はてなキーワード: 鍵っ子とは
「男らしさ」とは具体的にどういう物なのか?未だに理解出来ていませんが、僕は自分がそれを持ち合わせていない事は理解しています。
男なら、強くなれ。男なら、我慢しろ。男たるもの、立派であれ。男なら、涙を見せるな。
こういう男なら、男だから、強くなれ、強くあれ。という生き方と、僕は正反対の存在でした。
僕は小学生の頃、同級生や上級生から揶揄われいじめられるような弱い子供でした。
運動神経が悪い上足も遅く、急に殴られたり目の前で自分の物を盗まれたりしても、その犯人を走って追いかける事も出来ないようなやられっぱなしの存在でした。
何故僕がそういうからかいのターゲットに選ばれたのか、今でもよく分かりませんが、やられてもやり返す事も出来ないような弱い存在は格好の玩具だったのでしょう。
休み時間になる度に消しゴムや鉛筆を盗まれ、上履きは女子トイレに投げられ、階段では足を引っかけられ、とにかくその事が嫌で嫌でしょうがなかった事は覚えています。
それでも学校その物は嫌いではありませんでした。どうしても行きたくない日が多く定期的にズル休みをしたり、登校日もグループ登校ではなく遅刻寸前になって親に学校まで送ってもらう事が大半でしたが。やっぱり学校は嫌いでした。
ともかく1年生の頃に、僕は同じクラスの女子生徒の事を好きになりました。その子がどういう性格でどういう人柄なのかは全く知りませんでしたが、容姿が自分好みでとにかく一目惚れだったのだと思います。
ある日、体育館で全校集会をしている時に一緒に並んでいた女子と何故か「お互いの好きな人を言い合おう」という話になり、僕は馬鹿正直に「○○さんの事が好き」とその女子に打ち明けました。
その話を僕に振ってきた女子は、僕の好きな相手を聞き出した後に自分の好きな相手を打ち明けなかったので、ズルい、騙された、何て卑怯な奴だ、と非常に腹が立った事は今でも覚えています。
うっかり自分の好きな相手の事をその女子に話してしまったその日の内か、それとも次の日だったか、それは今となっては覚えていませんが、僕は学校の廊下で○○さんとすれ違った時にある事にすぐに気が付きました。
小学校1年生の、まだ6歳の子供でも、自分が強烈に嫌われている事を理解出来るのは不思議な事だとこの歳になっても思います。生まれて初めて好きになった異性に、僕は同じ学校に通う9年間ずっと嫌われ続けました。
○○さんに何か非があった訳ではなく、僕の性格も容姿が決して女性に好かれる物では無かった事が一番の原因だと、今ではよく理解しています。嫌いな相手に好意を寄せられる事が女性にとって非常に不快である事も知りました。
自分は女子に嫌われる男子である事を僕はその時理解出来ました。中学校を出れば流石に何かが変わるだろうと期待していましたが、結局高校での3年間もずっと女子からは嫌われていました。12年間、ずっと嫌われていました。
同じ登校班に家が近くで僕にも優しくしてくれる子が一人だけ居ましたが、僕がズル休み常習犯でグループ登校もしない自分勝手な子供だった事もあって、すぐ疎遠になりました。
学生時代女子からずっと嫌われていた事、自分が女子に好かれるような人間で無い事を学校で学べたお陰で、僕は今でも女性恐怖症です。親からは本当に分かりやすいなぁとその事について笑われます。
道を歩いていて向かいから女性が来ると、その人の年齢に関係なく大きく迂回して逃げるような動きをしてしまいます。自分の方が体格が良くても、背が高くても、情けない事に女性の事が怖くて怖くて仕方がありません。
通りすがり様に、「臭っ…」「キモッ…」と言われるんじゃないか、言われなかったとしてもそんな顔をされるんじゃないか、内心そう思われるんじゃないか、そう思うだけで怖くて血の気が引いて、とにかく女性から逃げてしまいます。
去年散歩帰りに、下校中のまだ低学年であろう女子小学生と狭い歩道ですれ違った時、「自分が向かいから歩くだけで不審者だと思われてこの子に防犯ブザーを鳴らされるんじゃないか!?」と本気で思い、垣根を飛び越えて車道に逃げたところ、着地の際にバランスを崩してずっこけて、右の肘あたりをアスファルトで擦り剥いてしまい、そのまま痛い、痛いと思いながら帰宅する事になりました。本当に何て自分は情けなくて馬鹿なんだろう、と悲しくなりました。
