はてなキーワード: ハイジとは
あれは、どの年代の、どんな性別の人に「買わせよう」としてる広告なんだろうか。
ハイジの未来、とかなら、当時アニメが放送されていたときに青春時代だった人とか、当時のアニメをごりごり見てた人とか、最近だとトライさんのCMが流行ってるからそのへんを狙ったとかいろいろ想定できるけど、
あんな国民的アニメの、しかも恋愛要素なんて皆無の(私はマスオとかのエロ系のコラ画像とかみるとかなりキモチ悪いなと感じてしまう派)内容のやつをわざわざ若返らせてときめかせようと頑張る必要ある??
「これで買いたいと思わないな」と思うプロモーションみると「私はターゲットじゃないんだな」って思うだけだし、別に私はカップヌードルもう何年も食べてないから、これも私はターゲットではないことはわかる。
でも、あれに誰が「買いたい」ってなると想定してるんだろう。
アイマスが好きだ。
765のアニマスからはまり、シンデレラガールズ、ミリオンライブにも手を出した。
元々、男性アイドルにあまり興味がなかったということもあるんだけれど。
女の子に癒されたい願望が強いため、2次元でも萌えアニメばっかり見ていた。
ともかく、sideMの知識としてはジュピターと涼ちんがいることしかなかった。
アニメ化したので見てみた。
OPからアイマスだった。デレマスより765のアニメっぽさがあって好き。
プロデューサーは女性だろうなと予想していたが、男でびっくりした。
とりあえず、最新回のS.E.Mが衝撃的すぎて一気に好きになった。
765では雪歩推し、デレマスでは藍子ちゃん推し、ミリマスでは美奈子推しのわたしがsideMでそれぞれのグループから気になるキャラを書いてみる。
ドラスタ…翼
ほんとアイマス、爽やかで見やすくていいなと思った。OPがReady、Change、Star、Shineの延長線上にある感じがして元気が出るしいい。
修正になんでも応えてくれるデザイナーさんが上司からの「チーズ感が足りない」というダメ出しに全力で応えてくれた結果…ミルクシーフードヌードルの広告がこのような形になりました! pic.twitter.com/0T7aFfBXtN— カップヌードル (@cupnoodle_jp) 2017年10月17日
日清のこういう「弊社はネット文化に精通してるからこういうおまえらが喜びそうな広告出せちゃう感」が凄い嫌。
(とはいえ日清は企業だし、このアカウントも遊びではないので、宣伝的にこのRT数を稼ぐのは凄い。マーケティングの担当や広告代理店の担当が優秀なんだと思う)
青春時代。自分はひねくれた友達同士で集まってアングラなことをしていて、
メジャークソモテる奴クソという(今考えれば単純な思考)感じで楽しくやっていた。
しかし、そのアングラな感じが脚光(たかがしれているけど)を浴びてしまい、
そうした途端にメジャーでモテるクソがそれに寄せてきて「こんな奴らがやっていること俺達がやったらおまえら発狂でしょ?これがおまえら好きなんでしょ?」的な感じで作品を発表した。
それは「完全無欠のクソ」として評価されたが、それでもやはりそれをかっこいいとする人の方が多かった。
と、これと同じ感じを日清の広告から感じるというのは暴論が過ぎると思われそうだが、最近のCMを見るとそう感じざるを得ない。
。尖ってひねくれてほしい。うちらのことなんて気にしないでほしい。寄せてこないでほしい。
あのマンモスのCMみたいに、わけのわからない感じでいいじゃん。
「いやいや!大企業のCMに何を求めているんだよ!時代遅れのクソが!」
特にキキやハイジ達を日本の高校生という謎設定にしたあげてその青春っぷりを「アオハルかよ!(打つのも恥ずかしい)」という謎ツッコミで片付けようとした罪は重い。
何?アオハル(本当に打つのが恥ずかしい)って何?誰がツッコんでの?同級生?なんでいきなり訓読み?他の同級生ドン引きだよ。国語の先生に怒られろ。
