はてなキーワード: 冗談とは
いちからなら夢追みたいに守れた、と言う人がいるけど、夢追にしても渋谷ハジメにしても、本気で叩くには脆すぎる棒で鳩尾を何回か叩いた程度でございますし、それで崩れ落ちたところをなんとか立って「俺にちゃんとVTuberさせてください」と言ってるからみんな暖かく見守ってくれてるわけで。
魔乃の件、特に情報漏洩の件って五月にホロのマネかなんかと相談の上テスト配信したやつが残ってた、っていう奴なのね。
それで二週間休止してたのか、
なるほどなるほど、中の人の配信でボロボロ「恋愛禁止だけど、Vに理解のある人か自社の男性アイドルの人達となら恋愛していい」みたいなのを暴露したり、他社のVの中の人だった人の友達だと言い出したのは換算されてなかったんだな
というかまぁ、そんな配信してる時点で向いてないもんね
曲がりなりにも企業所属だし、名前を出された他企業はまだ仲良いからギリギリ企業から許してもらえるだろうけど、その他企業を抜けてから別の企業に所属して今もまだ歌を歌ってるんだから、その別の企業にも迷惑になるでしょって。
そらまぁ、こんな問題児扱うどころか、アイドルとして置くとか冗談もVTuberの中の人の顔だけにしろって感じだよな。
引退とか、誹謗中傷で精神が、実家に電話が、とか並べてクビになるのも頷けますわ。
Vのファンは優しいからそういう濡れ衣着せられても推しだけ無事ならそれでいいし、元々犯罪者みてぇな面構えだもんな。
推しの墓を不必要に荒らされてもキレるし。今回みたいなことされたら寝た子を起こすなって気持ちにもなるわ。
でもまぁそれはそれとして実家に電話はダメよ、平成初期の小学生じゃねえんだ、アロエくん居ますか?じゃないんだよ
正直、かわいいだとか、このキャラの見た目が好き、だとかはみんなそんなもん当たり前な訳で
どう魅せるかをみんな期待してるのに、こんなことしちゃうし、そのアドバイスすらも鼻で笑うんだもの
やっぱそういうのわかんないならアイドルだとかはやんないほうがいいよ。
にじさんじも最初はアイドルにならないか?で募集かけてたけど今はもうなんでもありでたまにライブやってその様子がアイドルなだけだもんな。
まぁそれでもクビになった真堂雷斗がよくわからん。それでもまぁ、スタッフらにちゃんとした色々を言ってなかったからかもしらんな。
でもクビになった。
あのにじさんじでもクビはあった。
だからアイドルで売るホロライブなんだからクビだってあるだろう。
それでも、アイドルだから休止だったり契約解除だったりするんだろう。
悪いのは中の人だもんな。
とにかく事実なのは、彼女は引退して、九月からほろふぁいぶことホロライブ5期生は四人となり、波乱のスタートを迎えた、ということ。
ここで一旦お開きで、その先を作るのは彼女ら、そのファン達ということ
んでやっぱり俺が思うに、あの娘はアイドルも企業所属も企業から案件もらうも向いてないと思う。
それでもまだなお表に出てアイドルやりたい案件もらって金もらいたいってんなら誰かに指導してもらった方がいい。
別に恋愛したり結婚したり子供産んだりしてるアイドルもいるだろうけど、それでもそこにはちゃんとした技術や礼儀や配慮や表現力があるんだし
それがわかんないなら、ふわふわしたものに憧れずに性格に合った仕事してる方がいい
あの手の人って、要するに、実際子供を持ってる人間にとって小児性愛犯罪者がどれだけ恐怖の存在かってことに無神経なんだよね。親は、細心の注意で小児性愛犯罪者から子供を守らなければならない。自分の子供の人生を潰すかもしれない、しかも、犯罪が発覚しない可能性が高く、必要な事後対処すらできないこともある。本当にクソみたいな冗談だよ。感情でものを言えば、この一言でもっておれはこいつに死んで欲しいと思ってるよ。
まぁぶっちゃけ、ほんとに思ってる人はそんなこと言えないよね。笑
小さい頃からぼうっとした子供で、本に顔を突っ込んで育った。自分にも他人にもいまいち興味が持てなくて、夢なんかも特になかった。
社会に出てすぐに詰んだ。同期が成長していく中、失敗ばかりで別の部署に回され、どうしていいか分からなかった。
始めは「炉心融解」を聴いて、ソフトが歌うことに感動して色々漁るも、そのレベルの調声はなかなかなく。ただ、アマチュアの人が作る曲が自由で面白かったから、最初は「歌ってみた」ばかり聴いていた。
