はてなキーワード: 本願寺とは
ワイはお前に会いに本願寺行くやで
年 | 名称 | 概要 |
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1531年 | 享禄・天文の乱 | 浄土真宗本願寺派の権力闘争である享禄の錯乱。管領・細川晴元が一向一揆を利用したら暴走してしまったので本願寺を討伐した天文の錯乱。 |
1532年 | 北部九州天文の乱 | 大内氏と大友氏が北九州を巡って抗争を行うなかで、大内義隆が大友氏の支援を受けた少弐氏を滅ぼし、豊前・筑前・肥前を平定した。 |
1533年 | 稲村の変 | 安房里見氏当主・里見義豊が、叔父の里見実堯を誅殺したところ、その息子の里見義堯が謀反を起こして義豊を殺し、自らが当主となった。 |
1536年 | 花倉の乱 | 駿河守護・今川氏輝と弟・彦五郎が急死、その他の弟で出家していた玄広恵探と栴岳承芳が後継を争った。栴岳承芳が勝利し今川義元を名乗った。 |
1537年 | 河東の乱 | 北条氏と今川氏は長く同盟を結んでいたが、今川氏が武田氏と手を結んだため、武田氏と争っていた北条氏が今川領に攻め込み河東地域を占領した。 |
1542年 | 天文の乱 | 伊達氏当主・稙宗とその息子・晴宗の内紛。婚姻外交が進んでいた奥州を二分する大乱に発展した。最終的に晴宗が当主となったが伊達氏は衰退した。 |
1550年 | 二階崩れの変 | 豊後の大名・大友氏において、嫡男の義鎮を支持する勢力が、当主の義鑑と三男の塩市丸を襲撃して殺害した。事件後に義鎮が当主となった。 |
1551年 | 大寧寺の変 | 周防の大名・大内義隆に対して、家臣の陶晴賢が謀反、義隆は自害に追い込まれた。後継は大友氏から迎えられ、陶晴賢が実権を握った。 |
1565年 | 永禄の変 | 畿内で勢力を誇る三好氏が、将軍・足利義輝を襲撃して殺害した。その後、将軍の後継争いから、三好氏の内紛へと発展していった。 |
1568年 | 本庄繁長の乱 | 越後上杉家臣・本庄繁長が上杉謙信に対して反乱を起こした。繁長がよく戦い、謙信の被害も大きかったので、繁長は降伏して帰参を許された。 |
1569年 | 本圀寺の変 | 本圀寺にいた将軍・足利義昭を三好三人衆が襲撃した。幕府軍がよく守るあいだに畿内の織田方の勢力が救援に駆けつけたため、三好三人衆は敗れた。 |
1569年 | 大内輝弘の乱 | 九州に侵攻した毛利氏の後方撹乱を狙った大友氏が、大内氏再興を目指す大内輝弘を周防で挙兵させた。毛利元就は九州侵攻を諦めて引き返し鎮圧した。 |
1570年 | 元亀の変 | 伊達晴宗と伊達輝宗の父子が対立するなかで、晴宗に重用されていた中野宗時が謀反の疑いをかけられ、中野一族は粛清・追放された。 |
1574年 | 天正最上の乱 | 出羽最上氏の当主となった最上義光と、その父・義守が対立し、伊達氏が義守に味方して内乱となった。最終的に義光有利で和睦した。 |
1576年 | 三瀬の変 | 伊勢北畠氏は織田氏に降伏し、織田信雄を養子に迎えて家督を譲っていたが、その後も叛意が残っているとされ、そのため北畠一族は粛清された。 |
1578年 | 御館の乱 | 上杉謙信の死後、その甥の景勝と、北条氏から迎えた景虎という、謙信の養子二人で後継争いがあり、武田氏を味方につけた景勝が勝利した。 |
1578年 | 天正伊賀の乱 | 伊勢を掌握した織田信雄が続いて伊賀に攻め込んだが敗退、数年後に織田氏はあらためて大軍で侵攻し、伊賀を平定した。 |
1582年 | 本能寺の変 | 織田家臣・明智光秀が謀反を起こし、本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した。信長は自害した。 |
1582年 | 天正壬午の乱 | 織田信長の死去により武田旧領から織田軍が撤退し、空白地帯となった武田旧領を巡って徳川・北条・上杉が三つ巴で争った。 |
1585年 | 粟ノ巣の変 | 伊達氏に降伏した畠山義継が、前当主・伊達輝宗を拉致した。追いかけた伊達軍により、輝宗ともども義継は討ち果たされた。 |
1591年 | 九戸政実の乱 | 南部晴政の死去に起因する後継争いから南部家臣・九戸政実が反乱を起こした。南部当主・信直は豊臣秀吉に救援を求め、諸大名軍により平定された。 |
1599年 | 庄内の乱 | 島津忠恒が重臣・伊集院忠棟を誅殺した。伊集院氏は籠城して徹底抗戦したが、秀吉死後に実権を握った徳川家康の調停により、最終的に降伏した。 |
1637年 | 島原の乱 | 島原・天草の苛政に耐えかねた領民が、旧領主に仕えていた浪人たちを中心として一揆を起こした。一揆勢は籠城して戦ったが、幕府軍に鎮圧された。 |
1651年 | 慶安の変 | 軍学者の由比正雪が、教え子の浪人たちと共に、幕府転覆の計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。由比正雪は自決した。 |
1652年 | 承応の変 | 軍学者の別木庄左衛門が、仲間の浪人たちと共に、幕府転覆の計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。別木庄左衛門は磔にされた。 |
1837年 | 大塩平八郎の乱 | 腐敗した大坂町奉行所や、飢饉でも米を買い占める豪商に失望した元・町与力の大塩平八郎らが決起し、豪商などを襲撃した。半日で鎮圧された。 |