スッキリした
いつもだと自分のパソコン開くんですが。今日は藤津さんのパソコンで。
コメンタリー上映会2回目。まだ喋る内容がある。というかしゃべる時間が足りない。映画をポーズで止めたかった。
キャラクター作りについて。すずさんがそこにいるということを目標のひとつとしていた。これはマイマイ新子の頃から。
絵空事では無く。肉付け。外側の世界を充実させることで、結果的にパーソナリティを描けるのではないか。
世界の構成要素を本物で描く。我々の作るアニメーションはファンタジーとなるのだが、日常空間から逸脱することでファンタジーを描くのだが、実際の世界を描くことでファンタジーにリアリティが与えられる。
名犬ラッシーから。ラッシーはイギリスが舞台。エリザベステイラーの時代。アメリカのホームドラマの影響で作ろうとしてた。ロケハンにも行けなかったので、行ったことの無いヨークシャの炭鉱を想像と調べたことの組み合わせで作っていった。
町に住んでいる人達を準レギュラーにすることで、街自体を描く。そうやってストーリーにしていった。炭鉱の浮沈や犬を手放すことになったサブシーンを描いていく。考えながら走りながら作っていった。
町を本物らしく見せる鍵は町自体に歴史があるという背景。町の川側から町を描くシーン。その世界を裏側から描写する。立体的に書き割りでは無い町。
アリーテ姫。リアリティのあるファンタジー。国がどうやって運営されているかとかが描きこまれていた。城下の職人の暮らしを描くことで、アリーテの気持ちや世界を描いた。
大学入った頃に観た、高畑勲さんの作品の影響もある。ハイジの話し。ドイツの町に住むことになって、ハイジはクララとピクニックに行くが、楽しんでいたクララが突然限界がきて辛そうになる。二面性。リアルな世界。
当時はすごいめんとくさいなと思った。学生の頃はみえてない。世界がみえてなかった。
人間を描くのはめんどくさいなと思った。名探偵ホームズはやりやすかった。宮崎駿さんが、人間の深みとか書くつもりの無い人だったから。
魔女の宅急便の時にそのあたりに踏み込んだ。普通の人がどう生きてるか。成長していくか。心の構造、精神発達心理学など。伊丹十三さんとか岸田秀さんの唯幻論。人はどうできているか。
1人の人の中には複数の個性のバランス。その場に応じて表面に出てくる割合が変わっていく。
アリーテ姫は原作は単純なキャラ。悪役の魔法使いボックス。原作は主人公はクレバーでは無いが、ボックスの悪役を掘り下げたことで、アリーテ姫は機転がきいた子になる。
自分を偽って生きているのが、自分たちの正体ではないか?虚飾の魔法使い。本当の人生を生きていない人の描きこみがアリーテ姫から始まった。
ブラックラグーンの作り込み。原作が途中から追いつかなかったので、ストーリーを聞いて描いていった。
この世界の片隅にの径子の台詞。径子は自分で自分の道を選んだから。すずとりんはそうじゃない。ブラックラグーンのOVA。周りのキャラにも、そうじゃない人生があったというエンディング。悪漢たちの別の顔。
自分が選んだ道を歩いていけてる訳ではない。だからこそ、そういうありたかった人生に触れることでその人間を描く。
原作を超えたところを描きこんだブラックラグーン。立体的な背景。タイのような舞台。タイは基本的に外国の支配を受けていないが、南の一部はインドネシア領フランスに占領されたりしていた。
最初は丸山さんは監督無しで3話ごとに交代でやる予定だった。さすがにそれはまずいだろうと基本設定決めるところをやってたら、丸山さんが監督を全く考えてなかったので気が付いたら監督していた。
ブラックラグーンはこれまでの片渕監督の作品のイメージと違うので、ペンネームでやるかという話しがあった。マイマイ新子と同時期。
