はてなキーワード: 無意識とは
“ 男性を怖れる『女性』の気持ちは蔑ろにされるべきではない ”
——…などと述べているあなた達。「体の性」とかいう時代錯誤の概念にすがるバカTERFへ
ある男がいました。
男は、女子トイレに入ろうとしている女性に違和感を覚えました。
はい?
女性ですけど…?
…こんな世界を望んでるの?
バカTERF の中では、この男は女性を抑圧してない事になるの?
『体の性』とか言ってるけど運用上実際に確認されてるのは『見た目の性』。
特にガンダムみたいに肩幅がしっかりしてるような女性は、ガタイの良さを隠したり髪を伸ばしたりスカートはいたり化粧して女を装わなくちゃならない。トイレに入るために。
女性みんなが、女性らしくなくちゃならない圧力を常時発動されてる。
想像してみろ。
知りあったばかりの女性とデート中に2人でトイレに向かいました。
その時点で終わり。
追記・この部分、誤りでした。訂正して謝罪します。間違った情報を流布して申し訳ありませんでした。トランス女性が女子トイレを使うのはおそらく合法だからです。争われる罪は建造物侵入罪になるけれど、近年多く取られている意思侵害説の立場では建物のオーナーが積極的に施設の利用方法を明示してない場合でも、合理的に判断してオーナーの意思を侵害してると思われる利用は違法、侵害してないと思われない利用は合法、と判断されるようです。なので、合理的に考えて一般人のオーナーは差別主義者ではないはずなので裁判しても犯罪扱いにはならないでしょう。
バカTERFよ。
あなた達が “ 男性を怖れる『女性』の気持ち ” と言うとき。
無意識の差別がバレてないと思ってるのか。あるいは隠すつもりもなく傲慢にも開き直ってるのか。
それでも既得権益を守るための身勝手な主張を続けるなら、せめて。
追記・
割り勘・奢り論争でも、家事と稼ぎの分担論争でも女は優遇されるべきなのに優遇されない!許せない!ムキー!ってのが多すぎる。
最近は女性の経済力が向上して、少しは現実を見られる人が増えている印象はあるけどな。
割り勘こそが男女平等だという先進国の価値観が普通になっていることはある程度知られるようになったきた。
家事と稼ぎの分担も、家事を平等にするのは稼ぎも平等なのが大前提になってる。実際婚活とかでも専業主婦希望なら家事育児を率先してやることをアピールすることが必須になってる。
少しずつでも世の中は良くなってるが、この流れを加速して同じ過ちを繰り返さないためにも、女性にはこれまでの流れを直視してもらいたい。
フリーライダーで何の問題もないよね?そもそもDINKsだって税金納めてるし。うらやましいなら産むな(笑)
つーかそれって全部政治が悪いよね?
子供作ってほしいんなら国はばらまけばよかったよね?民主がこども手当所得制限なしでやろうとしたとき自民はプラカードもって騒いでたよね?あれ、Tシャツだったっけ?
その結果産み控えが進んだだけだよね?育休も産休も取れない・とってもパワハラされる・転勤させられるみたいなことばかりまかり通った結果だよね?
子供産んだら困窮するってバレてるからだよね?今度自民がその民主の政策パクろうとしてるけどお前ってそのことについてどう思ってんの?結果的に出生数80万人切ってるけど。どうすんの?まあ、別に俺は移民でもいいけどさ
DINKsに子供ほしいなと自発的に思わせる環境が整っていないのは日本のせいだよね?
悪いのは国、政府、自民党なのになんで一般市民同士で争おうとするの?自民党に怒りの拳を上げないのは何で?
お前みたいに政府の失政を責め立てずに一般市民同士で足の引っ張り合いを先導して自民に批判の矛先を向けないように意識的にか無意識的にか振る舞ってる奴って、自分が日本を没落させている自覚ないの?
