はてなキーワード: マウンティングとは
良い文章なんて最初から求めてなくて自分がツッコミレスできるネタなら何でもいい。
文章として本当にいいものを書いたな、という手応えがあるときにいい反応は絶対にない。
マイナスかけるマイナスがわからない馬鹿にでもなったつもりで、趣旨も一貫しないような、主観をまき散らすだけの、「思う」連呼の小学生の作文みたいな稚拙な落書きを推敲一切無しで書き散らすと簡単につまらん説教がしたいアホが釣れる。
みんなただマウンティングがしたいだけなんだよね。
本当に興味があるとか感動したとかそういうものに対する反応を大きく取り上げるシステムになってないんだよ。
むしろ、誰にとってもクズでしかないものほど、クズを利用して相対的に自分を立派に見せたい承認欲求を吸い寄せる事で成立する仕組みになってる。
これはそもそもいいものを素直に褒める習慣のない日本人の性質の問題もあるのかも知れない、とは思う。
まあでもそれもたぶん程度問題だ。
自分は英語しか読めないが、英語話者の言論空間で繰り広げられる世界的なやりとりを眺めていても、多少の自制心は感じられるが、本当にしょうもないものほど無視出来ずに衆目が集まり、結果として逆にクズの存在感を高めてしまうだけという現象はそれなりに見られる。
日本の場合は、それをある意味で『薄める』効果を持った、「ほんの些細ないいものでもとにかく褒める」というカウンターの熱量が相対的に足りないだけだ。
他人に教えてあげたい新情報を盛り込み、読みやすさを考えてきちんと順を追って説明し、一読諒解でスッと頭に入って来るように文章を整えると、まあ、まず酔っぱらいの気まぐれくらいな無差別なクソレス以外は、トラバもブクマもつかない。
スッと読んでうむ、と納得して終われるように読者への配慮を怠らない事は、通常の作文技術で言えば必要不可欠の基礎技術に当たる。小学生の算数が覚束ない状態で高度な数学へ手を出そうとしても、計算間違いばかりで教科書を読み進めるのすら難しいのは誰にでも想像がつくことだ。
しかしこれがネットで発表するブログやSNSの記事となると、むしろそんなことをしない方が生存戦略としては正しいという現実になる。
読んですぐ、どころか読みながらすらすでに反論や混ぜっ返しを構想しつつ出しゃばる計画を企図し、吸った息を吐くようにそのままノータイムで書き込むなんてことは従来の文章の使い方としてなかったことだ。単なる口頭会話の置き換えのつもりで軽く見ている人もいるかも知れないが、文章には口から発する言葉と違って一息(一文章)で長々と演説が出来たり、本当のリアルタイムというにはタイムラグがあったり、それらに起因する割り込みや訂正の難しさがあったりして、現実としてこれらネット上の文字コミュニケーションは音声と文章、両方の悪いところだけを引き継いだような最悪のコミュニケーションツールになっている。
文章は、書き、読み、思い、反論でもそれを踏まえたまったく別の場所での言及や自説の開陳でも、それらステップの間にいくらでも考えを改めたり気づき直したりという猶予があるものだった。
だからこそ、文章術とはまずすんなりと理解させることに重点を置いていた。
スッと読んでうむと納得して、まとまった形で頭に残っているからこそ、検討も検証も出来る。わかりやすさとは頭に残り、こころに残り、読み手のその後の人生の中でじっくりと「対話」をしてもらうための絶対条件だったのだ。
感情や空気に流されがちな体面の問答と違い、ひとつの思想パッケージとして読み手の中に取り込み、そのあとでじっくりと自問自答という形で葛藤してもらうことこそが文章と言うメディアを用いた「対話」のやり方だった。
「逆に名文。」「むしろ名文。」?そんなありきたりの逆説は要らない。
後から折りに触れじんわりとその一行一行を噛み締めたり、何度も読み返したくなったりする深みがあるか?
