はてなキーワード: ヒンズー教とは
なんか妙に燃えている
主にベースとなったキャラの扱いとヒンズー教への配慮不足が燃焼材らしい
どちらも分からないではないのだが、この両者を混ぜて論じる人がちらほら居るのが気になる
特にキャラの扱いが気に食わない人が自分の主張の補強材料として宗教的配慮の問題を利用してる様に見える
キャラの扱い云々は言ってしまえば「俺が気に入らない、俺に合わせろ」なのでそれだけでは正当性が弱いと感じているからなのかもしれない
だがキャラの扱い、つまり創作の在り方の問題と宗教的配慮の問題は分けて考えるべきで、混ぜて論じるものではないと思う
別に「俺が気に入らない、俺に合わせろ」でも良いんだ
創作物を見たり読んだりした時に感じるものは人それぞれで、どうしても受け入れられないという反応が出てこない方がむしろ不自然だ
ただその感情を言葉にする際に他人の言葉を借りて補強するのはやめた方が良い
タイルの目地を狂ったようにタワシで磨く行為を1時間程続けていたのだ。汗が眼に入った。脇から流れた汗がTシャツを通って腰に伝った。今日はよく晴れていて、風呂の窓からは蝉の声がシャーシャー聴こえてきた。頭の位置を変えたら酷い立ちくらみがして、大きく長い息を吐いた。
普段まったく家事をしない。必要に迫られないとしない。そして「必要に迫られている」と感じるのが人よりだいぶ遅いようで、自分でも呆れる位、家事をしない。
今日、年に何度か訪れるこのうっかりゾーンの最中、あることを思い出した。
同居人は家事全般、とりわけ料理が得意だった。事情があって一緒に暮らしはじめ、事情があって家事はあまり分担せず同居人が一手に引き受けていた。家事が好きだから、好きな方がやればいいじゃない、と同居人はよく言った。色んな事情があったので、バランスを取るために自然とそうしていたのだと今では思っている。そして実際うまく機能していたと思う。
それでもたまに、何から何まで申し訳ないなと思うことがさすがにあった。そんなときは今日のように風呂のタイルの目地を磨いたりしていた。家事が苦手な人の特徴なのか、自分の特徴なのかは知らないが、いったんやり始めると今日のようにうっかりゾーンに入る。一時間や二時間、平気でタイルを磨いていた。
そんな時よく同居人が背中から声をかけてきた。「お茶のみませんか」「居酒屋さんごっこしませんか(揚げ物とビールを準備しているとき)」「お蕎麦屋さんごっこしませんか(日本酒と卵焼き、板わさを準備しているとき)」。
背中から鬼気迫るものを感じていたのだろう。無理にとは言いませんけど、区切りませんか、そんなニュアンスだった。そんな時はたいていハッと引き戻されて「するする」と犬のように尻尾を振ってタワシを投げ出して、いい匂いを嗅ぎながらタオルで濡れた身体を拭いた。
今日、タイル磨きをやめるタイミングを掴み損ねて、立ちくらみを味わいながらそんなことを思い出した。
かつての同居人とは、何故かあるタイミングでお互いの事情が一致して暮らし始めた。
性行為は付かず離れずしていたが、恋人ではなかった。友だちとも違った。同じ家で暮らして、一緒に起きて、一緒に食べて、一緒に眠る人だった。子供ができたらいいね、と年に何度か言い合うことがあった。動物として自然の流れでそうなったらいいね、という意味だ。自分も同居人も、お互いについての感情は「たまたま一緒の檻になったライオン」のような温度だった。
恋愛感情が無かったわけではなくて、持っていた頃も多分あった。お互いそうだと思う。ただいろんな事情や理由があって、結婚は選択肢に入らなかった。それぞれが別の異性と遊んだりすることもあった。「浮気してくる」「異性と交遊してくる」と言って出かけることもお互いあった。気をつけてね。何時に帰るの。お互い自分自身をそんなに素晴らしい人間だと思っていない同士、そんな生活に不満は無かった。一緒に暮らし続けた。
もちろん人間の感情はそんなに陶器のようにツルンとしてないようで、色んな諍いはあった。お互い思った事を口に出す人間では無かったので(悲しいことだと今では思う)、喧嘩にはならなかった。言い争いの代わりに、子どもや猫のような抗議をお互いよくした。突然夜中に居なくなったり、家に帰らなかったり、メールに返信せずに心配させたり、寝たふりをして返事をしなかったり、料理をしなかったり、料理を食べなかったり。そんな小さいギザギザは数ヶ月に一度あった。それでも同居人とは同じ檻同士、基本的に信頼しあっていた。お互い求められた通りの心配をした。夜中の公園を真冬に探し回ったり、帰ったら好きなお酒や料理や音楽が準備されていたり、心にもない優しい言葉をかけたりした。どうせ仲直りするのはお互い分かっていた。早くしたいとお互い思っていたのだ。諍いに限らずあらゆる事が、始まり方は子どもでも終わり方は大人だったと思う。
一緒に暮らしてから色んな事が変わった。そして、これは自分にとって驚くべきことなのだが、色んな事を学んだ。
まず、健康になった。皮膚や髪の毛の質、睡眠の質が変化した。これは食事がガラッと変わったので当たり前なのかも知れないが、自分には驚くべき事だった。風邪を引いたり、一日寝て過ごす事も減った。同居人が酒好きだったので、自然と自分の飲む量は減った。酔っ払いが二匹居ては収集がつかないと思ったためだ。伴って体重も減った。
趣味の世界や物事の視野も広がった。同居人にとって当たり前のことは、初めて知る事ばかりだった。色んなモノが世の中にはあること、それぞれの用途のこと。野菜ジュースは野菜の代替にならないこと。直火と炭火焼きの違いのこと。季節の食べ物のこと。いろんなお酒が世の中にあること。いろんな方言のこと。悲しいときは運動をするといいこと。泣きながらご飯を食べられないこと。スーパーで鮮魚を買うと捌いてくれること。沖縄と本州で畳のサイズが違うということ。島の暮らしのこと。革製品の手入れのこと。
そして、自分にとって当たり前のことにも興味を示された。テクノやエレクトロニカのこと。色んな漫画や本のこと。映画や芝居のこと。旅行や海外のこと。色んな動物のこと。身体の変化のこと。変な服のブランドのこと。仏教とイスラム教とヒンズー教のこと。お互いの好きな物を教え合ううちに教えられた方が詳しくなって、それが原因で諍いになることもあった。ばかっぽい。村上龍やキャンプについてはそうだった。だいたい土日の昼間に料理を作っている同居人の周りをチョロチョロしながら様々な話をした。自分がこんなに話をする人間である事や、甘えたがる人間である事、そして人間に救われる人間である事。ある業界の仕事をしていた時期から、人間を信頼することは自分とあまり関わりがないと思っていた自分にとって、これは大きな発見であり変化であった。アルキメデスが浮力を発見した事に次いで偉大な功績だった。ユリイカ!