1837年 | 生田万の乱 | 国学者の生田万が、大塩平八郎の乱に感化され、仲間とともに越後桑名藩の陣屋を襲撃したが、長岡藩によって鎮圧された。 |
1860年 | 桜田門外の変 | 攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、安政の大獄を引き起こして水戸藩を圧迫していた開国派の大老・井伊直弼を襲撃し、暗殺した。 |
1862年 | 坂下門外の変 | 攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、公武合体を推し進めていた開国派の老中・安藤信正を襲撃し、負傷させた。 |
1863年 | 朔平門外の変 | 破約攘夷派の公家の代表格であった姉小路公知が暗殺され、薩摩藩の田中新兵衛が逮捕されたが、新兵衛が自害したため真相は不明。 |
1863年 | 天誅組の変 | 尊攘派公家による倒幕計画に基づき、尊攘派の「天誅組」が大和国で挙兵したが、幕府に鎮圧された。同時に京では政変があり尊攘派公家が失脚した。 |
1863年 | 生野の変 | 長州の支援を受けた尊攘派浪士らが、天誅組と同様に但馬国で挙兵をしたが、幕府に鎮圧された。 |
1864年 | 天狗党の乱 | 水戸藩内の尊攘過激派「天狗党」が急進的な攘夷を求めて筑波山で挙兵したが、幕府に鎮圧された。この内乱により水戸藩の影響力は低下した。 |
1864年 | 禁門の変 | 前年の政変により京から追放されていた長州藩が、復権を目指して京で挙兵、会津藩や薩摩藩らと戦ったが敗れた。これにより長州征伐が決まった。 |
1874年 | 喰違の変 | 征韓論で失脚した不平士族たちが、征韓反対派の右大臣・岩倉具視を恨みに思い襲撃、負傷させた。下手人らはすぐに逮捕され処刑された。 |
1874年 | 佐賀の乱 | 征韓論で失脚した江藤新平らが中心となって不平士族が佐賀県で挙兵したが、政府軍により鎮圧された。 |
1876年 | 神風連の乱 | 熊本県の不平士族が結成した「敬神党」が廃刀令への反発から挙兵したが、政府の熊本鎮台軍により鎮圧された。 |
1876年 | 秋月の乱 | 神風連の乱に呼応して、福岡県で不平士族が挙兵したが、政府の小倉鎮台軍により鎮圧された。 |
1876年 | 萩の乱 | 神風連の乱に呼応して、山口県で不平士族が挙兵したが、政府の広島鎮台軍により鎮圧された。 |
1877年 | 福岡の変 | 西南戦争に呼応して、福岡県で不平士族が挙兵したが、福岡城に残っていた政府軍などに鎮圧された。 |
1878年 | 紀尾井坂の変 | 石川県の不平士族たちが、内務卿・大久保利通を襲撃、暗殺した。下手人らは自首し、処刑された。 |
(Wikipediaで立項されているものだけまとめた。「〜の変」「〜の乱」という別称があっても、その呼称で立項されていなければ除外している)
明確な定義は決まっていないという前提で、だいたい以下のような基準だと思う。
〜の変:大きな戦闘を伴わない政変。謀反・暗殺・粛清・失脚など。権力の上下は関係ない。成功したか失敗したかは関係ない。
〜の乱:大きな戦闘を伴う内乱。反乱・暴動・後継者争いなど。国家同士の戦争を指すことはほぼ無い。成功したか失敗したかは関係ない。
こういった呼称は「絶対にいずれかに統一しなければならない」というものではないので、「これって乱というより変じゃね?」と思うような事件は、だいたい「変」「乱」どちらで呼んでも通じたりする。たとえば蘇我氏と物部氏の戦いである「丁未の乱」は他に「丁未の変」や「丁未の役」とも呼ばれる。将軍・足利義教が暗殺された事件は、その暗殺の部分だけを見れば「嘉吉の変」と呼ばれ、その後の赤松討伐戦も含めれば「嘉吉の乱」と呼ばれる。
あとついでに。
〜の役:大規模な軍役。必然的に辺境への遠征や対外戦争が多い(がそれに限らない)。例として前九年の役・後三年の役・富山の役・文禄の役・慶長の役など。
〜の陣:長期間の在陣。遠征・戦線の膠着・包囲戦など。例として鈎の陣・志賀の陣・天正の陣・大坂の陣など。
という感じだと思う。「役」と「陣」はなんとなく互換性があり、「小田原の役・小田原の陣」「朝鮮の役・朝鮮の陣」「大坂の役・大坂の陣」などはどちらも用いられる。
と思うよ?
だけどさぁ…そもそも、ネットって好きなものや技術を発表する場所じゃん?
しかも、俺が許せないのは、オタク文化や成人向けっていうのは、15年以上前なら
「ネット中にある最後の楽園で、純度の高い好きを発表する場所」
だったところに踏み込んできたところだよ。
「もうネットを切って、香川でうどん食べてるか、秩父の山にこもるしかないのか」
て気持ち
ちなみに、日本史ではぼくの考え方ってすごく正しくて、
「動乱が起こるほど時代が変化する時には、四国か、大阪か、山奥(お寺)から英雄が出てくる」
んですよ。
戦国時代に最初に都を抑えた三好氏も、幕末活躍した土佐藩も四国なんやわ
お寺で英才教育を受けた人が歴史を変えたパターンで行くと、源義経や井伊直政が有名なんだけど…今でも山に行くと文化圏が都会とは大きく変わるから
「都会の病んだトレンドが入ってこないことで、危機の時代にはむしろ都会から離れた場所のほうが有能な人が育つんだな」
と…なんか納得できてしまう
海や山と違う意味で、
「独自の文化圏が強すぎて、都会のダメなトレンドに飲み込まれない」
のが、大阪。
大阪って日本史全般で、常にナンバー2、ナンバー3のいちをキープしてて、変革を象徴する会社や人物を生み出すんだ。
