はてなキーワード: 車輪とは
郡山は雨だ。
文字通り真っ暗な車窓に、水滴が張り付いている。
少しでも遅れると困る。このまま大宮まで在来線を乗り継いでいかなければならない。
グーグルからの通知で、宇都宮から遅れているとの情報を受け取る。
日付が変わる頃には家に着いていたい。
土曜の7時過ぎ、平日なら都内の方面へ向かう大宮駅の在来線ホームにいるはずだが、この日は打って変わり、新幹線ホームにいた。
金曜の夜のうちに、鳴子温泉の宿を取っていた。
昨晩熟睡できたおかげか、頭はすっきりしている。
少なくとも午前中には宿に着いてしまう、余裕を持ちすぎた旅程だった。
出発の5分前に新幹線は入線した。構内のブックエクスプレスで買った本を読みながら発車を待つ。
雪が降っていた。
西口のペデストリアンデッキの隅々には黒く汚れた雪がそこかしこに避けてあった。
本来なら、鳴子温泉にまっすぐ向かうのであれば、古川行きの特急券を用意するのが一般的だが、気分の変わりやすい私は、なんとなく先のことを見越して仙台行きでやめておいた。
別に、仙台から東北本線、陸羽東線を乗り継いで行っても問題ない。
また、結果的にその通りになったのだが、仙山線に乗り迂回しながら鳴子温泉にも行ける。
コートのポケットの中には行き先指定の乗車券ではなく、乗り降り自由の周遊券が収まっている。
これでふらふらと時間の許す限りどこまででも行ける。
雪を見たら必ずどこかに行きたくなる。
仙台に降った雪にそそのかされ、仙山線で山寺を目指すことにした。
山形県境を超えると、雪が濃くなった。
車窓には白色が占める割合が高くなり、車輪が雪を踏みしめる音が聞こえる。
私は学生の身分から社会人になったが、仙山線のこの風景は何も変わってはいない。
立石寺までの道のりや、参道の茶屋の雰囲気、何もかもそのままだ。
昔のことを考えていたらなぜか気恥ずかしくなり、1時間半滞在した後、すぐに山形方面を目指した。
あの頃は、貧乏学生で新幹線なんて使えず、全て鈍行での旅程だった。
駅前では旅館のおかみさんがボートを手に掲げ、待っていてくれた。
一晩お世話になる宿は、とても素晴らしいものだった。
なによりも、お湯が最高であった。
鳴子の湯は、湧き出る箇所によってその特色が全く異なる。
今回の宿は、これでもかというほど白く濁りきり、硫黄の匂いで脱衣所どころか、宿全体が溢れていた。
2階建てですべてが和室。こたつにストーブ。更には湧き出る源泉の温度を利用したヒーターが備えてあった。
夕食後は湯に浸かり、酒を飲んで、気付くと朝を迎え、あっという間にチェックアウトをしていた。
かつての震災。実家が青森の私は、知っておくべきことではないかという観念があった。
整然としている。真っ先に思い浮かんだ感想。
列車の中で見た女川までの車窓は、やはり想像していたとおりだった。
復興の力とはすごいものだ。震災直後の町の有り様は、詳細には私にはわからないが、一つだけ言えるのは、さっきまで見ていた車窓とは全く異なっていた、ということだ。
これこそが活気だと感じた。
だか、確実にここには人が住んでいる。そういう気分にさせた。
私はその後、今日何度目かの温泉に浸かり、土産を買い、ただの観光客という身分でそこにいた。
観光客でいられるということは、よく考えてみれば、それはもう立派な町だ。
間違いなく東北は立ち直ってきている。一部分の一瞬を切り取っただけを見た私が言うのは甚だ軽薄で軽率であるが、そう思わずにはいられなかった。
一年前、仙台から鈍行で東北本線を上ったことがやけに懐かしくなり、私は300km超の道のりをゆったりと列車に揺られている。
残りの時間は少し眠ろうと思う。仙台で少し買いすぎてしまった酒がもう底を尽きた。
なんとまあ奔放で堕落した2日間だっただろう。
意識とは、感覚器官からの情報を統合するために生み出されたもの(らしい)。
統合技術の一つが論理だ。演繹、帰納、数学、他、論理の例いくつかめんどくせえから割愛。
