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2015-06-16

朝日社説自爆

 6月16日朝日社説社説子朝日新聞読者は論理能力の一切無いバカだと確信しているのだろう。この社説安保法制に反対する側の人々がいかに怠惰かえぐり出している。いや、そもそも彼らは本当に安保法制を潰したいのだろうか?安保法制を潰すのが目的なのではなく、安保法制反対運動お祭り騒ぎエンジョイしたいだけなのではなかろうか。

 http://www.asahi.com/articles/DA3S11809039.html?ref=editorial_backnumber

 これによれば、集団的自衛権憲法との関係を整理した1972年(昭和47年)の政府見解は以下のとおり。

 ①わが国の存立を全うするために必要自衛措置をとることを9条は禁じていない。

 ②しかし、その措置必要最小限の範囲にとどまるべきだ。

 ③従って、他国に加えられた武力攻撃を阻止する集団的自衛権行使は許されない。

 ここでは 集団的自衛権行使必要最小限の範囲 という命題が背後にある。しかし、集団的自衛権行使定義は一応一定したものである一方「必要最小限の範囲」は軍事技術進歩や国際情勢の変化によって変わり得るものだ。

 朝日新聞は「理屈は同じなのに結論だけを百八十度ひっくり返す。環境が変われば黒を白にしてよいというのだろうか」などと言うがこれは感情的詭弁というものだ。理屈が同じでも議論の前提が変わったら推論の結果が変化するのは当然ではないか。論理的反論ではない。

 さらに後段で「こんなことやっていいの?ほんとにいいの?だめだよね?」とばかりに非難を続けるが散漫で情緒的なばかりだ。要するに社説子違憲だと思い込んでいる事例を列挙しているにすぎず、それらが本当に違憲かどうかはそれが「必要最小限」かどうかによる。そして必要最小限を越えることを示せれば違憲だね、と論証できる。これが論理的議論というものだ。そしてそうするには代案を示すか他の根拠をあげればよい。なんでこんな無駄文章をつらねる必要があるのか理解に苦しむ。

 そもそも安保法制論理的に反対するのは簡単なことだ。政府の主張はとどのつまり「今まで

 集団的自衛権行使必要最小限の範囲 

だったが、安全保障環境への変化によって

 集団的自衛権行使必要最小限の範囲 

となった」

 というだけなのだから、これをつき崩せばいい。ならば集団的自衛権自衛権必要政府が想定している各種事態に対して 集団的自衛権行使せずして対処する方策提示するか方策自体必要ない事を論証すればよい。それができないなら集団的自衛権行使必要なんだろうねとなる。それ以外の方法であれやこれやと理屈をこねて無理な反対ごっこをしてみても所詮負け犬の遠吠え

 ところでそもそも①、②、③すら認めない人々もいる。だがこれは昭和47年以来の政府見解すら認めない人々。左翼ばかりとは限らないが、どちらだとしても今更国会議論するのは時間無駄だ。適当官僚に答弁させとけばいいのではないか。

2014-07-03

7月1日付け朝日新聞の社説がいつにもまして薄ら寒い

社説政治言葉 首相の「慈悲深い圧政

http://digital.asahi.com/articles/DA3S11218219.html?_requesturl=articles%2FDA3S11218219.htmlamp%3Biref%3Dcomkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11218219

だそうだ。赤旗コラムもかくやはと思われる一方的な決めつけと一部の政治団体の主張を代弁するご熱心さにはあきれるばかり。

から朝日社説は程度が低かったが、ここまででは無かったはずだ。

なんで、こんな独りよがりポエム社説として掲載するのだろう?天声人語ならいざ知らず。いや、コラムだってこんなん書いたらあきれるけど。

この社説子が読者に感じてほしいことは、

「俺はウージェーヌ・イヨネスコの『禿(はげ)の女歌手』を知っている文化的人間

安倍内閣暴挙不条理劇になぞらえる発想力。センスいいでしょ?」

「『カーテンコールの、喝采の代わりに。』どう?詩的でしょ?センス良いでしょ?」

こんなとこか?

