り売りしていけば15年は暮らせる気がするのでそうしたい
15年後にスパッと消えたい
許してくれ
前提条件が誤っている(健常者にも同様にポテンシャルがある)
A型かB型か書かずに「賃金」と書いているので、雇用契約を結ばないB型作業所の「工賃」の存在を知らない可能性が示唆される(ド素人確定 Part.2)
迷惑を詫びる意味で、無闇にヘイトを行った健常者の責任として慰謝料を払うべきではないか。
精神障害者保健福祉手帳2級所持者として、これを釣りと断定せず真面目に答えたいと思う。
この元増田の記事はヘイトに該当すると思う。よってあなたの書いたこの記事を通報させてもらう。
精神障害者関連コミュニティにいるとよく分かるんだけど、鉄オタ入ってる発達障害者が多い影響なのかは知らないが、鉄道運賃の割引が身体や知的には適用されても精神には適用されないことを異常に問題視して抗議運動してる人がめちゃくちゃ多い。
それを知っての釣りならなかなか高度だ。
私は都内在住だが鉄道なんて通院時にしか乗らんし、都営交通無料券があるだけで十分であり、私鉄に割引なんて求めてない。
自立支援(精神通院)といい、手帳提示による割引制度といい、精神障害者は経済的に保護されてるのを実感するし、ありがたいと思ってる。
しかし、JRは遺族への人身事故への賠償請求は限定的と聞いている。
逆に言えば精神疾患を患っている人、精神障害者は鉄道自殺をするポテンシャルがあると言える。
そこで提案したい。
精神科通院者、精神障害者は連帯責任として鉄道会社への賠償を負わすことは出来ないか。
具体的には精神科通院毎に500円を自費で徴収、精神障害者年金からは3%を天引き、作業所賃金からは毎日300円天引きして積み立てて、人身事故発生時の賠償に充てれば良い。
後半はチクチクじゃなくて直球だな
もうバイトでも仕事は絶対しないって決めたのは彼ら彼女らのおかげです
チクチクはショックだけど現実を知る良い機会になる
元生活保護受給者でアスペと鬱で精神2→3級だが、少し前に、ようやく社会人(正職員待遇)ができるところまで戻ってこれた。
社会人といっても某飲食の一兵隊なので、世間一般でいえば「負け組」とか「底辺社畜」の類だと思う。
そして生活保護をそれより上だの下だの、そういう序列をつけて優越に浸りたいというわけでもない。生活保護には大変お世話になり、このセーフティネットがなければI was gone.しているか、生きていても反社勢力の捨て駒か何かになっていたかもしれない。雨風が凌げる快適な部屋で、布団にくるまって眠れて、贅沢しなければ日に三度の食事に困らず、人の道を誤らないように暮らせたのだから、福祉事務所の方角に足を向けて眠れない。
といっても別に変わった経緯でもないと思う。地元の公立小・中・高を経て地元の宿泊業を営む会社に入りホテルマンとして働き始めたのだが、不規則勤務・薄給に加えてお局の係長からのパワハラにより精神崩壊して退職、精神2級判定、実家に帰る、雇用保険の失業給付が尽きる、実家から出される、保護開始……こういう順序だったと思う。
実家での待遇は良くなかった。特に兄が酷かった。両親も最初の頃は同情的だったものの長男(兄)の機嫌を損ねるわけにもいかなかったのだろう、次第に冷たくなり、雇用保険の給付が尽きるときに30万円を渡され、今のていたらくで盆と正月以外は実家に近寄るなという旨のことを宣告された。田舎だけに周囲の目もあるし、やむを得ない措置だと思うし、今更それを遺恨に思ってもいないし、ここでズルズル寄生を許可されていたら今頃は立派なニートのできあがりだったことと思う。もっともそのときは、ああもうこれは死刑宣告だなと目の前が真っ暗にはなったが。
とはいえそう簡単に自殺できるなら何も苦労はない。役場の障害福祉課(精神障害者の手帳の件でお世話になっていた)に話をしたところ、ありがたいことにこんな穀潰しに親身になってくれ、提案をもらえた。