せいぜい「日本死ね」が大喜利的にバズワードになるだけじゃないか。
「日本死ね」はレトリックとして死なないものの死を願うという無常感、絶望感を含有した良い捨て台詞だと思うが、バズワードにはそういう文脈は考慮されない。ただ字面上同じであれば単に自分の気に入らない相手(普通に死ぬ、比喩になってない相手)を死ねと罵倒するのにも平気で使われる。
あくまでそれはただ大海原の表面が鳴動しているに過ぎない。船を転覆し浅瀬の生態系をかき乱す力はあるかも知れないが、人のこころの深いところを揺り動かし、大きな変化をもたらすような津波にはならない。…変な比喩だが。
自分のこころの深いところに入り込み、そこに不可逆な変化をもたらしてしまうようなものを読まなければ、書かなければ、知は停滞する。
まとまったものを読み、読み切った後に意識の中に残った断片あるいは芯のようなもの、それらの感触、反芻、自己言及的な葛藤を通して得られる新しい自分…
そういう一種のコース料理のようなひとつづきの体験が文章という表現に当たり前に付随するものとして認識されなくなっている。
いきなり俗な話になるが、これはエロゲーのシナリオを文章や物語として扱う層への違和感と似ている。
ひと文字いくらで量を書いてナンボなんて世界で書き増されるだけのテキストデータに芯や内容なんて生まれない。エロゲーのシナリオには「読み終わり」すらない。
ただカネを納得させる「量」と水増しを誤摩化すための「刺激」でエロシーンまでの間を前戯的に埋めているだけのものだ。さながら増田が、ネットでバズるブログやSNSの投稿が、文字として表された思想や人格を葛藤するよりもただ愉快な炎上を持続させるための刺激としての埋め草であるように。
ネットの言論空間というのは、本当に「脊髄反射」という言葉が相応しい。
文章の、言論の装いを纏ってはいるが、その実いっさい論者の芯の部分を経由していない、ごくごく皮相的な反発の応酬で成り立っている。
その場で読んで、その場で反発して、三日経てば何を読んだのか何が書いてあったのかその一節すら思い出せないようなインク(メモリ)のカスに右往左往して、白熱した議論かなにかを装いながらどんどん使われない脳味噌が退化していっている。
これがネットでだけならいいのかもしれない。使い分けが出来ているのなら良いのかも知れない。しかし実際のところ、刺激としての文字列に慣れた脳味噌はまとまりを、芯を感じる力を明らかに加速度的に低下させている。
うちは子供2人の2歳違いで下の子が赤ん坊の時とかそりゃ大変だったけど
専業主婦で親はそれほど近くには住んでいないし夫は風呂掃除と子供の相手ぐらいしか家事育児参加はなかった。
そうかなー
結婚前に働いてた(雑誌編集)時のハードモードに比べて辛いということはない
3ヶ月なんてどんどん育つから変化があるし仕事以上に同じ日は一日も無いと感じた。
ただし,さらに言えば,どっちが疲れているかなんていう議論もそもそも不毛だ.
結論は明らかで,それは「どっちも疲れている」.
わたしはテニスやってたけど体力的には凡人の範囲内だし夫も普通の人だと思う。
夫は8時とか6時とかに帰ってくるけどテレビ見ながら子供の相手をして私の作った料理を食べてた。
そんなうちが普通に出来たことをそんなに追い詰められる理由はなんなのか純粋に知りたい。
(シングルマザーであるとか、父母義父母の介護が重なってる人は当然除く。私と同じ専業主婦の人について。)
ちなみに母に同じことを聞いても「大変だけど可愛かったしね」ぐらいの反応だ。
マウンティングしたいんじゃなくてこの違いが何から生まれてるのか解明するのは社会の為にもなると思うのだが。
http://anond.hatelabo.jp/20160714002044
おまけに
そうだなたとえば,性格の良い親が元気で近所に住んでいるとか,
家計に余裕があってシッターや家政婦などのサービスをいくらでも気兼ねなく使えるとか,
家にルンバとブラーバが5台くらいあってオイシックスを頼みまくれて
全自動ドラム洗濯機のほかにもセパレートのガス乾燥機があって家も広くてオムツを半年分買い置きできる場所があって,とか.