そんな暮らしの中であっても、人間は変化する生き物なのだった。自分にも、変化のスピードに生活を合わせたいと思う時期が訪れた。それで、同居はやめた。自分が変化したのは同居人との暮らしのお陰だった。それはとても辛かった。それでも、時間が経った今はあの決断をした自分は偉かったと思う。偉大な功績だ。ユリイカはユリイカとして、正しいかは死ぬ時まで解らない。
多分ここまで読んで、同居人との関係性について嫌悪感を示す人もいるだろうと思う。我々は少しネジの緩んだ同士だった。誰にも理解されないような、子ども同士の暮らしみたいな生活が好きだったのだ。毎日親がいない家みたいだった。ヘンゼルとグレーテルのようだった。一般的に理解できないものを受け入れることが、わりあい得意な人間同士だったんだろうと思う。人間は変化するので、多分いま暮らしても同じふうにはならない。でも、かつての同居人は今でも家族のような感じがする。かつての同居人もそう思っている気がする。うまい言葉が見当たらないが、belongしあっているという感じ。今でもたまに顔を合わすと、たまに会う親戚のような顔をされる。元気にしてるの、ごはん食べてるの、ちゃんと洗濯してるの。言葉にはしないけれど眼から発信されてくる。
先日、会社の女性に「彼氏と同棲しようかなって話してるんです」と言われた。相談ではなく背中を押して欲しいだけなんだと表情から伝わった。なので、「同居はいいよ」と無責任なことを言った。こいつの責任を持つ筋合いはない。「同居はいいよぉ、まいンち、楽しいことしかないよ」。
家族になるっていいよ。
同居をやめたのは、今日みたいな夏の暑い日だった。突然ひとりにした。突然ひとりになった。「素直に言ってくれてありがとう」という言葉。「がんばったね」。依存しあうものが無くなったあの開放感と、途方もない悲しさ。同居人が見えなくなるまで距離を取ってから階段でめちゃくちゃに泣いた。部屋に入るまでもたなかった。汗と涙と鼻水がごちゃごちゃになった。蝉の声がシャーシャー聴こえてきた。鼻の奥がずっとツーンとして、酸欠になって頭がくらくらした。一人にしないで一人にしないでと布団の中で喚いた。相手のほうが思っていただろうと思う。だから相手には言えなかった。血縁上の家族以上に大切だった。人工の家族だった。相手が可哀想だから、という感情は共依存だと知っていた。お互いの変化を阻害すると知っていた。だから行動に移した。自分のために手放した。相手を理由にするのは相手を一番傷つけると知っていた。対等な人間関係でありたいと願う、自分に残った唯一の正義だった。
何を見ても同居人を連想する日々が続いた。何をしても楽しくなかった。食事の質が落ちたせいで体調も変わった。それでも不思議と、死んでしまいたいとは思わなかった。悲しい事に集中すると、他の事に集中しすぎずに済んだ。なんていうか色々捗った。ロボットのように仕事や食事や人付き合いをこなした。こんな辛いことを乗り越えたのだから、何があっても生きていけるだろうと、直感で理解した。悲しいときは運動をした。泣きそうになったらご飯を食べた。あれからだいぶ時間が経った。何かを見て同居人を思い出すことは、今では殆ど無くなった。
人間の記憶はすべて熱量だと思っている。同居をやめてから、変化に対応していくなかで、たくさんの記憶の熱量をエネルギーに変換して生きてきた。変換したら消えていく。記録と事実は残るが、涙が出るような、胸が痛むような熱量は、失ったら二度と戻らない。
あらゆる事について、もう少し若い頃はこの「失っていく感覚」「燃えていく感覚」を怖いと思っていた。なるべく残したくて、よくテキストにしていた。いつからかそんな執着は無くなり「燃えているな」「もう二度と会えないんだな」とまっすぐに見つめるようになった。何かを決断した自分が得た変化の一つだ。燃えたエネルギーを、これから別のなにかに注ぐ事。もう二度と出会えない分だけ、新しい事が入る余地が出来るんだろう。望むと望まざるに関わらずだ。
もう思い出す種火が少なくなっているのかもしれない。タワシを洗いながらそう感じた。消える前の焚き火を思い浮かべた。少しくらい残したっていいだろう。それくらい愛していた。自信をくれたのだ。自分で作った人工の家族の思い出の事。嘘は一つも書いていないが、自分と同居人の性別や年齢や重要なことは書かない。
新興宗教の場合、信仰を持ってるだけでなく、広めようとする可能性が割と高いからじゃないですかね。
カトリックやヒンズー教でも、熱心すぎて周りにセミナー(ミサ)に参加しないか誘ってくるような人はやはり信用出来ないでしょう。
そして、仏教やカトリック等、生活に干渉しない範囲のゆるい感じで所属できるメジャー宗教が周りにあるのに、
敢えて少数派である新興宗教を信仰し、その更に信仰を明らかにしているような人は、
「そうしなければならない何らかの理由がある」という想像が働きます。
