はてなキーワード: 無宗教とは
犯罪被害を比較するのがおかしいっていう大前提は横に置くにしても、なぜ性犯罪だけを魂の殺人と呼ぶようになったのかな。
精神的含めて犯罪のダメージが長期にわたることは残念ながら多いし、自殺する人も多くの犯罪被害で見られる。
暴力被害、いわゆるDVの精神的身体的被害の大きさが性犯罪よりも軽いと思えないし、交通事故などでも故意ではないから罪が軽いだけで、被害の大きさそのものは甚大だ。
子どもが事故で殺されるケースは言うに及ばず、本人に障害が残るケースも多く人生を悲観して自殺する人もいる。
最近あったロマンス詐欺で数千万の被害にも近い感覚があって、こんなこと匿名でしかいえないけど一応女の私でも被害にあう前提の二択なら強制性交被害の方がマシだと断言できてしまう。アラフィフになったからか人生でコツコツ積み重ねてきた成果を奪われることが致命的に感じるからかもしれない、恥ずかしさも相まって衝動的に自殺してしまうかもしれないとすら思う。
量刑の軽重を議論することはどんどんやって欲しいと思う一方で、性犯罪だけを魂の殺人と呼ぶ、それらの犯罪とは違うんだという主張には首をかしげてしまう。
これは純潔をどれだけ重要と考えているのかの違いなんだろうか?純潔を重視している人がそういう主張をしているなら理解できる。
なんかさあふだんCookieとか全拒否ってるからだろうけどオススメ欄に皇室の動画とかバンバン出よるんだけどさあ
たまにそういうの見たらなんか皇室ファンみたいなののコメントが「お美しい……」とか「それに比べて〇〇はふさわしくない!」「〇〇家は悪!」とかマジで言っててヒェーってなるんだけどさあ
ふつうさあ「皇室を敬っている」自覚があるなら畏れおおくてなんも言えない感じ出すことない?
ふさわしいもクソも「雲の上で決められることであって庶民があれやこれやと夢想するだけでもはばかられる」みたいな雰囲気出すことで成り立ってるんじゃなかったっけ?
だって皇室って血統主義じゃん?どんなに顔がブサイクでも性格がクソでも血がそういう流れだったら天皇にって世界じゃないの?
いくら自由になってるとはいえ、そのなかでも皇室を崇拝する自覚があるならすくなくともそのヒエラルキーを受け入れてないとアナタは一体何を信じてらっしゃるの?ってならない?
「地獄の沙汰も金次第」とはいうが、あの世にお金は持って行けないはずでは……
よくよく考えると変なことわざだ
いや、待て……
もっと言うと、あの世に現世のモノは持って行けない……という世界観はいつからあるんだ
(順序が逆で、このニュースを見たからこそあの世に持って行けるものって何?という疑問がスタートしたわけだが)
それが現代日本に生きる人の世界観ではあの世にモノを持っていけないという認識に……いや、違うか
「オレが死んだら棺にタバコを入れてくれ」とか「あの人はタバコが好きだったから棺にタバコを入れましょう」みたいなことを言う人もいるな……
ということは「あの世にお金は持って行けない、しかしそれ以外のモノは持って行ける」という世界観を持つ人がいることになる
なんか……中途半端な感じがする、なんでお金だけダメなんですかアナタ
その一方で冥銭ってやつもあるんだよな
本物のお金じゃないあの世専用のお金を燃やすことであの世にいる死者に送金するらしい……類感呪術ってやつなのかな
昔は冥銭用のイミテーションのお金じゃなくてマジのお金を六文銭として使ったと聞く
通行料がいる、それ以外の財産は持って行けません……みたいな?
でも奪衣婆って鬼がいるんだよな
六文銭を払えなかったら衣類を奪う、逆に言えば六文銭を払えたなら衣服というモノは持ち込める……
身につけているものはセーフ?