そのうち、ソフトの声に慣れてきて、色々な曲を聴くようになった。
泣ける曲、かわいい曲、格好良い曲。トランスに民族調、テクノポップにメタル。いままで聴いたこともなく興味もなかった曲が、「初音ミク」を通して自分に入ってきた。
歌詞も面白かった。今まで聴いてきたような恋愛や人生応援歌もあったし、下ネタ、独り言のような歌詞、社会派、物語系。
「般若心経ポップ」「P名言ってみろ」「吹っ切れた」などの派生ブームも面白かったし、「踊ってみた」「弾いてみた」やMMD。いくらでも見る動画がある。
電車に乗っていて、「もしかしたらこの人が、自分の好きなボカロPかもしれない」なんて思った。絵師かもしれないし、ニコニコ技術部をやっているかもしれない。
基本的に何をやってもいい、カオスな空間。誰でも何か得意なことがあって、ネットに何かを上げれば、好きになってくれる人が必ずいる。
そんな風に思ったら、世の中が本当に変わって見えた。
ネタでつけるタグやコメント、広告。ユーザーが遊べるところも多い。検索くらいしかネットに触れてこなかった自分が、ランキングにかじりついては毎晩、睡眠時間を削ってワクワクしていた。
初音ミク発売当時は、カラオケ化やTVでの取り上げられ方で揉めたこと。発売元の会社が、創作可能なルールを作り、作る人を守るために戦ってきたこと。そんな事情を知ったのはもっと後のことだ。
「Tell Your World」がTVで流れ、「ODDS&ENDS」が発表された年が、ある意味ボカロのピークだったかもしれない。
赤レンガ倉庫で平日に開催されるライブに、有休をとって行った。自分でチケットを取るのも、人を誘うのも初めてだった。
初めて、生でボカロP(さつきさん)を見た。ウォータースクリーンだったけど、ミクが歌って踊るのを見た。チラシの裏いっぱいに感想を書き殴り、帰りは電車を二度間違えた。
八景島のイベント。ファミマコラボ。Divafのために初めて、ゲーム機というものを買った。
「NyanCat」がネットミームになったりする一方、「カゲロウデイズ」の人気が予想外の状態を生んだ。
いままで挨拶や冗談が書かれていた、曲の投稿者欄に、歌い手版との同時UPや、メジャーアルバムの発売が告知されるようになった。
勢いのあるP側とはうらはらに、コメントの民度がみるみる下がった。カゲロウプロジェクトやKEMU VOXXの人気もあり、低年齢の視聴者が、どっと流れ込んできたのだと思う。
商業化への意見、ボカロ厨やカゲプロ厨への嘲笑は、ネットを沸かせる一方。
ジャンルの外側からも内側からも衝撃を受けたけれど、一番許せないのは自分だった。
ずっと、「作る人」を尊敬して愛してきたつもりでいた。でも結局、「ボカロを使わないその人」を、心から応援するのがすこし、寂しい。
それから何年も経って。
kemu氏が「拝啓ドッペルゲンガー」で衝撃的に正体を明かしたり、ハチとして戻ってきた米津さんに、ジャンルを「砂の惑星」と呼ばれたり。
色々なことがあったけれど、今もまだ、ボカロを聴いている。ヨルシカの曲も好きだ。
クリプトン公式がコラボしている曲。「ヒバナ」や「DECORATOR」を聴いて思うのは、そろそろ潮時なんじゃないかということだ。
今までの自分は、ボカロを盛り上げるために何もしてこなかったな、と思った。
自分にできることをやろう。今まで考えてきたこと、あったこと。小説にして残したいな、と思っている。
曲も作りたい。努力はしなきゃいけないけど、基本的には誰かが聴いて、1人でも気に入ってくれたらそれでいい。
ミクさん。
小さい頃からぼうっとした子供で、本に顔を突っ込んで育った。自分にも他人にもいまいち興味が持てなくて、夢なんかも特になかった。
社会に出てすぐに詰んだ。同期が成長していく中、失敗ばかりで別の部署に回され、どうしていいか分からなかった。
始めは「炉心融解」を聴いて、ソフトが歌うことに感動して色々漁るも、そのレベルの調声はなかなかなく。ただ、アマチュアの人が作る曲が自由で面白かったから、最初は「歌ってみた」ばかり聴いていた。
そのうち、ソフトの声に慣れてきて、色々な曲を聴くようになった。
