はてなキーワード: 固有性とは
昔、淀川長治が、マルクス兄弟について、「映画のコメディではなく、舞台のコメディ」っていったけど、「シンゴジラ」も映画である前に、シミュレーションの映像化。この監督が撮ろうとしているのは、「ゴジラ」という生物が出現したとき、対抗措置として作動するメカニズム。人間ドラマとか、入る余地はないよ。
戦車やミサイルだけではなく、大型未確認生物の日本上陸という非常事態に対処する官邸を中心とした官僚組織もメカ(機構)として扱われる。テロップではいる「内閣官房副長官秘書官」という肩書と「こんごう型護衛艦「きりしま」」という艦名は、その機能を現すうえで等価であるということ。劇中、ヒロイックな面もあるけど「内閣官房副長官」がたまたま「矢口」という人物だったのであって、「矢口」という人物の固有性は、ここでは意味を持たない。そこで俳優が演じるのは、固有の人物ではなくて、出世欲も含めて、その役職についている人物の類型を出ないが、それがシミュレーションを超えて「映画」であるうえで問題とも思えない。
ストーリーを進めるにあたり、言葉で説明し過ぎるのがこの映画の欠点だけど、前述した理由からストーリーの展開上、あまり大事ではない演者の振る舞いやセリフこそ、見るべき。市川実日子のあまり感情を見せないが、ないわけではない理系女子のもっさり感。高橋一生の一流大学院-研究機関と等質な環境で馬齢を重ねた人間特有のいい歳をしたおとこの学生気分の抜けなさ加減。ピエール瀧の、市川とはまた違った感情を表に出さない鈍重な顔をはじめ、自衛官役おしなべての顔の良さ。アメリカからの通告を聞くシーンで、撚れて「かっこ悪い」竹之内豊のかっこよさ、等。
映画として、大傑作かと言われると疑問だけど、自衛隊や官邸の組織について詳しく調べて、特撮映画としての「ゴジラ」に喰らいついてくるオタク、マニアが何を好むか、よく考えている。
あらゆる映画は、ジャンル映画であり、個々のジャンル映画は、固有の観客層を持つ。結局、大ヒット作もコアとなる観客層にターゲットを絞って、それを土台に観客を増やしていくほかないと思うのだが、テレビ・ドラマをそのまま映画館のスクリーンに映しただけで、そのドラマのファンが映画館に来た一時期のバブルのせいでそれが忘れられていたのではないか、と思った。ただ、そんななかても、固有の観客層に向きあう映画もあり成功事例もいくつかあった。今回はそのなかでも評判がひときわよかったものではないか。実際、小説やマンガの映画化の際、原作を念頭において見にくる客を当てこんでいるはずなのに、原作も読まずに撮っている監督もいるからね。それなら、はじめからオリジナルの脚本で創ればいいのにね。いったい誰が見るのかさえ考えずに、作っているとしか思えない映画が多いなかで、いい映画だと思うが、この規模での成功を納める後続する作品が出てくるのかな、とも思う。
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無料で見られるテレビですら視聴率を稼げないのに、身内でウケたちゃちなアイディアをもとにして金のとれる映画をつくろうとする無謀なテレビ屋。制作委員会に名をつらね、誰でも思いつきそうな注文を並べるだけで、金を抜こうとする広告代理店。うすい内容をさらに前後編に分けて薄めてしまおうとする映画会社。本編とはまるで関係のない歌詞のサビを大音量で歌いあげる予告編。練りこみが足りず、登場人物が性格破たん者にしかみえないばかりでなく、物語自体も前半と終わりで話のつじつまがあわない脚本。そこそこ良質な映画でも、評判の立ち方が気に食わないとワースト映画に挙げたがるポーズだけの評論家。
矢口蘭堂の目のまえに、がれきの山が拡がっていた。遠い昔であるが、ハリウッドに次ぐ映画大国であったこの国が、いまでは見る影もなかった。
http://anond.hatelabo.jp/20160517114849
トラバ元を書いた方がよく見知っていた分野は、ニコニコの構造上廃れやすい分野だと思う。
一方で生き残る分野はどんなところか。それを書いてみたい。
生き残ると思しい分野に含まれる要素を先に述べておくと、「解説・説明・突っ込みを加えられる」と言うことに尽きる。