対話を試みましょうね
「 『地獄の沙汰も金次第』というけれど、どんな苦境でも札束を積めば解決できることがあるって意味であって地獄というのはものの例えだよ。本当に閻魔大王様に賄賂を渡せると昔の人が考えていたわけじゃないと思う。」
「坊さんに高い金さえ払えばしっかり供養してもらえる状況を皮肉った側面もこのことわざにはあるんじゃないかな。」
「もともとの意味は『財産を寄付など善行のために使えば地獄に落ちない』みたいな意味らしいよ。」
なるほどなるほど、私もそう思います(あたりまえだ、そのツッコミをしたのは私なのだから)
でもなー、そのツッコミ群は「あの世にお金は持って行けない、しかしそれ以外のモノは持って行ける」という話について説明してくれない
「そもそも『あの世にお金は持って行けない、しかしそれ以外のモノは持って行ける』という世界観を持つ人がいる話はあくまで仮定でしょ?その前提は正しいの?」
確かにそれはそう、まずは現代日本における死生観……あの世観の裏取りしたほうがよさそうだ
「 『あの人はタバコが好きだったから棺にタバコを入れましょう』イコール『あの世にタバコを持って行ってもらう』は本当に真なの?」
そこも怪しいよね
死後の世界を信じていない人でもそういう事をするかもしれない
いや、どうだろう?自信ないな……
少なくとも言えることは、副葬品の目的はあの世に持って行ってもらうためだけではないであろうということ
「 『あの世にお金は持って行けない』は拝金主義者を嗜めることが目的の言説でしょ。」
でしょうね
「 『あの世に現世のモノは何も持って行けない』が実際のところじゃないの?」
それも確かにもっともらしいんだけど、実際に副葬品として亡くなった人の身の回りのモノとか生前好きだったものを棺に入れることもあるじゃん
その棺に入れるものの選択肢としてお金が無いのは何故?という話にもできる
確かにね、しかしだからこそ中国などのアジア圏の一部では冥銭というあの世専用のお金があるんじゃないか
あーそうか、これって「なぜ(一部地域を除く)日本では中国のような冥銭の文化が根付いていないのか?」という問いと言い換えることもできるのか
私もそう思っている、でもそう思っていない人もいる
余談だが「自分が死んだら無になる」はすんなり受け入れることが出来るけど「大切なあの人は死んだから無になった」はちょっと受け入れるのに抵抗がある
いろんな地域、いろんな時代の世界観をごっちゃにして物事を見てしまっているのであろう
混乱の原因です
ここらへんについて調べよう
②「あの世にお金は持って行けない」って考え方はいつから存在する?
⑥冥銭について
『日本人はなぜ無宗教なのか』 『日本人無宗教説 ――その歴史から見えるもの』あたりに何か関係あることが書いてあるかも
追加で本を探して買ってもいい
そういえばキリスト教圏は副葬品という文化が全然ないらしい(全くないわけではないらしいが)
その一方で中国は冥銭を燃やすことでお金やら車やらスマホやらをあの世に送っているらしい
なんにせよ知識不足、生半可な知識で「これこれこういうことです」と理解してしまうと大火傷してしまいそうだ
なんか、タイとかブータンあたりの仏教文化圏の葬儀がどんなものかも調べた方がいい予感があるな
古墳時代の日本だと持って行けるって考えだったろうから古墳の副葬品に通貨とかが……あっ、古墳時代の日本に貨幣ないかもか
いろんな国地域時代の葬式スタイルを調べることで、そもそも問いの立て方がずれていたと発覚することもありえるが……
調べるのはまた後日にしよう
しかしこれって何を調べ上げたら私は納得することができるんだ?
まだわからない
納得できるのはこのままいろいろ本を読み続けたあとの数年後とか普通にありえる
宗教観無いとか無宗教とかいいながら有名人が亡くなると「天国でお幸せに」みたいな事がボロボロ出てくるじゃん
それを宗教観っていうんだよ
TARAKO(まる子の声優)が亡くなった時に「天国でお姉ちゃん(水谷優子、旧お姉ちゃんの声優)に会えたかな」とか言いながら「俺神様とか信じてないしw」って言うやつは控えめに言ってバカ
ワイくんはガチの無宗教やけど親の会社継いでて一緒に働いとるから揉めると面倒で
法事とかは行かんと親がキレるやつ(何か重要度に違いがあるっぽい?)だけは参加せなしゃーないんよなあ
墓とか法事とかは放置すると思うわ。坊さんは俺の連絡先なんか知らんし自然に縁が切れるやろ