ひとつは「障がい者のグループホームに入居して集団生活を送る」こと、もうひとつは「手持ちのお金でとりあえず単身向けの安い賃貸を契約して住む」ことだった。いずれにしても精神2級の状態で今後の生活にかかるすべての経費をまかなうことは不可能だろうから、生活保護の申請は前提と言われた。一刻も早く家族(特に兄)からの攻撃から解放されたかったので、障害程度区分(介護保険でいう要介護1~5みたいなの)を取ったりするために必要になる時間も惜しみたくて1Kの賃貸アパートを契約してそこに引っ越すことにした。引っ越すといっても冷蔵庫や洗濯機は家族共用なので家電量販店で買ってアパートに届けてもらうことにし、段ボール箱5つ分くらいの荷物を自室から原付のリアキャリアに縛ったりステップに置いて運ぶだけだから、引越し自体もあっけなく終わった。父のワゴン車に積んで運べば1回で済んだだろうけれど、その迷惑をかけるのも躊躇ったのは覚えている。
生活保護で月に支給される額はおおよそ12万円程度。障害基礎年金は無事3級が出たが、年金は収入として申告し、その分減額される(生活保護+年金になるわけではなく、他の生活保護受給者と同じ金額で生活をすることになる)システムなので、年金が出たからといって裕福になるわけではないことを知ったが、とりあえずこれで、贅沢しなければ衣食住が許されるくらいのベースができた。原付(125以下)が、「事故を起こしたときにちゃんと賠償できるように任意保険にも加入すること」を前提に保有・運転してもいいといわれたのは助かった。
『働かずに食う飯』が美味いかどうか……。考え方に個人差はあると思うが、私にとっては何を食べてもあまり味がわからなかった。保護費支給日に、月に1回くらい口の栄養をと思って高い外食(といってもファミレスとか回転寿司くらいだが)をしても、味に感動するようなことはなかった。むしろ高い飯を食べると罪悪感が強かったようにすら思う。
刷り込みとか色々あるかもしれないが、とにかく、『今この時点において、自分より無価値な人間はいない』ということを感じていた。卑屈になりすぎていたのかもしれないけれど、今の自分が生み出せるものといえば二酸化炭素と排泄物しかないわけだから。テレビを持っていなかったのでもっぱらラジオだったのだけれど、野球中継を聴いて贔屓のチームの選手が拙いプレーをして点を取られたときにも、自分ごときが選手を叱咤できる立場じゃない、となって、野球中継さえまともに楽しめなかったくらいになった。
鬱もなかなかその頃は酷く、家事は勿論のことながら入浴すら自発的にできなかったので障害福祉サービスで週3回ヘルパーさんが来てくれるようになり、相談支援専門員さんがついてくれることになった。モニタリングという定期的な面談のときに「ラジオで野球を聴くのすら申し訳ない」というようなことを話すと、就労継続支援B型という作業所を紹介してくれた。見学に行ったところは障害の程度や意欲に応じて、ほとんど遊んでいるに等しいレクリエーションのようなことから集合住宅や公共施設などの清掃まで幅広くやっていたところで、「ちゃんとできるかどうかわからないが、清掃作業をさせてもらえるなら」という条件で通所し始めた。週1日・午後のみから始めて、少しずつ増やして週4・午前午後になり、報酬として工賃を2万円くらいいただけるようになった。まったくの無価値ではなく、月2万円だが自分にそれだけの価値を認められたことが嬉しかった。もちろん収入なので生活保護の支給額は減るのだが、勤労による収入の場合は控除が認められて、2万円工賃をもらえれば月に1.5万円くらいは実質的に自由になるお金が増えた。この頃には、「月1回くらいは口に栄養しても」の罪悪感も少し薄れ、熱々のハンバーグがとても美味しかった。
……とここで、レジで会計をするときに壁に貼ってあったポスターを見て、「アルバイト募集されているんですね。未経験歓迎とありますけど僕みたいなのでもいいんですかね?」などという畏れ多いなんてレベルを超越した暴言を吐いてしまったのだ。
レジカウンターを挟んで二言三言のあとバックヤードに連れて行かれ、店長がいる時間帯に履歴書を持って面接に来てくれという話になってしまい、そこから何をどうしたかよく覚えていない。作業所までそう離れていなかったので、まずは作業所に駆け戻ったのだけは覚えている。
後日、作業所の管理者さん同行で面接になった。店長と施設長が最初に長く話し、最後の方で何か言いたいことはと問われたときに、施設長が言わなかったこと(生活保護受給中とかただの精神2級ではなくアスペルガー症候群もあること)を言った。施設長がいい顔をしていなかった。ここで仮に採用に繋がれば作業所の実績に繋がる大事なところなので、その足引っ張りになることをされたら困るというのが施設長の本音だと思うが。