泣ける曲、かわいい曲、格好良い曲。トランスに民族調、テクノポップにメタル。いままで聴いたこともなく興味もなかった曲が、「初音ミク」を通して自分に入ってきた。
歌詞も面白かった。今まで聴いてきたような恋愛や人生応援歌もあったし、下ネタ、独り言のような歌詞、社会派、物語系。
「般若心経ポップ」「P名言ってみろ」「吹っ切れた」などの派生ブームも面白かったし、「踊ってみた」「弾いてみた」やMMD。いくらでも見る動画がある。
電車に乗っていて、「もしかしたらこの人が、自分の好きなボカロPかもしれない」なんて思った。絵師かもしれないし、ニコニコ技術部をやっているかもしれない。
基本的に何をやってもいい、カオスな空間。誰でも何か得意なことがあって、ネットに何かを上げれば、好きになってくれる人が必ずいる。
そんな風に思ったら、世の中が本当に変わって見えた。
ネタでつけるタグやコメント、広告。ユーザーが遊べるところも多い。検索くらいしかネットに触れてこなかった自分が、ランキングにかじりついては毎晩、睡眠時間を削ってワクワクしていた。
初音ミク発売当時は、カラオケ化やTVでの取り上げられ方で揉めたこと。発売元の会社が、創作可能なルールを作り、作る人を守るために戦ってきたこと。そんな事情を知ったのはもっと後のことだ。
「Tell Your World」がTVで流れ、「ODDS&ENDS」が発表された年が、ある意味ボカロのピークだったかもしれない。
赤レンガ倉庫で平日に開催されるライブに、有休をとって行った。自分でチケットを取るのも、人を誘うのも初めてだった。
初めて、生でボカロP(さつきさん)を見た。ウォータースクリーンだったけど、ミクが歌って踊るのを見た。チラシの裏いっぱいに感想を書き殴り、帰りは電車を二度間違えた。
八景島のイベント。ファミマコラボ。Divafのために初めて、ゲーム機というものを買った。
「NyanCat」がネットミームになったりする一方、「カゲロウデイズ」の人気が予想外の状態を生んだ。
いままで挨拶や冗談が書かれていた、曲の投稿者欄に、歌い手版との同時UPや、メジャーアルバムの発売が告知されるようになった。
勢いのあるP側とはうらはらに、コメントの民度がみるみる下がった。カゲロウプロジェクトやKEMU VOXXの人気もあり、低年齢の視聴者が、どっと流れ込んできたのだと思う。
商業化への意見、ボカロ厨やカゲプロ厨への嘲笑は、ネットを沸かせる一方。
ジャンルの外側からも内側からも衝撃を受けたけれど、一番許せないのは自分だった。
ずっと、「作る人」を尊敬して愛してきたつもりでいた。
でも結局、「ボカロを使わないその人」を、心から応援するのが難しい。正直、寂しい。
それから何年も経って。
kemu氏が「拝啓ドッペルゲンガー」で衝撃的に正体を明かしたり、ハチとして戻ってきた米津さんに、ジャンルを「砂の惑星」と呼ばれたり。
色々なことがあったけれど、今もまだ、ボカロを聴いている。ヨルシカの曲も好きだ。
クリプトン公式がコラボしている曲。「ヒバナ」や「DECORATOR」を聴いて思うのは、そろそろ潮時なんじゃないかということだ。
今までの自分は、ボカロを盛り上げるために何もしてこなかったな、と思った。
自分にできることをやろう。今まで考えてきたこと、あったこと。小説にして残したいな、と思っている。
曲も作りたい。努力はしなきゃいけないけど、基本的には誰かが聴いて、1人でも気に入ってくれたらそれでいい。
ミクさん。
※俺たちが、発達障害をネタにできるのは、本人が本当に発達障害ではないとおもっていて
人事部が、人事考査に必要な資料により、個人の障害を知って、かつそれを、懺悔と称して、その実は一般の掲示板に広くばらまくというネタはわらえない。
というか、どっちがというのはわかるが、そこはマナー。
百歩譲ってその場のみんながガチでその反応なら、友達付き合いを改める良い機会でしかない。冗談ぽい反応ならもう一回くらいは冗談を返すのが良い。
実際のところは、とりわけ既婚の女性てのは母心が出てくるので、自分の友人であぶれてる男がいるとわかると相性の良さそうな相手を紹介してくれたりする。男友達なら合コンに誘ってくれたりとか。
容姿について言及しちゃいけんの分かってるんだけどつい言いたくなっちゃうマインドでぐぬぬ…ってなってしまうのわかってくれる方おる…?