もう一つが信仰だ。意識の方向付け、計測および測量による統合技術だ。なにも神や迷信を信じるに限らない。鉄道かっけえ、熱い友情、琴線に触れるものなら全てだ。
さて、ヒトは感知(入力)、認識(処理)、行動(出力)する装置だ。その各段階での正誤、善悪、好嫌は論理と信仰によって定義される。
論理と信仰は、車軸を共有していない。それぞれが独立しているが、意識は両輪に跨っているので影響し合う。
先日、信仰を否定される体験をした。論理的な破綻はなかったが、意識には相当なダメージがあった。鼓膜は言葉に悪魔が宿っていると警鐘を鳴らし、嗅覚は死の匂いに飛び退いた。
そこで気付いた。
論理とは価値付けるもの、信仰とは意味付けるものではないかと。
意見求む
ガレージの中は身を切る寒さで、キーを持つ手が悴んだ。毎日こうも寒いと、地球温暖化はでっち上げだなんていう冗談の一つも言いたくなる。
知人の頼みで留学生を空港まで迎えに行くとメイリンに話したところ、自分も行くというものだから、僕は直接空港に行くという当初の予定を変更し、彼女の家に向かっていた。
ここ数日は晴れていて、雪は随分捌けてはいたが、路面の凍結があるかもしれず、神経質にならざるを得ない。バスを使っても良かったが、大きな荷物を抱えてやってくる右も左もわからない留学生には、足がないのは心許ない。
2ブロックほど走行しメイリンの家に到着すると、車を道路の脇に寄せ、彼女が現れるのを待った。
Me: I’m here (着いたよ)
Meiling: k (わかった)
Meiling is typing… (メイリンが入力中……)
Meiling: I’ll be there soon (もうすぐ行く)
あと4分。そう僕は打算した。彼女が「良い」と言ってから出発しているのに、どうして到着してからさらに待つことになるのか、時々不思議に思ったりもするが、これはいつものことだ。
**
4年前、僕が初めてシアトル・タコマ国際空港に到着したとき、僕はBITの寮に向かうシャトルバスを探して、空港内を歩き回っていた。
海外に行くのはそれが初めてのことで、文字通り右も左もわからなかった。
やっと見つけたターミナルは、タクシーが行き交っていて、シャトルバスが停まるところではなかった。疲労で立ち尽くしていた僕に、タクシー運転手が声をかけた。
「タクシーを探してるのか」
「どこの大学」
彼は僕を空港内のインフォメーションセンターに連れて行った。そうして僕が探しているターミナルを案内員の女性に問い合わせてくれた。
その女性は、僕にターミナルへの経路を伝えるだけでなく、わざわざ近くまで付き添って歩いてくれた。
そうして僕は、やっとの事で正しいターミナルに辿り着いたのだった。親切に恵まれて。
ターミナルのベンチには先客がいた。きっとこれは幸運なのだと、僕はわけもなく直感した。
それは小柄なアジア人の女の子で、彼女は僕に親しげに話しかけた。
「BITに?」
「はい」
「良かった。私もです」
彼女が続けた。
「シャトルバス、もうずっと待ってるんです」
「どのくらいですか?」
「1時間くらいです。もしかして場所を間違えたんじゃないかって思ってたんです」
「やっぱりここですよね」
「もうすぐかも」
「そうだと良いんですけど」
「……」
僕は会話に言葉を継ぎ足すことができなかった。
彼女の座っているベンチはまだスペースに余裕があったけど、僕はなんとなく気が引けてそこに座ることができなかった。脚は棒のようになっていたのに。
手持ち無沙汰になって、僕はバックパックから、宮部みゆきの『火車』の文庫本を取り出した。
その時、
「来た」
彼女が叫んだ。
BITのマスコットである、ブルドッグの『ジュリアン君』のプリントが入った白いバンが、僕たちの目の前に止まった。
僕は慌てて文庫本をバックパックに戻して、車輪の滑りの悪くなったスーツケースを引きずり始めようとしていた。
「ところで、」
歩き始めた彼女が踵を返して言った。
「お名前聞いても良いですか?」
僕はサトシと答えた。彼女はメイリンと名乗り、ピカッと笑った。
