はてなキーワード: メソッドとは
今時BASP21 DLL(フリー版)でメール受信してどうのこうので困ってる人が世の中にどのくらいいるかどうかわからないけど、今日嵌ってググってもまともな答えが出てこなくて途方にくれたのでポイントをメモっておく。
BASP21 DLLのRcvMailメソッドでPOP3サーバから受信してReadMailメソッドでメールの内容を取得すると、一部のメールが送信者や添付ファイル名が文字化けして正常に取得できない。これはBASP21 DLLのReadMailメソッドが最近普通に送信されるUTF-8のメールに対応していないため。
RcvMailで受信したファイルをReadMailで読み込む前に直接開き、Base64エンコードされたUTF-8の文字があったらデコードしてJISに変換してBase64エンコードして保存する。その処理したファイルをReadMailで取り扱うようにする。全部BASP21の機能でできる。
BASP21のKconvメソッドの第1引数のinstrに文字列を渡せるのはUnicode UCS-2のみの場合だけらしく、UTF-8の文字列を渡しても正常に動作しない。なので、一旦テンポラリファイルに書き出しKconvFileメソッドを使用して変換を行う必要がある。っていまドキュメント眺めてたら文字列をバイト配列にするByteArrayというメソッドがあるみたいなのでこれをを使えばできるかもしれない。けどもう正直いじりたくないよ…。
息子が3歳になった時、勢いとノリだけで通いだしたヤマハ音楽教室
幼児科だけは何がなんでも卒業(その先はその時考えればいいや)を目標に
私は楽しく全力でお歌を歌うストレス発散と
子育て力向上を目指して通ってる。
元々斜に構えて世の中をみる、捻くれ者の性格なので
ヤマハはやたらに入会金・教材費・授業料やら高い。お教室ママカーストありそう。
無駄に教材買わせて最終的に高価な楽器までセールスしてくる怖い場所。位な考え。
しかし、いまでは全力でヤマハ信者。小さな子を持つお母さんに「ぜったい入ったほうがいいっ!」と
ごり押しするくらいの信者になった。まさかここまで自分がどっぷりはまってしまうとは想像していなかった。
子供に任せきりにしない。親も責任を持ってとりくむ教室である所。
例えば、教室でのお歌。親が全力で楽しんで歌わないと子供も楽しんでくれない。
親の熱量がそのまま子供に伝わる。今日は疲れてしんどいから適当に手を抜いて
レッスン行こう。なんて思うとそれがそのまま子供に伝わる。そして
どうやって声をかければ子供のやる気を失わさせず
楽しいレッスンにしていくか。瞬時に判断しなければいけない対応力。
仕事と同じ様な感じ。クライアントにプレゼンや打ち合わせをする時も
思ってもらう様努力する。ような。
そして、宿題があるところも良い。
家庭内での反復練習を自然に(そして強制的に)習慣づけてくれる。
教えてくれるのでヤマハメソッドに素直に従えばあとは本当に親次第。
親が今までのぐうたらな生活習慣を見直して血がにじむ様な努力をする。
子供は親の態度を素直に吸収する。
あたり前な事を当たり前に地道にこなしていくことがいちばん大切。
それをヤマハに通って改めて学んだ事だった。
果てはエレクトーンの使い方講習会まで開いてくれるヤマハ音楽教室。
もう素晴らしすぎて感動。
子供の成長=親の成長
子供がどう成長していくのか。はもちろん大切だけれどそれだけではなく
自分自身が親としてどう成長していくか。
(窓口の対応はもう少しどうにかならないのか…と思う事は多々ありますが)
しかし、宗教みたいだけど宗教にハマる感覚ってこういうのかな。。。
。
。
。
追記
あとは達成感の喜び。スランプに陥ってもへこたれない粘り強さ。
あぁ、これは はてな読み過ぎの私の偏った妄想かもしれません。
レッスン代は施設費という謎の項目があり
月3回/50分で6500円
…プライスレス …習い事ってそんなもんなんですね(´・_・`)
今ヤマハ音楽教室は
(何度もチクチク言うけど)受付窓口の対応は
初心者の人のプログラミング力が向上していく過程とそれにかかる年数を想像してみた.
1年目 何かのプログラミング言語を触る.よくわからない.とりあえずコード書く.
2年目 プログラミングというものが理解できる.スコープに注意(値渡し,参照渡しの概念が理解できる)
を向けられるようになる.クラスの雰囲気がわかる.メソッドや関数の使い方を理解できる.
3年目 この頃からこれが作りたい!となったときにそれを作れるようになる.