せめてお前はその自覚を持てよ
stable diffusionはごく一部だが学習データをほぼそのまま出力する能力があるらしい
学習でやってることは画像圧縮の一種だから、あえて復元してやろうと思えば復元できるんだと
まあ人間だって過去に見たものから無意識に盗作することはあるし、極論あらゆるお絵描きツールは「盗作を実行することが可能」なのでそれすなわちギルティとは限らん
ただSDを「特定の手順を踏むと画像が出てくるソフトウェア」と考えると、元の著作物とほぼ同一のものが出てくるソフトウェアを配るという複製行為の法的な扱いは少し面白そう
復元可能性なんていちいち検証してられないから一括でオッケーということになるのか、発覚次第個別対応しろということになるのか、あるいは出力のみを問題とし圧縮状態での配布無罪となるのか
はてなで囲碁の話題が出ると一定数「将棋のほうがわかりやすい」というコメントがあるんだけど、囲碁将棋両方やってた自分にはその感覚が全く理解できなくて、そろそろそれが無視できなくなってきたので一回ぶちまけたい。
「将棋の方がわかりやすい」派の皆様におかれましては、もしも可能であれば、時間的・精神的リソースの許す範囲内で以下の論点に反論いただきたい。
囲碁の場合、黒の石が多くある場所は大方の場合、黒が優勢とみていい地点である。
基本的に陣取りゲームで、囲った場所が勝利点となるので、ルールを知らなくとも見た目にたいへんわかりやすいのではないか。
一方将棋について、「王様に迫っている方が攻めているんだなとすぐわかる」という意見を見たことがある。
これは残念ながら頷けない。中級者以上同士の競り合いであれば、中終盤は大抵、お互いがお互いの王を攻めている。特に将棋の上手い人は「手数を計算して相手の攻めより一手早く攻めを間に合わせる」みたいなのが基本なので、そういう叩き合いの状態になると今どちらが攻めているか、どちらが優勢かといった局面を読み切るのは経験がない人には難しい。名人戦とかの終盤の局面、理解できない人の方が多いのではないだろうか?
それに対して囲碁はタイトル戦であってもイラストのように局面を眺めることができ、何が起きているかはわからなくとも大まかな戦況は比較的わかりやすかったりする。
囲碁のルールは少ない。互いに石を置く。囲ったら取れる。囲った場所が陣地。細かいのを除けばだいたいこれだけだ。
こういうと将棋の方が互いに一手動かすだけでシンプルだと言う人もいる。
しかし、それは駒の動きが頭に入っていればの話だ。将棋には駒が八種類あり、さらに成駒もある。それら駒の動きと成りの総体、そして初期配置も含めたものが、将棋のルールとなる。
囲碁に駒は一種類しかない。石という一つのオブジェクトに全てのルールが込められている。これにより、将棋と比較してルール総体が極めてシンプルとなっている。
上に述べた「だいたいのルール」から逸脱する処理は、取られる石は置けない(着手禁止点)、千日手、コウ、セキ、それに敢えてコミ(先手ハンデの6.5点)を入れても5つくらいだろう。
対して将棋では、動けない駒の禁止、千日手、二歩、打ち歩詰め、入玉計算、ステイルメイトが挙げられる。まあステイルメイトはさすがに抜きにしても、例外処理の数としては同じになるし、中身も将棋のほうがいかにも例外処理チックという感じがする(個人的見解)。
囲碁にも将棋にも定石(定跡)というものがあるが、囲碁のそれは将棋に比べて覚えるべき数は少なく、手順も長くないものが多い。
対して将棋は、矢倉に相掛かりに角換わり、四間飛車三間飛車中飛車、それぞれの中でも速攻だの持久戦だの腰掛け銀だの藤井システムだの丸山ワクチンだの無数の定跡があり、自分が型を絞って戦ったとしても相手の振る舞いでそれぞれ違う定跡に分岐せねばならない。
手筋とかは、囲碁にしろ将棋にしろちゃんと覚えないといけないが、こと序盤においてはそういう意味で囲碁のほうが遥かに覚えることは少なく、シンプルであると思う。
将棋のほうがわかりやすいとする意見を読んで思うのは、将棋のほうは駒の動きや全体の流れなどある程度知っている人間、囲碁のほうはルールや全体の流れも含めて全く知らない人間を前提に、意見を組み立てているのではないか?ということ。
自分は囲碁も将棋も全く知らなかった小学生の頃、初めてその二つにセットで出会って、将棋の方は駒の動きが覚えられず苦手だったが囲碁はすんなり入っていけた。
正しくは戦時中、というより侵略されている中での、となるかもしれない。
Twitterで有名な反出生主義インフルエンサーがおり、普段はお仲間同士でひたすら子持ちを攻撃しているが、とあるツイートが界隈外にも広く拡散されている。