そこで想像される理由なんて、あんまりマトモな物は思い浮かびませんよね。
そんなわけで、新興宗教を信仰してる人は「何か信用できない」という印象を受けますし、
そう考えるのがおかしいとは思いませんね。
どの宗教か知らんけど知らんもんにうっとなってるだけじゃないの
ヒンズー教とかクリスチャンとか仏教徒は常識だから知ってるし怖くない
知らんもんは怖いっていうだけで
教会で結婚式を挙げ、子供の七五三には神社で祈祷をしてもらい、多分死んだらお寺でお経を読まれるであろう、ある意味典型的な日本人だ。
今日、とある宗教団体の若者達と話をする機会があった。彼らの身分は学生で、あと何年かすれば社会に旅立って行く子達だ。
彼らに会いに行ったのは仕事の付き合いで、正直気乗りするものではなかった。私の仕事について講義をし、簡単なディスカッションを行うといった内容だ。
仕事柄、こういった講義の依頼は大学や専門学校などから年に何度か受けているのだが、今日の講義・ディスカッションを受けた学生の質は、非常に高かった。そして私が感じた率直な思いは、「こういった形で出逢わなければうちの会社に欲しいところだ」というものだった。
彼らの団体に対する依頼を受けた事で、彼らは私をその宗教に理解のある人、つまり味方であると捉えている。私に対しては自分の信仰をさらけ出してもいいのだと信頼をしている。しかし申し訳無いが、私は別にその宗教に対する理解者では無いのだ。ただ信仰を持っている人達だという理由で避けたり差別すべきで無いという精一杯の倫理観で引き受けたにすぎない。
結果今、私はひとり思い悩んでいる。
素直で、熱意を持って私の話に耳を傾けてくれる優秀な彼らを心から信頼し、受け入れる事が出来ない自分に。
頭のすみに「得体の知れないもの」という一抹の不安が引っかかり続けている自分について。
私の会社にはクリスチャンがいる。しかし私を含め誰一人、その事で不安になるものは居ない。よく行くカレー屋のインド人(ネパール人かも知れない)はヒンズー教人かも知れないが、だからどうしたといった感じだ。優秀なプログラマであればヒンズー教人のインド人を雇う事に躊躇はしないだろうし、親戚の婆ちゃんが頻繁にお寺にお参りに行く事を微笑ましくさえ感じている。
しかしこれが新興宗教となると気持ちが一変する。私の中の警告アラームが鳴り出し、倫理観で抑えようにも抑えきれずにいる。そしてこれは私だけの感覚で無いと確信さえしている。
仮に今日会った彼らの事を社員に説明し、将来彼らを雇うと言ったら反対する者が一定数いるだろう。反対を押し切って入社させれば、「退職します」と言いだす者も出てくるかもしれない。
この差は何なのだ。なぜ受け入れられる信仰と、受け入れられない信仰が、無宗教である私の中に既に形成されているのだろうか。
そんな事を考え続けいるのだが一向に答えが出ない。
仏教ってあれなのか。万人救済はする気はないんか。分かる奴だけ来い、みたいな
「救済」ってどういうことなんですかね?
黄泉の国にでも連れてけっつってんのですか?
んなこと考えてるから、オウム真理教とかにコロッと騙されちゃうんじゃないっすか?
ヒントはね・・・
むかーしのインドでは・・今もそうらしいですけど・・「輪廻転生」を繰り返す、とかって思われてたらしいんですけど、仏教の創始者と思しき人々は輪廻転生なんかないって言っちゃったらしいです。
なんで「輪廻転生なんかない」ってはっきり言えてしまったんでしょうね?
ちなみに、インドの気候って激しい雨季があって乾季があって、のように繰り返すので洪水や飢えに苦しむのも繰り返し。
その上、バラモン教(古代ヒンズー教)、カーストは生まれ変わろうと変わんないとか言われてたので、ぐるぐる繰り返す苦しみだけがあるのが人間、という思い込みが強烈だったそうです。
そういうのが輪廻転生思想の源流です。なのでみんなそこから解脱したかったんですよね。
そういう古代インドの思想をそのまま仏教でも引き継いでます。用語とかがそのまま使われていると言うような意味でね。
その辺をちょっとは理解すると理解の助けになるかもしれません。
でも、日本のサラリーマンだって似たようなもんですね。毎日毎日仕事の繰り返し・・・宝くじでも一発当てて楽になりたいって気持ちは古代インド人のそんなのと一緒ですよねーw
キリスト教はようしらんけど、ヒンズー教・仏教・神道は男根を元ネタとした用語なり、像なりがあるし。
日本にはもろに男根を祀った神社とかあるし、明らかにソッチのほうが生々しいし。
http://matome.naver.jp/odai/2136858729947749601
男根だの性的だのという事自体をそもそも否定してかかる人はある種のダブルスタンダードか、自分達が生き物だということを否定してる不自然な連中だと思うんだけど、どうなんですかね?