4年目 コードをキレイに書くためにはどうすればいいのか学び始める.
5年目 バージョン管理やテストの重要性に気づき,学び始める.
これくらいは,みんなできるようになってほしい(希望)
くまー
うまー
あくまー
あくまー
あくまー
276件
何を梱包してるのやら
くまー
ニホンカイギより悪い会議を示すほうが困難では
そもそもニホンカイギというグループが国家権力に食い込みすぎ臭いパンツなのが極悪では
辰巳コータロー メガバンクから廃炉費用取れるってさ パナマパナマー
うざいならトラバでやりあえば何を鳴らしたいのかはっきりするのでは
例えば国の原子力機構が核燃料の再処理やめるように事業者に強制力をもって言うには国有化したほうがいいのでは
なんか廃炉費用がいろんなところに横流しされてるように思うんだよな
一度ミサイルがこれから落ちたら国際軍事裁判できちんと停滞することだよ
保安林でキノコを取るのも共謀罪/組織犯罪処罰法改正案で罰則対象になるとかならないとか
答えられずまとまらない妥協点が見出せないんだったら廃案でいいんだよ
13時~14時には4度投稿だ
連投した文をまとめるか・・・
いや
ADHD注意疾患多動性症候群?で施設をたらい回しにあった者が
アルコール薬物依存症治療施設に行き着きなんかそこで落ち着いた
というのを人づてに聞いた
「ぼくはくま」
「私が」ではなく、「周囲の人が」困ったり、迷惑をする時の感情に思いを馳せる力。それはすなわち、他社の感情に寄り添う「共感力」に他ならない。
これは「定型」発達者が、成長の過程でおのずから身につけてゆく力だ。
最近は、職場で発達障害の疑われる同僚に接するようになり、障害の様々な態様について関心を持つようになったのだけれど、
そんな中、発達障碍のある人の手記を読むと、この力がポロリと欠け落ちているように感じられることがある。
「私」がこう思った。「私」は、こんなふうに苦労した。だから「私」は今、こんなふうな生き方をしている、等。
論証の視座が自己に偏っていて、どこか一人称小説を読んでいるような気分になる。
特にアスペルガー症候群と診断された人の手記には、この傾向が色濃く出ている。
「アスペルガーの私が、マルチタスク命!のコンビニで働いた結果…」
https://h-navi.jp/column/article/35026205
→著者ヨーコ氏の他の記事も参照
敗れた側のスポーツ選手はいう。「こんなに応援してもらったのに、応えられなくて申し訳ない」と。
オリンピックやワールドカップで、また欧州のサッカー選手や監督がそういった反省の弁を口にしているのを見ることがある。
だから、この「申し訳ない」という感情は決してこの国特有のものではないのだろう。
そして、このような反省と悔恨を述べた後、選手や監督が次に口にするのは「だから、次はもっと努力したい」という言葉だ。
このとき「申し訳ない」気持ちは、周囲に迷惑をかけないために、または、誰かの期待に応えるために、その原動力として働くようになる。
こうすまい、ああすまいと、「自分以外の誰か」にとってよくない結果を避けようと努力し、自らを発達させるエネルギーを生み出す。
自分のせいで落胆したりや辛酸を舐めることになる他者への共感=「申し訳ない」という感情が出発点となり、人は成長・発達を遂げることができる。
こんなことを書くと、発達障害で苦しんでいる当人に、さらに罪悪感を持たせようというのか、という意見もあるだろう。
それは確かにそのとおりだ。
このような「申し訳なさ」に至る=気づくためのメソッドや治療方法があるとしたら、それは前出のような手記を書くことのできる状態の発達障害のある人にとって望ましいものだろう。
少なくとも、自分がこの世に存在することが申し訳ないというような、極度の抑うつ状態にまで達している発達障碍の人には、すでに禁忌である。
私のような素人が、決して軽々しく日常生活に応用していいものではない。
しかし、こちらもまた感情ある人間であって、ふとした瞬間に、相手に対して非難めいたことばを掛けることを制御しきれないのも事実だ。
ここで主張したいのは、こういった発達障害のある人から「申し訳なさ」を引き出すような問いかけ・コミュニケーションを一概に否定するのではなく、
時には負荷をかけることが有効な場合もあるのでないか、ということだ。
罪悪感という負の感情を克服するために、克服したいという意思を持つがゆえに、人は自らを発達させようともがく。努力する。
「申し訳ない」という感情に含まれる、他者の存在と距離を感じるところから視野が拓かれ、自らの発達障害に深い理解が及び、ひいては、その克服に至ることがあるのではないか。