幾らキモくて女性に嫌われていようが男には男性同士の繋がり、「女性を共通の敵として見下し」「男性の友情を尊いと崇める」事で男の同士の絆を深めるホモソーシャルがあるじゃないかと思う人も居るでしょう。
誰が言ったかは知りませんが、同性にさえ好かれない人間が異性に好かれる訳が無い、という言葉を聞いた事があります。キモイ奴として女子に嫌われていた僕は、同じように男子からもキモい奴として嫌われていました。
子供の頃、皆に人気のある男子はどういう人だったか。友達になりたくなるような明るくて面白い子や、運動がよく出来て体育の時間に大活躍するような子は間違いなくクラスや学年の中で人気があったと思います。
前述したとおり僕は運動音痴で足も遅かったので、体育の時間は活躍どころか同じグループに迷惑をかける完全な足手まといでした。性格も、自分が嫌われてる事に自覚が無いタイプの空気が読めないおかしい奴でした。
ボールを遠くに投げられない、捕る事が出来ない、速く走る事が出来ない、長く動く事が出来ない。僕は体育の時間の間完全に単なる数合わせで、もっと言えば僕の入った側が不利になるババ抜きのババのような存在でした。
当然、体育の時間に活躍するような運動がよく出来る男子や、クラスの中心的存在で先生からの評判も良いいじめの主導者からも嫌われていました。同じ男子からも嫌われホモソーシャルから疎外された子供が僕です。
それでも僕には休み時間に落書きを見せ合える友達が居ました。年齢の割に体が小さくいじめのターゲットになっていた子と、母子家庭で鍵っ子である事を理由にやっぱり男子の中から浮いていた子が友達になってくれました。
ある日、いじめのターゲットになっていた友達が転校しました。ひょっとしたら親御さんの転勤などが理由だったのかもしれませんが、クラスメイトからのいじめも大きな原因だったのではないか、と僕は思っています。
その子は何も悪い事をしていないのに、体がクラスで一番小さいというだけで、物をぶつけたり、馬鹿にしたり、○○菌が付いた!と貶して良い存在のように扱われていました。昔の事ですが、僕もされたという事は覚えています。
僕はキモくて役立たずだったので、ホモソーシャルに入る事はありませんでした。僕のようなキモくて役立たずの男子を皆でいじめるあのノリがホモソーシャルなら、僕は昔からそれが嫌いだったし仲間とも認めて貰えてなかったと思います。
男性は男性というだけで女性を見下して上から目線で接する「マンスプレイニング」という差別意識があると聞きました。男性というだけで女性より優れているという思い込みから来る「有害な男らしさ」の一つであるらしいです。
女子に嫌な思い出があるなら、女子なんて、と割り切って見下せたら楽だったのかもしれませんが、僕は自分の能力が他人に勝った記憶が小学校1年生の小テスト以降全くありません。
体育の遠投ではわざとらしくやる気なく投げた女子以外に飛距離で勝てた覚えがありませんし、シャトルランで性別関係なく僕より早く脱落した同学年の生徒は一人も居ませんでした。その事が、今でも忘れられません。
なら勉強はどうかというと、女子は安定して成績が良く、僕は5教科の合計点が150点台という事がありました。自分は本当に馬鹿なんだ、この学年で自分以上に頭が悪い奴は居ないんだとその時強く頭に刻み込まれました。
両親は自宅から近い学校に通って欲しかったらしいですが、結局そんな成績では自分の名前さえ書けば無条件で入学出来る遠くの私立くらいしか行ける高校がありませんでした。僕が馬鹿なせいで、余計なお金がかかりました。
頭が悪いのは僕が一切努力を行わず遊んでばかりの馬鹿だった事が大きいと思います。ドリルは後ろの答えを写すだけ、夏休みの宿題は家族に泣きついて答えを全部教えてもらうという他力本願だけでそれまで生きていました。
結局その私立高校でも男子の仲間に入る事も出来ず、小中学校の時のように女子から嫌われ、勉強もろくにしないでズル休みを繰り返しました。高校を卒業しても、自分がそこで努力して得た物なんて何にもなかったと感じました。