私は2006年が大学二年生で、暇だったわけだ。クラスが同じMという男からニコニコ動画の話を聴いてサイトを使い始めた。
http://nicovideo.g.hatena.ne.jp/myrmecoleon/20080527/1211907817
に詳しいような、「おっくせんまん」の成立過程もリアルタイムだったし、住宅街の人が初めて歌ったこともリアルタイムで見ていた。
その後東方の隆盛や音MAD、パンツレスリング、淫夢、歌ってみた踊ってみた、ゲーム実況やらなにやらがこの10年で興っては消えて行った。
10年見ていて思うことは、冒頭で書いた通り、「解説・説明・突っ込み」を入れられる動画が強いということだ。
例えば、先ほどの「おっくせんまん」は動画に歌詞を加えたことで大きなムーブメントになって行った。こうした部分がニコニコの固有性だ。
一方、そういうのが基礎になり生まれた「歌ってみた」は、あまり「解説・説明・突っ込み」を必要としない。動画を見て楽しむことがメインのコンテンツだ。
先に投稿した方が、もう誰もやってないと嘆いたのはこうした分野だからだろう。
ゲーム実況だと、初めは実況者の音声のみで、とにかくゲームをしていく、という内容が多かったように思う。
そのうち、ルールが細かいゲームや、難易度が高いゲームに「解説」しながら実況する人が多くなっていた。
ソウルシリーズやオブリビオンなんかがそう。この時期で覚えているのは「テクテク」さんの動画だ。
また、TAS・RTAなど速さや面白さを競うゲーム実況も生まれた。
こちらはマリオやFFドラクエなど比較的皆が知ってる、プレイしたことのあるゲームが好まれた。「魔界塔士」さんの一連の仕事が著名だろう。
どちらであっても、動画内で状況を「解説」する。そしてコメントでは、驚嘆を示すコメント・指摘や修正を加えようとするコメントが出てくる。これで動画が盛り上がる。
ゲーム実況では実況そのものが面白い人ももちろん多かった。しかしそれだけではニコニコ動画の固有性が発揮されなかったのではないか。
「解説」を投稿者もコメントを書き込む者も可能な点こそが、ニコニコの妙味なわけだ。そうした構造を持つジャンルは生き残っていく。
もう少しゲーム実況の話を続ける。RTA動画を多く投稿している「biim」兄貴と呼ばれる人が創始した「biimシステム」というゲーム実況のスタイルについて。
私はこのシステムこそがニコニコ動画におけるゲーム実況の成熟であると思う。
「biimシステム」は、ゲームプレイ動画本体を左上に据え、右に解説窓二つ、下部に解説窓一つの構造を持つゲーム解説スタイルだ。
下部の窓には、ゆっくり実況の音声が台詞として字幕表示される。右の解説窓ではクエストの確認や、敵やアイテムのステータス、チャートなどが示される。
このように「biimシステム」は、ゲーム実況を「解説」するに特化したもので、多くの追従者を生んだ。
こうした点を見ても、ゲーム解説実況は、分野として生き残っていきやすいと感じる。
次いで生き残りやすいと思う分野は、専門分野を解説する動画だ。たとえばナショジオとか。本当はアップしたら駄目なんだろうけど。
ニコニコ動画では、かなり以前から「メーデー!」という航空機事故を紹介・解説したナショジオのシリーズがアップされ続けている。
ここに、どこからともなくやたら航空機に詳しい奴が現れ、緑色でやたら細かい解説を加えて行く。
また、「メーデー民」と呼ばれる人々は、以前の動画で出てきた事故と、今回の事故とを比較しコメントする。初心者はさらに興味が広まる。
それと、軍事映画・戦争映画は盛り上がる。いやが王にも盛り上がる。兵器解説シリーズもそうだ。
軍事オタクが描写の正確性を論議し、また右寄り左寄りの意見で荒れることが頻繁だ。しかし活気がある。
あとは海外の翻訳系も強い。「AVGN」という古いクソゲー好きのアメリカ人がクソゲーに切れる動画がニコニコに輸入されていて、
英語に詳しい者もそうだし、古いクソゲーに詳しい者、日本とアメリカのゲーム事情に詳しい者が説明を相互にしている。
こうした専門分野系の動画は「解説・突っ込み」に馴染みやすい。生き残る。
あと地味にスポーツの放送が良い。野球とか相撲とか。夜中に再放送とかもしていて、疲れて帰ってきたら、西武対楽天とかがやっている。
ここでは多分俺と同じようなアラサーの人たちがのんびり書きこんでいる。