性的な色目・誘惑する表情をしてるとか、露出がやらしいとかも、もっと過激なものはいくらでもあると思うけど…どうなんですかねぇ?
と、僕自身は未だにもやもやしてるけど周り見てみるとそうでもないのよね…。
「男根のメタファー」って言葉がある種の大喜利大会の題材みたいになって、「フェミとか反オタク的な人達からの当て付け」であることからも忘れ去られそうになってて、その「大喜利大会」もそれほど面白い方向ではなく、「相手が100%悪いバカだから100%」叩いていいみたいないじめの様相を呈してるのがあまり好きになれないんだよなぁ…。
うーんどうなんですかねぇ?
昨日友達と話してたら。お互い高学歴同士だったんだけど。お互い理系。
話の結論的には。
相手 「朝食を食べたほうが成績が伸びるとかって、話として怪しい、根拠は何って感じ」
俺 「たしかに、朝食を食べた人達と、食べてない人達のテストの平均点を比較する手法は現状否定されてる」
相手 「だろ?だから分からないんだよ、朝食を作ってくれるようなやさしい親なら、教育に金だすだけって結論かもしれないし、朝食の微量蛋白がパフォーマンス上げるのかもしれないし、分からないはず」
俺 「でも、尤度で考えると、『朝食を食べて成績が上がった人数』『朝食を食べて成績が上がらなかった人数』『朝食を食べずに成績上がった人数』『朝食食べずに成績上がらなかった人数』この4者を比べれば、朝食を食べたことで成績が上がったのか、成績が上がったことと朝食を食べることは無関係なのか、はっきりと数学的に示せる」
相手 「知らないなあ、でもやっぱりおかしいと思う」
俺 「ふ~ん」
俺 「宗教とかってさ、その土地や遺伝子に有利なように作られてるじゃん?だからさ、俺らの遺伝子は日本の制度になじんでるし、インド人はヒンズー教になじんでるんだよ、牛を食べちゃダメとかさ~、あれも、農業より肉食優先だと不利な環境だからとか、そういう理由だと思うよ~」
相手(最近外人の彼女ができた) 「俺そういう考えきらい、そういうの関係なく宗教あると思うし。分からないじゃん。何が原因とかって。」
俺 「ふ~ん。でもさ、日本人とかって、血がとまりにくいじゃん。でも、欧米の人って血が止まりやすいんだよね、手術のときとか。それってさ。欧米人って狩猟してたから、血がダラダラ流れてたらまずいけど、日本人とかって農業だからさ、血が固まらなくていいじゃん的な」
相手 「う~ん、まあそうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないよね、別の原因とかさ~。証明できないじゃん」
俺 「一応、そういうの証明ってか、何の影響が大きいかを証明できるってので、尤度比ってのがあってさ。簡単に言うと、薬を使って、効果が出たでないじゃなく、薬を使わないで効果でたでないって人達も見て検証するみたいな?本当に薬の効果なのか、ほら、プラセボって言うじゃん、それのせいなのかとかさ。あるいは、薬Aと、薬Bどっちがよく効くかを比較するとか。ベイズ推定って聞かない?」
相手 「知らないなあ。でもおれはそう思わないんだよなあ。肉食ったから身長が伸びたとかいうけど、オランダとかって世界一身長高いじゃん?あれ、肉に成長ホルモンいれたから、それでっていう話で。日本人も肉食が原因っていうけど、成長ホルモン入りの肉食ってるからでしょって」
俺 「だから、そういうのでも答えだせる手法があってさ。肉食がとかさどの程度身長に及ぼすかって、肉食わなくても身長伸びた人、肉食わなくて身長伸びなかった人、肉食って身長伸びた人、肉食って身長伸びなかった人の4者の比率で分かるってか。どの程度の影響度か証明できるんだよね。」
つまりさ。
俺が当たり前にクリアカットに答えを出せる人生を生きる上での悩みみたいなの。それをクリアできるできないって、こんなところで差がついてるんだなあ。って思った。
実際、医学ってこんな感じで、「この病気の原因はこれらしいぞ」とか、推定を絞っていくのは普通にやられてるし、それで普通に教科書載ってるし、それにそって医学的な診断や治療が現状なされてる。
つまり、これは正しい手法かはちょっと謎だし、もっといい手法が将来生まれそうだなとは思うけど、「実質そうやって判断されている」ってのを知らずに生きているのと、知って生きているのとは段違いだなと思った。
と同時に、これ理解できないと、多分一生この相手はこれを理解できないんだろうけど。そういう勘違いも含めて人生かなって思った。
よく分かっていて、客観的には怖がったり避ける必要が無いものでも、信条から避ける権利は誰にでもある。
たとえばイスラム教の豚肉とか、ヒンズー教の牛肉とか、日本人が猫や、近代ではイヌを食べないのとかね。
放射脳も基本はそれと同じで「”彼らにとって”安心できないから食べない」というのはいいの。
教義に反するからと事実を学ぼうとしないのは、まあ、黒に近いグレーだろう。
あなたの主張どおり「安心できないから食べない」というのは確かに自由。
ただし、「それは(人間にとって)安心できないものだ」と事実をねじ曲げて主張したり、拡散するのはいけないこと。
ある事実に対して「(客観的な根拠がないのに)危ない」とか「事実を隠している」とか主張して
それを他人に押しつけようとしたりするから駄目なの。
発端:http://i.imgur.com/VlwP6.jpg via Reddit
オリジナル:http://www.galactanet.com/oneoff/theegg_mod.html
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おまえが死んだのは帰宅の途上のことだった.
