はてなキーワード: つんぼとは
どう牽強付会な説明を加えても一般的文脈において精神疾患と関連のない語彙を強引に結びつけているのは変わりませんね。明確に「統失」「躁鬱」(「アスペ」「ADHD」「発達」「知障(池沼)」、「身障」「「めくら」「つんぼ」、「ガイジ」)などという言葉を使って他人を揶揄するのは極めて差別的な意識に基づいていると言えますが、「片手落ち」や「頭が悪い」等の語彙は一般的文脈では障害者差別的なニュアンスは認識されません。妄想は完全にその類の語彙であり、「頭がおかしい」も社会通念上排除はされていません(「キチガイ」はアウトと判断される)。
この文章が、「もし難病差別反対を主張するなら、差別用語を使用するな」「もし差別用語を使用するなら、難病差別に反対するな」と読めるのであれば、申し訳ないです。これ以上わかりやすく説明することは私には難しいです。
差別が問題であると捉えているなら、先に言った通り一般語彙を精神疾患と結びつけるような解釈を強く発信することを慎むはずですし、このような発言は出てこないはずです。差別意識への自覚の有無を問題だと言うのであれば、少なくともそのような規範意識はあって当然です。そのような意識がないのなら、差別自体を問題視しているのではなく、あなたが想定しているようなブクマカを冷笑・嘲笑したいという加害意識が基になっているというだけでしょう。
また精神疾患が難病である、という理解を内面化されているのも不自然です。(後から出てきたもので他の人の言及に影響されてるんでしょうが)
今健康な人であっても精神疾患になる可能性があり、その確率は決して低いものではありません。適切な治療をすれば寛解する可能性があり、そうでなくても周りの理解が有れば社会参画は可能な場合は多いです。
だからと言って一般人と同じなのだから合理的配慮が必要ない、というような話では当然ないですが、アンタッチャブルなものであり、例えば「妄想」や「頭がおかしい」という状態と切って離せないような存在であると主張するかのような言説はやはり差別的であると言わざるを得ません。
正字正かな遣いクラスタの用いる言葉がバーチャルすぎて半笑いになる。
本人は格好つけている、あるいは意義があってそうしていると思っているのだろうが、例えるなら日本語の文法がおかしい人が一生懸命頑張ってるみたいに見える。
A時代(明治と大正末だとだいぶ違う。昭和戦前が一番イメージしやすいだろう。江戸時代でも鎌倉時代でもいい)で異なるし、
B書かれる媒体(新聞なのか随筆なのか、個人の日記なのか)で異なる
今でもそうでしょう。
1999年頃の、ギリギリまだ怪しい雑誌に怪しいライターがひしめいていた時代のあの文章。思い出して欲しい。
ちょっとカタカナ混ぜたり、トカ? ゲーム批評のガップ獅子丸みたいな文章。今だいぶ雰囲気変わったでしょう。
逆にいうと、今風の? 切込隊長やよっぴ〜みたいな文章も、ネットで見られる時代の象徴的な文章としてのちに振り返られるかもしれない。
20年でだいぶ違う。
そして、これらの文章はビジネス文章や国会の答弁、ニコニコ動画のコメントなんかとはまた質的にことなる。
当然、歴史のどこかの時期にもこうした現象は発生していて、ほとんどの正字正かな遣いクラスタはその事態に対応できていない。いつどこの文章か定めていない。
自分の、なんとなく知っている文字や用語だけを用いてネットに書き込んでいる。
本人たちは別に自分で用語を選んでいるんだからいいだろ、という認識のようだ。それは別に選択だからいい。正字正かな遣いクラスタをやるのはなんらも問題ではない。
だが、その用語の選択はとても格好が悪い、あるいは選択のセンスが低いということだ。何回も言うけど、任意で日本語のあるバージョンを選択すること自体は別に問題ではない。選び方のセンスがダメ。全くダメ。
新しいジャンルならセンスも何もないのだが、日本語の表現なんていういつもいろんな人間が手を染めてきた分野だから、やってることの格好の悪さが際立つということだ。