楽天って左打者が誰が誰だかファンでないと解りにくいのだが、動画でちょっとその選手について質問するとすぐ詳しい人が教えてくれる。
10年見ていて思うことは、こうした動画による双方向的な解説・やり取りこそが、ニコニコ動画が獲得した固有性だということだ。
野球、サッカー、テニス等のスポーツ漫画で、地方予選突破までは凄く面白いのに、いざ全国大会となるとだれてしまうパターンが非常に多い。
まず、地方予選の決勝が、全国大会優勝候補のライバルである場合が多い。そうなると、この地方予選決勝で、対強豪ネタを消費してしまう。
全国大会に出場すると、今度はそれまで殆ど描かれてこなかった強豪との連戦が始まる。しかし、地方予選の決勝で相手の強さを描いていればいるほど、全国大会の固有性がなくなる。趣向を変えてイロモノを出してもよいが、強豪との対決を描いた後では、蛇足感が出てしまう。
他にもパターンあったら教えてください!
(以下ネタバレ?注意)
あおい坂高校の場合、対戦相手の特徴を変えるのはもちろん、部員の成長を描くことでマンネリを防止した。
うまくいくかは、ともかくこのパターンにしようとする漫画が多い。
2.省略(タッチ)
3.2回戦敗退(スラムダンク)
次の試合で嘘のように負ける…。このタイプはスラムダンクの他には、あまりないかも。
地方予選決勝の相手が強すぎるとこうなる。仕方ない。
私は異性の足が好きで、触りたいとかキスしたいとか思っている。
どうしたら異性に対してそういうことができるだろうか? 高校時代から考えるようになった。
一流とは言わないかもしれないが、立派な企業に入社した。収入もそれなりだし余暇もある。
服装も気にするし、異性と話す際の話題や機転も気にする。
いろんなところにデートに行くために、各地域の歴史や自然・産業を勉強する。美術館や博物館に行く。(映画は個人的に好きではないのでいかない。)
当然異性には優しくする。
こういうふうにしていると、言い方は悪いが常に異性と付き合っていられた。
もちろん異性にだけそうすると綻びが出る。見ている人はそれを見ている。
だから同性(ここでは男性)同僚や同期、また同学年生まれとは良く遊びに行く。釣りとか。
上司の話をよく聴き(もちろんいけすかない者もあるが、そんなことは瑣末なことだ)、後輩の話を汲む。難しいんだけど。
仕事も遊びもしっかりやる。
交際する女性は、またもや言い方は悪いがもちろん厳選する。
足が奇麗なのはもちろん(ストッキングで座敷とかに上がった時にちょっとチェックする)だが、しっかりしていて自分の固有性をもって仕事に臨んでいる人が好きだ。
(顔のタイプはマイクロコズムというバンドのドラムスの子みたいなのがタイプです)
すべては足にキスしたり触ったりするためだ。
だが実際的にそれが実現する時間は極めて短い。
恥ずかしいのでなかなか足にアタックできないのだ。付き合ってセックスしてても。触るのは結構いけるんだけどキスするのは流れの中でごまかしごまかしだ。
それでも個人的には嬉しいので充分なんだが。
ディズニー映画自体の読み解きはおいておくとして、日本のブログ界隈で「ありのまま」は、確かに「『女性』であると言うだけで固有性の発露が抑圧されてきた『女性』」への呼びかけと読まれて、それゆえに話題となったのは事実と思う。
で、一方の『男性』において、「固有性の発露に対する抑圧」は、「性」のレベルでは存在しなかったので、もっと内面的な何かに対するメッセージと受けとられた、という話の流れなんだと思うんだけど。
その結果、
「女性として期待される社会的役割から自由である私」とは、男性社会への女性の進出、という意味合いになるけど
「男性として期待される社会的役割から自由である私」とは、女性の専門分野とされた社会への男性の進出……とはならず、よりパーソナルな、つくられた『男らしさ』からの逃走(非モテ、ヲタ、草食系、ヒッキー…)となっちゃうんだ、ということだと思うけど。どうかな。
http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20140808/1407525621
よくわかんないんだけどさ。『ありのまま』って『人それぞれの固有性』を発露することでしょ?