**
偶然、僕は親切と幸運に恵まれたが、宮本恵梨香が同じだとは限らない。彼女が迷わないように、僕は昨晩、手荷物レーンから僕が迎えに行くターミナルまでの経路をできるだけ詳細に説明して、空港のマップとともに彼女宛にメールした。僕の車の車種とナンバーも添えて。
窓をノックする音がした。
メイリンが手を振っていた。ピカッと笑いながら。
「パスタ食べたいな」って女の子から相談されたら、「カペリーニでいい店、知ってるよ」と即座に一段上の回答が
できるようになったら東京いい店やれる店。
諸君の健闘を祈る。
大学卒業しただけレベルの素人が数たくさんいたってどうにもならんってのはIT業界でも周知でしょうが。
素人じゃない保育士でさえ自分の子供を雨の日の自転車3人乗りで車輪に傘挟む事故で殺して書類送検されたりしてる。
母親が歯医者にフッ素塗ってもらおうと子供をつれてったら弗酸つかわれて激痛で殺された事件もある。
もう今の日本で「安心して子供を任せられる」の要求レベルはバク上がりすぎてる。
教師に教育と称してアレルギー食品食わせられたくらいで死ぬ生き物はそっちが悪いだろみたいな話もたくさん見聞きする。
1型糖尿病の児童が学校に注射もちこんでも、トイレでも保健室でもうたせない(覚せい剤を連想させるから?)とか。
みんなバカなの?リスクを押し付け合うしかできないの?見たことないものは理解できないの?
本人の話を疑うところから入るのなんで?
せめて1ケタ児強姦犯罪者はICチップ埋め込もうぜ。痴漢、麻薬の累犯もな。
エピペンとかの教育もしよう。保健体育・家庭科をお題目にしないで国語とおなじくらいしっかりと男女に教えよう。
余談だが、優しさを教えるのなら、道徳(目的)より保体・家庭科(手段)が先だろが、文科省と自民党のバカめ。
国語で源氏物語(目的)をひらがな(手段)より先に憶えさせるか?
安全で男も女も爺さんも婆さんも普通に育児に手出し(補助)できる世の中はそういうとこからだ。
果実ばっかりみて根を育てることをしない教育なんか風が吹いたら倒れる木をつくるばっかじゃねえか。
てかもう運良く倒れなかった木があつまって先生ごっこしてるだけだからな。
ホウレンソウとは元々は今現在「おひたし」と呼ばれている部分を指す概念だった。
報告・連絡・相談が積極的に行われるような職場環境を作るために、職場環境への影響力が強い人間の側が積極的に情報交換が行われるような心理的安全性の高い空間を作りなさい。
そういう教えを元々は「ほうれんそう」と呼んでいた。
それがいつの間にか、報告・連絡・相談は全てが部下の裁量と責任によって実行・申請されるものであり、そこに生じた齟齬は全て部下のコミュニケーション能力及び業務遂行能力の不足によるものである、という真逆の内容に書き換えられていった。
何故こうなったのか?
権力の強い者が責任を下のものになすりつける事を繰り返してきた成れの果てである。
責任を取るから強い権力を持っていたはずが、いつの間にか権力を持っていればいるほど責任を逃れやすくなるという逆転現象が起き続けた結果の成れの果てである。
唾棄すべき状況が積み上げられ続けた結果だ。
それによって誰が幸福になったのだろうか?
誰もが不幸になったはずである。
その責任は誰がとるのか。
その状況に流石にこれではみんな損をするだけだぞとようやく気づいて、今更になって車輪を再発明して産まれたのが「ほうれんそうのおひたし」だ。
だが恐ろしいことに「ほうれんそうのおひたし」はあくまでも「ほうれんそう」の発展概念として扱われているものなのである、未だに。
逆なのだ。
それなのにいつの間にか「ほうれんそう」があってそれから「おひたし」があるのが普通となり、その状態は今なお続いている。
間違ったままただ全てが突き進むよりはマシなのやも知れぬが、それでも私は「ほうれんそうのおひたし」などという言葉はやはり好きになれない。
だがもっと好きになれないのは、今「おひたし」と呼ばれている概念を無視し、権力者の責任逃れの為に作られた「ほうれんそう」を今なお振り回し続けている人種である。
ファック!!!!!!!