高校受験さえしなかった者が大学受験なんて出来る筈もなく、大学受験さえ出来ない者が就職活動なんてする筈もなく、僕は高校を卒業してから今現在までずーーっと親の脛を齧って何の努力もせずに家に引き籠っています。
僕は自分の能力が他人より優れていると思った事が小学校1年生以来ありません。ずっと引き籠っているので、家族以外の女性と接した事も学生時代以来何かのお店で店員さんとして働いてる女性以外とは殆どありません。
中学校時代からの友達とは話が合わないという理由でずっと疎遠です。彼らともゲームやアニメなど娯楽の話題で盛り上がっていたくらいで、ミソジニーで絆を深めた事なんて一度も無いと思います。何せ女性の話題が出ません。
僕は良い歳して未だに童貞で、所謂専門店の女性とも関係を持った事がありません。中学校時代の友達達はそんな僕に気を遣ってか、僕でも話題に混じれるゲームなどの話題しか僕の前ではしないようにしていてくれました。
僕の男性器は極めて小さく、友達や家族など親しい間側の人とも決して一緒にトイレに行ったりお風呂に入りたいとは思えません。女性が言う所の「ポークビッツ」サイズで、その事に子供の頃から非常に強い劣等感を持っています。
昔から自分の意見や嗜好が人と合わない事が多く、現実より自由な場所であるインターネットでも他人と上手く付き合えた事がありません。自分の好きな物が多数派の意見に叩かれる、という経験は嫌というほどしてきました。
僕はこれまでの人生で親や兄弟に守られるだけで、自分が誰かを庇護したという事はこれまで一度も無かったと思います。我が家という共同体で一番の弱者は僕であったため、家族は弱者であった僕を外から守ってくれました。
「男らしさ」という言葉が全く当てはまらない男だと自分で思いますし、男性同士の繋がりからも完全に省かれています。現状のままで男らしくなりたいとは思っていませんし、男性同士の付き合いに入って嫌な思いをしたくもありません。
貧弱で、競争から逃げ、庇護される側で、何一つ優れている所が無い僕は全く「男らしく」ないと思います。男らしさから降りるまでもなく、初めから男らしかった事なんて一度も無かった、生物学上は男だっただけの存在だと思います。
小学生の頃からずーっと現実がつまらなかったので、漫画やゲームなどの空想に逃げていました。今でもその頃から変わらず逃げ続けています。
結論から言えば全くそんな事は無いと思います。ここまで長々と自分は違う、加害者ではない、ノットオールメンと言い訳をしているだけなのですから。
「男らしさを降りる」というのは現在の「男らしさ」を否定して新たな「男性としての生き方」を広めるために努力し戦う事で、ただ自分が現在の「男らしさ」から逃げる事では無いだろうと思うからです。
結局僕は男らしくなれず、男同士の繋がりの中に入れず、かといって現在の「男らしさ」を変えるための「ジェンダー強者」としての努力も一切しなかった、ただの負け犬でした。
魅力的な男性が男らしさから降りれば「男らしさから降りた魅力的な男性」になるでしょうが、男らしさから降りているだけの男が魅力的ではない、が答えじゃないかな…と僕は思います。ここまでお疲れ様でした。
ただ、幸せだと胸を張って言えない。
おそらく結婚して家族を持つことが幸せだという洗脳に近い教育のせいだろう。
今でこそ晩婚化や一人◯◯のようなシングルに対して許容する社会になってきてはいるが、それでもまだ未婚者は未熟者、という風潮はある。
正直、未熟者である自覚はある。責任を負いたくないのだ。結婚相手や子供と人生を歩んでいく責務を、まだまだ想像できないし、したくない。
自分は一人暮らしをしているだけの“子供部屋おじさん”なのではないか。
Wikipediaによると子供部屋おじさんの定義は40歳以上とあるが、予備軍・潜在性は十分にそれである。
鍵っ子だったせいもあってか、一日に必ず自分の時間と空間が欲しい。親族の集まりがあっても早々に切り上げて自室に戻る事が多かった。
同棲なんて考えられない。
そして、昨今SNSやWebエッセイであまりに多くの不倫話や旦那への愚痴を見る機会が増えた。
ただ、諦めきれていないのも事実。