採用の前にまず実習ということになった。熱々の料理をお客様にぶちまけるような致命的な失敗こそしなかったが、皿は相当割った。14番テーブルに持って行くはずの料理を24番に誤配したり散々だった。高校生の先輩バイトさんに使えないと舌打ちされたのも覚えている。
……が、総合的な評価はそこまでダメではなかったのか、まずは週2日のランチタイム要員として採用された。10時半から15時の4時間半。百戦錬磨の兼業主婦のパートさんにはこき使われたが数多のフォローや配慮をしてくれて感謝しかない。
週2日と4時間半が次第に延び、フルタイムになり、正職員待遇になった。精神の手帳も2級から3級に見直された。生活保護は基準より収入が上回ったため停止され、半年後に打切りになった。福祉事務所に頭を下げに行ったら担当のケースワーカーさんに激励していただいた。
正職員待遇とはいってもあくまで障がい者雇用なので、健常者とまったくの同一条件ではないけれど、少なくとも今は野球中継を素直に楽しめるようになったし、親や兄・妹との関係もある程度戻ったと思う。兄のところには2人子どもがいるし、妹も近々結婚するらしいことを聞くと、私は家庭を持っていないことが兄や妹と較べてレベルが下だが、これはさすがに相手のあることだから自分だけが足掻いてどうにかなるものでもないし、仕方ない。
お金だけがすべてではないが、今は保護費より相当多い給与を貰えているし、そのおかげで保護の頃より僅かだが広く便利がいいアパートに移った。雑誌や文庫本くらいならそこまで財布と相談しなくても買えるようになったし、何より「お天道様の下を堂々と歩ける」ようになった。
もちろん、今後また何かの弾みで生活保護に助けてもらうことにならないとも限らないが、保護に依存しないように、備忘録として残したい。
事実を陳列されるとキレる
いやー、フェミとか男とかアンフェとかじゃなくてさ
それが男でも、女でも、アンフェでも、フェミニストでも、ネトウヨでも、はてサでも、自民党でも、共産党でも、日本人でも、中国人でも、アメリカ人でも。
いや、そういう話じゃないよ
「認知の歪み」みたいに苦しんで戦っている人がいる精神障害の症状とか、
思えば子どものころからなーんか可愛げのないガキンチョだったと思う。要はひねくれ者だった。
子どもの頃に夢なんて持ったことはなかった。大人になったら、会社に入って、結婚して、子供を作らなきゃいけないのか。メンドクせぇな。働いたりとかせずに、ひとりでのんびり生きたいよ。
実際にはそんなメンドクさいことをせずになんとか40年余りを生きてきたんだけど。それもひねくれ者だったおかげなのかもしれない。これも皮肉だけどね。
中学校までは学校の勉強だけはできたので、高校は今でいう自称進学校みたいなところに入る。まだガキンチョのくせに世の中を斜めに構えてみるくせは治らなかった。むしろ『お年頃』になってよけいにひねくれ者になっていった。
そんなひねくれ者の僕も親にケツを叩かれつつ、なんとか大学合格だけはできた。偏差値的には無理そうだったところだけど、昔からクジ運だけはよかったのな。いや、そんなによくはないけど。
田舎育ちの俺。高校を卒業した18歳の春、東京に出てきた。アパートでのひとりぐらしが3年間続く。その間、大学にはまったくといっていいほど行かなかった。1単位も取らずにというわけではないが、ろくに単位も取らず3年間が過ぎた。
3年後の春、全然大学に行ってないことが親にバレた。「何してたんだ、馬鹿息子が、と。取り敢えず大学は辞めて地元に戻ってこいや」と。
いわゆる汽車で3年ぶりに実家に戻った俺、親からいろいろいわれた。俺は「俺は頭おかしいかもしれない。キチガイ病院に連れて行って」と親に頼んだ。親は驚きはしたものの、そうだないちどココ(俺の頭を指しながら)見てもらったほうがいいかもなと言われ、キチガイ病院に行くことになった。
キチガイ病院にて。医者の前で、僕はまだ21歳ですけど将来に何の希望も持てないんで精神病院で余生を過ごしたいです、という。医者は取り敢えず入院しましょうか、と答えた。