はてなキーワード: 在日朝鮮人とは
アメリカの黒人差別問題は基本的にアメリカの歴史背景から起きたアメリカ独自のもの。アメリカに「在日朝鮮人差別」や「部落差別」がないのと同じように日本に「黒人差別」はない。
アメリカでは奴隷解放宣言後にも有名なタルサの黒人虐殺事件を含め、欧州系人がアフリカ系人を多く殺してきた。アフリカ系人は怒り抗議し人権運動をし、権利は向上しているが、今も警官による殺害は多い。だから差別に対する抗議運動が続いている。
アメリカは現代世界を支配する唯一最大の帝国だから、アメリカの抗議デモの怒りの声はあっという間に世界に波及する。黒人デモを腐す人がよく「こっちはどうなんだ」と例に出す香港デモの怒りの声が波及するよりそりゃ早い。
【IWJブログ】ネット上で「朝鮮人を殺す」「虐殺する」と差別・脅迫の書き込みをしていた「ヨーゲン」の正体 〜詐欺容疑で逮捕された57歳の「ネトウヨ」男は10代の子供を持つ父親
https://iwj.co.jp/wj/open/archives/151383
と
NHK武田真一アナ 木村花さんへの誹謗中傷「やりきれない」 リアリティー番組「私たちも考えないと」
https://news.yahoo.co.jp/articles/ac76b1f9097c15515aa3aad99c80ad44a864c040
は
そしてチー牛と常に一緒に同列に語っていいはずだ
まさか誹謗中傷がだめだとおっしゃる方々は、黒人と木村花と在日朝鮮人とチー牛で尊厳が違うといわないよな
そんな俺が当時なんでネトウヨになったのか自分なりに振り返ってみようと思う。
普段、夕食後にナイター中継見ながら「吉本隆明がどうたら」「西部邁がどうたら」そんなことばかり雑談してる父親と兄が、「ゴーマニズム宣言はあれヤベえよ……」と苦笑いしているのが耳に入ってその存在を知った。
なぜか興味を抱いた俺はそれがどんな本なのか訊いてみたら、二人ともしまったとでも言いたげな顔で言葉を濁し、「いや、お前が読んだら絶対に訳も分からずハマるから教えたくない」と逃げられた。
そんなふうに言われたらむしろ興味が強くなる。
早速、学校の帰りに大型書店に立ち寄った。残念ながらゴーマニズム宣言は置いてなくて(記憶が確かならとっくに絶版になってたからだったと思う)、仕方なく「戦争論」のほうを購入した。
一応、書いておくと俺はそこらへんのアホ高校に通う勉強なんてしたことないバカ学生だったから、歴史・公民ともに全く知識がなかった。
戦争論に書かれている刺激的な言論にやられて、人が変わったように昭和史の勉強を始めたとかいう事実も一切ない。
それにもかかわらず俺が戦争論にハマったのは、悪役として据えられてるキャラ(アメリカ?護憲論者?)を主人公(日本?小林よしのり?)がボッコボッコにやっつけて、徹底的にディスるのが気持ちよかったから。スカッとジャパン見て留飲下げてる人と全く同じ心理。
正直言って、本の内容は全然理解できてなかった。大人になった今ですら戦争論で何をどういう論点で掘り下げていたのか全く思い出せない。そして、今もう一回読んでも無学ゆえに理解できないだろう。
で、なんで当時の俺にそういうスカッとポルノ的物語が響いたのか?もうこれは俺が嫌われ者だったからとしか言えない。
見た目はオタクのくせに不良ぶりたがる、一周回った可愛げもなくとにかく協調性がなく、からかい半分に相手を挑発することをニヤニヤ言う。
そんな俺はまあとにかくクラス中から嫌われていた。男女問わず嫌われていた。
疎外されるのも自業自得なんだけど、そのくせ俺は周りに嫌われてる事実に傷つき、挙句、「人生初彼女ができない。童貞捨てられない」的悩みも同時に抱えてとにかくイライラしていた。
そんな人間がスカッとジャパンに出会ったらそりゃハマるよなあと今となっては思う。
逆恨み由来で膨れ上がったはち切れんばかりの攻撃性をあの本が代わりに解消してくれたような感じだ。
兄が俺をゴー宣に触れさせないよう慌てていたのは、俺の人間性に大問題があってなおかつクラスの嫌われ者であることを察していたからな気がする。
「(あの本にハマるのはまさにこういう奴だろう)」、そんな危機意識があったのではないかと。