車の事故だ.なにも特別なことはない.ただ命取りだっただけだ.お前は妻と2人の子供を残して逝った.痛みはなかったはずだ.救急チームはベストを尽くした.でも駄目だった.おまえの身体は完璧にぶっ壊れてたから,死んだほうがよかったんだ.嘘じゃない.
そしておまえは私と出会った.
「一体……何が起こったんです?」お前は尋ねた.「ここはどこなんですか?」
「そう」と私.
「わたしは……死んだ?」
「そう.だがまあ気を落とすな.誰だって死ぬ」と私.
おまえはあたりを見渡す.まわりには何もない.おまえと私だけだ.「ここはどこなんです?」お前は尋ねる.「死後の世界ってやつですか?」
「そんなところだ」と私.
「あなたが神様ですか?」とお前.
「ああ」と答える.「私は神だ」
「子どもたちは……わたしの妻は……」とお前.
「彼らがどうした?」
「今後上手くやっていけるのでしょうか?」
「うれしいことを言ってくれるじゃないか」と私.「死んだというのに一番気にしているのは家族のことか.善い振る舞いだ」
おまえは魅惑されたように私を見ている.おまえには私はまったく神様らしく見えない.ただの男,あるいは女性のように見える.多分,ある種の漠然とした権威を示す姿形だろう.「全能者」というよりも学校の文法の教師のほうが近い.
「心配しなくていい」と私.「みんな大丈夫だ.子どもたちはおまえを何事にも完璧な父親だったとして記憶する.彼らにはお前のことを思ってうじうじと悩む暇なんてない.お前の妻は外では泣くだろう.だが内心ではほっとしている.公平に言えば,おまえたちの結婚は終わっていたんだ.ただし,彼女は自分がほっとしていることをとても後ろめたく思っていると言えば慰めになるかな?」
「あぁ……」とおまえ.「で,これから何が起こるんです?わたしは天国か地獄かそんなところへ行くんですか?」
「いや」と私.「おまえは生まれ変わる」
「おぉ」とおまえ.「それじゃヒンズー教徒は正しかったんですね」
「どんな教えもそれ自身の意味では正しい」と私.「ついてきなさい」
おまえはついてくる,私が虚空を歩くに従って.「どこへ行くんですか?」
「どこへ行くというわけじゃない」と私.「ただ,歩きながら話したほうがいいと思ってね」
「それでどうなるんですか?」とおまえ.「わたしが生まれ変わったら,まっさらな状態になるんじゃないですか?ただの赤ん坊に.わたしがこの人生で得た経験も何もかも意味がなくなってしまう」
「そうではない!」と私.「おまえは過去の人生で得た全ての知識と経験を持っているのだ.ただ今はそれが思い出せないだけだ」
私は歩みを止めておまえの肩を掴む.「おまえの魂はおまえが考える以上に素晴らしく,美しく,莫大なのだ.人の心というものは存在のほんの断片しか保つことができない.ちょうど水の入ったグラスに指を浸して,水が熱いか冷たいかを確かめるようなものだ.おまえは自分自身のほんの一部分だけを水に入れている.そこから出してしまえば,得られた経験は全てお前のものになるのだ」
「おまえはこの48年間ずっと人間の中にいた.だからまだ広がりきってないし,浸っていたときの意識の名残りを感じている.もしも私とおまえがずっとこうしていれば,おまえは全てを思い出すだろう.だが,それぞれの人生の間でそうなることはない」
「一体,どれくらい私は生まれ変わったんです?」
「多く.とてもとても多く.様々な人生の中に」と私.「今回,おまえは西暦540年の中国の農家の娘になる」
「何ですって?」おまえはつっかえる.「あなたは私を過去に送るのですか?」
「まあ,言ってしまえばそうだろう.時間というものは知ってのとおりおまえの宇宙にしか存在しないものだからな.私が来たところとは違うのだ」
「あなたはどこから来たのですか?」とお前.
「ああそうだな」と私は説明する.「わたしはある処から来た.ここではないある場所だ.そこには私と同じような者たちがいる.そこがどんなところか知りたいだろうが,正直なところお前には理解できないだろう」
「あぁ」おまえは気を落とす.「でも待ってください,もしわたしが同じ時代に別の場所で生まれ変れるのなら,わたしは自分自身とやり取りできるということではないですか?」
「もちろん.それはいつも起こっている.そして二人は自分自身の人生を意識しながら,それが起こっていることに気づかないのだ」
「ではこれら全てに何の意味があるのですか?」
「本当に聞きたいか?」私は尋ねる.「本当に?おまえは今わたしに人生の意味を問うているのだぞ.あまりに型にはまった質問じゃないか?」
「ええ,しかし利にかなった質問です」おまえは抗う.
私はおまえの目の中を覗き込む.「人生の意味とは,わたしがこの宇宙全てを創った理由は,おまえを成熟させるためだ」
「違う,おまえだ.わたしはこの宇宙全てをおまえのために創った.おまえが新しい生命の中で育ち,成熟してより大きくより偉大な知性となるために」
「わたしだけのために?他のみんなは一体?」
「おまえの他は誰もいない」と私.「この宇宙には私とおまえだけだ」
お前は呆気にとられて私を見つめる.「しかしこの地球上の他の人々は……」
「全てお前だ.お前の別々の生まれ変わりだ」
「ええっ,わたしがみんな!?」
「分かってきたようだな」とおまえの背中を励ますように叩いて言う.
