はてなキーワード: 乱視とは
最近というほど最近でもないけど、3D映画とか3DSとか、とにかく3Dをウリにしたものが巷には溢れている。
タイトルの通り、自分は生まれつきの斜視なので3D全般が認識できない。
斜視は人口の3%というからそれほど珍しい病気じゃない。の割に、「黒目の位置がおかしい人」くらいの認識しかないように思う。少なくとも自分は今までそういう風に言われた。
斜視は重大な病気じゃない。でも、日常の絶妙なところで不便なのだ。ということを今日は書きたいと思う。
まんまだ。
内斜視とか外斜視とか色々種類はあるけど自分は外斜視。昔はロンパリって言ってたらしい。
見たい対象に焦点を合わせようとすると、どちらかの黒目が外側に流れていく。そっちの目は使っていないことになる。
二回手術をした。小学生の時に全身麻酔をかけて一回、中学生の時に局部麻酔で一回。
目の中の筋肉を切って縫い、正しい位置に黒目を調整する手術だ。全身麻酔の時は覚えてないから良かった(でも尿カテーテルがショックで暴れた)けど、局部麻酔の時は意識があって、目が見えてるのに、目の中にハサミだのメスだの針だの入れられる。ブツってなんか切れてる感覚もぼんやりわかる。めちゃくちゃ怖い。人造人間にされてる気分だった。
そんな怖い手術をしても、見た目は完治しなかった。普段は普通の目だけど、疲れてくると斜視が出る。あと手術との相関性はわからないけど、術後目が悪くなった。特に乱視がひどいので、コンタクトが合わなくてずっと眼鏡をかけてる。
これ。
目が悪くなるのも見た目がキモいのもまあ別にいい。問題はこれだ。
前述の通り、斜視の人は片方の目でしかものを見ることができない。対して、立体的にものを見る時は、両目から得た映像を脳が組み合わせて、奥行きや距離感を認識させるのだ。
小学生の頃、保健室に「立体的に見える絵本」がなかっただろうか。上の方に黒い点が二つ付いてるやつ。あれも同じ原理で、脳の錯覚で3D空間を認識させている、らしい。当然それができたことはない。
そしてこの立体視能力は、生後〜幼年時にのみ獲得できるそうだ。その機を逃すと、後から立体視できるようになるのは難しい。訓練することはできる。実際したけど、やっぱりダメだった。
あんなおそろしい手術をしても、この根本的なところは全く治らないのだ。
立体視できないと何が不便か。
階段の段差が飛び出して見えない。飛び出して見えるとか奥行きがあるとかがまずどういうことかわからないけど、とにかくのっぺりとした一枚の絵みたいに見えている。全国の階段はふちにラインが引いてあるタイプに今すぐ切り替えてほしい。
球技ができない。
ボールのサイズで「あ、このくらいの距離だな」とはわかるけど、正確な感覚がわからない。テニスとか野球とか、球が小さいと余計に無理だ。まあこれは自分が運動できないからかもしれないけど。
3Dが見れない。
黒っぽい眼鏡をかけて見るやつは、ちゃんと普通の映像には見える。でも、飛び出すとか広がるって感覚がそもそもないから、本当に普通の映画と一緒なのだ。
青と赤のセロハン?みたいなので見る簡易的なやつは、右目と左目でバラバラに見えるだけで一つに結びつかない。赤と青の世界が変わりばんこに点滅する感じだ。
3Dナントカは所詮娯楽なのでいいけど、下り階段は本気で困っている。
同じ悩みを持つ人がいたら是非斜視あるあるしたい。逆に、治ったよという人がいたら話を聞きたい。
もう一回手術するかって聞かれたけど絶対嫌だ。
同じ1つのリンゴを見ている時に、同じ色を見つめていても私とあなたでは見えている色が違う。という感じ方の違いや主観的な認知のギャップがあるらしい。
これをクオリアと呼ぶらしいけれど、私には自分だけの独特な知覚の感覚がある。それを友人に話したりするのだけれど、共感を得る事は皆無で、同じような感覚を持っている人がいるのかをずっと知りたい。