センス無いよ。はっきり言って。

言葉遊びに耽っているのは、むしろ社説子ではないか。

集団的自衛権に関する憲法解釈変更について、ついでだから私見を述べておく。

とは言っても、今回の解釈変更についての賛成・反対のことではない。

デモクラシー担い手たる健全なる社会人なら誰もが知っている「ルール」(社内規則法律等、もろもろの)についてだ。

憲法法律であり、法律ルールであり、ルールは守らなくてはならず、ということはルールは守れるものでなくてはならない。

現状を追認すればいいというものではないが、現状に即した適切な条文に随時メンテナンスしなくては、ルールルールとして機能しなくなる。

守れる訳のないルール頑迷に変更しないまま金科玉条のように奉っておくと、そのルールはやがて形骸化し、却って何の歯止めにもならなくなるものだ。

守れる訳のないルールの一字一句にこだわるのは、ルール精神尊重していない言葉遊びと同じことだ。

そしてその言葉遊びは、ルール自体ゆっくりと間接的に蝕んでいく。

あなた身の回りにもあるのではないか?

たとえば創業者が決めたけれども時代社会や新しい法律整合性がとれなくなって、もはや誰も見向きしていない社内規則とか。

憲法9条は、法律の条文にすぎない。それによって守るべき価値は何か?日本国平和安全だろう。

しかし、かつてルールの一字一句を神聖視して、日本国平和安全などどうでもいいという人たちがいた。

彼らは「神聖なる憲法9条奉仕する自分」にうっとりするばかりの、自分をえらく見せたいだけの偽善者たちだった。

それが社会党共産党朝日新聞だ。

言葉遊びを非難するならば、彼らこそが非難されるべきだろう。

彼らは、国際情勢に合わせて憲法精神尊重しつつ条文をすこしずつ変えるという民主国家必要プロセスをあれやこれやの感情的屁理屈をもてあそんで邪魔してきたのだ。

そしてその結果として、今回の無理筋解釈変更が必要になってしまったのだ。

まり朝日新聞は「言葉遊び」によって憲法形骸化させた張本人の側でもある。自分たち言葉遊びの報いを別の言葉遊びで受け取ることになっただけのことだ。

いや、その報いを受けるのは国民全体なのだから憲法精神を真の意味尊重してきた人々には迷惑な話だ。

主権である私たちは声をあげ続ける。(中略)おかしい、認められないと」

こんなの今時は学生だって恥ずかしくってビラにも書かないような少女趣味アジテーションだ。

これで横暴な権力に立ち向かう革命の闘士気取りならば、いい気なもんだぜ。としか言えない。

社説に書くとはあまりにみっともない。

薄ら寒い自己陶酔はご自宅に配達される朝日新聞チラシの裏でやったらどうか。

朝日新聞は700万部(主催者側発表)発行されているそうだから、この社説のおかげでざっと数万冊のノートを作れるパルプとそれに印刷するインクを無駄にしたことになる。地球温暖化観点から問題だ。

2011-03-02

http://anond.hatelabo.jp/20110302223735

これでなんか上手い皮肉や風刺を言ったつもりなんだろうから参っちゃうよね

新聞社説子とかも最近こいつレベルからなお参っちゃうけど

2010-11-28

http://anond.hatelabo.jp/20101128002239

非モテタイムズDisたいだけ?

うん。 あ、いや違う

あの人達は本当にクソみてえにつまんないゴミ記事書くなとは思ってるけど

ここでは単に「代表的な誤用者」として使わせてもらっただけ。

名前が象徴的だしさ。

老人力」「草食系」というのはそもそもが新規的な言葉だから、誤用もクソもないよ。

モラルハザードだけについては理解できないわけじゃないけどね。

意味がわからない。

新規的な言葉だからこそ誤用が多い。

特に響きが面白い言葉ほどね。

意味を確かめずに思い込みで使う人が多いわけ。

本来の意味よりつまんない、ありきたりな既存の意味だと誤解して使う。

例えば彼等にかかると

老人力」は「年の功」とか「年寄りの知恵」になってしまう。

大新聞社説子ですら平気でそのように誤用していた。

それじゃあせっかく新規の言葉である老人力」の甲斐がない。

例えば君が正しい老人力」の意味を知ってるかも怪しいもんだ。

今ここでクイズとしたいけど検索して答えられるからクイズにならんのが残念。

2009-11-23

「多文化共生」の最小単位はどこに設定すりゃいいのか

http://www.asahi.com/paper/editorial.html

外国人選挙権まちづくりを共に担う

 自治体首長議員を選ぶ際に永住外国人投票できるようにする。この外国人地方選挙権の導入に、鳩山首相小沢民主党幹事長が前向きな姿勢を示し、来年通常国会にも法案が出される見通しだ。