ちなみに、武士系で大阪の有名勢力は楠木正成公と本願寺ですから…うん
「都がおかしくなってくると、大阪か四国か山から変革者が出て来る」
の法則通りなのよね。
N国・参政党・維新の党首が大阪で、国民の玉木雄一郎は香川の出身。
という変なネタ。
偶然も500年1000年単位で先例があって、なおかつ実際にその場所に行ってみると都と空気が違うのを見たら…余計に「ネタっぽいけど、そうかもしれない」っぽさはある
これ、ぼくは絶対やらないようにしてる。
https://twitter.com/ikegpg/status/1671742757625548802
特に笑いについては、
「人間なんて高尚なもんじゃないから、ジャンクであればあるほど面白い(だから、小学校低学年まではうんこ・ちんこ連呼してるだけで笑いが取れる)」
というスタンスだから、高尚な笑いなんて自分のプライドを満たしたいだけのエゴだよ
ぼくの言ってることがわからん人はおると思うけど、「なんでか」
わかった上で、ぼくに改善できることがあるかどうかは確認する。
でも、考えても相手がおかしい時は、相手をディスったりするんじゃなくて「合わない」「違う世界を見てる」ぐらいでいいと思うし、そう考えるように努めたい
そうだよ本願寺は お西とお東
守山区だっけ。けっこうはずれのほうにあって乗り換えも大変だよ
ちなみに愛知県は京都より寺の数が多く、都道府県で一位くらいらしい
https://kostrivia.com/1308.html
覚王山に大きいのがあるし、大須には本願寺からの分家が密集してたりする
熱田神宮という神道系の大御所もある(草なぎの剣を奉納されてたとこ)
ので日泰寺はさほど有名どころじゃないぞ
(だから日本とタイの交流の結果として日泰寺という名前になった。
日本で派生した大手仏教である真言宗とかの後ろ盾がない?か共同で維持か?、
タイ仏教ってマジでガチだからインドからちゃんともらってきたやつだろうな
中国からもらったパンダとか日本で唯一だった千種のコアラみたいな人気はでなくて残念
信長というと、短気で気分しだいで人を殺していたとか思われがちだが、
20年来の宿老の佐久間信盛を解任する際も、暴君なら理由もなしに追い払ってしまうものだが、
信長は以下の長文をわざわざ直筆で書いている。
一、佐久間信盛・信栄親子は天王寺城に五年間在城しながら何の功績もあげていない。世間では不審に思っており、自分にも思い当たることがあり、口惜しい思いをしている。
一、信盛らの気持ちを推し量るに、石山本願寺を大敵と考え、戦もせず調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、相手は坊主であることだし、何年かすればゆくゆくは信長の威光によって出ていくであろうと考え、戦いを挑まなかったのであろうか。武者の道というものはそういうものではない。勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても兵卒の在陣の労苦も解かれてまことに本意なことであったのに、一方的な思慮で持久戦に固執し続けたことは分別もなく浅はかなことである。
一、丹波国での明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこした。羽柴秀吉の数カ国における働きも比類なし。池田恒興は少禄の身であるが、花隈城を時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。これを以て信盛も奮起し、一廉の働きをすべきであろう。
一、柴田勝家もこれらの働きを聞いて、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した。
一、戦いで期待通りの働きができないなら、人を使って謀略などをこらし、足りない所を信長に報告し意見を聞きに来るべきなのに、五年間それすらないのは怠慢で、けしからぬことである。
一、信盛の与力・保田知宗の書状には「本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城の一揆衆もおおかた退散するであろう」とあり、信盛親子も連判している。今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、自分のくるしい立場をかわすため、あれこれ言い訳をしているのではないか。
一、信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。これに自身の配下を加えれば、どう戦おうともこれほど落ち度を取ることはなかっただろう。
一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので、家臣も増えたかと思えばそうではなく、それどころか水野の旧臣を追放してしまった。それでも跡目を新たに設けるなら前と同じ数の家臣を確保できるはずだが、1人も家臣を召し抱えていなかったのなら、追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄とし、収益を金銀に換えているということである。言語道断である。
一、山崎の地を与えたのに、信長が声をかけておいた者をすぐに追放してしまった。これも先の刈谷と件と思い合わされる事である。
一、以前からの家臣に知行を加増してやったり、与力を付けたり、新規に家臣を召し抱えたりしていれば、これほど落ち度を取ることはなかったであろうに、けちくさく溜め込むことばかり考えるから今回、天下の面目を失ってしまったのだ。これは唐・高麗・南蛮の国でも有名なことだ。