「わたしは今まで生きた人類全て?」
「あるいはこれから生きる者も含めて,そうだ」
「わたしはアブラハム・リンカーン?」
「そしてジョン・ウィルクス・ブースだ」と私は付け加える.
「そして彼が殺した何百万人でもある」
「わたしはイエス?」
「そして彼に付き従った者全てだ」
おまえは押し黙った.
「おまえが誰かを犠牲にしようとするたび」と私.「おまえは自分自身を犠牲にしているのだ.おまえが行った全ての親切は,おまえが自分自身に行ったことなのだ.人類が経験した,あるいはこれから経験する全ての幸福と不幸,それを経験するのはおまえなのだ」
おまえは長いこと考えていた.
「なぜ?」とおまえ.「これら全ては何のために?」
「なぜならいつの日かお前は私のようになるからだ.なぜならそれがおまえという存在だからだ.おまえは我らが種の一員だ.おまえは私の子どもなのだ」
「なんという…」お前は言う,信じられなさそうに.「つまり,わたしは神の一員だと?」
「いや.まだそうではない.おまえは胎児だ.まだ成長の段階にある.全て時代の全ての人生を生きれば,おまえは孵るのに適したほどに成長するだろう」
「それではまるで,この全宇宙は」とお前.「それはちょうど……」
「ちょうど卵のようなものだ」私は答える.「さあ,次の人生に移動する時間だ」
そして私はお前を送り出した.
http://www.asahi.com/paper/editorial.html
外国人選挙権―まちづくりを共に担う
自治体の首長や議員を選ぶ際に永住外国人が投票できるようにする。この外国人地方選挙権の導入に、鳩山首相や小沢・民主党幹事長が前向きな姿勢を示し、来年の通常国会にも法案が出される見通しだ。
98年以降、民主党や公明党が法案を出してきたが、根強い反対論があって議論は進まなかった。この間に地域の国際化は急速に進んでいる。鳩山政権は「多文化共生社会」をめざすという。実現へ踏み出すときではないか。
日本に永住する外国人はこの10年で5割増えて91万人になった。このうち歴史的経緯がある特別永住者の在日韓国・朝鮮人は42万人だ。年々増えているのは80年代以降に来日し、仕事や結婚を通じて根を下ろし、一般永住資格を得た人たちだ。出身国も中国、ブラジル、フィリピンと様々だ。
地域社会に根付き、良き隣人として暮らす外国人に、よりよいまちづくりのための責任を分かち合ってもらう。そのために地方選挙への参加を認めるのは妥当な考え方だろう。
日本の活力を維持するためにも、海外の人材が必要な時代である。外国人地方選挙権を実現することで、外国人が住みやすい環境づくりにつなげたい。分権時代の地方自治を活性化させることもできる。
「選挙権が欲しければ国籍をとればいい」との考え方がある。だが、母国へのつながりを保ちつつ、いま住むまちに愛着を持つことは自然だ。そうした外国人を排除するのではなく、多様な生き方を尊重する社会にしたい。
合併などを問うための住民投票条例の中で、外国籍住民の投票権を認めた自治体はすでに200を超えている。地方選挙権についても最高裁は95年、立法措置をとることを憲法は禁じていないとの判断を示している。
世界を見ても、一定の要件を満たした外国人に参政権を付与する国は、欧州諸国や韓国など40あまりに上る。
近年、声高になってきた反対論の中には「外国人が大挙して選挙権を使い、日本の安全を脅かすような事態にならないか」といった意見がある。
人々の不安をあおり、排外的な空気を助長する主張には首をかしげる。外国籍住民を「害を与えうる存在」とみなして孤立させ、疎外する方が危うい。むしろ、地域に迎え入れることで社会の安定を図るべきだ。
民主党は選挙権を日本と国交のある国籍の人に限る法案を検討しているという。反北朝鮮感情に配慮し、外国人登録上の「朝鮮」籍者排除のためだ。
しかし、朝鮮籍の人が必ずしも北朝鮮を支持しているわけではない。良き隣人として共に地域社会に参画する制度を作るときに、別の政治的理由で一部の人を除外していいか。議論が必要だろう。
もし「多文化」の最小単位を「個人」にまで微細化してしまった場合、多分その場の全員が「中国人」か「イスラム教徒」かのどちらかになると思う。次点で「ヒンズー教徒」かな。人口比で言えば確実に彼らが多数派だし、人数の増え方もトップクラスだもん。数の論理で、二者がそこら中に存在する事を受け入れる事なければならなくなってしまう。しかしそうなると逆に「中国人」や「イスラム教徒」以外のアイデンティティがこの二者に駆逐されてしまう現実もある。彼らの他文化に対する寛容さはぶっちゃけ下から数えた方が早いんだもん。どちらもあちこちで中華街とかスラムとか作って、現地の人間と隔絶されたコミュニティー作りまくってるから。そういう連中に対して「多文化共生」を唱えてる連中がアクション起こした事あんの?何か成果を出してるの?