それと同時に似たような独特の感覚を持っている人に、こんなバリエーションもありますよ、とエピソードを教えて欲しい。
(1) タイムスリップ
自分では1,2秒のほんの短い時間だと思っているのに、時間が経過している。これは小学校低学年の頃に頻発していた。ほんの瞬きをした位の時間に過ぎないのに、友達が驚くほど遠くにいたり、休み時間が終わっていたりする体験。私が数秒と感じている時間が現実では数十秒から数分が経過している。
(2) 痛覚と匂い
頭を強く打った時や激しい腹痛の時、精神的に不安感を感じた時に鼻の奥から焦げるような匂いを一瞬感じる。匂いの種類としてはタンパク質が焦げたような非常に嫌な匂い。
ふとした瞬間、一度だけ行った駅や通った道の映像が再生されてその場にいるような気持ちが再現される。
なぜかその世界には私1人しか居ないのと音や匂いは存在しない。
図書館や博物館など何10回も通った場所だと、場所の記憶を3Dモデルのように再現できる。実際に中を歩き回って展示品や開架書籍の棚番号を探す事ができるけれど、改装やリニューアルオープンしてしまうと記憶が上書きされるのではなく、別の建物として現れ、別個の存在として扱われる。
(4) 5秒間巻き戻し再生
人の話を聞いていない時に「どう思う?」「話聞いてた?」等と聞かれた時にとっさに直近の5秒間くらいの音声を巻き戻して再生する事ができる。上の空で授業を受けてた時の教師の質問や、電話口で聞かされた番号などをメモし忘れた時に便利。
返答できても、上の空の態度だった事は変わらないので結局咎められる事が多い。
(5) 暗闇で見える模様
真っ暗闇の中など、焦点の絞りが合わせられない状態で目を開いていると、赤や緑色のドット模様が明滅して流れてゆく映像が見える。
(6) 黒が様々な色に見える
黒色が状況や精神の状態などで色々な色に見える。ディスプレイ上の黒い文字でも緑、黄色、水色に見えるし、例えば自然光のまぶしい所で本を広げると印刷された文字が赤色に見え、暖色の照明の下でコーヒーを見ると場合によっては濃紺に見えたり、物の影が緑色に見えたりする。これは色の恒常性や補色補正と関係しているかもしれない。
また横断歩道や封筒、満月など薄い白い物の輪郭がオレンジと青の補色などで見えたりする事もあるが、これは乱視が関係している気がする。
幻覚や幻臭よりの体験が多いのですが、統合失調症などの診断を受けた事は無く、これらの体験で日常生活で不便を感じた事はありません。
ここだとどうでしょう
https://column.clintal.com/disease/4937
怖がらせるわけじゃないけど、乱視で矯正があってないと二重に見えるとかもあるらしいけど
脳だったら??? 電話で市区町村の医療相談してもいいのでは???大丈夫ですか。
頭痛+物が二重は怖いみたい。
脳に動脈瘤がある場合、動脈瘤が大きくなることによって動眼神経が圧迫されて物が二重に見えることがあります。動脈瘤は破裂すると命の危険性が高いくも膜下出血を起こす可能性があるので、緊急手術になることも少なくありません。
複視のほかに、まぶた(眼瞼、がんけん)が下がっている(眼瞼下垂)、黒目に光を当てても瞳孔が開いたままといった症状が現れ始めると破裂の可能性が高くなっているとされています。
あるいは、疲れ眼であるのがいいのだけど。
全盲→堕ろす→分かる
聾唖→堕ろす→分かる
ADHD→堕ろす→分かる
心臓病→堕ろす→分かる
多指症→堕ろす→分かる
腕が無い→堕ろす→分かる
足が無い→堕ろす→分かる。
知能が低い→堕ろす→分かる
色盲→堕ろす→分かる
糖尿病→堕ろす→分かる
ガンになりやすい→堕ろす→分かる
ワキガ→堕ろす→分かる。