自分が「関係ないじゃん言われたくねえ」側じゃないので(元々え〜〜〜良いことはほめよ〜〜〜派)うっかり失言になるよね価値観アップデート難し。
https://mobile.twitter.com/seruko/status/1298480577952092160
上司から「安倍が辞めたね。麻生はあの曲がった口が嫌いだから次期首相になったらむかつく」と言われて、上記呟きを思い出した。
麻生太郎は自分も好きじゃないけれど、政策ではなく容姿で叩くのは違うと思う。しかも顔面神経麻痺という病気であの見た目なのであり、有名人で仮に冗談であったとしても中傷していい訳ではない。
元の呟きと裏返しの内容について述べたが、例え「褒め言葉」であっても、身長高いのがコンプレックスな人に「スラッとしてますね」だったり、標準体型になりたいのに太れない体質の人に「細くて羨ましい」等の地雷を踏む恐れはある。
「そこまで考えていたら人と雑談できないよ」という人にこそ気をつけてほしい。ぱっと目についた容姿を褒めたい(貶したい)のは「褒める(貶す)ことで、いま感じた気持ちを共有してすっきりしたい」という衝動をコントロールできない状態だということを。もしかしたら相手にとってセンシティブな内容なのかもしれないことを。
そういう意味で、褒めでも中傷でも、反射的に他者の容貌に言及するのは自分の予期せぬところで他者の不快感を生みうるリスクの高い行為であり、気心の知れた仲でもない限りやらない方がいい。
以上、色素薄めで初対面でも「ハーフなの?」と言われ続け、その度に(両親日本人だけど出自についていちいちつっこまれるの面倒だし、仮に複雑な生まれだったらどうするんだよ即お通夜ムードだよ)と思っている女より。
コロナで人生が変わってしまった人は多いと思う。私も仕事の雰囲気が変わり始めている。
私は運がいいことに、やりたいこと興味のあることを比較的できる研究者を某旧帝大でやれる機会に恵まれている。専門は化学。だが、それも音をたてて変わり始めている。
もともと将来の仕事を何にしようと明確に描いたことはなかった。幼少期に育った地域は比較的英才教育とは程遠い地域であり、貧困家庭も多かった。友人の家に行くと昼間からおじさんがゲームをしていたり、パチンコや酒に明け暮れている、そんな地域である。小学校でありながらも学級崩壊に近いことが起きており、義務教育の内容をきっちりと終えることができなかったと記憶している。そんな状況を深く考えることはなく、私は周りの事象に対して疑問を持ち、調べるのが好きだった。なぜ水は雨として降ってきて、山を流れて、コンクリートの隙間から流れていくか。そんなことが気づいたときには不思議だったと思う。幸いにして先生にも恵まれた。疑問をもち、それを自分のペースで解決するのが好きであり、校庭のはじっこで疑問点などを書き出していたときに理科の若い先生が理科室に誘ってくれた。そこには違う世界があり、好きなだけ実験していいと言われてのめり込んだ。ガスバーナーをつけてよくわからない化合物を熱して色が変わる、気体がでる。一つ一つが楽しくてしょうがなかった。だが先生がある日突然学校に来なくなってしまい、程なくして全校集会が開かれた。持病の喘息でなくなったらしい。どうしたらいいのかよくわからないくらい、悲しかった。狭い実験室の僅かな道具から世界の広さをあれ程教えてくれた先生がこの世からいなくなってしまったのが悲しかった。学問は世界を広げてくれるというのを肌で教えてもらえたと実感している。
当時はショックだったが、中学校から親の転職の関係で引っ越し、比較的普通の地域に引っ越してしまった。小学校のときにはサワガニを追ったり、カエルを捕まえて、ビーダマンからでてくるビー玉の平均距離などをひたすら数える子供であったが、引っ越した地域では勉強熱心な地域であり、誰も放課後には遊んでいる子供はいなかった。塾に行くとのはなしだったが、恥ずかしながら塾という単語を知らなかった。動物を捕まえた数よりも試験の点数を重視する地域であり、ひどく狼狽したのを覚えている。小学校での経験があってか理科と数学が楽しくて仕方がなかったが、何故か閉塞感があった。あくまで中学高校でのお勉強というのは与えられた範囲でやる学びであり、そこに自由度は少なかった。結果的に勉強はできたのでとにかく自由を求めていた。高校には入ったが、倫理の先生と哲学の議論ばかりしていた。こう考えると私は先生に恵まれているのだが、先生に学びの自由を求められる場所はと聞いたときに日本には殆どないと言われてしまった。あ、そういえばといって、それがきっかけとなり京都にある大学に行くことになった。