最低でもそのくらいの外部の力が必要になる.
想像したけど絶対要らない。家政婦さんなんてかえって大変そう。オイシックスのおせちはいいよね、ぐらいしか賛成できない。
実は最近キッチンをリフォームして食器洗浄機もついたけどあんなの使う方がめんどくさかった。
パッパッと集中して洗ったら10分で済むことを食器溜めて洗浄機の中に配置して2時間ぐらいグオーンて動く機械とかw
なんであんなのが便利だ便利だ言われてるんだろう。
(1人暮らしで23時帰りとかだったらまあわかる)
根本的に痛みの種類が違うのだ。
心臓が痛むときの痛みとかアッチ系の訴えかけてくる神経がまず違う痛みだ。
レバーフックなどを綺麗にもらうと人間はまず呼吸もまともにできなくなる。
その痛みに対して「いたい」等とも言えない、痛みではなくもはや「苦しみ」と表現してもいいくらいだ。
とにかく行動不能に陥る。
金的も同じような状態で、なおかつレバーフックを同時に10発は打ち込まれた痛みだ。
文字通り何もできなくなる。
ただコンマ1秒間隔で襲ってくる吐き気と苦痛にひたすら無限とも思える時間を孤独に耐え続けなければいけない。
自分の視界だけが暗くなった状態でとにかく絶望の味が過ぎ去るのをひたすらに祈りにも似た思いで耐える。
そして、その間痛みは「波」ではなく「常に最高潮」を維持し続ける。
悲鳴が出ない代わりに体の皮膚からは耐えられない苦しみから脂汗がにじみ出てくる。
力すら入れることもできずにただ赤子のように横に倒れて顔の筋肉だけ痛みのために運動する。
痛みで何もすることができないのだ。
呼吸も危ういため泡を吹く、ヒッヒッフーなどできるわけもないのだ。これは出産か。
それに比べれば叫んでわめいて力むことのできる出産の痛みの何と慈悲深いことか!
赤子を出産することができる程度の力を使うことができる痛み!
金的に比べて、何と慈悲深いことか…。
もし赤子をひねり出す際の痛みが金的と同じならば誰も無事生まれてはこなかっただろうし、
金的並みの痛みを味わいたい女性は今すぐボクシングジムにいき、
そうすれば晴れて金的の理解者として男性ひいては物知らずの女性にマウンティングできるはずだ。
そう!出産の痛みは体験できなくとも金的の痛みは体験可能なのだ!