俺は韓国、韓国人、在日朝鮮人、戦後民主主義、左翼を忌み嫌うようになった。
「お前そんなこと言っていいわけないだろう。理屈もなにもねえよ」というような蔑称やヘイトにキャッキャキャッキャと歓喜し、瀬戸弘幸や桜井誠を天才思想家として崇め奉った。
そして俺にとってスターといえばイチローでもダルビッシュでもなく、自民党のタカ派議員だった。
2chに差別書き込みをした回数は1000じゃまったくきかないと思う。
夕食後、父親と兄との雑談に俺が混ざるようになったのもちょうどこのころだった。
学校で起こった楽しい話なんてないもんだから、なんの脈略もなく「韓国がさあ~w」「中国がさあ~w」という調子で読んだばかりのヘイト本の内容を面白おかしくニヤニヤと披露する。
そのたびに父親は決まってウンザリしたような顔で「お前、そんな差別的な話を俺は家で聞きたくないよ。もっと楽しい話してくれよ」と露骨に眉をひそめ、軽蔑したような冷めた顔でそのやり取りを見守っていた兄が痺れを切らして「おめえいい加減にしろよ、黙れよ」と一喝する。
そんな流れが毎日だった。
それは「愛国心を盾にした差別はよくない」という至極まっとうな意見が世間の常識となることだった。
厳密に言うと、当時も今もそういう社会常識は当然みんなに共有されているということになっている。
学校や会社でネトウヨ的言論をかまそうものなら普通に窘められ、あいつは頭がおかしいということになるだろう。
ただ、当時はネトウヨもネトウヨ的言論もまだまだ隠れた存在で(ネトウヨというスラング自体は耳にしたことある人はもう多かったと思うが)、「変な人のことだとは思うけど、実際になにがどうなってんのかは知らない」程度にしか一般的に認知されていなかったと思う。だから、2chで俺を含む差別的な連中がどんだけ跋扈しようが見つからなかった。
世間には「差別は許されない」という当然の常識が共有されている一方で、ネットのアングラ部分ではネトウヨ的思想がすごい勢いで盛り上がるという対照的な状態が続いていた。
「もしもネットのネトウヨブームが世間の人に気付かれたら彼らの良心によって潰されるだろう。そしたら俺のフラストレーションの解消の場がなくなってしまう」
そんなふうに俺は恐れていた。
俺の嫌な予感は当たった。
やがて、ネトウヨ的存在が一般的に認知され始め、密教から顕教に変わっていった。
ただ、予想外だったこともある。
ネトウヨはやっぱり「あいつらとんでもねえ」とバッシングされはしたんだけど、それと同時に「あんなのはごく一部。差別者なんて実際はほぼいない。広まってもいないネトウヨ思想に危機感を抱くのは未熟者だから。はい、この話終わり」とでも言いたげな耳を塞ぐ態度を頑なに守り続ける勢力も相当いたことだった。
これに俺は凄く救われた。こういう逆張りというか、冷めたポーズを取ってくれる連中がいてくれれば俺の、俺たちネトウヨの居場所は守られる!と安堵した。
「ネトウヨ思想が広まりかねない。危険だ」という意見がネトウヨでもないネット民から「そんな奴みたことないんだけど?よっぽどレベルの低いコミュニティにいるんだね~」みたいなレトリックでよく小馬鹿にされていたのを覚えている。
ネトウヨ本が書店で平積みされ飛ぶように売れ、ヘイトスピーチなんてのが社会問題になって、身元隠してないTwitterアカウントで主婦や社会人がネトウヨ思想を全開にしている、そんな現在を考えると、ネトウヨ思想の流行という当時の懸念は正しく、そして、冷めた態度で小馬鹿にする勢力がネトウヨの追い風になったのは当たってたなあと思う。
ネトウヨ時代の俺も日本がここまでなるとは当時想像だにしなかったから。
政治とか右翼だとか左翼だとか韓国とかそういうの一切合切に俺が興味なくなったのは大学入学とほぼ同時だった。
大学合格後に兄に部屋まで呼び出され相当真剣に将来を案じることを言われ続けたからだ。
要約すると、「偏見を捨てろ。周りに親切にしろ。心を入れ替えろ。ていうか今の人間性のままだとお前人生終わるよ」、そんなことをマジのマジのマジのテンションでこんこんと聞かされた。