一つはその家族を築く=幸せというような思想が染み込んでしまっている事。
もう一つは、両親。自分の中で理想の夫婦像となってしまっている事だ。お互いを尊敬し合う、人生のパートナーに見える。そして、その両親を安心させたいという願いもある。
どこぞの上手くいかなかった夫婦の話より、一番身近で敬愛する両親を参考にすべきなのは分かるが、あの境地に至るまでの甲斐性が自分にはやはり無い気がしてならない。
衝動的に手持ちの物を売り払う癖がある。
両親共働きで鍵っ子、家に誰もいない中私の遊び相手になってくれたのはゲームだった。
スイミングクラブの上級試験に受かったご褒美に買ってもらったマゼンタのゲームボーイカラーと、ポケットモンスター銀。
近所の金持ちにいちゃんが貸してくれたゲーム機が自分の家にあって、しかも自分の持ち物になるなんて!箱から出したてピカピカのランドセルを背負った時と同じくらい嬉しかったものだ。
それから「いつかは卒業するだろう」と思いつつ中学ではファイアーエムブレムやMOTHER1+2に出会い、高校では星のカービィUSDXのタイムアタックに熱を上げ、大学でポケモンXYに出戻りし……
現在も私はswitchとスマホを握り締めてゲームと向き合っている。
むしろアダルトゲームができるようになると名作ADVを男女BLの境なくやりまくったし、今はSteamやらDLsiteでプロ・アマチュアの垣根なく無限に面白いゲームを購入することができるのだ。
幼い頃のように没頭できる時間はなくなったけれど、購入本数は増えたと思う。
しかし、先述した通り私には売却癖?がある。
高校の時だ。私は手持ちのゲームをポケモン銀とプラチナを残しすべて売ってしまった。
きっかけは正直思い出せない。ただ、私の高校生活はお世辞にも楽しいものとは言い難い。
友人とは一度も同じクラスになれないのに、とんでもない女(教師にカマキリをくっつけておおはしゃぎする等)とは二年同クラスな上修学旅行の班も同じ。
本命に落ちて来た学校だったので授業のモチベも終わっていて、ついでに入学時両親が離婚した。
そしてゲームをすることもやめた。親が禁じた訳でもなく、ほかに趣味がある訳でもない。受験勉強に打ち込むでもなく、高校生活を惰性で消費していった。
そして大学、私はふとゲームをやりたいという感覚に襲われた。高校から抜け出したことでメンタルに余裕ができたのだろう。
衝動的におもちゃ箱(というかゲーム箱だが)を漁って手にしたのは、折りたたみ式のゲームボーイアドバンスSP。早速何かやろうとカセットを入れていた巾着をひっくり返した。出てきたのは、ポケットモンスター銀。それだけ。
そこからはもう怒涛だった。
「お母さん!ポケモンの古いゲーム捨てた!?」「アンタが売って良いっていったんでしょ!?」とかいう迷惑極まりないやりとりをして私は中古屋に走り、探していたものを見つけた。
ポケットモンスターサファイア、不思議のダンジョン青の救助隊、闇の探検隊、ポケモンコロシアム、ポケモンチャンネル………それからカービィ鏡の大迷宮にUSDX、MOTHER1+2、トマトアドベンチャー。ここに書ききれないくらいの私の思い出は、そこにあった。
けれど悲しいかな、大1でバイトもろくに始めていない私には全てを買い戻すことはできなかった。いつか絶対買い戻そう、そう胸に誓って500円箱なしのトマトアドベンチャーだけを手に私は店を出た。
帰ってきてすぐ、私はポケットモンスタープラチナを起動した。本当はサファイアをやりたかったのだが、私が手元に残しデータが飛んでいないソフトはそれだけだった。
すごく、面白かった。何をして良いのかわからず各街に飛んで聞くBGMも、適当に組んだパーティでレベル80代のライバルにボコボコにされたことも。
あの時得た端金で買った名前も知らないスナック菓子にかえていいものじゃなかった。何年越し、何十回目の殿堂入りを果たした時、私は泣いた。
人生初のアルバイトは苦痛の方が多かったが、おかげでソフトのほとんどは一年以内に買い集めることができた。FE系のソフトと一部のハードが大学生の懐には痛かったけど、ようやく自分を取り戻せたような気がした。
……自分を取り戻せたような気がした?