以上のようなロジックで「申し訳なさ」を引き出すことが発達障害のある人のためにもなるという主張をしてみたいと思う。
望むべきは、私自身がもう少し発達障害の疑われる同僚に気を使ったり、自らを押し殺したりすることなく、時に軽やかに時に遠慮なく、モノを言えるようになることだ。
発達障碍のある人の周囲の人間の負荷。
まったく陽のあたらないこの負担を担ぎながら、私もまた、私自身を視座の中心に据えて、こんなレントシーキングまがいの呟きをしている。
発達障害を望ましい個性であるとか、多様性の発露であるとかいった主張だけは受け入れられない。発達障害が克服・改善されない限り、かならず誰かが負担をこうむるのだから。
以上。徒然おわり。
http://ascii.jp/elem/000/001/162/1162199/
英語学習に関しては自分も成功体験があり、高3の時はセンター模試40点から半年で182点まであげたことがある。この記事内で紹介している体験ではなく脳科学的なアプローチであるSLAだが、高3で受験勉強を始めるにあたってボトルネックだった英語をあげるためにいろいろリサーチした中で出会った英語学習の本で同じメソッドが紹介されていた。御歳80歳くらいの同時通訳者が戦時中に中学校の英語教材を音読によって全部暗記したら米軍の言葉が聞き取れるようになった経験から、英語学習は中学レベルの教科書を音読するのがいいというメソッドだ。これを僕は愚直にやり、英単語を日本語に訳さなくても頭に意味がイメージできる状態にする→文章を音読して英語の文のままイメージできるようなになる(同時に英語のリズムを覚える) これを繰り返し、普通の市販の教材を暗記しまくったら解法テクニックは覚えなくてもセンター過去問で10分あまって90%の得点率になった(本番はメンタルが弱いので75%ぐらいしか取れなかったがw)。また大学3年の時は就活に備えてTOEICの勉強をしたときは、脳のワーキングメモリの処理の概念は理解していたので、TOEIC用の単語を覚える(無意識に呼吸レベルになるまで)→長文を音読するで英語学習の感覚を取り戻しつつ語彙を増やし、TOEIC用の対策本で文法問題は○×△法+エビングハウスの忘却曲線にそった反復学習で1回目の暗記→9時間後(または翌日)→1週後の3回くりかえすことで長期記憶に定着。これの勉強法で、3週間で460→645点であがった。そこで自分で考えて短期的に結果を出す経験を得たことに満足してまいその後の学習はしなかったがw、この記事で書いてあることは自分の経験則としてすごくよくわかる。
こうしてみるとグリットが足らない人生だね、筋はいいことはできてるし自分で考えて行動して結果を出すことも部分的にはできているけど一番のゴールは達成できていない。
中学校最初のテストでたまたま数学学年一位で部活の先輩とかいろんな先生にちやほやされて自分は本気だせば勉強できるとか勘違いして、授業以外ではほぼ勉強せずにトータル学年10位-20位くらいをうろうろ、3年最後のテストで一位とってやろうと思って勉強するも4位どまりで一位は無理か〜と思ったが、もっと前のテストから1位を狙っていれば学習のPDCA回せたと思うのにそんなことは気がつかず。
高校も県外に引越しのタイミングなので志望校選びを家から一番近い高校にして入ったが、入試の開示されたあの点数なら県1-3の高校合格ラインだったのに思考停止してた。
高校は勉強せずにテストで0点とかとってるのがクラスで目立ってたのがウケてたと思ってたので二年間勉強せず学年ビリとったり、英語数学国語で1とって進級できない人向けの試験受けることになってる時でも、本気出せばいけると思っていたw 今思うとこの時に勉強を通じて思考力や集中力、自分なりの課題解決のプロセスを確率する訓練を積んでいないのがいまに悪い意味で繋がっていると感じる笑
受験勉強も他の人からするととても伸びて結局国立大受かったのに、もっと上いけるとか思って浪人して堕落し結局一朗ニッコマでしょ、予備校入りたての時は地理は東大コースで京大の過去問といて他の生徒よりいい成績出したりしてたのに、夏になぜか世界史に変えてそこからめんどくさくなってセンター本番50点でまた地理にもどすという超迷走かましてた
そこで自分で浪人を選んだのに結果がでなかったのでネガティブになり消極的になったんだ、思い出した笑
つまり自信を失ってるのは自分で選んだ選択で結果がでなかったからで、自分への信頼がないわけで、そこを改めてとりもどさないと一生このままでしょ
やろう、ポテンシャルはあるはず、足りないのはやりきる力