うまくいかなかった人生を書いたブラックラグーン。マイマイ新子の周りの大人たちは上手くいってない。原作には1000年前の設定は無かった。国府の話しは出た。
でも、1000年前の話しが出たら、そこをふくらませてそこに見えない世界を描くのがファンタジーであり、そこを描き込むのが本能みたいなもの。
1000年前のことをきちんと調べることでファンタジーの描きこみができる。実際の280回くらいの発掘調査報告書を読んで、その中の図を集めて今の地図に重ねる。でも全然足りない。国衙の調査でも足りない。でも道路などがわかる。1000年前と今の間にもいろんな世界がある。
1000年前の世界の1000年前の話し。1000年前が真ん中。
ブラックラグーンはタイに取材にいこうとしてたら、洪水でいけなかった。ベトナムや香港などは行った。
マイマイ新子は3回くらいしか現地に行ってない。終わった後の探検隊は10回。そちらの方が多い。
発掘調査報告書がメイン。古本屋から写真など。干拓地のきーこ。カネボウの工場社宅。そのカネボウの最後の工場長から写真などをもらえた。
事前の知識を持ってロケハンに行かないと見てもわからない。塀のイメージなど発掘している現地でイメージが湧くためには知識が無いと出来ない。
事前に知っているからこそ、現地で発掘している人と話しがきちんと理解し合える。情報をもらえる。今でもあって昨日も泊まらせてもらった。
ハイジのクララの矛盾。マイマイ新子では子供たちは純粋だけど、周りは思ったように生きられてない。
マイマイ新子は金魚が戻ってきたのが最後。原作者の体験らしい。死んだはずの金魚がまた出てくるという思いが子供の世界。おじいちゃんの死の原作での書き込みを外して。
原作者は男女の性愛を描く人。それを入れなかった代わりに死の表現がにじみ出ている。死を描くための映画にしたくなかった。
普通に歳をとって死んだおじいちゃんの話しは重くしたくなかった。で、ヤクザの話しを膨らませた。
この世界の片隅にのすずさんは大人。少女から大人への端境期という面が原作より強いと原作者から言われた。すずさんは18歳で自分の意思とは関係無く嫁にいかされる。
すずさんは自分が空っぽだと思っていたが、実は中にはたくさんあった。
マイマイ新子のきーこ。新子に対して現実的な子。自分には無い想像力を持った新子をうらやましいと思っている。きーこと新子は2人とも主人公。
すずは自分の内側にあるものから変化する。空っぽな人はいないが、それを表に出せないタイプのすず。アニメーションやってる人も普通の人。
日本のアニメはドキュメンタリー性を持って進化してきたと思う。記録性。
年齢層が上がってきた。巨人の星。読売巨人軍や二軍。実際にある世界を描くようになってきた。オバケのQ太郎とは違う。観る年齢層があがる。
長くつしたのピッピやルパンの企画書を見つけた。タバコや銃のブランドの定義。ピストルで済ませるのでは無くワルサーP38。ルパン三世カリオストロでは赤いきつねやコカコーラを描いてる。
日本のアニメにそういうリアルを描く流れができた。母を訪ねて三千里は、周りの人間のリアリティが入ってきて、中学生くらいがみられる作品。
手塚治虫さんの漫画の描き方の本。アシスタントに車を描けといったらできなかった。手塚治虫さんの言う車は抽象的な車だったが、今は実際の車。
この世界の片隅にでは実名のある描きこみ。実現できなかったすずさん。抽象的な戦時中ではなく、現実のカケラを組み合わせた。
出来るだけ背景を捉える。人物のサイズを大きくしがちだが、もっと背景を描く。背景にあるものの存在感。
効果音やBGMについて。この世界の片隅にでは、出来るだけ実写の音響でということをお願いした。アニメの表現より実写の表現。BGM無しでも良いかとも思ったが、BGMで心理描写ができた。
いつもだと自分のパソコン開くんですが。今日は藤津さんのパソコンで。