「親父もお袋も相当心配してるぞ。お前結局友達いなかったろ」、特にこれが半べそかくほど効いた。
自分が好かれるわけがない、擁護しようのない人間だという自覚は深いところで抱いていたので、大学では心を入れ替えて普通に友達作って楽しく過ごそうと思って大学生活をスタートさせた。
まもなく、普通に友達が何人かできて、一緒に遊ぶようになって、まるで憑き物が落ちたかのように俺のなかから世の中や人に対する攻撃性が萎んでいった。
気付いたら政治とかどうでもよくなっていた。ていうか在学中に在日の友達もできた。彼女はできなかった。
今は普通にのほほんと生きている。
元増田です。
実のところ、“明らかに人権侵害”と書きましたが、現時点で「~~だからホームレスは公共の場所に相応しくない」「~~だから自閉症患者は公共の場所に相応しくない」は罰することも損害賠償を請求することもできません。地方自治体などにはヘイト対策法に基づいて阻止する努力が課せられていますがそれだけです。
なぜならば、現在の日本の制度では、人権があるのはあくまで特定の個人または法人であり、『在日朝鮮人』や『同性愛者』や『女性』といった抽象的集団の人権は認められていません。『ホームレス』『自閉症患者』もこの点では同列です。以前ヘイトデモに損害賠償が認められていましたが、あれはあくまで『朝鮮学校』と名指しした(一条校ではないだけで、法人格は取得しているはずです)ことが原因です。
ただ、私はこのような抽象的集団についても、ごく最小限のヘイトスピーチ(殺せ、追い出せなどを直接的に訴える行為というのが個人的基準)は取り締まられることはやむを得ないと考えます。もちろん、「ヴェニスの商人はユダヤ人へのヘイトスピーチだ」は広義にはその通りであるとは考えますが、「だから禁書にせよ」については私は断固として反対します。
それで、skrnfさん(小文字だと見づらいのですが、SKRNFを小文字にしたのがidですよね?)の意見は「表現するのは自由、それに抗議するのも(『ガソリンを持って行くと電話する』『集団で大量に抗議電話をかけて麻痺させる』などの犯罪にならない範囲ならば)自由』というものであると理解します。その通りです。
ただ、ここで気をつけるべきなのはそれが“感想”であるか“意見”であるかです。
“感想”であるならば、よほどのことがない限り否定するべきではないと考えます(明らかに書いてあることを書いていないと表明するなどはまた別です。たとえば、「大魔王バーンが何のために地上を征服しようとしたのか分からなかった」という感想があったら「明らかに当人(当魔?)が言ってたじゃねーか」と否定されるのはやむを得ません。)。たとえ『剣道や弓道を見ると戦争を連想して不快になる』『城跡を見ると戦争を連想して不快になる』『レイプ物AVを見ると性暴力を連想して不快になる』『慶應大学にある福澤諭吉像を見ると脱亜論および日本によるアジア侵略を思い出して不快になる』『コロンブス像を見るとネイティブアメリカン迫害を思い出して不快になる』『少女が管楽器を咥える姿は口腔性交を連想して不快になる』であっても、この段階であるならばまだ感想です。
ただし、「~~だから止めろ」「~~だから公共の場所には出さないで欲しい」になったらそれは“意見”であり、意見を表明する者はそれに対する反論も受けなければなりません。
そして、抗議もまた意見です。つまり「このような絵は公共の場所に相応しくない」という抗議に対して「これこれの理由でそのような意見は間違っている」と指摘するのも同様に表現の自由であると考えます。
だから私は、レス先の増田氏が述べた「イヤだから見ないを実行できない場(公共の場など)には出さないでほしい」という部分を中心に「リベラリズムの観点からそれは間違っている」という意見を述べただけです。何も「レス先の増田氏がリベラルの敵だから排除せよ」のように訴えるつもりは一切ありません。もちろん、その意見に対するskrnfさんのレスは正当な意見として尊重します(同意するかは)別です。
こうやって在日朝鮮人は浸透していくのか?
そして福祉課に異動希望を出して、憲法違反の在日朝鮮人への生活保護の支給決定を出しまくると...