大学は自由であった。毎年謎に作られる像やコスプレ卒業式で有名な大学であるが、学生の多様性がまったくもって違っていた。そこでも縛られるのが苦手な私は大学で授業に行けなかった。ただ、大学の図書館にはホコリを被っていながらもたまらなく刺激的な書籍が非常に多くあり、図書館に毎日通った。楽しくて楽しくて仕方がなかった。たぶんそれは小学生の時に一人で課題を設定して、問題解決をする。そういうプロセスであっただろう。数式、活字が踊っているようにすら感じた。一般教養の授業でもムラ社会を議論する授業や、紙飛行機を飛ばす授業など色々あり、不思議な授業であったと思う。ただ相変わらず大学の専門の授業は指定の教科書から逸脱していなく、面白くなかった。ある意味授業に関しては圧倒的に劣等生であったが、たまたま行った授業のときに言われた印象的な言葉がある。「結婚は何回でもできるが、研究室選びは一度しかできない。」人生のパートナーは何度でも選べるが、人生の専門となる研究室は一度しか選べないとのことだった。へそ曲がりな私は研究室で変わったことがやりたいと思い、研究室を巡ったが、どれもこれも古臭いホコリを被った図書館で聞いたことがあるような内容だった。日本の最高学府が学問として理解できてしまうということが非常に悲しかった。ただ、たまたま非常に尖った研究室があり、そこで私を拾ってもらえた。やはり私は先生に恵まれていた。研究室は今思えば世界的に有名で先駆的な研究室であり、そこで自由に研究を行う機会に恵まれた。朝から晩まで先輩後輩教員とディスカッションしながら、自由自在に研究をすることができる。研究費も潤沢であり、装置も多くあるために闇実験で自分の考えるすべての実験ができてしまった。卒論のテーマも自分でかってにテーマ設定をして卒論発表までさせてもらえた。今思えばあんなことに、というテーマであったが、当時は楽しくて仕方がなかった。卒論が終わった当日、テーマの変更を推奨された。初めて方向性を提示されたが、一言であった。ここには恩師の力があったと思う。結果的に与えられたテーマとは関係なく、M1で勝手に実験をして修士で論文を3本書いた。楽しくて仕方がなく、博士課程に進学した。博士では論文を12本書いた。ちょっとした自慢である。
博士の資格は名刺の角に書くことができる運転免許のようなものであるというのはよく言ったもので、単なる認定試験である。友人が大学のポジションの公募に出す中、私は自分の学問を切り開くのだと思い、博士研究員をすることに決めた。なんとなく海外は日本より風通しが良いだろうと思い、日本の研究費から支援をうけて、海外に2年間いけることになり、それまでに一切したことがない分野に飛び込んだ。将来学問を切り開くためには甘んじて先達のいる学問をすすめるよりも、開拓者であるべきという精神である。ただ現実は厳しかった。言った先の研究室では私は初めての外国人であり、装置の使い方、実験の仕方、単語すらわかっていなかった。学部生に単語の意味から教えてもらいながら、教科書を端から端まで読んで、理解した。論文は2年間で3000報くらい読んだ。めちゃくちゃ勉強し、1日の睡眠時間は3時間程度だった。結果的に分野での最高峰の論文誌に数報報告することができて、ライフワークが見つかったと思った。ただこの辺りから研究に対する見え方が変わってきたと思う。日本人会でいつも飲んだくれている友人がいた。大学では見たことがないが日本人の友人を探しているようだった。何が楽しくて研究をしに海外に来ているのかというふうに聞くと彼は出身研究室に戻るので1年間遊びに来ていると話していた。悪い冗談かと思っていたが、実際に彼は日本の出身研究室で職を得て戻っていった。不思議なものである。
