ホウレンソウとは元々は今現在「おひたし」と呼ばれている部分を指す概念だった。
報告・連絡・相談が積極的に行われるような職場環境を作るために、職場環境への影響力が強い人間の側が積極的に情報交換が行われるような心理的安全性の高い空間を作りなさい。
そういう教えを元々は「ほうれんそう」と呼んでいた。
それがいつの間にか、報告・連絡・相談は全てが部下の裁量と責任によって実行・申請されるものであり、そこに生じた齟齬は全て部下のコミュニケーション能力及び業務遂行能力の不足によるものである、という真逆の内容に書き換えられていった。
何故こうなったのか?
権力の強い者が責任を下のものになすりつける事を繰り返してきた成れの果てである。
責任を取るから強い権力を持っていたはずが、いつの間にか権力を持っていればいるほど責任を逃れやすくなるという逆転現象が起き続けた結果の成れの果てである。
唾棄すべき状況が積み上げられ続けた結果だ。
それによって誰が幸福になったのだろうか?
誰もが不幸になったはずである。
その責任は誰がとるのか。
その状況に流石にこれではみんな損をするだけだぞとようやく気づいて、今更になって車輪を再発明して産まれたのが「ほうれんそうのおひたし」だ。
だが恐ろしいことに「ほうれんそうのおひたし」はあくまでも「ほうれんそう」の発展概念として扱われているものなのである、未だに。
逆なのだ。
それなのにいつの間にか「ほうれんそう」があってそれから「おひたし」があるのが普通となり、その状態は今なお続いている。
間違ったままただ全てが突き進むよりはマシなのやも知れぬが、それでも私は「ほうれんそうのおひたし」などという言葉はやはり好きになれない。
だがもっと好きになれないのは、今「おひたし」と呼ばれている概念を無視し、権力者の責任逃れの為に作られた「ほうれんそう」を今なお振り回し続けている人種である。