だから『女性』であると言うだけで固有性の発露が抑圧されてきた『女性』に対して『ありのまま』がメッセージとして認識されたんじゃないの?
なのになんで対象が『男性』になっただけで『ありのまま』=『男性としてのアイデンティティを守る』っていう定義になっちゃうの?
男性の『ありのまま』が気持ち悪いっていうのはそういう意味でしょ?
男性に産まれただけでそんな風に思われなくちゃいけないの?
ほんと、よくわからない
うちの会社にいるオジサン連中、あれは男だと思っていたが、女だったのか。
面倒くさい稟議に根回し、会議でのかみつき、飲み会での自分語り、要するに「共感」を求めてるんだよね。
てなことを言うと、
「これは一般的な傾向を言っているので、何にだって例外はある」
とか言うくせに、言いたいことは、男とか女とかに属する「個」への対処法とかミクロな経験の話。
特定の属性集団全体の、平均的な特性の違いを扱っている話と、それそれが固有性や特異性を持つ個の話とを混同している。
意図的なのか意図的でないのか知らないけれど、こうした混同って、差別の源泉だよね。
「ネコはユリ科の植物で中毒を起こす」というレベルの話と同じ感覚で「女は地図を読めない」みたいな話をしてる誤りというのもあるね。
『女性が32歳になったら見直すこと』
http://yukixxxxx.hatenablog.com/entry/2013/12/17/205707
彼女が「32歳になった」女性を「見直す」ときに使用する判断基準とは、自分の目で自らを省みるときに確立されたものだ。
それは「32歳になった」女性が「見直」せば確かに見つかるようなある客観的な指標ではなく、
彼女の身体と、身体を鏡で眺めた視線の調和というごく個人的な事情に由来している。
32歳でそれができないのはまずい
これらの独語はすべて「ただ私一人の振り返り」以上のものではない。ここにあるのはまなざしが自己自身へと向けられるときに
覚える、単純な苦々しさの感情だけだ。しかし彼女は、「私が見直」す自分自身の服装・振る舞いへの視線を、
同年代の他者にもまた瞬時に振り向ける。まなざしが自分ではなく他者へと向かうとき、自身が裁かれた裁きによって彼女は
その他者を裁く(「きつい」「痛い」「変」)。
ところで、そこには同時に、酷評された他者の身に置き換えられた自分を眺めわたす視線も同居している。
他者に向けていた視線は、再び自分自身へ戻し返されている。ここでは、他者を裁く裁きによって彼女自身が裁かれている。
このとき、振り返られた「私」への視線・評価とは、当初の、鏡で見たときの自身への視線と同一ではある。けれど、
「私」はすでに鏡で「私」を見るのではない。まなざしの対象であった他者の身に置いたとき、「私」は「私」の目に見られる者と
なってしまった。外からの目にさらされ、だから彼女は「恥ずかし」いと想像したのである。この仮想の経験をきっかけとして、
「まずい」という彼女の苦々しい感情は、標語的な自戒の確認へと変わっている。
改めて気をつけたいと思います。
こうして見ると、文章を通して彼女のまなざし=評価基準は一貫していながら、目とまなざしの関係はころころと変転していることが分かる。
第一に、ひとり鏡を見るときのような「振り返り」のときもあるし、第二に、品評するかのように視線を他者に振り向けるときもある。
かと思えば、第三に、身体は他者の身に置きながら、目はそのまま固定され、「私」となった他者を凝視している。そしてけっきょく
各項目の最後では、まなざしの対象となる身体は「私」に舞い戻り、反省的に鏡を眺める目との関係を回復する。
しかし、これらの順序は実際はほとんどでたらめで、ひとつの文の中でもごったまぜに入り交じっている。
彼女は、もう自分自身の身体の固有性を強く信じることができるほど自分が美しくないことを知ってしまったのだ。
「もう20代が終わってちょっと時間が経ち、大学生でもなくなったあたりから10年」経ったそこらの女性と、自分の容姿はもはや見分けがつかない。