アタマが悪い→堕ろす→分かる
不細工→堕ろす→分かる
左利き→堕ろす→分かる
デブ→堕ろす→分かる
チビ→堕ろす→分かる
ハゲ→堕ろす→分かる
オタク→堕ろす→分かる
足が遅い→堕ろす→分かる
性格が暗い→堕ろす→分かる
性格が悪い→堕ろす→分かる
O脚→堕ろす→分かる。
そばかす→堕ろす→わかる
一重まぶた→堕ろす→分かる
LGBT→堕ろす→分かる
女→堕ろす→分かる
男→堕ろす→分かる
身体の不調じゃないことだけは分かって、イライラするとかムカつくとか悲しいとかそういうことじゃなくて、
なんだか「やばい」って感覚だけはハッキリ分かる。前にもあったんだけど、今回のは特にひどかった。
耐えられない感じがして、毛布ひっかぶったり電気消したり、光の入らない風呂場で仮眠をとったりしたけどどうもダメで、
つらいとか怖いに似た感覚にずっと支配されてた。親にも友達にもなんていって電話したり連絡したりすればいいのか分からないし、
なにより電話をとってもらえなかったり返信が来ないのが怖くてできなかった。
本当にダメで、耐えられなくなってタオルを口に押し当てていると呼吸が荒くなるみたいなどうしようもない状態で、
腹を切ったら大丈夫になるだろうかって思うほどだった。指先の感覚が奇妙になって、暗い中で近くの材質の違うものを延々と触り続けたけど、それでもだめだった。
本はだめだった。そんな余裕は無いし、音楽もこの状態になるとむしろリズムが合わなくて気色の悪い状態になるんだよ。
とにかく家の中に居てはいけないと深夜に家を飛び出した。
頭の中がすごくごちゃごちゃして、考え事のスピードが多分恐ろしく早くなってたんだと思う。
考えてることを口でなぞろうとしても、全然間に合わなかった。脳内に三つ子がいるんじゃないかってぐらいに
一つ考え事をすると「そうだね」「それでいいんじゃないかな」「どうしようもないよね」みたいな言葉が文字を流し読むレベルのスピードで勝手に浮かんできて、
「うるさい」って強く考えるしかなくなった。
知り合いがいそうなファミレスに一人で行くのもなんだか嫌になって、延々と一人で食べることが出来る場所まで歩こうとしたんだけど、
田舎だからさ、小さな小道を通ろうとしたら真っ暗なところにぽつんと街灯があって、それが丸く地面を照らしてるみたいな所があるんだよ。
へろへろふらふらしながら歩いてたオレはそれを見てSIRENみたいだ、って思った。
それも画像みたいな。pngで出来てますみたいな、はっきりとした一枚の絵なんだ。
オレは人と視線が合わないって言われるし事実そうで、歩いてるときとかもかろうじで左下を見たりピントをぼやかしたり、極力人の顔を認識しないように歩いてるんだけど
(顔をじっと見てたら何見てんだよって言われた経験とかもあるんだけど)歩いてるときもそうなのな。
普通の車道の横の歩道でも後ろから車が音を伴って来る、道がこんな風にある、ってのはあるけど、決して風景みたいなものじゃないんだよ。
映画館で3Dを見てるときの違和感みたいなのが外に出ると四六時中ある。
それが、街灯を見たときはまったくなかったんだよ。一枚の絵みたいで、完璧で、ああ、ゲーム画面みたいだなって思った。
FPSっていうのかな、主人公視点で進むやつ。本当にあんな画面みたいだった。ピントがバラバラになりうることがない、ただ一枚の平面的な世界。
街灯の所を抜けるとオレはまたやっぱり「だめな」感覚に支配されて、メガネをはずして乱視の強すぎる世界をふらふらとゾンビみたいに彷徨ったりしたわけだけど、
なぁ、他の奴は、オレ以外は、あんな、ゲーム画面みたいに世界が見えてるの?
歩いてるときに視線を向けられずにずっとストレスを感じたりしないのか?俯きながら歩き続けるのも変だからって無理やりピントをぐちゃぐちゃにして歩かなくて済むのか?