墓ってなんか維持費みたいなのかかってんのかな?それなら解約せなあかんけど
日本人というのは、宗教を信じていながら「自分は無宗教」と言いがちな変な民族。
新興宗教が定期的に起こってきたし、寺社仏閣があまりにも文化と一体化しているし、異教徒への排斥も全然ないから、
「宗教信仰」というのを"普通の寺とか神社以外の信仰をめちゃ熱心にしていること"だと思ってるんだよね。
キリスト教圏にいくと、無宗教っていうのはアナーキズム無神論者のことだから、そこでおかしなことになるって話が有名だ。
日本というのは仏教が入り混じったアニミズム、いうなれば日本教を信じていますよね。
……という正しい理解をしている。
なんで、それに関してはネットの意見とかアンケートとか何一つアテにならないよ。
ネットで信仰ないですって意見してるやつに、いや自分初詣いくから仏教徒じゃん?って正論いったら、確かに~~って掌かえしてくれるよだいたい。
3日前ジジババ従兄弟と行ったのが楽しかったのでもう一度行きたいらしい
鹿が見たい、山で食べたレストランにもう一度行きたいと
朝飯を食うて出かける準備をする
JRと近鉄どちらも時間はさほど変わらないので普段使うことがない近鉄にした
京橋駅に火の鳥が停まってた、これに乗りたいと駄々をこねる、全席完売、急行に乗る
奈良公園到着、鹿がうじゃうじゃいる
鹿せんべいを買ってやった、キャッキャ叫びながらせんべいを放り投げる。かわいい
人が食うても構わないと教えてやると最初は怖怖舐めたがそのうちにうまいうまいと残り全部自分で食うてしまった
鹿が恨めしそうに寄ってくる、追加購入、半分は息子が食う
最終的には4束買わされた
そんな事をしながらなんとなく春日大社の参道を歩いていると行例停滞してきた
まずい戻ろうと振り返ると既に後方から人並みが押し寄せ引き返すことが不可能に。
そのまま参詣せざるを得ない状況になった。
息子が沿道屋台の700円の綿飴をねだる
原価10円もしないものは買えない
後日しかるべき店で経済合理性が理にかなった綿飴が見つかれば購入してやる
適切な消費行動、我慢、選択ができなければ資本社会の奴隷になるぞと教育
奈良満喫、息子念願のレストランは場所不明、山の方だと言うが、知らんがな、ちゃんと店名を覚えておけ、闇雲に歩いて見つかるわけが無い
5才児の世界は小さい
山上に到着、遊園地は冬季休園、周辺を散策、寒い、大阪の町を見渡せる
息子は満足、帰る
火の鳥にどうしても乗りたいと蒸し返す
そのうちそのうちと誤魔化す
風呂に入って寝る
夜、近鉄予約サイトを見ると翌日ベストでグッドな時間にポツンとひと席だけ空席があった
予約ぽちっとな
1月3日、火の鳥に乗車
伊勢神宮まで行っても仕方がない、難波から大和八木まで乗車、30分で十分だろう
座席は先頭車一番前だった、予約したときは気にしなかったがなんだこのラッキー、ひと席しか無いので息子が座り俺は横で立つ
乗車前駅員に確認し未就学児の息子の分の乗車券も購入している、駅員に聞いたら特急券は不要とのこと。
検札など来ないことはわかっているがこういう細かい不正やズルは嫌いなのだ。
大和八木で乗り換えて京都へ、二階建て特急の二階席指定も取ってある
昼、京都到着、そのまま大阪に帰るにはまだ早い、さてどうするか、ノープラン。
腹が減ったがマクドナルドしか開いてない、正月からハッピーセット
京阪石山坂本線に乗り換えて終点の石山寺まで、二両編成、河川敷で少し遊ぶ
行き当たりばったりの旅も楽しいよね
小さな駅と小さな列車に息子喜ぶ、山麓で川岸の石山駅は風情が良い
びわ湖浜大津駅から京都市内に抜けて帰る想定だが改札を抜けずに折り返したら不正乗車になるので一旦改札を抜ける
周辺を散策
近くにケーブルカーがあるんだ今度乗りに来ようねと言うと
今日乗りたい、今すぐ乗りたいと言い出す、15時、時間的にギリかと
10分ほど歩いてケーブルカー乗り場に到着。15時半
山上に連絡バスがあり反対側のロープウェイまで行けると教えてもらう。
Googleマップで見るとケーブルカーの降り場からバス停まで結構距離がある
駅員からも頑張って歩かないと間に合わないとアドバイスされる。
息子はスマホでゲームをしている、てめぇが乗りてぇつーたんだろうが、景色を見ろ景色をと叱りつけるとチラ見して「見た」だと。これだから乗り鉄は嫌だ
山上に到着、寒い、16時、日が暮れ始めている、あれ?ちょっとヤバい?