なんだ、こんな痛みで転げ回ってたのか、男は大げさだなあ!と大笑いしてみせてくれたまえ。
いつも増田でやってるような感じでガッハッハと腰に手を当てて笑って見せてくれたまえ。
強い女性であるならば貧弱な男のように顔面決壊に涎を垂れ流しながら
「オゥ…オゥ…」などと芋虫のように寝そべったりしないはず。
ぜひ試して来てほしい。
オタクやめれば彼女ができるよ! と言われて、オタクをやめたけど彼女はできなかった。
童貞卒業すれば女の良さに目覚めるよ! と言われて、ソープで何度もやってみたけど、女性に対する感覚はあまり変わらなかった。
素人童貞卒業すればセックスを好きになれるよ! と言われて、死に物狂いで彼女を作ってセックスしたけど、正直風俗嬢と大して差がなかった。
ちょっと変態っぽいプレイをすればハマるかも! と言われて、彼女の理解を得て色々と試してみたけど、「まあ、こんなもんか」と感動もない。
その彼女とは1年くらい付き合った後、自分はまだ好きだったけど、色々事情があって彼女と別れることになった。
彼女が仕事をキャリアップしたくて海外に行くのがメインの理由だったから、いちおう喧嘩別れじゃないのが唯一の救い。
別れの理由をそれ以上詳しく書くつもりはないけど、円満にお別れしたから後悔はあまりない。
でも、別れた翌々日の朝になって目覚めたら、なんか自分がニンジンを目の前に垂らされた馬車馬みたいでバカバカしくなってきた。
オタクをやめて彼女を作るのに必死になっていたときも、中毒者のように風俗に通っていたときも、別れた彼女と付き合っていたときも、
何か他人が自慢気に語る「幸せな私」みたいのに憧れつつけていただけだったんだな、と。
他人の感覚は知らないけど、彼女ができてもそんなに人生が猛烈に幸せになれたわけでもないし、
セックスはそれほど気持ちがいいものでも楽しいものでもなかった。少なくとも自分には何か特別な価値を見いだせるほどのものはなかった。
自分が何か人生に物足りなさを感じるたびに、物知り顔の人たちが「君はまだ本当の幸せを知らない」とでも言いたげな感じで
あれをすれば幸せになれる、これをすれば幸せになれる、みたいな主張をすることを真に受けて生きてきた。
はてな的に言えば、他人のマウンティングを真に受けて生きていた。人生の価値判断を他人にゆだねてきた。
プロ以外で経験人数ひとりで何言ってんだとツッコミが来ることを承知でいえば、
よく考えれば、他人が言うように「若い時は一日何回もオナニーした」というほど以前から性欲は強くなかったし、
女性に対する猛烈な性的欲求もなかった気がする。あくまで恋愛は承認欲求をベースに友達感覚の延長って感じだった。
そもそも感受性や身体感覚なんて人それぞれであって、セックスで天にも昇る心地になれる人もいれば、
自分のように「まあ、こんなものか」と大した感慨を抱かない人間もいるんだろう。
セックスが気持よくてしょうがいない人は、恋愛や性行為にのめり込むだろうし、そうでなければ淡白になる。
「君はまだ本当の愛を知らないんだよ」とかって言う人は、たぶん本気でそう言ってるんだろうけど、
それはその人と全く同じ感受性と身体感覚を兼ねそ備えてはじめて体験できる世界であって、
逆に、自分がとある分野でオタク(アニメ・マンガではない)をやっていたときの興奮は、
たぶん普通の感受性や身体感覚を持つ人には経験できないものだったのだろう。
(周りから「何がそんなに面白いの?」ってよく指摘されていたから)
どちらが正しいってことじゃない。他人は他人、自分は自分ってだけのことだ。
中年近い年齢になってやっとそんな当たり前のことに気付けた。
他人のマウンティングを真に受けて、自分はまだ本当の幸せを知らないんじゃないか、なんて自分に疑いを抱くのをやめるべきだったんだ。
人には自分の幸福を追求せざるを得ない業みたいなものがあって、それを他人に外注することはできない。
(そういう傾向が極端になれば、カルト宗教にハマったり、悪い人に貢いだりする方向へ向かうのかもしれない)
他人と同じように喜んだり楽しめないのはどうしようもない。それを前提にどうやって幸せになっていくか模索するしかない。
とりあえず童貞卒業して、恋愛をやって、それで別れて、ようやく当然の事実に気付かされたってだけの話だ。
たぶん多くの大人は社会人になる前にそういうことに気づいてる。だからみんなメンタルが強いんだろう。