ゲーム画面みたいに世界が見えるのか?眼鏡の度があってないとかそういう話じゃないんだよ。
外に出るのも人が多い場所を歩くのも、全部の光景はゲーム画面みたいに見えるのか。
オレ、映画を見るときは端から端まで何もかも見てもよくって、本当に気分が良いんだよ。みんなは近くに来た人間が視界の端すぎて老婆だか少年だか分かんなかったら確認できるのかよ。
みんな立体視をやってるみたいな、なんか気持ち悪い感覚が街中を歩くときにないのか?
それともオレが感じてる見え方ってみんなと同じなのか?
僕の彼女は眼鏡っ娘だ。ちょうど映画『私の男』の二階堂ふみ氏みたいに。
僕はそういうところが好みなのだけれど、彼女は分かってくれない。
「それは外面から見た場合の話でしょう? 眼鏡はとても不便なのよ」
ある日、そのことで言い争いになった時に「じゃ、眼球を交換してみる?」
と言って、彼女は僕のコメカミを押さえた。途端に視界が揺らぐ。
僕の視界は何ひとつとしてくっきりと見えない。
そう言って彼女は持っていた眼鏡を僕に手渡す。「これで世界を見なさいな」
僕は眼鏡を着用する。サイズが合っていないのでいささかきついけれど、
観てみると視界がくっきりと見える。部屋の片隅に置かれていた
そんな彼女が言うんだ。「あら、眼鏡を掛けた貴方って結構イケてるわね」
そう言われたので、僕は彼女の眼球をそのまま装着したままで
暮らしている。「メガネ男子って今トレンドなのよ」と言われたので
SFをもっと楽しむための科学ノンフィクションはこれだ! http://d.hatena.ne.jp/huyukiitoichi/20140417/1397744529 を受けて10冊選んでみました。
「『現実とはなにか』という認識が変わっていく」ような本はありません。
ヨーロッパにおける完全言語を求める歴史を扱った『完全言語の探求』と多くのプログラミング言語設計者へのインタビューをまとめた『言語設計者たちが考えること』は、あまり読者が重なっていない気がしますが、円城塔をきっかけにして両方読んでみるのもいいのではないでしょうか。
「つぎの著者につづく」(『オブ・ザ・ベースボール』収録)の冒頭で語られるエピソードが『完全言語の探求』から引いたものであることは単行本収録時に追加された注で明示されていますし、「道化師の蝶」に出てくる無活用ラテン語についても『探求』で触れられています。
一方『言語設計者たちが考えること』については、読書メーターで「小説を書く人も読むと良い」(2010年12月10日)とコメントしていて、『本の雑誌』の連載でも取り上げています(2011年11月「言葉を作る人たち」)。また『本の雑誌』の連載では『言語設計者たち』以外にも時々プログラミング言語や言語処理についての本が取り上げられています。
最近連載のはじまった「プロローグ」(『文學界』掲載)も今のところ、より望ましい文字の扱いや処理についての話をしているので、いささか強引な解釈ですが『完全言語の探求』『言語設計者たちが考えること』と繋がっている小説です。
ロシア語作家として出発しアメリカ亡命後に英語作家に転身したナボコフは、自分自身の書いた文章を別の言語に翻訳する「自己翻訳」を相当数おこなっていますが、それを主題とした評論書です。
円城塔本人も語っていますが、「道化師の蝶」ではナボコフがモチーフとして使われています。友幸友幸が「希代の多言語作家」であることもナボコフへの参照のひとつでしょう(若島正は『乱視読者の新冒険』のなかでナボコフを「稀代の多言語作家」と形容しています)。その希代の多言語作家の「わたし」とそれを翻訳する「わたし」が重なるようで重ならない「道化師の蝶」の筋立てにも、同じ作品について作者と翻訳者の両方の役割を演じたナボコフの影が見出せます。また「道化師の蝶」の姉妹編といえる「松ノ枝の記」での、相互翻訳・相互創作する2人の作家という設定も「自己翻訳」の変奏と見ることができるでしょう。こうした創作と翻訳の交錯する2編を再読する上でも、この評論書が良い補助線になるのでは。