そもそも多数派を占める彼ら自身が、「多文化共生」なんて屁の突っ張り程度にも考えてないが故に多数派を獲得しているんだよね。だから「多文化共生」を唱える事が、結果的に「多文化共生」を微塵も考えてない連中を利する事にしかならんのよ現状は。こっちが相手を受け入れる準備を整えても、相手がこっちを受け入れるとは限らんでしょ。
この社説子にも言いたい事だけどさ、「多文化共生」を訴える相手偏りすぎてるよね。前述の中華街作って、中国人同士で勝手に結束しちゃってる連中にも言うべきだよね。なんか彼らの長老会みたいな所に乗り込んでいって。「それではいけない!長老会にもアメリカ人や日本人やロシア人を参加させるべきだ!多文化共生万歳!」ってさ。それをやらないから、保守的な連中から「ていうかお前どこの国の味方?」と疑われるんだと思うよ。それが嫌なら、タリバンとか反米国家に向けて「多文化共生しましょう!欧米文化を受け入れましょう!」って言えばいいと思うよ。何故かそういう所に関しては、「帝国主義のアメリカに抵抗する勇敢な人々」みたいなとらえ方する人多いけど。
http://anond.hatelabo.jp/20090121144441
(M)先人がミサイルや戦車を使うのみならず、信念と確固たる同盟をもってファシズムや共産主義に勇敢に立ち向かったことを思い出そう。
(A)先人たちがファシズムと共産主義を屈服させたのは、ミサイルや戦車によってだけではなく、頼もしい同盟国と強固な信念によってでもあることを思い起こしてほしい。
(Y)前の世代は、ファシズムや共産主義と、ミサイルや戦車だけではなく、強固な同盟と強い信念を持って対峙(たいじ)したことを思い出してほしい。
(M)先人は軍事力だけが我々を守るのではないことや、またそれを好き勝手に使えないことを知っていた。
(A)彼らは自らの力だけが自分たちを守ったのではないことも、その力が、自分たちが好きなように振る舞う資格を与えたのでもないことを理解していた。
(Y)彼らは、我々の力だけでは我々を守れず、好きに振る舞う資格を得たのではないことも理解していた。
(M)代わりに、彼らは慎重にそれを使うことで力が増し、安全は目的の正しさや、他国の手本となる振る舞い、謙虚さや自制心から発することを知っていた。
(A)その代わりに先人たちは、自らの力は慎重に使うことで増大し、自らの安全は、大義の正しさ、模範を示す力、謙虚さと自制心から生まれると知っていた。
(Y)代わりに、慎重に使うことで力が増すことを理解していた。我々の安全は、大義の正当性や模範を示す力、謙虚さ、自制心からいずるものだ。
(M)我々はこの遺産を引き継ぐ。
(A)私たちはその遺産の継承者だ。
(Y)我々は、この遺産の番人だ。
(M)これらの原理に再び導かれ、解決により一層の努力が求められる新しい脅威に対抗できる。
(A)いま一度こうした原理に導かれることにより、私たちはより厳しい努力、つまり、より強固な国際的協力と理解を必要とする新たな脅威にも立ち向かうことができる。
(Y)こうした原則にもう一度導かれることで、我々は、一層の努力や、国家間の一層の協力や理解が求められる新たな脅威に立ち向かうことができる。
(M)我々は責任を持ってイラクから撤退し始め、イラク人に国を任せる。そしてアフガンでの平和を取り戻す。
(A)私たちは、責任ある形でイラクをその国民の手に委ねる過程を開始し、アフガニスタンの平和構築を始める。
(Y)我々は、責任ある形で、イラクをイラク国民に委ね、苦労しながらもアフガニスタンに平和を築き始めるだろう。
(M)古くからの友人とかつての敵と共に、核の脅威を減らすために絶えず努力し、さらに地球の温暖化とも戦う。
(A)また古くからの友好国とかつての敵対国とともに、核の脅威を減らし、地球温暖化の恐れを巻き戻す不断の努力を行う。
(Y)古くからの友やかつての敵とともに、核の脅威を減らし、地球温暖化を食い止めるためたゆまず努力するだろう。
(M)我々の生き方について言い訳はしないし、それを断固として守る。
(A)私たちは、私たちの生き方を曲げることはなく、それを守ることに迷いもしない。
(Y)我々は、我々の生き方について謝らないし、それを守ることを躊躇(ちゅうちょ)しない。
(M)無実な人々を殺したり、脅迫で自己の目的の実現を図る者に対し、告げる。
(A)自分たちの目的を進めるためにテロを引き起こし、罪のない人々を虐殺しようとする者に対し、私たちは言おう。
(Y)テロを引き起こし、罪のない人を殺すことで目的の推進を図る人々よ、我々は言う。
(M)我々の意思の方が強く、我々の意思を曲げることはできない。
(A)いま私たちの精神は一層強固であり、くじけることはない。
(Y)我々の精神は今、より強固であり、壊すことはできないと。
(M)我々の方が長く生き、そして打ち負かす。
(A)先に倒れるのは君たちだ。私たちは君たちを打ち負かす。
(Y)あなたたちは、我々より長く生きることはできない。我々は、あなたたちを打ち破るだろう。
(M)我々の多様な出自は強みであり、弱みではない。
(A)なぜなら、私たちの多様性という遺産は、強みであり、弱点ではないからだ。
(Y)我々のつぎはぎ細工の遺産は強みであって、弱みではない。
(M)キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンズー教徒、そして無宗教者の国だ。
(A)私たちの国はキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンドゥー教徒、そして無宗教者からなる国家だ。