一、先年、朝倉をうち破ったとき(=刀根坂の戦い)、戦機の見通しが悪いとしかったところ、恐縮もせず、結局自分の正当性を吹聴し、あまつさえ席を蹴って立った。これによって信長は面目を失った。その口程もなく、ここ(天王寺)に在陣し続けて、その卑怯な事は前代未聞である。
一、大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない。その上、物事をいい加減に処理するというのだから、つまり親子共々武者の道を心得ていないからこのような事になったのである。
一、与力ばかり使っている。他者からの攻撃に備える際、与力に軍役を勤めさせ、自身で家臣を召抱えず。領地を無駄にし、卑怯な事をしている。
一、信盛の与力や家臣たちまで信栄に遠慮している。自身の思慮を自慢し穏やかなふりをして、綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。
一、信長の代になって30年間奉公してきた間、「信盛の活躍は比類なし」と言われるような働きは一度もない。
一、信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方ヶ原へ援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない。しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば、信盛が運良く戦死を免れても、人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない。あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと紛れもない。
一、こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽の恥をすすいだ上で帰参するか、どこかで討死するしかない。
一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。
右のように数年の間ひとかどの武勲もなく、未練の子細はこのたびの保田の件で思い当たった。そもそも天下を支配している信長に対してたてつく者どもは信盛から始まったのだから、その償いに最後の2か条を実行してみせよ。承知しなければ二度と天下が許すことはないであろう。
また、秀吉が浮気したときに、奥さんの禰禰にこのような手紙も送っている。
私の命に従い、この度、この地(安土城)にはじめて尋ねてくれて嬉しく思う。
その上、土産の数々も美しく見事で、筆ではとても表現できない程だ。
そのお返しに、私の方からも「何をやろう」かと思ったが、そなたの土産があまりに見事で、何を返せば良いのか思い付かなかったので、この度はやめて、そなたが今度来た時にでも渡そうと思う。
そなたの美貌も、いつぞやに会った時よりも、十の物が二十になるほど美しくなっている。
藤吉郎(秀吉)が、何か不足を申しているとのことだが言語同断けしからぬことだ。
どこを探しても、そなたほどの女性を二度とあの禿ねずみは見付けることができないだろう。
これより先は、身の持ち方を陽快にして、奥方らしく堂々と、やきもちなどは妬かないように。
ただし、女房の役目として、言いたいことがある時はすべて言うのではなく、ある程度に留めて言うとよい。
又々 かしく藤吉郎 女ども
のぶ
秋篠寺 あきしのでら
芦峅寺 あしくらじ
飛鳥寺 あすかでら
安寺 あてら
阿寺 あてら
天寺 あまでら
尼寺 あまでら
阿見寺 あみでら
荒寺 あれでら
安岡寺 あんこうじ
安全寺 あんぜんじ
安用寺 あんようじ
安養寺 あんようじ
安楽寺 あんらくじ
石寺 いしてら
石山寺 いしやまでら
板寺 いたでら
猪名寺 いたでら
一乗寺 いちじょうじ
一条寺 いちじょうじ
一寺 いちでら
一坊寺 いっぽうじ
井寺 いてら
威徳寺 いとくじ
伊堂寺 いどうじ
稲寺 いなでら
今寺 いまでら
岩峅寺 いわくらじ
岩寺 いわでら
巌寺 いわでら
巖寺 いわでら
上寺 うえでら
氏寺 うじでら
永源寺 えいげんじ
英勝寺 えいしょうじ
永徳寺 えいとくじ
永平寺 えいへいじ
永保寺 えいほうじ
永満寺 えいまんじ
永養寺 えいようじ
江寺 えてら
慧日寺 えにちじ
家原寺 えばらじ
円覚寺 えんがくじ
円行寺 えんぎょうじ
円光寺 えんこうじ
圓光寺 えんこうじ
円護寺 えんごじ
円勝寺 えんしょうじ
円正寺 えんしょうじ
延勝寺 えんしょうじ
延壽寺 えんじゅじ
延寿寺 えんじゅじ
円城寺 えんじょうじ
円成寺 えんじょうじ
圓城寺 えんじょうじ
圓成寺 えんじょうじ
延対寺 えんたいじ
円通寺 えんつうじ
円道寺 えんどうじ
圓道寺 えんどうじ
円頓寺 えんどんじ
円応寺 えんのうじ
円能寺 えんのうじ
円福寺 えんふくじ
圓福寺 えんふくじ
円満寺 えんまんじ
円明寺 えんみょうじ
延命寺 えんめいじ
延暦寺 えんりゃくじ
王寺 おうじ
王禅寺 おうぜんじ
押領寺 おうりょうじ
大谷寺 おおたにじ
大寺 おおでら
大野寺 おおのじ
大庭寺 おおばでら
岡寺 おかでら
奥海印寺 おくかいいんじ
奥寺 おくてら
奧寺 おくてら
小倉寺 おぐらじ
長寺 おさでら
尾寺 おてら
御寺 おてら
小埜寺 おのでら
小見寺 おみでら