その概要は「ウクライナで今出産している人は頭がおかしい。なぜ子供を産むのか?ロシアに侵攻され始めたのが1年。なぜそんな時に中出しセックスをキメたのか?危ない場所に子供を連れて行くことは非難されるのに、なぜ出産はいいとされるのか?殺されるために産んだようなものだ」といった感じである。
私は出生讃美でも反出生でもないがどちらかといえば反出生寄りである。新たな命を生み出すことは本当に正しいのかと日々考えている。が、この一連のツイートはさすがに一線を超えているのではないかと思う。
極限状態に追い込まれた人間の行動をぬくぬくと暮らしている側が批判するグロテスクさ、面と向かっては絶対に言えないことを匿名で安全地帯から書き込む卑怯さ、侵略された側は何もせず大人しく死ぬべきともとれる無意識な残酷さ、人の人生に踏み込みすぎる無神経さ、行きすぎた0か100か思考など。
子育てのための十分な環境が揃っておらず、未来に希望があるかどうかわからない状態で子作り+出産をすることの是非はともかく、このツイートに関してはあまりにも酷いのではないかと思う。
興味ない音楽を5秒以上聴くのが苦痛。嫌いな音に限らずどうとも思わないようなものも含めて、初手で突き刺さらない音楽以外の全てが。
刺さる音楽は大抵テンポとか音の雰囲気とかキックが気持ち良いかとか、そういうのを無意識にでも識別してるのか分からんけど、5秒以内に確信を得られるし大抵間違う事はない。最初の音で脳天に雷が落ちるような感覚がある。打率は5%にもならない気がする。
あとは、強制的に聴かされる事での慣れ。なんかのオープニングテーマとかだと、飛ばさず聴いてる内に好きになる事もある。BGMとかでよく使われる曲とかも。たまたま目にした曲名や歌詞がめっちゃかっこいいから、曲自体はそうでもないけど我慢して聴き続ける内に気に入るという事も稀にある。
陽キャと言われる人たちは勿論嫌いです。嫌いの筆頭と言っていい。彼らをはじめとする様々なものに目くじらを立てずにはいられません。
野球部、サッカー部、EXILE、ディズニーキャラクター、(所謂)文系、ああ、リア充、リア充もリア充と呼ばれなくなって久しいですが、勿論彼らも嫌いです。
普通の(それは、私が無意識に線引きをしてしまっているのですが)計算ができない人も嫌いです。
ポイ捨て、未成年飲酒・喫煙、見知らぬ人にちょっとした気遣いもできない人が大嫌いです。
性を、(高校生や大学生にもなれば、私の嫌いな人たちは肉体で悦びを享受するのです。きっと)当たり前のように受け入れている彼らが嫌いです。
そんな彼らの楽しそうな顔を見て、たまにちょっとだけ羨ましくなってしまう自分のことも嫌いです。
人と交流せずにいられない彼らが嫌いです。
(ごめんなさい、こうしてくくってしまってはいけないとわかってはいるのです)だからコロナが始まって、人と人との距離が離れて、それで精神的に参ってしまった人がいたことについて、少しでも悲しいと思ったと言えば、けっしてそれは嘘なのです。
(勿論、生活を失った方のことを悪くいいたくはありません)
私は、私のままで生きてこられたことをほんの少しだけ褒められた気がして、でも、それを共有する先がないことに気付きました。
(だってこんなこと、言えやしないでしょう)
嫌いなものばかりです。
でもとにかく嫌いなんです。
私を見て、(もし数人でも)まるで自分みたいだと思ってくれる人がいたらいいと思います。
でもきっと、お話はしない方がいいんです。
私を見て、(もしかすると何百人もが)つまらないステレオタイプみたいだと思ってくれる人がいて。
それなら、こんなこと、言うまでもなく、この社会で一緒に生きていけたらいいと思います。
私は、嫌いなものがたくさんある私でも、大好きです。
そうでもなきゃ、こんな文章、書けません。
人生には論理立てて説明できるような意味がない。これは不安をもたらす。また、人生は有限だ。これは焦りをもたらす。
長らくこの絶望に対して、誰かが保証してくれたり論理的に肯定できるものなどなくても、自分で意義があると強く確信できる行いを続けていれば良い、といった思考停止を肯定するスタンスを取る事で正気を保ってきた。
最近になって、ではそもそも「意味」とは?「価値」とは?という意識的に思考停止していた疑問が頭から離れなくなってきた。
「意味のある人生を送りたい、それが価値のある生き方だ」という素朴で疑い得なかった感覚を地盤としていたのに、そこまでもがニヒリズムに飲み込まれかけてしまっている。
道具は意味=目的を持って生まれる。その図式を無意識的に人間にも当てはめて考えていたが、では誰が意味を与えるのか。今までは自分で意味を見出していたが、結局それはあまりにも恣意的で、一度疑問が生まれたら簡単に揺らいでしまう。神様を信仰する気持ちがよく分かる。