(Y)我々は、キリスト教徒やイスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンズー教徒、それに神を信じない人による国家だ。
(M)地球上の津々浦々から来たあらゆる言語と文化で形作られている。
(A)世界のあらゆる所から集められたすべての言語と文化に形作られたのが私たちだ。
(Y)我々は、あらゆる言語や文化で形作られ、地球上のあらゆる場所から集まっている。
(M)内戦(南北戦争)や人種差別という苦い経験もしたが、その暗い時代をへて、我々はより強くなり、きずなも深くなった。
(A)私たちは、南北戦争と人種隔離という苦い経験をし、その暗い歴史の一章から、より強く、より結束した形で抜け出した。
(Y)我々には、南北戦争や人種隔離の苦い経験があり、その暗い時代から出てきて、より強く、より団結するようになった。
(M)かつての憎しみはいずれ消え、我々を分け隔てた壁はいずれ消える。
(A)それがゆえに、我々は信じる。古い憎悪はいつか過ぎ去ることを。種族的な境界は間もなく消え去ることを。
(Y)我々は信じている。古くからある憎しみはいつかなくなり、民族を隔てる線も消えると。
(M)世界が小さくなるにつれ、我々が共通に持つ人類愛が出現する。
(A)世界がより小さくなるにつれて、共通の人間性が姿を現すことを。
(Y)世界が小さくなる中で、我々に共通の人間愛が現れることになると。
(M)そしてアメリカは平和の時代をもたらす役割を果たさねばならない。
たとえて言えば、あくまでも、たとえなので不正確だけど。
というのは、同じようでいて微妙に違う。
これを、
キリスト教の信者の女性 は ヒンズー教の信者の女性の幸福を見て、違う部分を発見して、あれは違うと言い、
ヒンズー教の信者の女性の幸福 は キリスト教の信者の女性の幸福 と違う部分を発見して、あれは違うと言い
言い争いになってしまう。人それぞれ価値観が違うので、女性だから、と言っても
国・地域・宗教・年代・環境、様々な要素から価値観が違うので、必ずしも子供を産むことが女性の幸福とは言い切れない。という事。
価値観の1つとして、子供を産むことが女性の幸福であると考える人もいる。というのは、あってるけど。
子供を産むことが女性の幸福である。というのは、誤りだと思う。
たとえをさらにたとえると
シスターなどは結婚しないし、そのせいで子供も作らないけれども、それはそういう選択だし
その延長線上で、生理的嫌悪感などから子供を作りたくないという女性がいるならば、その人にとっては子供を産むということは不幸なのかもしれないし、
単なる勘違いで、実は、子供をもうけた方がよいのかもしれない。
でも、それは、その人と、その人の周りの人が話し合って決めることだから、第3者がどうこういうことじゃない。
そうやって、統合的に考えていくと、XXさんにとっての幸せというのは、XXさんとその周囲が話し合って考えて、決めること。
だから、その周囲にいない第3者が、女性の幸せってXXだよね。とか言うのは、ちょっと違うと思う。という事と
たまたま宗教上子供を作らないと決めた人や、その他の理由から子供は作らないと決めた人への配慮が足りない発言じゃないか?
という事。
ゲーム理論で「しっぺ返し戦略が最適」とされるのは、同じ相手と永久に付き合う場合であり
一回きりの付き合いであれば、攻撃が最適となる。
有限回の付き合いであれば、最終の対応は攻撃がベストとなる。
最期に攻撃されるのであれば、先手を打たなければならない。
他者は全て潜在的な敵となり、社会は崩壊してしまう。
という合理主義の行き着く結末を回避し、社会を維持してきたものが宗教である。
「死んだ後も魂はまだまだ続くよ!」と皆で信じることによって、
ライフゲームの「最後の手」を出させないようにするキリスト教やヒンズー教。
現世の人間関係の絶対性を徹底的に脳に刻ませる儒教、日本教、共産主義。
一神教vs多神教という差よりも、未来主義か現世主義かという差のほうが大きい。
そして危険性/安全性という観点や、タブーの多さという観点においては
どちらが優れているとも言えない。
なんとなく聞いた事はあるけど全然ピンとこねーよ
牛とか食べないやつでしょ?
カーストで決まってるからって一生片足で立ち続けなきゃいけない人とかのやつでしょ?
発祥の地に根付かないなんてどんだけー
んで今、仏教の国ってかなり少ないらしい
あきらめたら試合終了ですよってレベルじゃない
ドーピングしてもきっと勝てない
せめてブラジルとか仲間にしとけ
なんだよ裏切るんじゃねーよ
一方、アメリカでは禅マインド(ZEN)がもてはやされてるらしい。
今の若いヤツらで禅の世界なんか知ってるヤツなんかいねっつの
だから何回も言ってるけど禅はインド生まれだっつーの
何『本場日本の禅は??』みたいな事言っちゃってんの?バカなの?
とか色々仏教の事かじってみたけど知らん事ばっかりでびっくり
初めて知ったし(笑)超同じもんだと思ってた
多神教を支持する集団が、多神教であるがために異教徒と争ったという例をおれは知らない。あるかもしれないけど、どうなの、その辺。
ヒンズー教徒にも原理主義者はいて、パキスタンとの紛争が絶えない理由の一つだし、そもそも独立時にインドとパキスタンが分裂した一因。
日本の廃仏毀釈運動だって、国家権力を握った多神教集団が異教徒を弾圧したという要素はある。(それが主たる要素だとまでは言わないけど、そういう側面は否定できないんじゃないかなあ。例えば「夜明け前」に出てくる藤村の親父さんなんて、多分に「神道原理主義」的なところがあるけど、ああいう人達が廃仏毀釈の一翼を担ってたわけでしょ。)