表慈恩寺 おもてじおんじ
音光寺 おんこうじ
園城寺 おんじょうじ
遠城寺 おんじょうじ
温泉寺 おんせんじ
隠明寺 おんみょうじ
園林寺 おんりんじ
海印寺 かいいんじ
海応寺 かいおうじ
海音寺 かいおんじ
皆尺寺 かいしゃくじ
海蔵寺 かいぞうじ
海藏寺 かいぞうじ
覚王寺 かくおうじ
覚寺 かくじ
覚満寺 かくまんじ
駆け込み寺 かけこみでら
駆込み寺 かけこみでら
笠寺 かさでら
嘉祥寺 かしょうじ
勧修寺 かじゅうじ
門寺 かどでら
金森寺 かなもり
上古寺 かみふるてら
川寺 かわでら
寛永寺 かんえいじ
観音寺 かんおんじ
観海寺 かんかいじ
観喜寺 かんきじ
舘山寺 かんざんじ
観修寺 かんしゅうじ
官寺 かんじ
観世音寺 かんぜおんじ
神大寺 かんだいじ
神道寺 かんどうじ
感応寺 かんのうじ
感應寺 かんのうじ
観音正寺 かんのんしょうじ
甘露寺 かんろじ
願海寺 がんかいじ
元興寺 がんごうじ
願興寺 がんごうじ
願成寺 がんじょうじ
北久宝寺 きたきゅうほうじ
北寺 きたでら
城田寺 きだいじ
吉城寺 きちじょうじ
吉祥寺 きちじょうじ
木寺 きでら
紀寺 きでら
木佛寺 きぶでら
紀三井寺 きみいでら
久宝寺 きゅうほうじ
久本寺 きゅうほんじ
金閣寺 きんかくじ
金勝寺 きんしょうじ
金仙寺 きんせんじ
金泉寺 きんせんじ
金熊寺 きんゆうじ
金楽寺 きんらくじ
祇園寺 ぎおんじ
行願寺 ぎょうがんじ
玉泉寺 ぎょくせんじ
銀閣寺 ぎんかくじ
久遠寺 くおんじ
久能寺 くのうじ
九品寺 くほんじ
久保寺 くぼじ、くぼでら、くぼてら
窪寺 くぼでら
弘法寺 ぐほうじ
弘明寺 ぐみょうじ
恵林寺 けいりんじ
敬礼寺 けいれいじ
華蔵寺 けぞうじ
顕聖寺 けんしょうじ
建長寺 けんちょうじ
建仁寺 けんにんじ
源法寺 げんぼうじ
高安寺 こうあんじ
光悦寺 こうえつじ
高円寺 こうえんじ
光音寺 こうおんじ
光源寺 こうげんじ
高源寺 こうげんじ
興国寺 こうこくじ
広済寺 こうさいじ
耕三寺 こうさんじ
高山寺 こうさんじ
興聖寺 こうしょうじ
光寺 こうじ
国府寺 こうじ
國府寺 こうじ
高水寺 こうすいじ
高専寺 こうせんじ
高專寺 こうせんじ
光善寺 こうぜんじ
高蔵寺 こうぞうじ
高台寺 こうたいじ
香寺 こうでら
皇徳寺 こうとくじ
高徳寺 こうとくじ
光同寺 こうどうじ
興福寺 こうふくじ
光明寺 こうみょうじ
広隆寺 こうりゅうじ
粉河寺 こかわでら
国済寺 こくさいじ
国泰寺 こくたいじ
國分寺 こくぶじ
国分寺 こくぶんじ
国分尼寺 こくぶんにじ
苔寺 こけでら
古正寺 こしょうじ
小寺 こでら、こてら
駒寺野 こまでらの
金戒光明寺 こんかいこうみょうじ
金剛峰寺 こんごうぶじ
権寺 こんじ
金蔵寺 こんぞうじ
金胎寺 こんたいじ
豪炎寺 ごうえんじ
豪徳寺 ごうとくじ
五雲寺 ごうんじ
獄寺 ごくでら
極楽寺 ごくらくじ
極樂寺 ごくらくじ
護国寺 ごこくじ
後藤寺 ごとうじ
権正寺 ごんしょうじ
権常寺 ごんじょうじ
西安寺 さいあんじ
西円寺 さいえんじ
西園寺 さいおんじ
西園寺公望 さいおんじきんもち
西教寺 さいきょうじ
西元寺 さいげんじ
西光寺 さいこうじ
最勝寺 さいしょうじ
西照寺 さいしょうじ
西寺 さいじ
最乗寺 さいじょうじ
西大寺 さいだいじ
西大寺上 さいだいじかみ
西大寺中 さいだいじなか
佐井寺 さいでら
才寺 さいでら
西徳寺 さいとくじ
西方寺 さいほうじ
西法寺 さいほうじ
西芳寺 さいほうじ
斉明寺 さいみょうじ
斎明寺 さいみょうじ
最明寺 さいみょうじ
齋明寺 さいみょうじ
西明寺 さいみょうじ、さいめいじ
西來寺 さいらいじ
西蓮寺 さいれんじ
西連寺 さいれんじ
境寺 さかいでら
讃州寺 さんしゅうじ
三世寺 さんぜじ
三代寺 さんだいじ
三大寺 さんだいじ
三福寺 さんふくじ
三宝寺 さんぼうじ
財光寺 ざいこうじ
在国寺 ざいこくじ
在國寺 ざいこくじ
坐光寺 ざこうじ
座光寺 ざこうじ
紫雲寺 しうんじ
四王寺 しおうじ
塩寺 しおでら
志観寺 しかんじ
下寺 したでら、しもでら
四天王寺 してんのうじ
志堂寺 しどうじ
嶋寺 しまでら
下海印寺 しもかいいんじ
下法軍寺 しもほうぐんじ
社寺 しゃじ
舎利寺 しゃりじ
修善寺 しゅぜんじ
修禅寺 しゅぜんじ
朱膳寺 しゅぜんじ
祥雲寺 しょううんじ
正円寺 しょうえんじ
正観寺 しょうかんじ
正行寺 しょうぎょうじ
承元寺 しょうげんじ
正源寺 しょうげんじ
生源寺 しょうげんじ
勝興寺 しょうこうじ
相国寺 しょうこくじ
正権寺 しょうごんじ
荘厳寺 しょうごんじ
清浄光寺 しょうじょうこうじ
諸徳寺 しょうとくじ
正道寺 しょうどうじ
正福寺 しょうふくじ
正法寺 しょうほうじ
淨法寺 しょうほうじ
昌明寺 しょうみょうじ
正明寺 しょうみょうじ
称名寺 しょうみょうじ
勝楽寺 しょうらくじ
正楽寺 しょうらくじ
正暦寺 しょうりゃくじ
勝竜寺 しょうりゅうじ
青龍寺 しょうりゅうじ
少林寺 しょうりんじ
松林寺 しょうりんじ
正蓮寺 しょうれんじ
青蓮寺 しょうれんじ
城寺 しろてら
眞行寺 しんぎょうじ
真行寺 しんぎょうじ
真光寺 しんこうじ
神護寺 しんごじ
新勝寺 しんしょうじ
神松寺 しんしょうじ
神清寺 しんせいじ
新寺 しんてら
真如寺 しんにょじ
真福寺 しんふくじ
新福寺 しんぷくじ
真綾寺 しんりょうじ
慈恩寺 じおんじ
慈眼寺 じがんじ