酒の回った頭が今吐き出したい言葉はこれしかない。具体的には言わないけど、はっきり特に面白くない飲み会に参加して4000円を支払った僕の素直な気持ちだ。
ひたすら聞き専を決め込んだ僕は、素面じゃクソ面白くもないもんだからとりあえず意識が持つギリのところまでアルコールを煽って、人の話に頷くだけのマシーンとなっていた。
ここのところあまり好調とは言えない気分であったのも精神状態に影響している。自分の中でうまく回っていないという感覚が身体を駆け巡り、自分をコントロールできない。
すべてを投げ出したい。こんな気持ちになるのは絶対アルコールが原因だ、酒に頼らなければやっていられない気分だったが、自暴自棄になるのも酒のせいだ。
もう放っておいてほしい、しかし、あまり放っておかれてもどうせ寂しくなるだけなのだ。これは認めなければならない、人間はけっきょくとのころ一人じゃ生きていけない社会性動物なのだ。
全ての原因は酒に頼らざるを得なくなった自分にあるわけだが、嫌ならとりあえず逃げ出してしまっても良かったのだ、そして早めに寝て、すべてを忘却するために車輪を回し続け心拍数を限界まで上げ、なにもかもを置き去りにすればいい。もしくはハードに筋トレでもすればいい。今自分の中にある暴力的な気分を身体を動かすことによって敢えて苦しみで心を満たしたい、前向きな自傷行為で自己満足に浸りたい。
そんなわけで、寝るぜ、ファーッッッック。
姉の話をする
初めに、俺は姉と二人姉弟で、年齢差は3歳差だ。
俺たちは自営業の親のもとに生まれて、今は親父の仕事を俺が継いでいる(とはいえ親父もまだ現役である)
近所の子供は両手に収まるくらいしかいない上に同級生は1人だけ。
そんな田舎で俺達は伸び伸びと成長した、と思う。
俺と姉は割と姉弟仲が良く、遊び相手としてはちょうど良かった。
姉はなんだかんだで弟である俺に甘く、喧嘩はすれど結局は譲ってくれることが多かった。
何かと姉の言動が鼻に付いたのだ。
姉は、弟の俺が言うのもなんだが、そんなに頭がいいわけでもなく(一緒に公文式をやっていた)、俺よりも字が汚く(同じ習字教室に通っていた)、俺よりも運動ができなかった(同じ武道をやっていた)。
言ってしまえば、姉が何かで表彰されるたびに、俺がその一段階上の賞をとってしまったり、身体能力を上回ったりした。
だから多分、当時の俺は見下していたのかもしれない。
姉の優しさに甘えて、姉の言動に一々噛み付いていた。
話しかけてくる姉に、苛立ち、ドジをする姉に虫唾が走り、それでも朗らかに笑う姉にどうしようもなく腹が立った。
その頃の俺は中学生くらいで、生徒会をやったり、部活をやったりと忙しく駆け回っていた。
一方の姉はといえば、第一志望の高校に落ちて、県立の進学校へと通い、中学時代は学年10位以内をキープしていたのとは反対に、学年のワースト10から数えたほうが早いという堕落しきった学校生活だったのだ。
だからそんな姉に、たぶん矛先が向いたのだろう。
そんな姉への反抗期は、俺が姉の落ちた高校に受かり、姉は短大へ進学したあたりで収まった。
気付けば、俺は高校をサボりがちになり、姉は短大とバイトと自分で立ち上げたサークル活動と忙しく駆け回る。
まるで正反対だと思った。
姉は、本を読むのが幼い頃から好きで、小中高と多読者ランキングに名を連ねており、姉が進んだ短大も、司書育成の短大だった。
そんな姉は今、東京にいる。
嫁さんをもらって、親父の仕事を継いで、地元に腰を据える俺と正反対に、独身の姉は東京で派遣社員をしながら飲食店のバイトをしている。