はてなキーワード: 神の国とは
古代オリンピックは紀元前776年に古代ギリシアのエリス地方にあるオリンピアで始まったとされている。オリンピアはゼウス神の聖地であり、オリンピア競技はゼウス神に捧げる競技祭として始まったとされる。
一方、20年前に彼の人は言った
「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、そのために我々が頑張って来た」
これのみではなく、数々の迷言を放ち、短命ながらもインパクトのある歴代総理として歴史にその名を残した。
その失脚により、彼は歴史舞台の表から姿を消したように思えた。
しかし、20年間からの今に至って彼はまた本領を発揮している。
オリパラ組織委員会、会長というただの飾りにも見えるその職で、耳目を集めている。
そして彼は何としてもオリンピック開催を目指すと表明している。
だが、自信が叩いていいコンテンツとなることで
それら含めたヘイトはオリンピック開催の是非ではなく、その会長、叩いていいコンテンツに向いている。
これは、このままタンクとしてヘイトを集めつつ、オリンピックを開催させるためにあえてやっているのではないかと。
そして20年前からそれをずっと願って来ての今なのではないか、そう思うのだ。
彼は神の国発言については叩かれまくりながらも撤回はしていない。
新型コロナ感染症は、ようやくワクチンが開発されたものの、今年度中の感染終息は難しいだろう。
オリンピックの開催は絶望的だと分かっていても、表立って言うことは許されない立場だ。
マスコミから開催の是非を問われても、俺は話をはぐらかすしかない。
そんなある日、JOCの会合での冗談混じりの発言が、猛烈な批判に晒された。
所詮はマスコミと民衆が騒いでいるだけ。俺はただ責任を果たすだけだ。
気付けば俺は、あらゆる職責を外され、引退に追い込まれていた。
3ヶ月が経ったある日。悲願の東京オリンピックの中止が昨日、正式に決定した。
振り返れば政界に入って50年。
少し前までは、誰もが必死に俺の予定を取り合っていたのだが、
引退した上に新型コロナ感染症が終息しない中、誰も俺に会いに来ない。
1人で馴染みの店でしこたま飲み、いつもよりはるかに早い20時に店を追い出されてフラッと道に躍り出た。
眩い光に晒される。ちょうどよく車が来たようだが、止まる気配はない。俺は元首相だぞ。止まれー
聞き覚えのある声。
まだ耄碌しきっていない脳が神速で働き、30秒で状況を理解した。
これは、まさか。
夢かもしれない。
にわかには信じられないが、秘書に確認しても、やはりそういうことのようだ。
だが。
俺は今、かつてと同じ壇上で原稿に従い、同じ言葉を話そうとしている。
しかしながら、これから語る言葉は、以前と別の意味を持っている。
思えばここ数年、人前に立つのは幾度とあれど、ここまで自分の心を込めて、物事を語ったことはあっただろうか?
柄にもなく、緊張している。
やらねばならないことは膨大だ。それでも、日本のために。人類のために。
「・・・日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をして戴く、その思いでですね・・・」
タイトルで強烈な文言を述べたが、私個人は神様を信仰していない。私は神様ではなく自分に幸福をもたらしてくれる縁や尊敬できる偉人を信仰している。
私の家系は日蓮宗であるが、それを意識することはほとんどない。葬式や父の実家の仏壇を拝むときだけだ。クリスマスも初詣もするし、お守りを持つこともある。
このような態度は無宗教と呼ばれ、日本人の多くはこれに分類される。中にはこれを宗教的態度の欠如であると批判する人もいる。私が小学四年生の時の担任教師はこれをおかしいと非難した。
しかし、私はこのような「無宗教」が日本で起こったことや、無宗教の人が宗教の恩恵にあずかれるのはおかしいことではないと思っている。
日本人の宗教観は、この世には沢山の神様がいるという宗教観である。この世のあらゆる事物にはそれぞれの神様が宿り、神様達の動きによりこの世界の因果関係が決定されると考えた。それぞれの神様は人間と同じく感情を持つものとして考えられ、祭祀や信仰はその神様のご機嫌をとることに近かった。この宗教的態度は外国から仏教や儒家思想、キリスト教などが入ってきても変わらなかった。
このような宗教的態度が生まれた背景を和辻哲郎のエセー「風土」は日本(および東アジア)の雑多な生態系と災害の多さに求めた。日本人は古来より抗いがたい災害に見舞われ、それに耐える忍耐力を養った。そしてその気象条件は同時に命の恵みも与え、我が国に植物や動物の息吹があまねく見受けられるのである。