例えるなら小学校高学年くらいの時に50音にそれぞれ謎の記号をつけて、オリジナル暗号を書いていた人はいるのではないだろうか。
正字正かな遣いクラスタのやっていることはこれに近い。大人のオリジナル暗号やってるみたいな。
周りの人は「大人」だから読めるし付き合ってやってる。これくらいの格好の悪さ。格好の悪さの格調が低い。
さてどうすればいいのか。私案。
ネットに書く時には様々な制約がある。異体字や縦書き、横書きの制約。「つんぼ」とか差別的な意味合いが深まった表現とどう対峙するか。
俺だったら明治〜大正時代の行政文書、あるいは室町時代の日記あたりで挑戦してみたい。
相当原典にあたり言葉に詳しくならないとならない。「正字正かな」を用いると言うことはそういうことが必要だと思う。
要するに、正字正かな遣いクラスタは、言語や用語にこだわっているように見えて、実態のところ非常に個人的で恣意的な操作をしている。
このアンバランスが最高に格好悪いということ。
ボーイズオンザラン、最初っからよむのかったりーし、なんか強い先輩と公園でボコられる話だったよねと思って途中から読みだしたら止まらない
つんぼの、赤灯えれじいみたいなパツキンの女の子がでてきて、あれこんなん読んだおぼえねーなってなってぐいぐい読む
正直ワゴンに連れ込まれたりする当たりは主人公があまりにもうざすぎてイライラマックスだったけど、なんとかその後カタルシスあったからよかった
この作者のかく頼りない変顔冴えない男ってワンパターンテンプレすぎててそういうキャラしか書けなさすぎだろお前ってぶん殴りたくなる
んでパツキンのほうが長野にいったらそこでちはるってやつがいて、あれちはるって最初にほれてた女の子の名前じゃなかったっけと思って読み返したらやっぱりそうで、
あーあの女の子だったんかやっぱりと自分の記憶力にびっくりんこした
つーか負けてボコられて終わりだと思ってたのが実は続いてたってのが自分の思い込みだったってのがすげー驚き桃の木20世紀だわ
振られ際に精一杯なんかやり返してやりたくてひどいこと言っちゃうとかね
まぁ批判の一部は読めば理解できるし、うまく書けているとは言えないと思う。
個人的には聴覚障害を持つ可愛い女の子が出てくるフィクションとして図書館戦争がある。
「え、出てきたっけ?」と言う人も居るかもしれない。そんなあなたはアニメ視聴者。レインツリーの国がそのキャラから生まれた派生作品だと、ファン以外にはあまり知られていない。
アニメでは色々な事情があったらしく、メインキャラにも関わらず出演シーンが無かった。酷いと思った。
スタッフも出したかったのか、特典アニメとしてその子がメインの話をアニメ化していた。
アニメ映画では1シーンのみ出てくる。
実写版では続編に登場した。時間の都合上1作目には出なかったのか、それとも「ま、今回は良いよね当たるかわかんないし」みたいな感じで出さなかったのか疑問はある。
方針か時代が変わったのか実写でそのキャラクターが登場して、少しホッとした。
スピンオフでは原作とは全く違う形で記者会見を開き、いわゆる「感動ポルノ」で訴えかけ始めたときは、頭をかかえ思わずテレビを消した。
まぁそんな風にしてあまり原作通り動かせてもらえていないキャラクターなのだが、ここで言いたいのは原作の話。
まぁいじめられてる描写が無いというのもある。彼女の周りで色々と問題が起こるというストーリーもあるのだが、彼女を気持ち悪いと思うことは無かった。
聲のヒロインは聖者のように描かれていた。無理に振舞っている部分を見抜かれ気持ち悪いと言われるものの、それぐらいじゃ彼女が聖女であることに変わりは無かった。
図書館戦争の彼女は嫉妬もするし人も避けた。聖者として描かれていなかったし、言いたいこともはっきり言っていた。
巻数を進めるごとに普通の女の子として描かれていたし、ある種それこそ「理想」であるかのような状況だった。
ここまで考えて分かったのは、聲の形のヒロインは健常者が障碍者に対する「こうあってほしくない」がつまったキャラなのではないだろうか、ということだ。