読書メーターのコメントは「素晴らしい」(2011年4月28日)。
最初期に書かれた『Self-Reference ENGINE』や「オブ・ザ・ベースボール」「パリンプセストあるいは重ね書きされた八つの物語」(『虚構機関』収録)などに顕著ですが、円城塔の小説には、掌編の積み重ね(積み重ならず?)によって全体の物語が作られるという構造がよく現れます。これは辞典を順番に読んでいく感覚とちょっと似ているかもしれません。『数学入門辞典』を読んでいると、たとえあまり数学に詳しくなくても、円城塔の小説に対してしばしば言われる「よく分からないけど面白い」という感覚を味わえると思います。ただし、円城塔の小説に出てくる数学用語がこの辞書に出てくるなどと期待してはいけません。
「一家に一冊」だそうです。 https://twitter.com/rikoushonotana/status/402707462370758656/photo/1
円城塔の小説には数学者やそれに準ずる人が多く登場しますが、『史談』は数学者を語った本として真っ先に名前のあがる定番の名著です。著者は類体論を確立したことあるいは解析概論の著者として知られる高木貞治。かの谷山豊はこの本を読んで数学者を志したそうです。
数学部分については河田敬義『ガウスの楕円関数論 高木貞治先生著"近世数学史談"より』という講義録があるくらいには難しいので適当に飛ばしましょう。
『考える人』2009年夏号 特集「日本の科学者100人100冊」で円城塔が選んでいたのが高木貞治とこの本でした。
ムーンシャイン現象は、『超弦領域』収録の「ムーンシャイン」の題材で、他に「ガーベジコレクション」(『後藤さんのこと』収録)にも単語だけですがモンスター群とコンウェイが出てきます(コンウェイは「烏有此譚」の注にも言及あり)。作品内に数学的ホラ話といった雰囲気がしばしばあらわれる円城塔にとって「怪物的戯言(モンスタラス・ムーンシャイン)」はいかにもな題材かもしれません。
ムーンシャインを扱った一般向けの本というとたぶん最初に『シンメトリーとモンスター』が挙がるのですが翻訳が読みにくいし『シンメトリーの地図帳』にはあまり説明がなかった気がするので、この『群論』を挙げます。
数学の専門書ですが、第4章「有限単純群の分類/Monsterとmoonshine」は読み物風の書き方になっています。ただし詳しい説明なしでどんどん話が進んでいくところも多く、きちんと理解するのは無理です(無理でした)。
第4章を書いている原田耕一郎はモンスター群の誕生にも関わりが深い人で、多くの文章でモンスターとムーンシャインについて触れているので、雑誌などを探せば難度的にもっと易しい文章が見つかるかもしれません。
円城塔の小説には「オブ・ザ・ベースボール」のように確率についての言及もよく見られます。『数学セミナー』『数学のたのしみ』『科学』等で高橋陽一郎が書いた確率論についての諸入門解説記事、は探すのが面倒だと思われるので、もっと入手しやすいこの本を。
確率微分方程式で有名な伊藤清のエッセイ集です。「確率」より「数学者」の項に置くのがふさわしい本ですが確率の本として挙げます。
読書メーターのコメントは「素晴らしい」(2010年10月24日)。
やはり専門が力学系ということもあり、力学系関連もしばしば登場します。
本のタイトルを見て「力学系と力学は違う」と指摘されそうですが、副題は「カオスと安定性をめぐる人物史」。力学系の歴史に関する本です。実のところどんな内容だったか覚えていないのですが、「いわゆるこの方程式に関するそれらの性質について」(単行本未収録)で引用文献に挙がっているから大丈夫でしょう。
『Nova 1』収録の「Beaver Weaver」をはじめ、ロジック(数学基礎論)関連も円城塔の小説に頻出する素材です。