コメンタリー上映会2回目。まだ喋る内容がある。というかしゃべる時間が足りない。映画をポーズで止めたかった。
キャラクター作りについて。すずさんがそこにいるということを目標のひとつとしていた。これはマイマイ新子の頃から。
絵空事では無く。肉付け。外側の世界を充実させることで、結果的にパーソナリティを描けるのではないか。
世界の構成要素を本物で描く。我々の作るアニメーションはファンタジーとなるのだが、日常空間から逸脱することでファンタジーを描くのだが、実際の世界を描くことでファンタジーにリアリティが与えられる。
名犬ラッシーから。ラッシーはイギリスが舞台。エリザベステイラーの時代。アメリカのホームドラマの影響で作ろうとしてた。ロケハンにも行けなかったので、行ったことの無いヨークシャの炭鉱を想像と調べたことの組み合わせで作っていった。
町に住んでいる人達を準レギュラーにすることで、街自体を描く。そうやってストーリーにしていった。炭鉱の浮沈や犬を手放すことになったサブシーンを描いていく。考えながら走りながら作っていった。
町を本物らしく見せる鍵は町自体に歴史があるという背景。町の川側から町を描くシーン。その世界を裏側から描写する。立体的に書き割りでは無い町。
アリーテ姫。リアリティのあるファンタジー。国がどうやって運営されているかとかが描きこまれていた。城下の職人の暮らしを描くことで、アリーテの気持ちや世界を描いた。
大学入った頃に観た、高畑勲さんの作品の影響もある。ハイジの話し。ドイツの町に住むことになって、ハイジはクララとピクニックに行くが、楽しんでいたクララが突然限界がきて辛そうになる。二面性。リアルな世界。
当時はすごいめんとくさいなと思った。学生の頃はみえてない。世界がみえてなかった。
人間を描くのはめんどくさいなと思った。名探偵ホームズはやりやすかった。宮崎駿さんが、人間の深みとか書くつもりの無い人だったから。
魔女の宅急便の時にそのあたりに踏み込んだ。普通の人がどう生きてるか。成長していくか。心の構造、精神発達心理学など。伊丹十三さんとか岸田秀さんの唯幻論。人はどうできているか。
1人の人の中には複数の個性のバランス。その場に応じて表面に出てくる割合が変わっていく。
アリーテ姫は原作は単純なキャラ。悪役の魔法使いボックス。原作は主人公はクレバーでは無いが、ボックスの悪役を掘り下げたことで、アリーテ姫は機転がきいた子になる。
自分を偽って生きているのが、自分たちの正体ではないか?虚飾の魔法使い。本当の人生を生きていない人の描きこみがアリーテ姫から始まった。
ブラックラグーンの作り込み。原作が途中から追いつかなかったので、ストーリーを聞いて描いていった。
この世界の片隅にの径子の台詞。径子は自分で自分の道を選んだから。すずとりんはそうじゃない。ブラックラグーンのOVA。周りのキャラにも、そうじゃない人生があったというエンディング。悪漢たちの別の顔。
自分が選んだ道を歩いていけてる訳ではない。だからこそ、そういうありたかった人生に触れることでその人間を描く。
原作を超えたところを描きこんだブラックラグーン。立体的な背景。タイのような舞台。タイは基本的に外国の支配を受けていないが、南の一部はインドネシア領フランスに占領されたりしていた。
最初は丸山さんは監督無しで3話ごとに交代でやる予定だった。さすがにそれはまずいだろうと基本設定決めるところをやってたら、丸山さんが監督を全く考えてなかったので気が付いたら監督していた。
ブラックラグーンはこれまでの片渕監督の作品のイメージと違うので、ペンネームでやるかという話しがあった。マイマイ新子と同時期。
うまくいかなかった人生を書いたブラックラグーン。マイマイ新子の周りの大人たちは上手くいってない。原作には1000年前の設定は無かった。国府の話しは出た。
でも、1000年前の話しが出たら、そこをふくらませてそこに見えない世界を描くのがファンタジーであり、そこを描き込むのが本能みたいなもの。