人はとかく納得を求め、それは不条理なものにも向けられる。だから世の中を単純化した陰謀論なんかが跋扈している。人生に意味を求める事自体がナンセンスなのかもしれない。
凡庸ではあるが、神様などいなくとも他人に自分の意味を保証してもらう、あるいは保証する、すなわち愛に囲まれていれば、この不安を覆い隠せるのかもしれない。
刹那的にその場その場の喜びを大切に拾い集め続けるのも悪くはないかもしれない。
そういった生き方をしている人間は、この手の悩みは凡人には手の余る、考えるだけ無駄なものだ。いつまでもナイーブさを引きずらず、あなたも早く折り合いをつけるべきだ、などと言うだろう。それは彼らにとって、また一般的に言っても間違いのない言葉なのだと思う。しかし、この不安ともっと真摯に向き合う事が、理屈抜きでなぜだかとても大事な事に思えて仕方がない。
別にこんな事を四六時中考えている訳ではないし、目の前の生活もしなければならない。意識的に、ほどほどのところで抑えるようにしている。
それでも時々爆発しそうになる。なぜかこの答えが芸術や自己表現にあるような気がしてならない。
ニーチェも大体こんなような事を考えていたらしいというのを最近知った。古今東西、陰気で自閉っぽい人間が考えることは似るらしい。
彼の考えが様々な思想やフィクションに影響を与え、自分もまたその影響部分に強く惹きつけられ内面化した部分も大いにあるのだろうけれど。
ここまで書いて、もう一つ大切な事を思い出した。人間は固有性に執着する。自分だけの自分らしさを追求する事は、理屈抜きで価値があると思える。
有り体に言えば特別な人間になりたいという、思春期には誰だって思うことだ。大抵の人間はどこかで凡庸さを受け入れ、折り合いをつけて愛にでも生きるのだろう。
10代の頃、それがひどく陳腐な生き方に思えた。その思いは今なお残っている。だからこそ、愛ではなく芸術に何かを感じているのだと思う。
自らの固有性を出力する事の意義と、表現活動でチヤホヤされたい、強い愛を得たいという気持ちは混同しがちな所ではあるが、しかし前者は間違いなく存在するのではないかと思う。
人が水の上を歩けるわけがない。」
なんてことを大真面目に言い出すやつが
家族の中に紛れ込んでると
創作物というのはどうしたって見る側がその世界に没入するために
ところが元増田のような融通の利かないひねくれ者がいる。
そのひねくれ者が勝手にひとりでぶつくさ言いながら映画を見ているぶんにはいい。
しかし、せっかく子どもたちとのコミュニケーションとしてのテレビ鑑賞、
ってなってるところで突然ブツクサと言い出すのだ。
得意顔でべらべら喋り始めて、子どもたちのトトロ初視聴を台無しにしよる。
ほんと○ね!こいつ!!としか思えん。
まあ元増田が本気で書いているのか
冗談で書いているのかは知らないが
パウルーッス
本日はロータリー設立記念日、日本においては天皇誕生日、税理士記念日、富士山の日、ふろしきの日、工場夜景の日でございます。
ロータリー設立記念日ってのはロータリークラブっていうのができた日がこの日だったのが由来らしいです。
高尚ですねぇ、私には縁遠い話でございます。
とはいえ人間は不思議なもんで、何故か奉仕じみた行為をしてしまうことがあります。
しかし、それは一時的なものだったりするのであまり気にすることはありません。
それが習慣化することとそれが無意識になって誤解が発生するのが問題です。
その奉仕は当たり前ではない、ということです。
それを忘れないでいきましょう。
ということで本日は【作業内容の把握よいか】でいきたいと思います。
情報を食べるのは悪いことではない。ラーメンハゲに騙されるな。
クリエイターは例外なく、情報を食べる消費者以上に勉強して情報を収集している。
「情報だけ」を食べるのではなく、情報と自分が直接感じた感覚とを突き合わせていくんだ。
経験を積むほど情報と感覚がリンクしていってそのジャンルの奥深さを味わうことができる。
情報なしで第一印象で良し悪しを判定するのももちろん悪いことではなくてとても重要なことだ。
しかしもっとそのジャンルの一番深いところまで潜って味わい尽くしたいという好奇心があるのなら、可能な限り情報を集めろ。
特に歴史は重要だ。これまでどういう経緯でどういうトレンドがあってそこに今までなかった特徴を持つものが登場したのか。
そういうストーリーごと理解すると、着目すべきポイントがわかり、それを生み出した才能のすごさがわかる。
愛好家はこういうことを無意識にやっているのでなかなかここまで言語化しない。
クリエイターはかっこつけたがるし、分析されるのを嫌がるし、初心者にも間口を広げたいと思っているので、何も考えず楽しんでくださいみたいなことを言う。