とりわけ計算可能性、ランダム性、busy beaver、コルモゴロフ複雑性……とあげてみると、まずはチャイティンの諸作が思い浮かびますが、あれはむやみに勧めていいタイプの本なのかちょっと疑問なので避けます。読書メーターでは、最近出た『ダーウィンを数学で証明する』に対して「 チャイティンのチャイティンによるチャイティンのためのいつものチャイティン」(2014年3月20日)とコメントしています。
これという本が思い浮かばなかったので、いくらかためらいながらもこの本を挙げました。『メタマジック・ゲーム』か、あるいはヒネリも何もなく『ゲーデル・エッシャー・バッハ』でよかったのかもしれません。ただ『ゲーデル・エッシャー・バッハ』だけを読んでもほぼまちがいなく不完全性定理は理解できないということはもっと周知されるべきじゃないかと思います。
円城塔はこの本について「すごかった。(但し、かなりハード。)」(2011年3月27日)とコメントし、『本の雑誌』でも取り上げています(2012年10月「ゲーデルさんごめんなさい」)。
初心者向きの本ではありませんが、不完全性定理について一席ぶつ前に読んでおくといいでしょう。
『天体力学のパイオニアたち』が上下巻なので、以上で10冊になります。
別にノンフィクションを読まなくてもフィクションを楽しむことはできますが、ノンフィクションを読むことによって得られるフィクションの楽しみというのもまた楽しいんじゃないでしょうか。
追記: 小谷元子編『数学者が読んでいる本ってどんな本』に寄稿している13人のうちのひとりが円城塔なので、そちらも参照してみるとよいと思います。リストに挙げられている約50冊の本のうち半分くらいがノンフィクションです。上に挙げた本とかぶっていたのは『数学入門辞典』『天体力学のパイオニアたち』『ゲーデルの定理 利用と誤用の不完全ガイド』でした。また、はてブのコメントで言及のあったイエイツ『記憶術』もリストに入ってました。
私の目というのは、近視な上に乱視も激しく、
目を細めないで街灯なんか見ると、灯りが7個ぐらいに分身して見える目だ。(もちろん本物は1つ)
なので今までは眼鏡、もしくは、ハードコンタクトを使用して生活していた。
そのハードレンズの買い替えの時期がきて、今回はソフトレンズにしてみようかな、と思ったのがはじまり。
乱視がはいっているので、今まではハードだったけど、こんだけ技術進歩してたらソフトでもいけるんじゃない?
ぐらいな気持ちで、買い替えて、つけてみて、驚いた。
いつもの帰り道が広い!
自分の家のドアも思ってたより大きい!
ああ、ほんとにいきなり全部大きくなったからびっくりしたよ。
「体感」の大きさと「見えてる」大きさにこんなにズレがあったなんて気がつかなかった。
元の大きさで、くっきり見えるようになってはじめてわかった。
というか、今でも目の前のモノの大きさがちょっと信じられずにいる。ほんとに?
目がいい人はこんな風に見えてたんだなぁ。
近視について調べた元の増田だけど
なので、メガネっ娘の多いであろう増田の方々にご助言いただきたい。
経緯としては、
いろいろあって眼鏡を紛失する。
↓
両目0.1以下で仕事にならないので、急ぎ眼鏡を作る。しかし、出張先だったので以前とは違う店(仮にA店とする)に。
↓
そうして作ってもらったものは度が合わない。
↓
一旦、前の紛失した眼鏡を作ってもらった店(仮にB店とする)に行くことができたので、
仕方なく、前の紛失した眼鏡と度を合わせてもう一つ作ってもらった。
↓
それでA店の眼鏡に乱視補正が入ってなかったことが判明し、レンズ交換してもらうことに。
↓
レンズ交換して前の紛失した眼鏡と度を合わせてもらったが、なんかまだ合わない。
慣れもあるので、もう少し使ってみてくださいと言われる。
↓
我慢すれば使える気もするけど、やっぱり合わない気がする。←イマココ!!