健常者の大半は「明るい障碍者」を好むのだ。ある種、自分の都合だろう。
言いたいことを言わない、遠慮をする、引っ込み思案でいつも申し訳なさそうに、そしてなにもかもを許してしまう。
そういう障碍者は多いだろう。そしてこれは障碍者だけではない。コミュニケーションがとれない人の多くはこうだ。
しかし世間でそういう人が好かれるのは難しい。もしかしたら聲の形が描いたヒロイン像は、こういうことだったのかもしれない。
また先にも書いたが、聲の形にはまともな大人がほとんど居ない。
ヒロインが自分をおしこめていくだけの環境は整っていたし、いじめがどうやっても解決できないだけの状況になったのも大人の責任だ。
しかし実際に、図書館戦争のように理解できる大人が周りに居ること。理解できる人と恋におちることができる状況はありえるだろうか。
もし聲の形の原作者がヒロインを「好きになってもらえるキャラ」として描いたというのなら、それはおかしいと言いたい。
だけど「リアルを描きたかった」と言うなら、ヒロインだけを見ると、もしかしたら現実を描いたのは聲の形だったのかと思う。
(ただ漫画全体を見ると付属要素にフィクションが多い。本当に許せるか?という疑問は残る。加害者と被害者の恋愛ものは時々実写であるので、その辺も考察していきたい)
うん。だからやっぱり好きなキャラクターは図書館戦争の鞠江になっちゃうね。
障碍者には言いたいことを言ってほしい。そういうことが言える環境に居てほしい。
この二人を比べた結果、そういうことを思うのだった。
このことについて、しっかり考えたことがあるだろうか。
害は果たして嫌なものなのだろうか。なにかに障害があるのは事実なのではないか。
龍と耳で出来た「聾」の漢字の何が悪かったのか。
なんせ「字幕」がない。
DVDやBlu-rayで字幕収録あるんじゃないかと探しても、あったりなかったりだから困る。
とくに自分の好きなジャンルのドキュメンタリーは字幕はほぼ、ない。
どうしても観たい作品は購入し、耳に悪いと思いながらもヘッドホン&大音量でなんとか鑑賞してる。
俺みたいな「耳が悪いから邦画観たいけど観れない」人ってかなりいるんじゃないだろうか。
映画界。つかソフト業界なんとか邦画も円盤化する時字幕追加してくんねーかな。
もしかしたらこれは福祉絡みの話だから国会の方に持ってくネタなのか?
2016.06.19 追記
最初はのっとりか?と焦ったけれど
どうやら放送禁止用語的“はてなコード”なるものがあるのかも。
で、それにひっかかると自動変換表示されるっぽい。
なんなん。
関西のごくごく一部のDQNは「なんかぼーっとしてる人」を「つんぼ」、「不可解な行動をする人」を「がいじ」などと軽い気持ちで突っ込む
やんちゃな男の子が悪ぶって友達をからかったりするときにまれに使ってるぐらいの下品な言葉で、大人になるにつれて使わなくなる言葉
これをなんJに書き込んでいた奴らが皮肉交じりに真似しだしたのが初まりなんだよね
一方「アスペ」は
「発達障害で対人関係をこじらせて孤立気味な人間ほどネットコミュニティにハマる」という共通認識から煽り文句として使われだしたと思う
後者に比べて前者は煽りというより茶化しに近い使われ方をしてきたし
例えば「ホモ」は差別用語って言われるようになったが、別に自らを「ホモ」っていう同性愛者はたくさんいるし、
「八百屋」とか「魚屋」「肉屋」も自らを「青果店」「鮮魚店」「精肉店」なんて言わない人もたくさんいる。
「青果店」なんて「生花店」「製菓店」と被ってかえって厄介にしている。
前にいいともで年寄りの爺さんが自分のことを「つんぼ」って言ったらテレビ局が謝罪していたが、
自分を指していうのも駄目なのはおかしいし、きっと「『つんぼ』という言葉を不快に思う人がいる」ってことで
567 名前: パロスペシャル(やわらか銀行)[] 投稿日:2014/02/08(土) 18:58:29.88 ID:anXmcvE80