こうした環境が日本人の精神を作り、その精神から人格を持つ沢山の神様を生み出したのである。これは自然環境が変わらぬ現在でも同じであり、欧米や中東のような一神教的な絶対神が日本を征服できないのはこのような理由がある。一神教の神は、多神教の神の国の一部として取り込まれるのだから。
遠藤周作の小説「沈黙」では、日本に伝来したキリスト教の教えが日本に根付かず改変されていることを元宣教師のフェレイラが嘆くシーンがあるが、それは上の風土を考えれば当たり前のことなのである。
一方でキリスト教やイスラム教などの一神教が誕生したのは、砂漠の国の中東からである。そこは日本とは全く異なる生命の息吹が皆無の殺意の大地である。そのような状況から砂漠の民のヒューマニズムへの関心はとりわけ高く、それが人間の味方である絶対唯一神への信仰を生み出した。
それがヨーロッパに入り浸透したのは、ヨーロッパの民族は合理的で従順だったからである。ヨーロッパは生態系が単調で、人間からすれば自然は全部「役に立つ」ものだった。そこから古代ギリシャ・ローマに代表される科学的合理的思考がこの地で起こり、それはヒューマニズムに満ちた一神教を受け入れたのだ。
ここで、あらゆる神や宗教を吸収する多神教の国日本と一神教が人々を統べる欧米や中東の差異が分かる。そして、これが日本の無宗教を受容する態度と非難する態度の違いを生み出すのだ。
一神教的宗教観は日本の無宗教を非難するが、それは無宗教が神様を信仰しないからだ。一神教の神は世界の創造者で裁定者で救済者なのである。それを信仰することが彼らの人間として生きることの証なのだ。故に無宗教は非人間的な態度であり、シリアルキラーと同類の存在なのだ。先の私の小学校の先生も無宗教を人間として無節操な態度と考え、非道徳の理由を無宗教に求めたのだ。
その上で私は一神教的宗教家の方々の私の宗教観への批判に反論したい。私が信仰しているのは神を持たない宗教であると。
先ほど私は日本の宗教観ではこの世の事物にはそれぞれ神様がいると述べたが、それはあくまでいるだけであり信仰する神ではない。物事の因果を神の所業と考えているが、それを起こす神が気まぐれでそれが沢山いる以上もうどうしようもないのだ。もしこれが人だったら早々と見限るような神々は沢山いるのだ。神は人を選ぶのだろうが、人間も神を選ぶのである。
私も以前は神は正しいメッセージを授けてくださると思っていたが、いつまでたっても授けてくださらない。それは当たり前のことであり、雑多な風土に宿る神が雑多なメッセージ以上の何かを発信することは出来ないのだ。日本の土地では裁定者たる神はいないのである。「沈黙」でも、主人公の前に裁定者は最後まで表れなかった。裁定者は日本という沼地で溺死したのだ。故に主人公は生きるという決意で生き延びたのだ。
「沈黙」では神を心のなかで生きる存在と最終的に結論付けたが、私はその神の存在意義は最初から否定した方が楽なように思えるし、そちらが神様にとってもありがたいであろうと思う。そうでないと私は神様に対する「たかり」になってしまい申し訳なさで死んでしまいそうだ。
何か危機に陥ったときにかつては祭祀や加持祈祷に頼っていたであろうが、科学の時代においては科学の方が日常生活では「烏合の衆」よりかは帰依出来る。
今のコロナ禍でも、精神的基盤を補強する役割以外では、神頼みよりも衛生的処置や医療措置の方が遥かに大事なことはすぐに分かる。
では私は何を宗教に求めているかというと、私の心と世界とのコミュニケーションである。世の中には理不尽なことは沢山ある。そんなときに世界が沈黙し私を嘲笑しているように錯覚することがある。
だが、それは私が世界とのコンタクトを放棄しているからである。世界は私を嘲笑していない、語りかける励ましの言葉はある。私がそれに気付くとき、私は心を開き癒されるのだ。その回路を開くことが私の宗教的態度である。私が信仰しているのはそうしたものである。
私は長々とここまで語ったが、私は他人の宗教的態度を否定するつもりは毛頭ない。私には私の納得する宗教的態度があり、それを大切にしている。故に他人にはここで語ったことに対抗しうるだけの宗教的態度があると考えられる。私はそれを侵すつもりはないし、相互不干渉を守りたいと思う。自分の守りたいものと同じように他人の守りたいものは守りたいのだ。
私の記事は以上だ。
なわとび:602回
ボクシング:109kcal/21歳
徒歩:110.4kcal/3590歩
体操ザムライ見てて、フィットボクシングやるときも一つ一つの動作を丁寧にやっていこうと思った
少し前から「夜明け前」をちょっとずつ読んでて、この間ようやく1部が終わって折返し地点に来た
島崎藤村が自分のお父さんをモデルにして書いた幕末から維新にかけての歴史小説