前の紛失した眼鏡を作ってもらったB店の眼鏡は以前からの慣れなのか気分良く使える。
1.眼科に行って眼鏡の処方をしてもらう
2.返品する
3.あきらめて予備にする
4.その他
今回よくわかったのは、度が合わない眼鏡って本当に合わないね、酔うね。
眼鏡なんてどこでも同じ物が作れると思ってたけど違うんだね。
2ウィークのコンタクトレンズを処方してもらいに眼科へ行った。
私がコンタクトを使い始めたのは5年前。
最初に行った眼科は自宅の最寄だったんだけど、併設の薬局でコンタクトを購入するシステムで銘柄も指定だった。
検査代も毎回800円くらい請求されていた。
ある時、ふと街のコンタクトレンズ量販店を覗いたら、その薬局よりもすごく安くて、色々選べるらしいのに驚いた。
それから薬局とくっついていない、処方箋だけ出してくれる眼科を探して、家から電車でひと駅先の眼科へ行くようになった。
電車代を出しても、前の眼科&薬局と同じ銘柄のレンズで3000円くらい安く上がった。
ちなみにその眼科は単純に眼科としての評価が高く、「ここの先生のおかげで失明を免れた」なんて言うご老人がけっこういるところ。
人気なだけあって検査は丁寧だったし、「これを試してみたい」と言えば色んな種類のレンズをゆっくり試着させてもらえた。
(だからいつも待合室が座れないくらい混んでいたんだと思う)
毎回、試着したレンズはそのまま着けて帰り、何か不具合があったらすぐ外すようにと指示されていた。
検査代は360円。特定の銘柄を押し売りされることも無かった。
ただ、待ち時間がとても長くて一日潰れてしまう感じがするのと、木曜と日曜が定休なのがネックだった。
それで、今度は商業施設の中にある、コンタクトレンズ量販店の隣にある眼科に行くようになった。
定休日も営業時間も商業施設のそれに準じているので便利だし、検査費も前と同じ360円だし。
ただ、ここは検査してくれる人がとにかく特定の銘柄を試着しませんかと強く押してくる。
毎回違うレンズだけど、得てして新発売とか、高いやつとかばかり。
隣の店の息がかかっているんだろうなと思った。
まあ、毎度きっぱり断って、自分が使いたいレンズを試着・処方して貰っていたけども。
しかし、毎回試着したレンズはそのままで帰って下さいと言われていた。
で、先日も午後一でその眼科に行ってきた。
年末だからかすごく混んでいて、老人率が高く、待合室の雰囲気からしてなぜか殺気だった感じだった。
以前に行っていた眼科は毎回すごく混んでいたけど、あんなにギスギスしたものを感じたことは無かった。
検査室に入ったら、視力検査だけで、いつもやってた乱視や眼圧の検査はなかった。
私と一緒に視力検査を受けたおばあさんは、
「あの、先週の健康診断で、視野の検査をして下さいと言われたんです」
と何度も訴えていたけど、検査の人は
と言って相手にしない。
おばあさんは機嫌を損ねて下を向いていた。
その後、試着のレンズを入れて診察室の前に並んだら、先生が「○○さーん!」と呼んでも、呼ばれた人がなかなか来ないトラブルが続出。
隣のおじいさんが明らかにイライラしだして、貧乏ゆすりで何度も舌打ちしている。なんかもう、ちょっと怖い。
診察は先生の愛想も良くて、私の目にもレンズにも何も問題はなかった。
もう一刻も早く帰りたい。
で、待合室に戻ろうとしたら、検査技師さんが試着のレンズは外して、してきたレンズで帰って下さいと言う。
検査室がこんなに混雑しているのに何故?と思ったけど、思えば価格が高いレンズから安いレンズに替えることにしたので、
私が損をするだろうと思って言ってくれているのかと思い、
「あ、この試着のレンズのままで帰ってもいいですよ?」
と私が言ったら、検査技師さんは呆れた、と言わんばかりの口調で
「はぁ…(溜息)、あのー、新しいレンズを差し上げる訳にはいきませんから。外して帰って下さい」
と。
今までの経験上、試着のレンズはそのままして帰るものと思っていたのでビックリしたのと同時に、
私は無神経にクレクレ発言めいたことをしたのかと恥ずかしくなったのと、
2週間使えるレンズを数十分試着しただけで捨てちゃうなんてもったいないな、という思いとで、
で、数日他経ってもまだモヤモヤしているので、こうして吐き出した次第。
試着でもらえてたレンズは予後観察のためじゃなくて、眼科のサービスだったのか。
とにかく、あの眼科にはもう行きたくない。新しい眼科を探さないとなと思う。