1000年前のことをきちんと調べることでファンタジーの描きこみができる。実際の280回くらいの発掘調査報告書を読んで、その中の図を集めて今の地図に重ねる。でも全然足りない。国衙の調査でも足りない。でも道路などがわかる。1000年前と今の間にもいろんな世界がある。
1000年前の世界の1000年前の話し。1000年前が真ん中。
ブラックラグーンはタイに取材にいこうとしてたら、洪水でいけなかった。ベトナムや香港などは行った。
マイマイ新子は3回くらいしか現地に行ってない。終わった後の探検隊は10回。そちらの方が多い。
発掘調査報告書がメイン。古本屋から写真など。干拓地のきーこ。カネボウの工場社宅。そのカネボウの最後の工場長から写真などをもらえた。
事前の知識を持ってロケハンに行かないと見てもわからない。塀のイメージなど発掘している現地でイメージが湧くためには知識が無いと出来ない。
事前に知っているからこそ、現地で発掘している人と話しがきちんと理解し合える。情報をもらえる。今でもあって昨日も泊まらせてもらった。
ハイジのクララの矛盾。マイマイ新子では子供たちは純粋だけど、周りは思ったように生きられてない。
マイマイ新子は金魚が戻ってきたのが最後。原作者の体験らしい。死んだはずの金魚がまた出てくるという思いが子供の世界。おじいちゃんの死の原作での書き込みを外して。
原作者は男女の性愛を描く人。それを入れなかった代わりに死の表現がにじみ出ている。死を描くための映画にしたくなかった。
普通に歳をとって死んだおじいちゃんの話しは重くしたくなかった。で、ヤクザの話しを膨らませた。
この世界の片隅にのすずさんは大人。少女から大人への端境期という面が原作より強いと原作者から言われた。すずさんは18歳で自分の意思とは関係無く嫁にいかされる。
すずさんは自分が空っぽだと思っていたが、実は中にはたくさんあった。
マイマイ新子のきーこ。新子に対して現実的な子。自分には無い想像力を持った新子をうらやましいと思っている。きーこと新子は2人とも主人公。
すずは自分の内側にあるものから変化する。空っぽな人はいないが、それを表に出せないタイプのすず。アニメーションやってる人も普通の人。
日本のアニメはドキュメンタリー性を持って進化してきたと思う。記録性。
年齢層が上がってきた。巨人の星。読売巨人軍や二軍。実際にある世界を描くようになってきた。オバケのQ太郎とは違う。観る年齢層があがる。
長くつしたのピッピやルパンの企画書を見つけた。タバコや銃のブランドの定義。ピストルで済ませるのでは無くワルサーP38。ルパン三世カリオストロでは赤いきつねやコカコーラを描いてる。
日本のアニメにそういうリアルを描く流れができた。母を訪ねて三千里は、周りの人間のリアリティが入ってきて、中学生くらいがみられる作品。
手塚治虫さんの漫画の描き方の本。アシスタントに車を描けといったらできなかった。手塚治虫さんの言う車は抽象的な車だったが、今は実際の車。
この世界の片隅にでは実名のある描きこみ。実現できなかったすずさん。抽象的な戦時中ではなく、現実のカケラを組み合わせた。
出来るだけ背景を捉える。人物のサイズを大きくしがちだが、もっと背景を描く。背景にあるものの存在感。
効果音やBGMについて。この世界の片隅にでは、出来るだけ実写の音響でということをお願いした。アニメの表現より実写の表現。BGM無しでも良いかとも思ったが、BGMで心理描写ができた。
すげー同意
まったく関連性のない日本のテンプレに押し込めてどうすんだと思う。
日本の高校生活にしたらしたでそれなりにヒネリがあればまだ納得感出たが、
それっぽく見映えするシーンだけ作って集めましたー感がありありで
陳腐感を加速させて、全体的に食傷気味になっていくんだよ!しょうもねえ!