ここに来て私はゲームに相当な依存心を持っていることに気がついたのだった。
職場でゲーム趣味について弄られると「まあゲームに育てられたようなもんなんで!w」と冗談で返したことはあったが、どうやら真実(マジ)らしい。
こんなに唐突に休校なんか言われても小学生だけでは留守番できない!どうするんだ!って話に対して
俺はできてたけど?別に平気だろ?小1から鍵っ子だったけどなんともなかったけど?みたいにお留守番できてたマウント取ってくるやつ
「ぼくできるもんっ!!ひとりでおるすばんでぎるも”ん”っ!!!!」じゃないんだよなあ
お前らこの手の話になるとすーぐそういうこと言い出す
お前らのことは聞いてないの
お前らみたいにほっといてもずーーっと黙ってファンタジー小説読んだり電車図鑑や地図帳見て時間潰して友達と外で遊べなくても全然OKな奴の話はしてないの
クラスで一人浮いてる奴ってクラスにたった一人だからそうなってるわけで
残りの30人くらいの普通のガキは友達の家に押しかけてギョピィイイイイイイイーーーーッ!!って奇声上げながら室内で鬼ごっこして障子に倒れ込んでビリビリに破っちゃったりしてるの
ただ母の興味が欲しかった。
私には2つ下の弟がいる。10ヶ月になったばかりの頃、父の不注意で弟は頭を強打し、一時期は生死の境を彷徨った。一命を取り留めたが、重い麻痺と知的障害が残った。一度とて歩くことも話すことも出来ず、今も体だけが20歳に成長した赤ん坊のまま。
弟の件があり両親は離婚した。私たち姉弟は母に引き取られた。母には仕事があり、障害を抱えた弟の世話はとてもじゃないが見れなかった。幸いにも面倒を見てくれる施設が市内にあったので、弟はそこに入所した。母は、平日は仕事をこなし、土日には自宅へ弟を帰省させたりしていた。母はとても頑張っていたように思う。しかし母はとてつもなく不器用だった。仕事と弟の帰省。これ以上に何かをこなす事はキャパシティオーバーしていた。平日は仕事に疲れ帰ってきて、土日は弟の帰省で時間が潰れる。当然家はメチャクチャでゴミも片付かず、ご飯は出来合いは当たり前、次の日着る制服は夜に洗濯を回すから乾かず生乾きだった。アイロンなんてかけてもらった事ない。私は鍵っ子で、8時近くに帰ってくる母を1人待つ生活を高校卒業まで過ごした。夜や休日であっても母との会話はなく、母は私に興味がないようだった。それもそうだ。母は家族を養うため無我夢中だったし、五体満足の私よりいつまでも手のかかる弟の方が心配だ。幼心より、母に迷惑をかけては行けない、弟が辛い目にあってるから私は甘えては行けないと思っていた。私は自分のことは自分で解決する癖がついていた。それに身の回りのことは自分でやりなさい、が母の方針だった。しかし方針だけで、教育には意識が向かなかったようで、箸の使い方や横断歩道の渡り方、人への挨拶、身嗜みは全て学校、叔母や従兄弟から教えられた。そもそも学校とはそういうところだし、母に世のルール全て学ぶなんてことは私も求めてはなかったが、それでも母から何か教わるなんてことは小学生の時はなかったように思う。そもそも会話が少なく、抱きしめられることも、手を繋いで歩くことも、一緒に歌を歌うとか、そんな親子の思い出が少なく、教育として受けるものも無かった。無関心、ではないけど関心が低い。ネグレクトまではいかないけれど、放置気味。よく自分は社会ルールを知って育ったなと自分ながらに思うくらい母からの低関心が酷かった。