つまり、ニンジンは他人からもらうんじゃなくて、自分で育てて自分で収穫するしかないんだ。
馬車馬のような人生をやめようと思ったら、不安や焦燥感、劣等感、孤独感なんかとうまく付き合っていくしかない。
これから先の人生でも幾度となくマウンティング受けていくんだろうけど、
正直もうそういう指摘をいちいち真に受けて焦ったり、したくないことしたり、苦しんだり悩んだりする必要はないんだな、って
そういう大切なことを学んだだけでも良しとしようと思う。
一人はすでに二児持ちのS子。
二回ともできちゃったーと言っていた。
それは嘘だ。30過ぎてできちゃったはないだろ。
彼女は保育園に確実に入れるようにタイミングをみて4月生まれと6月生まれを作った。
保育園激戦区で早生まれは不利だし、彼女の家から一番近い保育園が月齢8か月だからだ。
一方私はなかなか妊娠できなかった。
二年くらい頑張ってやっとできた。
その間彼女が第二子を妊娠し、子供の話ばかりするのが苦痛だった。
私の妊娠を報告してもおめでとうはなかった。
それどころか私の子の予定日を聞いて
うわーその頃大変だね、あれもこれも○月生まれだと大変だね。
ばかりだった。
というかツイッターはやめた。
もう一人は既婚でまだ子供がいないM美。
だがなかなかできないと。
生理が不順なのに基礎体温も測らず、セックスも面倒だとも言っていた。
私はS子に感じていた羨ましさを思い出してあまり自分から妊娠出産の話はしなかった。
LINEのグループでM美が発言する時は必ず私のいない時になった。
やはり私がS子がうっとおしかったようにM美は私をうっとおしいと思っているのだろうか。
そう思うようになった。
今ではM美がどうしてるかも知らない。
で?どちらが正しかったのですか?指摘した側が間違っている可能性もありますので。もしご自分が正しかったら「あ!そうなの?なら箸マウンティングOK」となりますか?
「それってポジショントークだよね」と言うと、無条件で相手の上に立つことができて気持ちが良い。だがその効果は永続しない。インフレバトル展開に突入する宿命。
「それってポジショントークだよね」
「それってポジショントークだよねって発言自体がポジショントークだよね」
「それってポジショントークだよねって発言自体がポジショントークだよねって発言もまたポジショントークだよね」
「俺はお前の先へ行くッ!」
いや、もしかしたら、
「俺はお前より先にイクッ!」
ってことなのかもしれない。
「それってポジショントークだよね」マウンティングというオナニー大戦争。
要は「それってポジショントークだよね」というとき彼らは射精している。
白い液体を掛け合っているが、膣外射精なので妊娠はしないようだ。実りある議論にすると責任を取らなければならないので困ってしまうわけだ。ポジショントークマウンティングオナニーは論敵同士の共犯関係で成り立っていて、お互いが性的快感を得られる素晴らしいシステムなのであった。
Twitterやブログ、果ては実名であるFacebookで意見表明してる人が多くいるけど本当に理解できない。匿名じゃない場所で意見表明してる人ってリスク管理の意識低すぎだと思う。
今の世の中、一度きりの間違いや勘違い発言をするだけで死ぬまでそのことをネタに攻められ続ける。その人がその発言について訂正しようが謝罪しようが関係ない。敵対する人達は画像や魚拓を持ち出して延々とその点を指摘してくる。どんなにいいことを発言していても「でもあいつ昔こんな間違い発言してるから参考にならないよ」と言われたら終わりだ。北海道の男児行方不明事件みたいな二転三転するような事件が起こると、多くの人がポジション取りを間違える。その結果、間違った人達は真実側の人たちにマウンティングされ馬鹿にされ続ける。匿名の場所ならばいくらでも真実側に寝返って敗者をマウンティングできるのに。
画像を参考にしても、ようつべで勉強しても、お箸持てる人に聞いて教えてもらっても上手く持てません。
正しい持ち方だと食べ物を掬えずボロボロ落ちてしまうので余計に食べ方が醜くなりますし、指がつって痛くなるのを耐えても慣れませんでした。
もっと耐え続けたら慣れるのか、痛く感じないコツがあるのか…
お箸マウンティングされたことはないけど、お箸の持ち方が悪いと良い印象は持たれないそうなので人とご飯が食べるのが苦手です。
親に持ち方を聞いても「分かんない」と一蹴されます。