少なくとも、周りの視線は「私」の身体を特別扱いしてはくれなくなった。こうして、自分と他者の身体が置き換わっても何もおかしくないことに
気づいたときから、彼女の身体に他者の身体が闖入するようになった。だから、鏡を見ているかと思いきや、鏡の向こうには批評されるべき
他者がたたずんでおり、その他者の身体は間をおかず彼女自身の身体に変貌してしまう。
「私」の身体を鏡で眺めるとき、「私」はそこに同居している、美しいとはとても言いがたい他者の身体を苦々しく思う(第一)。そこで彼女は侵入してきた他者の身体を
切り離すために、実在する他者に転嫁しようとする(第二)。そうすることで安心して自分自身の身体の奪還を演出することができるからだ。
しかし今度は逆に、彼女は他者に汚らしい自分自身の身体を見出す羽目に陥るので(第三)、彼女は慌てて鏡の前へと退却してしまう。そうして、
混じりけのない自分の身体とまなざしの純粋な関係を取り戻すことを願いつつ、鏡に向かって言い聞かせる。
改めて気をつけたいと思います。
そこに他者の身体が入り込む余地など最初からないということを示すために、この文章は「ただ私一人の振り返り」でなければならなかった。
「他人を侮辱」してしまえば、酷評される他者の身体が自分と同居していることを認めることになるだろう。しかし一方で、
自身のまなざしに由来する自省は、他者に向けたまなざし、およびその断罪とは切っても切り離せない。というのも、
彼女の身体に他者の身体があまりに重なりあってしまったために、それを脱ぎ去ることはできないからだ。
したがって、「32歳になった」他者に対して「改めて見直すといいのではと思う」ことと、「私が見直した」ことは根源的に区別できないし、区別すべきでもないことになる。
そしてまた、「べき論」であってはいけないが、「私」を裁くことは同時に「32歳になった」「私」と他者をまとめて裁くことになる。
「自分のこと」というタグにも関わらず、タイトルが「32歳になった」女性に向けられているのも、身体の特権性を回復させようとする意図的な錯誤である。
こうして、彼女は耐えがたい矛盾を抱え込みながら、またもや鏡の前へ遁走することになる。自戒の身振りを通して、鏡の中の「私」の身体を証立てるために。
けれど、その身体はもう他人の身体と見分けがつかない。
自分は関西人なので、「オマンコ」というより「オメコ」と言われる方が性的にコーフンする。
昔の中学高校時代、同級生の野郎同士の猥談では、「オメコ」という言葉は1日に100回は登場したが、
こういうスラングは、マスコミの中では放送禁止用語とされ、口コミの中でしか登場しなかったから、
各地域のスラングが、「マスコミの影響を受けずに」、地域固有性を保って使われ続けたと思う。
しかし、今はインターネットという文明の利器が発達し、そこではマスコミが禁止していたスラングが
平然と使用される。
で、ネット界で使用される女性局部のスラングは、圧倒的に「オマンコ」だ。
自分の中高校時代の人口比で考えたら、スラングとして「オメコ」を使用する人口は、
しかし、今のネット界では、「オマンコ」が9割以上を占め、「オメコ」は1割未満の絶滅危惧種じゃないか、と思う。
つまり、「人口・経済・文化の東京一極集中」の一環として、「ネットスラングの標準語一極集中」が進んでいる。
こういう環境下で育っている今の関西の中高生は、日ごろの猥談で「オマンコ」を使うのか
「オメコ」を使うのか、気になる。
当時は口コミしかなかったから、先輩から受け継いだ「オメコ」というスラングが大切に使用され続けたが、
しかも、中高生にはありがたいことに、無修正画像のおまけ付きだ。
即刻今晩のオカズに利用できる。
性風俗を研究している人がいれば、ぜひ「今の関西中高校生が、オメコというスラングを使っているかどうか」、
相当程度、「オマンコによる全国統一」が進行している気がする。