これ、生徒は毎回講義聴いてたのに
普通はそこでバレるぞw真面目に講義聴いてなかったんだろうなwwって
知り合いの耳の聞こえない奴がニュース見て笑ってたよ
健常者がそういつまでもつんぼやおしのマネしてられるもんじゃないってさ
568 名前: ストレッチプラム(埼玉県)[sage] 投稿日:2014/02/08(土) 19:00:39.33 ID:KqOwurWQ0 [9/10]
こういう>>567ニュースを端っこだけ囓って非難してるような人が沢山居るんだろうなぁ…
ちゃんとしっかりニュースでやってやらないと新垣さん折角出てきても浮かばれないよ
569 名前: 目潰し(愛知県)[sage] 投稿日:2014/02/08(土) 19:01:36.78 ID:h5xG1oNX0 [7/7]
かたわは差別的だと障害者に言い換え、障害者を害の字のイメージが悪いからと障がい者に書き換え、今度「障がい者」が差別的な意味で使われるようになったら、どうするつもりなのかな。
"障"という字のイメージが悪いからだと、「しょうがい者」と表記するのかな。
その意味するところ自体が侮蔑の対象であるために差別的意味をもつようになったもの(「めくら」、「つんぼ」、「おし」、「どもり」、「びっこ」、「かたわ」、「きちがい」、「おかま」、「レズ」、「ホモ」、「かったい」、「白痴」、「廃人」、「チビ」、「乞食」、「ルンペン」「アスペルガー症候群(アスペ)」など)
これらは問題の根っこは大本の差別にあるので、問題の根底を解決せずに言葉を排除しようとしても、新しい差別語が発生するだけ。
差別的なニュアンスが薄れて気軽に使う人々が現れようとしても、「~は差別語だから使うな」と主張する人々によって抑圧され、語の差別性が維持される。
その結果、新しく発生した差別語と旧来の差別語と、という風に、次々と差別語が増えていく。
各種障がい者を表現する用語を「~の不自由な人」と言い換えたところで、「...は『~の不自由な人(笑)』だからな(笑)」なんて、「~の不自由な人」という表現がまた差別的に使われるようになる。
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愚かなブコメがついているので追記
"Yellow Monkey"のような言葉の意味自体が侮辱的なものを除いた、使用者の意図によってのみ差別性を持っている語を忌むべきものとして扱うのが愚かだ。
男尊女卑思想の人間は差別的に「おい、女!」と呼ぶ。「おい、ホモ!」を「おい、ゲイ!」だの「おい同性愛者!」だの置き換えても、「おいめくら!」を「おい視覚障がい者!」などと置き換えても差別性が変わるわけではない。
差別思想の人間が、差別対象に個々の人格や尊厳を認めずに、差別している属性で一括りにして呼称することが差別的なのであり、その言葉が差別的なのではないのだ。
猿呼ばわりされて怒るのは構わないが、日本人であることが恥でないなら、単なるJapaneseの省略形であるJapという単語に怒り狂うべきではない。同性愛者であることが恥ではないなら、単なるhomosexualの省略形であるhomoという単語に傷つくべきではない。
その属性を表すだけの語に傷つくということは、被差別者自身がその属性を恥と思い差別しているということであり、そのような状況では永遠に差別などなくなるわけがないではないか。
「きちがい」に至ってはたんなる侮辱語であるために、これを「(気が)狂った奴」「頭のおかしい奴」「狂人」「精神異常者」などと言い換えても何も問題は変わらない。「きちがい」には傷つくが「狂った奴」や「精神異常」に傷つかない者などいるのだろうか。一つの侮辱語を排除するならば、同じ意味の侮辱語全てを排除せねばならない。馬鹿,アホ,頭の悪い奴,愚か者 などの侮辱語グループは排除しなくてよいのだろうか。おお、差別用語排斥者は人間をネガティブに評価する言葉の一切を日本語から排除しようというのかもしれない。おそろしい。