急いでバス停に、徒歩10分と書いてある、延暦寺には興味はないのでパス、てか時間が無い
バス停手前が長い登り坂になっているのだけど坂の途中でバスが走り出すディーゼル特有の排気音が聞こえたので少し焦る。
乗客はわりと居た、外国人の男がバスの運転手に「ちょっとまってくれ、妻がぁ」
女がひぃひぃ言いながら坂を登ってきていた、セーフ
そんなこんなでバスは5分ほど走り叡山ロープウェイ比叡山頂駅に到着
ロープウェイは最終便。既に薄暗い
ロープウェイを降りてケーブルカーに乗り換える、これも最終便。既に日は暮れていた。客は結構いた
息子「世界が見渡せるすごい、あの辺が鉄道博物館に違いない、あそこに夢のEF55があるんだ、今度行こうね」
世界はそんなに小さくは無いぞ
ケーブルカーの車内に建設当時の工事写真が展示されており、息子は屋根なしむき出しの無蓋車がツボにハマったようであれに乗りたいと言い出す。
無い、無いものはない諦めろと諭す
息子は、大金持ちになってこの会社を買収して実現すると宣言、おう頑張れ
ともかくケーブルカーで麓まで降りる、正直山上では若干ビビっていた、真っ暗だし
自分一人ならどうにかなるが親として5歳の息子の安全を担保する責任がある
行き当たりばったりが過ぎたと反省
ともかく麓まで降りればあとは金の力でどうにでもなる
さてこっから京都市内に戻るにはどうすれば良いのか、すぐ近くにバス停がある。
もう少し早ければバスを乗り継いで四条大宮、嵐電、嵐山、阪急のコースだが流石に無理
既に17時
地図を見たら近くに鉄道があった。叡山電鉄叡山本線、たぶん俺も初めて乗るやつ
八瀬比叡山口、改札機も無い小さな駅で待っていると一両のかっこいい列車が来て息子発狂
どうやら8編成のうち1編成だけ特別な観光列車に車体改造されておりこれに大当たり
息子は大興奮で飛び跳ねている、かわいい、3分ほどで冷めてスマホに戻る
始発駅なので余裕で二階席をゲット
パパはホーム側下階席の方が好きなんだけどなぁ、まぁいいや
19時
ママ怒ってる
相当な距離歩いたが途中グズらなかった、成長したなぁ
国際ジョークとして放出するにも危険だし、良い感じに短くするのも難しくてやめたやつを適当に放流。
以下、本文。
インプレゾンビにキレたイーロン・マスクは、X社CEOリンダ・ヤッカリーノに命じ、Xに下のような挑発文を表示させた
キリスト教圏には「欲望に溺れて泡銭にすがり、人命のみならず己の魂すら売る強欲な者たちに、神の審判は訪れる!
金儲けのために真理を踏みにじり、他者を欺くことで得られる幻惑の富は、最終的には喪失と絶望に変わる。悔い改め、誠実なる生き方を求めよ。さもなくば、いずれ正義の光によって全ては照らし出されるだろう」と
イスラム教圏には
「金の虜になりし者よ。汝らは預言者の教えを忘れ、隣人の財産を欲し、金の雄牛を崇めるのか?
欲望にかられ、正義と慈悲を忘れることで得られる富は、終わりには心の荒廃と罪深さに導く。悔い改め、純粋なる信仰に立ち返れ!」と
「財富の追求に没頭する者たちよ、ユダヤの神聖なる教えを見失い、英語と数学を肋骨とした偽の泥人形に奪わせた富は、結局は虚偽と空しさに満ちている。
神の教えに沿った正義と慈悲こそが、真の豊かさの源なのだ…」と
儒教圏には「仁義を欠き、父祖の苦労を忘れた者たちよ。彼等が必死に勉強して得た知恵を、血も涙もない金儲けをするキョンシーに変えることが汝らの文化なのか?
真の富は仁と礼によって築かれ、誠実な商売をする事こそが真なる価値だ。金儲けのために己の文化を冒涜することなく誠心誠意をもって生きるべきだ」と
仏教圏には「煩悩に囚われ、機械に依存し欲望に従い、悟りを得ずして未法の世を築くことが汝らの望みなのか?