話が少し逸れるが、私は少し発達障害の気がある。小さい頃から忘れ物が多く、人とのコミュニケーションが下手くそで、いつも遅刻ギリギリ。でも言い訳をさせて欲しいが、それは親のフォローがあってこそ治るものではないのか。宿題を見てもらったことは一度もないし、忘れ物チェックもない、遅刻は親も常習犯。母と会話しないからそもそも話し方を教わっていない。その気になれば発達障害のテストもできるけど、私はこれを不教育による弊害だとして受診を避けている。いや、まあ、単に診断されたらダメージが大きすぎることもあるけど。
イジメられても、不審者に会っても、テストの点数が悪くても、親に相談できなかった。だが自分で解決できず、限界が近くなった時、もう学校に行きたくないと泣いて親に話したことがある。その時の母の顔と言葉は忘れられない。
今まで母のため弟のため自分を殺して生きて、辛いことを悲しいことも抱えて、でもやっぱり母の愛が少ないことから生じる人格の綻びがイジメにつながったと思う。なのに、助けを求めることすらしてはいけないのか。母にとって私は、何か問題が起こるだけで迷惑な存在なのか。
それから十数年経って、私は成人して医療系の職種につくことができた。母は仕事を続け、弟も変わらず体の大きな赤ん坊。母の関心は相変わらず弟。成人したので私への関心はさらに減った。母をご飯に誘っても疲れているから嫌だ。遊びも同様。ご飯を作れば冷蔵庫にあるお弁当を食べ、私の手料理には手をつけない。
なにも変わらない。あるといえば、私は彼氏が出来て依存先を変えた。彼氏は優しく、私のことを大好きでいてくれて、いつも私のことを考えてくれている。嬉しい。誰かにこんなに思ってもらったことは初めてだ。聞けば彼はご両親の元、一人っ子としてスクスクと育ったようだ。通りで自信に満ち溢れ、愛は無償なことを知り、人生悩むことはあるけど2人なら幸せになれるよと語れるわけだ。
私はちゃんと彼に愛を返せているか。きっと返せていないんだろうな。彼はよく私の態度を見て不安になるようだ。ごめんね。
フラッと立ち寄ったバーで知らない人から、「貴方は言葉に棘があり、人を信頼せず、自分の本心も隠しているね。そういう子は幸せになれないよ」と言われた。初対面の人にも分かるくらい、私は歪んでしまっているのだ。そのことを突きつけられた気がして、十数年来の気持ちがブワッと湧き出した。蓋を被せてきた感情が夜毎に強くなった。
私をこんな人間にした全てが憎い。
私に興味を持たない母が嫌い。
母が私に興味を持てなくした元凶の弟が嫌い。
両親と仲良く休日を過ごす友人たちが嫌い。
なんの苦労を知らず日々楽しく過ごす同級生たちが嫌い。
私のなにも知らないのに好きだという彼氏が嫌い。
なにより、いつまで経っても親や環境のせいにして、自分を正当化し逃げ続ける自分が殺したいほど憎い。
この感情には行き場がない。誰にも言ったことがない。言い方が分からない。彼氏にも友達にも、家族のことをなにも話していない。私は相当嫌な人間に育ってしまった。笑顔で話してる裏で死ねとすら思ってしまっている。
行き場がない。
私の理性が人のせいにするな、自己責任だろうとストップをかける。感情を飲み込んで、また明日から母に愛される弟を横目に、幸せになれない自分の人生を歩まねばならない。
私はただ、母に愛され、そして幸せになりたいだけだったのに。