当時の海外での受け入れ研究室の教員にぜひともこの国で残って研究をすすめるべきだと言われた。日本は講座制の影響もあり若い研究者が活躍しにくいということを聞きつけていてくれていたらしい。ただそのときに今まで私を支えてくれた恩師たちの姿が頭をよぎり、日本に恩返しをするべきではないかと思った。施されたら施し返すという精神である。日本に戻るためには公募の書類を出さないと行けないのだが、不思議と通らない。面接にすら呼ばれない。それまでに分析していなかった私が悪かったのだが、どうやら日本ではコネというのが幅を効かせているらしく、面接にすら呼ばれない。それとずっと付き合っていた婚約者との結婚もあり、フットワークの軽い私はならば日本に帰ろうと、日本に帰り、講演ツアーを行った。幸いにしてその一つが目に止まり、研究プロジェクトの一環で雇ってもらえた。そこでも好きに研究をしていいと言われ、論文を好きに書いた。楽しかった。研究だけしてたまに論文を書けばいいというのは至極楽しかった。ただ、学生と研究ができないのがとてつもなく寂しく、コネはなかったが、海外の訳のわからない研究室で研究をしているよりも経験をつんで日本で研究している私は魅力的に見えたのか、公募に通った。めぐり合わせというのは不思議なものである。
こうしてやっとただの研究者から大学教員になることができた。恒久的に研究ができるというのは非常に幸せであり、研究以外も楽しんだ。毎週の授業というのはライブである。そのへんのストリートミュージシャンよりも自分の一つ一つの発言を学生に聞いてもらえることができ、研究に対するスタンスなど伝えることもできる。学問というのは積み重ねの学問である。積み重ねがあるから新しさがわかる。ひとつひとつ丁寧に教えていき、学問の楽しさを伝えたが、やたらと聞かれるのは単位がとれるかかどうかであった。研究室でも熱意をもって新しい実験の仕方や、研究分野の掘り下げのための論文読み込みを学生と一緒に行った。ただ、学生から文句が出てそんなに頑張りたくないとも言われてしまった。悲しい。私はそんなに魅力がないのだろうか。大学教員というのは研究以外の思った以上の雑用があり、それに追われていた。ただ、そのたびに今まで知的教育を享受してき立場からそれを授与できる立場にならねばと思い、一所懸命に振る舞った。その結果ここでの学問結果をなんとかして論文にすることができた。これからすべてが軌道に乗る、そう思っていた。
そんな先のコロナである。実験を専門としている私は当然大学に来なければ研究をすすめることができない。だが、緊急事態宣言のあおりをくらい、研究室での研究活動はオンライン中心になり、さらに愛妻は妊娠中であったために下手な行動はできない。研究が中心であった私の生活は転換を余儀なくされた。学生と最新の実験成果を共有できない、授業はオンラインとなりzoomの先では、全く授業を聞いていない学生がいるかも知れないという状況で苦しかった。価値観も変わらざるを得ない矢先に子供が生まれた。福音であった。
学問というのは先んじてその場で役に立つものではないが積み重ねだと思っている。子供も同じで、毎日毎日状況が日進月歩である。首を動かすことがしんどそうだった子供が、今では自分の力で首を動かし、光の導く先を必死に見ようとしている。大学で学びをしている学生で一時的にやる気を失っている子もかつては私の子供と同様日々ひとつひとつできていくということが楽しかったのだろう。相変わらず大学での研究活動は制限されている。以前ほどの自由は担保されておらず、どうしても何かしらを管理する必要がある。その一つ一つの行為が私には苦しい。ニュートンはスペイン風邪のタイミングで新たな学問をみつけた。私にはそれほど頑張ることはできるかわからないが、研究を行い、学生に希望や考え方を論理的に教えるというのが現在の職での義務であろう。間違いなく私の研究生産性は下がったが、価値を下げず上げることが義務であると思い、日々努力している。