1部の前半は木曽街道馬籠宿の庄屋の平穏な暮らしぶりが描かれるばかりなのだけれど、後半に入ると怒涛の勢いで日本の情勢が転変していく様が描かれる
あまりの情報量の多さに幕末素人な自分はめまいがするような心地がした
主人公の半蔵は幕末の青年らしく、自分も日本のためになにかしたいと焦りを募らせるのだけれども、彼が依って立つ平田篤胤の国学の思想というのがどうもちょっと曲者
本居宣長あたりから発するものらしいのだけれども、神の国である特別な日本古来のものを大切にしてそれによって国を作っていこうというもので、中国由来の儒学などの排斥を主張し、神仏習合を廃して純粋な神道を取り戻そうと言っている
これって、詰まるところは日本SUGEEEのネトウヨ思想の先祖なのではないか
半蔵くんは(ローカルな)ネットで真実に目覚めてしまった残念な子なのでは
まだありそうだけど、忘れた
ワロタ 令和という新しい時代を迎えて、神の国伝説に新しい1ページが追加されたぞ
日本人はBCGによってコロナに感染しても表面化しない、重症化しない、致死率が低いなんてことは、すぐわかった。医療大国、研究大国の日本が気づかないわけがない。
ただ、日本は大丈夫、日本人には耐性があるって世界にバレたらどうなるか。金銭援助、医療援助、人的援助、病人の受け入れ、移民、不法滞在、みんなが日本を食い物にしてくるのは火を見るより明らか。
それを阻止するために致死率は下げたくなかった。そのためには検査をしない。それをオリンピックのせいと思わせ、信じさせることに成功した。
日本だけなんで死者が桁違いに少ないのか。
その時に得られるメリットは計り知れない。
・コロナウイルス禍(中国武漢ウイルス禍)は多くのことをクリアにしてくれた。
・信用ならないひと、付き合っていてはならない人を教えてくれた。
・優先順位をつけることの大切さ。優先順位を付けられない人がとても多いことに驚かされた。命を危険に晒してまでやるべき仕事なんて99.9%ないぞ。
・ウイルスが意思を持ち、戦略的に自らの構造をデザインしているのなら、免疫力強い若年者に乗り感染域を拡げる戦術は巧妙、狡猾である。
・日本という国すごい。外出を控えさせようと三月の末の休日に雪を降らせ積もらせた。そういえば震災時の原発から大量の放射性物質が拡散されそうなときは強い西風を吹かせてくれもした。神の国なのか...?
・中国共産党は最低最悪だ。滅さねばならない。
・WHOの酷さたるや、腐っているどころではない。習近平とテドロスは己の利のために意図的に対策を先送りさせ、結果的に何万人もの人を殺した。大量殺戮者となった。
朝、目が覚めたら雪が降っている。けっこうな勢いで雪が降っている。
外に出るのはよせと、天が示しているのか。
天は沈黙の中で人に何ごとかを伝えようとするようだ。市場も同じだなと思った。市場は明確な言葉ではなく現象で以って人に語りかける。金利であったり特定の商品の価格であったりである。市場の伝えんとすることを正確に読み取れるかどうかでその人の市場との付き合い方の巧拙が変わってきて、上手に市場と対話できる人は自らの金融資産を増加させられる。市場との対話は神との対話を彷彿とさせる。
日本人の致死率が極端に低い。世界中の医者、感染症の専門家を戸惑わせているレベルである。
BCG接種が免疫を強化させているのではないかという仮説がある。オーストラリアはその効果について研究を始めたという。
日本における病床数の多さも人口あたりで見れば世界一だそうだ。
満員電車の状況が連日続いているはずなのに、東京都内での感染爆発が未だ起こっていないように見えることが不自然ではあった。
神の国…なのか?
武漢肺炎ウイルスの蔓延によって見えてきたものがある。いろいろなものがクリアになる。付き合っている人間のこれまで見えなかった本性ようなものが明らかになってくる。ウイルス騒ぎが人の本性を暴く。ある人は、私のことを駒としか考えていなかったのだ、人扱いされていなかったのだと知れた。
付き合うべきでない人が見えた。人の本性が見える場面が増えた。
世界的なキャッシュクランチが起こっているようだ。現金化を急いだ多数の投資主体が投げ売ったせいで、株価は極端な低下を見せた。どう考えても安いという会社が続出している。致死率はさほど低くない。特に日本においては。ペストを考えればとても低い。かつてヨーロッパが黒死病で壊滅的なダメージを被った頃に比べれば、医学は発達しているし適切な対応についての方法論もある程度確立されている。専門家たちが賢い対策を立ててくれていて、それをしっかりと守れば少なくとも自分自身の身の回りの人々の命を守ることもできるようだ。これもまた天啓と考えるべきか。