慈光寺 じこうじ
持光寺 じこうじ
慈照寺 じしょうじ
地蔵寺 じぞうじ
実相寺 じっしょうじ
實相寺 じっしょうじ
実法寺 じほうじ
慈明寺 じみょうじ
神明寺 じみょうじ
甚目寺 じもくじ
十楽寺 じゅうがくじ
十樂寺 じゅうがくじ
十禅寺 じゅうぜんじ
十蔵寺 じゅうぞうじ
十藏寺 じゅうぞうじ
鷲林寺 じゅうりんじ
十貫寺 じゅっかんじ
寿福寺 じゅふくじ
順教寺 じゅんきようじ
浄圓寺 じょうえんじ
淨円寺 じょうえんじ
常願寺 じょうがんじ
成願寺 じょうがんじ
城光寺 じょうこうじ
定光寺 じょうこうじ
常光寺 じょうこうじ
常称寺 じょうしょうじ
定禅寺 じょうぜんじ
浄智寺 じょうちじ
浄土寺 じょうどじ
城南寺 じょうなんてら
浄法寺 じょうほうじ
上坊寺 じょうぼうじ
浄明寺 じょうみょうじ
常楽寺 じょうらくじ
常樂寺 じょうらくじ
定林寺 じょうりんじ
神宮寺 じんぐうじ
神向寺 じんこうじ
秦泉寺 じんせんじ
深大寺 じんだいじ
神武寺 じんむじ
水前寺 すいぜんじ
周船寺 すせんじ
須磨寺 すまでら
随応寺 ずいおうじ
瑞巌寺 ずいがんじ
瑞泉寺 ずいせんじ
頭陀寺 ずだじ
清閑寺 せいかんじ
清岸寺 せいがんじ
清河寺 せいがんじ
誓願寺 せいがんじ
青岸渡寺 せいがんとじ
清玄寺 せいげんじ
成勝寺 せいしょうじ
西伝寺 せいでんじ
青明寺 せいみょうじ
清涼寺 せいりょうじ
関寺 せきでら
泉正寺 せんしょうじ
浅草寺 せんそうじ
千提寺 せんだいじ
泉涌寺 せんにゅうじ
泉湧寺 せんにゅうじ
千音寺 せんのんじ
善応寺 ぜんおうじ
善久寺 ぜんきゅうじ
善慶寺 ぜんけいじ
善源寺 ぜんげんじ
善光寺 ぜんこうじ
善根寺 ぜんこんじ
禅昌寺 ぜんしょうじ
善通寺 ぜんつうじ
禅寺 ぜんでら
善導寺 ぜんどうじ
善如寺 ぜんにょじ
善能寺 ぜんのうじ
善福寺 ぜんぷくじ
善法寺 ぜんぽうじ
善養寺 ぜんようじ
善立寺 ぜんりゅうじ
禅林寺 ぜんりんじ
総持寺 そうじじ
崇禅寺 そうぜんじ
崇福寺 そうふくじ
造寺 ぞうじ
増上寺 ぞうじょうじ
太岡寺 たいこうじ
躰光寺 たいこうじ
大山寺 たいさんじ
大石寺 たいせきじ
泰泉寺 たいせんじ
太寺 たいでら
大寧寺 たいねいじ
太平寺 たいへいじ
当麻寺 たいまでら
太融寺 たいゆうじ
太陽寺 たいようじ
高田寺 たかだじ
高寺 たかでら
髙寺 たかでら
宝寺 たからでら
滝寺 たきでら
瀧寺 たきでら
橘寺 たちばなでら
舘寺 たてでら
館寺 たてでら
田寺 たでら
多門寺 たもんじ
誕生寺 たんじょうじ
大雲寺 だいうんじ
大雄寺 だいおうじ
大巌寺 だいがんじ
大願寺 だいがんじ
大京寺 だいきょうじ
題経寺 だいきょうじ
大宮寺 だいぐうじ
大源寺 だいげんじ
大光寺 だいこうじ
醍醐寺 だいごじ
大師寺 だいしじ
大正寺 だいしょうじ
大聖寺 だいしょうじ
大慈寺 だいじじ
大樹寺 だいじゅうじ
大乗寺 だいじょうじ
大泉寺 だいせんじ
大善寺 だいぜんじ
大通寺 だいつうじ
大徳寺 だいとくじ
大導寺 だいどうじ
大道寺 だいどうじ
大日寺 だいにちじ
大宝寺 だいほうじ
大楽寺 だいらくじ
大琳寺 だいりんじ
達磨寺 だるまじ
檀那寺 だんなでら
旦那寺 だんなでら、だんなじ
智恩寺 ちおんじ
知恩寺 ちおんじ
竹林寺 ちくりんじ
千見寺 ちけんじ
知見寺 ちけんじ
千葉寺 ちばでら
中元寺 ちゅうがんじ
中願寺 ちゅうがんじ
中宮寺 ちゅうぐうじ
仲元寺 ちゅうげんじ
中権寺 ちゅうごんじ
中在寺 ちゅうざいじ
中善寺 ちゅうぜんじ
中禅寺 ちゅうぜんじ
中尊寺 ちゅうそんじ
中堂寺 ちゅうどうじ
長安寺 ちょうあんじ
長栄寺 ちょうえいじ
潮音寺 ちょうおんじ
長久寺 ちょうきゅうじ
長慶寺 ちょうけいじ
長源寺 ちょうげんじ
長興寺 ちょうこうじ
長勝寺 ちょうしょうじ
長松寺 ちょうしょうじ
長泉寺 ちょうせんじ
重染寺 ちょうぜんじ
長徳寺 ちょうとくじ
長坂寺 ちょうはんじ
長峰寺 ちょうほうじ
長命寺 ちょうめいじ
長楽寺 ちょうらくじ
通元寺 つうげんじ
通法寺 つうほうじ
津寺 つでら
貞永寺 ていえいじ
天花寺 てんげえじ、てんかじ
天現寺 てんげんじ
天性寺 てんしょうじ
天正寺 てんしょうじ
天寧寺 てんねいじ
天王寺 てんのうじ
天籟寺 てんらいじ
天竜寺 てんりゅうじ
天龍寺 てんりゅうじ
伝法寺 でんぼうじ
傳法寺 でんぼうじ
東慶寺 とうけいじ
東光寺 とうこうじ
唐招提寺 とうしょうだいじ
当寺 とうじ
東寺 とうじ
東泉寺 とうせんじ
東禅寺 とうぜんじ
東大寺 とうだいじ
東長寺 とうちょうじ
塔寺 とうでら
東福寺 とうふくじ
灯明寺 とうみょうじ
徳大寺 とくだいじ
道光寺 どうこうじ
道寺 どうじ
道場寺 どうじょうじ
道成寺 どうじょうじ
導寺 どうでら
道明寺 どうみょうじ
道明寺粉 どうみょうじこ
中秦泉寺 なかじんぜんじ
中寺 なかでら
中山寺 なかやまでら
若王寺 なこうじ
那谷寺 なたでら
成相寺 なりあいじ
南禅寺 なんぜんじ
南林寺 なんりんじ
飯寺 にいでら
西秦泉寺 にしじんぜんじ
西寺尾 にしてらお
西寺方 にしてらかた
西本願寺 にしほんがんじ
西本成寺 にしほんじょうじ
仁頂寺 にじょうじ
日東寺 にっとうじ
如法寺 にょほうじ
忍頂寺 にんじょうじ
仁和寺 にんなじ
念仏寺 ねんぶつじ
能仁寺 のうにんじ
野寺 のでら
廃寺 はいじ
長谷寺 はせでら