ジブリ作品「魔女の宅急便」に続いて名作劇場「アルプスの少女ハイジ」(高畑勲監督、宮崎駿レイアウト)ときたので狙いは明らか。
しかし日清のHPを見ると原作小説の紹介はあれども誰もが連想するアニメ作品への言及はされていない。
http://www.cupnoodle.jp/hungrydays/majyotaku/
もちろんジブリやアニメ版ハイジの権利を持つズイヨーのクレジットは無し。
https://www.trygroup.co.jp/cm/
日清さん、他人のふんどしで食べるカップヌードルは美味しいですか?
【一部訂正】
https://www.advertimes.com/20170914/article257844/
https://www.advertimes.com/20170620/article252903/
原作小説準拠の体を取っているけど、明らかにジブリ映画のパブリックイメージに寄り掛かって作られているよね?
それを見て胸がキュンキュンすると言っている人もいる。
現パロなんてpixivで留めておけよって思う。
ハイジ達を高校生にして、露骨なシチュエーションで恋愛模様を表現。
現パロなんて化学物質まみれのクソインスタントラーメンと同じだぞ。
それ見て「胸がキュンキュン(はぁと)」なんて言っている奴は目を覚ませよ。
【追記】
窪之内英策の絵大好きだしそれが動くのは最高だけど!
はぁ?
製作側の「かわいい絵でキュンキュンさせる設定でアニメ作ればいいんでしょ。よっしゃ!しかもハイジにしたろ!
そして新海誠っぽくすればさらにウケるだろ!ガハハ!」っていうのが見え隠れして本当嫌だ。
窪之内英策先生を使うんだから、もっとオリジナリティのある設定にしろよ!
わかった。10000歩譲ってハイジ達が高校生だったらっていう設定は許そう。
だがこれだけは言わせてくれ。
利便性とか趣味とか美学で剃るならもちろん勝手なんだけども、「そっちのほうが男性受けする」というのが理由のひとつに数えられてるらしい。
いや、それは疑問だ。
少し前、アメリカ人と結婚した海外在住主婦という人のblogでも、下の毛の完全脱毛が推奨されていて、
やはり利便性のほかに「男受けも100%よかった」と書かれていた。
なんかしらんけど、あちらのグラビアやポルノは全部下を完全脱毛するのだ。陰毛のあるヌードは特殊ジャンル。
もう剃るのが作法になってるんだとおもう。だから好みかどうか以前に、陰毛生やしてると身だしなみ出来ないぐらいやばい事情のあるおんな、と思われるのでは。
ついでに、そういうヌードが増えたのは無修正文化のせいだろう。何の縛りもないので具を見せてなんぼになったので陰毛は邪魔物とされたのだ。
それで話が日本に戻るけど、日本でも無修正くらい今はいくらでも見れるとはいえ、
何の趣もなく具を見せつけてどうこうというヌードは日本には存在しない。
その縛りゆえに、下半身全体、しぼっても下腹部全体、股間全体の総合イメージに欲情するようになってる。
だから下腹部や股間の重要なワンポイントになってる陰毛はあったほうが絶対よいのだ。
個人的にも
おろされていく下着の上から陰毛が出てくる瞬間だ。なかったらとてもつまらない。
陰毛がないととりとめがなくなり蛙のようだと思わないだろうか?
まあ繰り返しになるけれども
最近真剣に永久脱毛を考えてた。部位的にいうとハイジニーナ。永久脱毛なのでそんなに安くないしハイジニーナは特にお高め。
安くない金額を使うわけだからやっぱり評判とか見てからいろんなクリニックをじっくり比較してから施術を受けたいと思って検索してみたら本当にアフィリエイトの息がかかっていない体験談なんて一切見つからない。よくよく考えたら金をもらわずに自分の恥部の脱毛の話をする人なんて少ないだろうけど、もしかしたら居るかもしれないその人たちの体験談もアフィサイトによって全部埋められてる。さらには「脱毛のアフィリエイトは稼げるジャンルです!」とか検索結果に出てくんの!ばーーーか!
なんか昔はインターネットってもっと有用なかんじだと信じてたというか、個人の利害が関係ない情報をたくさん見れた気がするんだけどそういうのも幻想だったんだろうか。