 98年以降、民主党公明党が法案を出してきたが、根強い反対論があって議論は進まなかった。この間に地域の国際化は急速に進んでいる。鳩山政権は「多文化共生社会」をめざすという。実現へ踏み出すときではないか。

 日本に永住する外国人はこの10年で5割増えて91万人になった。このうち歴史的経緯がある特別永住者在日韓国朝鮮人は42万人だ。年々増えているのは80年代以降に来日し、仕事結婚を通じて根を下ろし、一般永住資格を得た人たちだ。出身国も中国ブラジルフィリピンと様々だ。

 地域社会に根付き、良き隣人として暮らす外国人に、よりよいまちづくりのための責任を分かち合ってもらう。そのために地方選挙への参加を認めるのは妥当な考え方だろう。

 日本の活力を維持するためにも、海外人材が必要な時代である。外国人地方選挙権を実現することで、外国人が住みやすい環境づくりにつなげたい。分権時代の地方自治活性化させることもできる。

 「選挙権が欲しければ国籍をとればいい」との考え方がある。だが、母国へのつながりを保ちつつ、いま住むまちに愛着を持つことは自然だ。そうした外国人を排除するのではなく、多様な生き方を尊重する社会にしたい。

 合併などを問うための住民投票条例の中で、外国籍住民の投票権を認めた自治体はすでに200を超えている。地方選挙権についても最高裁は95年、立法措置をとることを憲法は禁じていないとの判断を示している。

 世界を見ても、一定の要件を満たした外国人参政権を付与する国は、欧州諸国や韓国など40あまりに上る。

 近年、声高になってきた反対論の中には「外国人が大挙して選挙権を使い、日本の安全を脅かすような事態にならないか」といった意見がある。

 人々の不安をあおり、排外的な空気を助長する主張には首をかしげる。外国籍住民を「害を与えうる存在」とみなして孤立させ、疎外する方が危うい。むしろ、地域に迎え入れることで社会の安定を図るべきだ。

 民主党選挙権日本と国交のある国籍の人に限る法案を検討しているという。反北朝鮮感情に配慮し、外国人登録上の「朝鮮」籍者排除のためだ。

 しかし、朝鮮籍の人が必ずしも北朝鮮を支持しているわけではない。良き隣人として共に地域社会に参画する制度を作るときに、別の政治的理由で一部の人を除外していいか。議論が必要だろう。

もし「多文化」の最小単位を「個人」にまで微細化してしまった場合、多分その場の全員が「中国人」か「イスラム教徒」かのどちらかになると思う。次点で「ヒンズー教徒」かな。人口比で言えば確実に彼らが多数派だし、人数の増え方もトップクラスだもん。数の論理で、二者がそこら中に存在する事を受け入れる事なければならなくなってしまう。しかしそうなると逆に「中国人」や「イスラム教徒」以外のアイデンティティがこの二者に駆逐されてしまう現実もある。彼らの他文化に対する寛容さはぶっちゃけ下から数えた方が早いんだもん。どちらもあちこちで中華街とかスラムとか作って、現地の人間と隔絶されたコミュニティー作りまくってるから。そういう連中に対して「多文化共生」を唱えてる連中がアクション起こした事あんの?何か成果を出してるの?

そもそも多数派を占める彼ら自身が、「多文化共生」なんて屁の突っ張り程度にも考えてないが故に多数派を獲得しているんだよね。だから「多文化共生」を唱える事が、結果的に「多文化共生」を微塵も考えてない連中を利する事にしかならんのよ現状は。こっちが相手を受け入れる準備を整えても、相手がこっちを受け入れるとは限らんでしょ。

この社説子にも言いたい事だけどさ、「多文化共生」を訴える相手偏りすぎてるよね。前述の中華街作って、中国人同士で勝手に結束しちゃってる連中にも言うべきだよね。なんか彼らの長老会みたいな所に乗り込んでいって。「それではいけない!長老会にもアメリカ人日本人ロシア人を参加させるべきだ!多文化共生万歳!」ってさ。それをやらないから保守的な連中から「ていうかお前どこの国の味方?」と疑われるんだと思うよ。それが嫌なら、タリバンとか反米国家に向けて「多文化共生しましょう!欧米文化を受け入れましょう!」って言えばいいと思うよ。何故かそういう所に関しては、「帝国主義アメリカに抵抗する勇敢な人々」みたいなとらえ方する人多いけど。

 
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