畑寺 はたでら
鉢ヶ峯寺 はちがみねじ
八九寺 はちくじ
幅寺 はばでら
浜寺 はまでら
林寺 はやしじ
原寺 はらでら
梅津寺 ばいしんじ
梅林寺 ばいりんじ
番生寺 ばんしょうじ
日向寺 ひうがじ
東本願寺 ひがしほんがんじ
東山寺 ひがしやまてら
引寺 ひきじ
百済寺 ひゃくさいじ
白毫寺 びゃくごうじ
平等寺 びょうどうじ
富貴寺 ふきでら
福王寺 ふくおうじ
福音寺 ふくおんじ
福成寺 ふくじょうじ
福禅寺 ふくぜんじ
福寺 ふくでら
福田寺 ふくでんじ
普賢寺 ふげんじ
普済寺 ふさいじ
普正寺 ふしょうじ
藤井寺 ふじいでら
二ツ寺 ふたつてら
不動寺 ふどうじ
舩寺 ふなでら
船寺 ふなでら
古寺 ふるでら、こでら
峰定寺 ぶじょうじ
仏光寺 ぶっこうじ
仏国寺 ぶっこくじ
仏生寺 ぶっしょうじ
仏寺 ぶつじ
平安寺 へいあんじ
平泉寺 へいせんじ
平林寺 へいりんじ
報恩寺 ほうおんじ
方広寺 ほうこうじ
宝厳寺 ほうごんじ
宝山寺 ほうざんじ
宝積寺 ほうしゃくじ
寳積寺 ほうしゃくじ
法勝寺 ほうしょうじ
放寺 ほうじ
法寺岡 ほうじおか
芳寺戸 ほうじど
宝仙寺 ほうせんじ
宝泉寺 ほうせんじ
法泉寺 ほうせんじ
法善寺 ほうぜんじ
宝蔵寺 ほうぞうじ
宝藏寺 ほうぞうじ
寳蔵寺 ほうぞうじ
寳藏寺 ほうぞうじ
寶蔵寺 ほうぞうじ
寶藏寺 ほうぞうじ
法蔵寺 ほうぞうじ
法伝寺 ほうでんじ
法傳寺 ほうでんじ
宝塔寺 ほうとうじ
法道寺 ほうどうじ
鳳来寺 ほうらいじ
法隆寺 ほうりゅうじ
法輪寺 ほうりんじ
法起寺 ほっきじ
法華寺 ほっけじ
法興寺 ほつこうじ
法性寺 ほつしょうじ
本願寺 ほんがんじ
本興寺 ほんこうじ
本寺 ほんじ、ほんでら
本成寺 ほんじょうじ
本能寺 ほんのうじ
本遠寺 ほんのんじ
本法寺 ほんぽうじ
本妙寺 ほんみょうじ
本門寺 ほんもんじ
坊寺 ぼうじ
鳳凰寺 ぼうじ
菩提寺 ぼだいじ
前寺 まえでら
牧寺 まきでら
松尾寺 まつおじ
末寺 まつじ
松寺 まつでら
眞寺 までら
真寺 までら
万願寺 まんがんじ
満願寺 まんがんじ
万寿寺 まんじゅじ
万造寺 まんぞうじ
萬造寺 まんぞうじ
万代寺 まんたいじ
万納寺 まんのうじ
萬納寺 まんのうじ
万福寺 まんぷくじ
三井寺 みいでら
美江寺 みえじ
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三ツ寺 みつでら
三寺 みつでら
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峰寺 みねでら
壬生寺 みぶでら
宮寺 みやでら
妙円寺 みょうえんじ
明王寺 みょうおうじ
妙国寺 みょうこくじ
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明徳寺 みょうとくじ
妙法寺 みょうほうじ
明法寺 みょうほうじ
妙楽寺 みょうらくじ
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弥勒寺 みろくじ
彌勒寺 みろくじ
向寺 むかいでら
室生寺 むろうじ
室寺 むろじ
毛越寺 もうつじ
元寺 もとてら
森寺 もりでら
茂林寺 もりんじ
文珠寺 もんじゅじ
薬王寺 やくおうじ
薬師寺 やくしじ
藥師寺 やくしじ
薬勝寺 やくしょうじ
薬眞寺 やくしんじ
薬真寺 やくしんじ
藥眞寺 やくしんじ
矢寺 やてら
柳寺 やなぎでら
山寺 やまでら
祐天寺 ゆうてんじ
幸寺 ゆきてら、こうでら
楊谷寺 ようこくじ
養福寺 ようふくじ
要法寺 ようほうじ
横寺 よこてら
善峰寺 よしみねでら
雷音寺 らいおんじ
来迎寺 らいこうじ
楽巌寺 らくがんじ
理寛寺 りかんじ
立石寺 りっしゃくじ
竜角寺台 りゅうかくじだい
竜宮寺 りゅうぐうじ
龍宮寺 りゅうぐうじ
立花寺 りゅうげじ
龍源寺 りゅうげんじ
竜光寺 りゅうこうじ
龍光寺 りゅうこうじ
龍寺 りゅうじ
竜泉寺 りゅうせんじ
竜禅寺 りゅうぜんじ
竜造寺 りゅうぞうじ
龍造寺 りゅうぞうじ
龍胆寺 りゅうどうじ
了仙寺 りょうせんじ
了徳寺 りょうとくじ
良福寺 りょうふくじ
臨済寺 りんざいじ
輪王寺 りんのうじ
瑠璃光寺 るりこうじ
蓮覚寺 れんがくじ
蓮花寺 れんげじ
蓮光寺 れんこうじ
連光寺 れんこうじ
蓮正寺 れんしょうじ
蓮台寺 れんだいじ
楞巌寺 ろうごんじ
鹿園寺 ろくおんじ
鹿苑寺 ろくおんじ
六泉寺 ろくせんじ
六湛寺 ろくたんじ
六波羅蜜寺 ろくはらみつじ
和寺 わでら
鎌倉時代の僧侶・一向俊聖(暦仁2年(1239年)? - 弘安10年(1287年)?、以下「一向」と表記)を祖とする宗派。
一向は筑後国草野家の出身で、はじめは浄土宗鎮西派(西山派という異説もある)の僧侶であった。後に各地を遊行回国し、踊り念仏、天道念佛を修し、道場を設けた。近江国番場蓮華寺にて立ち往生して最期を迎えたという。
以後、同寺を本山として東北、関東、尾張、近江に一向の法流と伝える寺院が分布し、教団を形成するようになった。鎌倉時代末期に書かれた『野守鏡』にはこの教団を一向宗と呼んで、後世の浄土真宗とは全く無関係の宗派として存在している事が記録されている。