川崎市は、昨年12月に制定したヘイトスピーチ(憎悪表現)に罰金の刑事罰を科す全国初の条例「人権尊重のまちづくり条例」の具体化に向けて新年度、相談員の新規雇用や、インターネット上のヘイト情報収集などを進める。
7月1日の全面施行に備えて、条例内容の啓発にも取り組む。当初予算案に2289万円を計上したほか、4月1日付の組織改正で条例の担当課を新設する。
市によると、条例では市に、人権侵害に遭った市民から相談を受けて支援することを義務付けていることから、約300万円かけて専門の相談員を配置する。
件のポスターについて議論することは問題ない、というよりもっと議論すべきでああいった表現が不快であるという意見が可視化されることは悪いことではない。
しかし、不快な表現を公共の場所から排除しろという意見には絶対的に賛成できない。
表現は公共の場所で行うことができるから、表現の自由というのであって。一部の場所でしか許されないというのは自由ではない。
もちろん、それでも例外的に規制されうる場合はあるが、それは差し迫った危険や、多数による少数者に対する強い弾圧の実害がある場合のみに留めるべきである。
例えば、ヘイトスピーチの問題を考えても、在日朝鮮人に対して長い差別の歴史があり、それによって殺された人もいるから、在日朝鮮人に対するヘイトスピーチは公共の場で行うべきはないとされる。
しかし、そうではない場合。例えば「上場企業の経営者なんてみんな何か不正な事をやっている。」というのは上場企業の経営者からすればヘイトだろうが、それは差し迫った危険や、
多数による少数者の対する弾圧の実態があった訳ではないので公共の場で表明されることは許容されるべきとかんがえられる。
件のポスターについては、男性が女性をモノ扱いしてきた歴史があるとは言え、これによって例えばレイプ犯罪が起きるという差し迫った危機がおきるという危険は無いと考えられるので、排除すべきでない。
はっきり言ってヘドが出るほど低俗なものだとは思うが、表現の自由とはまさに『ヘドが出るほど低俗な』表現を守るためのものである。
(はっきり言うならば、津田大介が自分の対立者にもこの原則をきちんと守っているとは到底思えないが……。)
そして、誰かの権利を直接的に侵害するような表現(脅迫、名誉毀損、業務妨害)は認められるべきではないが、件の不自由展の展示作品は、誰の権利も侵害していない。よって開催は引き続きされるべきだと考える。
こう書くと、「福島原発事故被災者を侮辱するようなアートも含まれており、それによって福島原発事故被災者である俺を侮辱した」と言うかもしれない。だが、そのような主張は認められない。なぜならば、敢えてはっきり言わせてもらうが、『福島原発事故の被災者』に人権は無いからだ。
何もこれは、「放射能に汚染された福島在住者は遺伝子が変化して人ではない別の存在になってしまったから人権は認められない」などのように言っているのではない。
単に、『被災者個人』には当然として人権があるが、『被災者』という抽象的な集団には人権がないと主張しているだけだ。
表現の自由擁護の活動をしている山口貴士弁護士が集団的人権は認められないという点について解説しているし、あるいは弁護士ドットコムでネットで流行る「修羅の国・福岡」の書き込み 「福岡県民」は削除を要求できるか?という記事において福岡県出身の中島繁樹弁護士も『削除を要求はできない』と明言している。表現の不自由展も同様で、『福島原発事故の被災者という抽象的集団』『日本人という抽象的集団』には人権が無い以上、少なくとも法的に止めさせるべきではない。
無論、被災者や日本人だけでなく、『在日朝鮮人という抽象的集団』『同性愛者という抽象的集団』『女性という抽象的集団』にも人権はない。
津田大介の親の顔写真を踏んだり焼いたりする行為は犯罪か、というとこれは難しい。『津田大介の親』が生きているならば当然にその親に対する侮辱罪が認められるだろうが、故人であるならば微妙だ。
そのような行為を繰り返して津田大介が精神疾患になった場合はもしかしたら傷害罪になるかもしれない(※特定個人に無言電話をかけ続けて相手を不眠症にした行為が傷害罪として成立するという判例は実在する)が、不自由展を開催する程度には面の皮が厚い津田大介がそれで精神疾患になるのか。この場合の未遂は暴行罪(※字面とは異なり暴力犯罪では最も軽い罪であり、主に『暴力は振るったが怪我はさせなかった』場合に成立する)と扱えるかというのはおそらく判例がない(前述の『無言電話をかけ続けた』例も、相手が発病しなかったらどうなるかは不明)。がともかく、『抽象的集団に対する侮辱』と『個人に対する侮辱』は厳然として区別されるべきだ。