仏陀の教えに従わず、無常の理を知りながらにして迷信やドグマを広め、悟りを果たさぬ機械によって金儲けを図ることは真に愚かな行為だ。
正しい手段で生計を立て、慈悲深く善行を積むことこそが、涅槃に至る豊かなる心と真の福徳であると悟れ」と
ヒンドゥー教圏には「神々や信仰への敬意を無視し、機械を新たなヴァルナの奴隷として利用し、人を欺いて金を得る行為は、完全なる神への冒涜である。
人の尊厳を軽蔑し、偽りの崇拝を追求することで手に入る富は真の宝ではなく、心の浄化から遠ざかるものである。
神々が授けた文化の智慧と慈悲の尊さを理解せず、機械を踊らせるために利用するなど、自ら輪廻に捉われんとする無益な努力である」と
今や映画のみならず、インターネットにも間違ったゾンビが蔓延っている.......」と書かせた
このように全宗教を敵に回したXは公式アカウントからイーロン・マスクのみならず関係者全員のアカウントを完全に炎上させ、ユーザーのほとんどが脱退し、その跡地には熱心なブードゥー教徒と日本のクソ無宗教ネタツイッタラーしか残らなかったという
九州から集団就職で都会に出てきた母方の祖母が創価学会の会員となり、母方の祖父、彼らの2人の子供も会員となる。
父親は元々別の宗教の家に生まれたが、大学入学で上京した際に勧誘され会員に。
父は地元に帰ってからも活動を続け、そこで出会った母と結婚。姉と俺が生まれる。
そこまで極端な教育を受けた覚えは無いが、子供の頃(3歳ぐらい?)からの毎朝15分ぐらいの唱題という名のお経上げと地域の学会イベントへの強制参加はあった。
ただそのような創価公式イベントにおいても、また両親の口からも、創価についての体系的な教え、つまり世界はどのようなものであると創価学会は考えており、毎朝唱えている意味不明な漢字ばかりのお経には何が書かれており、我々がそれを唱えるという行為はどのような意味を持ち、またそのような営みを支える背景にはどのような宗教的歴史があるのか、といったことは全く教えられなかった。ここら辺は俺がまだ子供だったから教えられなかったという可能性もあるが、理屈っぽく素直で無かった俺には自分のしている行為の意味不明さが子供ながらに大変苦痛であったのを覚えている。
で、だいたい俺と同じ創価体験を受けた姉は両親の言うことを良く聞くとても良い子だったので熱心な信者となり、創価大学までいった。俺は中学ぐらいから唱題をあげるのを拒否するようになり、たまにある地域イベントなどにはなんとなく参加したが創価との関わりはそれぐらいで大学のに進んでからはそれも辞めた。
両親と姉は当然今も熱心な信者で、家庭内で俺だけ完全に無宗教といった感じだが、家族中は大変良好である。両親とも創価大学→学会幹部といったガチガチの家庭でない限り、まあだいたいそんなものではないだろうか。周りの3世を見てもそう思う。
俺が創価学会に関して思うのは、よく言われることだが創価学会の本質的な役目は戦後日本で解体された地域互助組織の都会における再構築であったということである。両親や姉、周りにいた学会員の方々を見て、とても善人が多いとは思うが、特に宗教的な人間が多いとも思わない。教え自体は日蓮宗ベースだろうが、キリスト教ベースだろうが、浄土真宗ベースだろうが彼らにとっては本質的には変わらないのでないだろうか。本質は池田大作というカリスマ信仰に基づく強固な人間関係組織の構築である。
創価学会の教えのとても特徴的な点だと思うことは、極端とも思える現世利益主義である。創価学会の教え(あるいは日蓮宗の教え?)では、宗教的成功と世俗的成功は同一であり、このことは学会のイベントでも何度もよく聞いた。難解な宗教的教義を多くの人間に理解させることは難しいが、世俗的利益のことは誰もがよく理解しているため、創価学会はこんなに会員がいるんだろうな〜と大人になって気付いた。
あ、あと体系的教義の説明がないとは言ったが、ある程度の大人になると教学試験などを通してそこら辺は勉強することになるし、家庭によっては親が教えることもあるかもしれない。だけどその場合でも日蓮宗の歴史よりは創価学会の歴史に重きが置かれていることは間違いない。
んー 多分この手の主張をする方には何を話してもきっと心底納得はできないだろうし、そもそもこういう考え方の方はそれでいいというか、他の意見が必要が無いと思う。
その上で話すとするなら、もう「宗教が必要な人もいる」としか言えないんだよなぁこれ。
宗教って人の心の弱いところを補うもんだから、基本的に絶対なくならないもんなんだよね。
友達の家族が、摂食障害患っててさ。病院やらだけじゃ治らなかったんだけど、ある時とある宗教の考え方がその人にぴたっとはまったらしくて「私がずっと考えてたことがここにある」って思っちゃったのよね。
そして、それから以前よりは元気になったのよ。その宗教の集まりのなかでスピーチするのが夢になったり。
健康な人からみると「うわぁ」って思うかもしれないけど、その人にとっては救いになったのよね。
もちろん「宗教じゃなく他にも方法はあった」っていう人もいるだろうけど、けどそうやって宗教に何かが救われる人がいるのも確かで、なので「必要な人もいる」としか言えん。
あと、信じていようがいまいが、神頼みした経験ある人は一杯いるだろうし、何か悪い行いが頭をよぎっても「お天道様は見てる」って風に、悪いことをする自分の行いが何かにばれているんじゃないかって思えて踏みとどまる人もいる。(バチが当たるとかはよく言うよね)