一向と一遍房智真は同時期の人物であり、ともに遊行や踊り念仏を行儀とする念仏勧進聖であることから、一向の「一向宗」は一遍の「時衆」と混同されるようになっていく。『天狗草子』に記された「一向宗」は、一遍の衆を指したものである(一向俊聖の項を参考)。たしかに一向も一遍と同様に浄土宗の影響を受けて自己の教義を確立させたものであるが、全く別箇に教団を開いたものである。また、一遍と違い一向の教えは踊り念仏を行うとはいえ、念仏そのものに特別な宗教的意義を見出す事は少なかったとされている。ところが時代が降るにつれ、一向の教えが同じ踊り念仏の一遍の教えと混同され、更に親鸞の興した浄土真宗とも混ざり合うという現象が見られるようになる。特に一向の教義が早い段階で流入していた北陸地方ではその傾向が顕著であった。
浄土真宗本願寺八世の蓮如が北陸地方に活動の場を求めた時に、布教の対象としたのはこうした一向や一遍の影響を受けて同じ浄土教の土壌を有した僧侶や信者であり、蓮如はこれを「一向衆」(「一向宗」ではない)と呼んだ。蓮如布教時に、一向宗や時宗が支配層との結びつきを強め、民衆から離れ、一向宗の民衆が蓮如教団になびいた結果、一向宗と呼ばれるにふさわしかったともいわれる[1]。本願寺及び蓮如の北陸における成功の背景にはこうした近似した宗教的価値観を持った「一向衆」の存在が大きいわけであるが、同時に蓮如はこれによって親鸞の教えが歪められてしまう事を恐れた。さらに別の事由から他宗派より「一向宗」と呼称されていたこと(後述)も彼の憂慮を深めた。文明5年(1473年)に蓮如によって書かれた『帖外御文』において「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり」とし、一向宗が一向の教団でもあることを明記して本願寺の門徒で一向宗の名前を使ったものは破門するとまで書かれているものの、ここでも一遍と一向の宗派が混同されている。
江戸時代に入ると、江戸幕府は本末制度の徹底を図り、系譜を異にするさまざまな念仏勧進聖が、清浄光寺を総本山とする単一宗派「時宗」の管轄下に編成された。この際、一向の流派は独立した宗派とは認められず、「一向宗」の呼称を用いる事も禁じられた。『時宗要略譜』によると、時宗十二派のうち、一向派と天童派が一向の法脈を受け継ぐものとされている。一向派(かつての一向の一向宗)は再三にわたり時宗からの独立を求めたが実らなかった。
明治時代になって、中期に一向派から独立転宗を唱える者が出現し、一向派は浄土宗宗務院に「所轄帰入願」を、時宗教務院に「時宗一向派独立認可願」を提出した。しかし一向派の独立・転宗を認めてしまうと、明治以降衰退著しく、時宗寺院が少ない上に、さらに減少することになるので、時宗当局は、これを認めようとしなかった[2]
大半の寺院が時宗を離れ、一向の母体であった浄土宗に帰属するようになったのは、昭和時代に入った1943年の事であった。
浄土真宗、ことに本願寺教団を指す呼称。教団自身はこの名を自称しなかったので注意が必要である。
「一向」とは「ひたすら」「一筋」という意味であり、「一つに専念すること」を意味している。『仏説無量寿経』に「一向専念無量寿仏」と記されていることから、とくに阿弥陀仏の名号を称えることと解釈され、親鸞を宗祖とする教団(本項では「真宗教団」とする)を他の宗派から指す呼称となった。とくに浄土宗は、親鸞の教団が「浄土真宗」と自称することを嫌い、「一向宗」の称を用いた。
したがって「一向宗」は真宗教団の門徒から見て正しい呼称ではなく、また一向俊聖の「一向宗」と混同される事から望ましい呼び方でもなかった。だが、中世において同じ念仏を唱える浄土教系宗派であった両派が混同され、更に時衆などとも漠然と同一のものとして捉えられるようになっていった。蓮如は前述のように「他宗派の者が(勘違いして)一向宗と呼ぶのは仕方ないが、我々浄土真宗の門徒が一向宗を自称してはいけない」という主旨の発言をして違反者を破門するとまで述べているが、逆に言えばこれは、真宗教団の門徒ですら「一向宗」を自称する者がいた事を意味する。
こうした指導により教団内部では「一向宗」の語は正式に使われることはなくなり、「浄土真宗」または「真宗」と称するようになった。しかし、門徒たちを中心とする一揆が「一向一揆」と呼ばれるなど、真宗教団のことを教団外から「一向宗」と呼ぶ風潮は収まる事はなかった。
江戸幕府は、真宗教団を指す名称として「一向宗」を公式に用い続けた。この経緯としては、徳川家康が三河一向一揆により家中統制で苦しめられたこと、徳川将軍家が(真宗教団が「浄土真宗」を称することを望まない)浄土宗を信仰していることが挙げられる。これに対して、真宗教団側は本願寺の分裂などの影響があり、長らく具体的な対応が取られることがなかった。
宇佐市(うさし)は、大分県の北部、国東半島の付け根に位置する市。
全国4万社余りの八幡宮の総本宮・宇佐神宮があり、正月には全国からの参拝客でにぎわう。また本願寺別院(東西とも)も旧北東部の
広大な地域を管轄するものでこれも規模は大きい。また市内には宇佐神宮以外にも観光名所が多く、県内有数の観光都市である。
宇佐神宮の門前町として発展した宇佐地区(特に南宇佐)、本願寺別院の寺内町として発展した四日市地区、港町として発展した
長洲地区の3地区が、伝統的に経済的同時に文化的中心地である。
これ以外はほぼ全域が農村地域であり、県下最大の穀倉地帯となっている。
2005年(平成17年)3月31日 - 宇佐市・院内町・安心院町が新設合併し、新たに宇佐市が発足する。
産物として、麦焼酎「いいちこ」が全国的に有名な三和酒類が駅川地区の山中に存在し、全国に出荷される「いいちこ」がすべて
ここで製造されている。