はてなキーワード: イコールとは
いい年をして「恋」と「愛」の区別がついてない輩は得てしてこういう錯乱したことを言う。
やや古いネタだが、いわゆる盲目的な「恋」の持続期間は、一般的に3年程度であるという説がある。
これは、恋愛の本能的な目的であるところの妊娠・出産・育児に最低限必要な時間が3年と設定されているためと言われている。育児期間が2年なのは、子が親なしには食物の正しい摂取行動ができない期間、すなわち生物として本当に最低限の保護期間がこれだけだということだろう。
つまり、それを過ぎたら次の出産に取り組んでよい、そしてその際にはパートナーを変えてより遺伝子のスクランブルを起こすべし、ということ。
それは本能のプログラミングであり、人間の精神活動が作り出した社会における倫理とか理想とか善悪とか、そういうものとは無縁なありよう。いいも悪いもない、生命体として種の存続を優先する合理的な手続きである。
とまぁ、そんな説に従うならば、カップルの情熱というものは生まれた子供を途中で放り出さないための安全装置に過ぎず、子供が生命体として独り立ちをする3年が過ぎれば解除されるものと言える。
かつて「3年目の浮気ぐらい大目に見てよ」という歌詞があった。実に興味深い符合である。
しかし現代の多くの人間社会において、カップルの最初の3年は平均的に結婚、つまり正式な番(つがい)にこぎつけるまでの時間になった。うまく事が進んでもせいぜい種付けするかしないかという頃合いである。
そんな段階で安全装置が外れてしまっては、生まれた子供がうまく育たない。子供が生物として安定するまでは、その子イコール新しい自分の遺伝子を守ろうとする親に命がけで保護され、せっせと食べ物を運んでもらわなければならないのだ。
そこで人間は理性を操り、「愛」というものを編み出した。ついでに「結婚」という契約も作った。3年を超えてもパートナーと一緒にいる理由を作り上げ、これをもって安全装置の動作期間延長を図ったのである。
「恋」は種の保存を後押しするエネルギー源だ。出産・育児には少なからぬ困難がつきものなので、これを乗り切るための原動力として大いに燃えてもらわなければならない。
対して「愛」は情熱的である必要はない。本能に根付かない感情だからあれこれ理由付けや美化をして維持する努力が必須だが、うまく運用できれば複雑化した人間社会における生活や感情を安定させる手助けになる便利なものである。
「恋」の主成分である情熱や激情はドーパミンを大量放出する不安定なものであるため、これを「愛」にまで持ち込まなければならないという事はない。
そのかわり、ハゲだのシワだのデカいパンティーだのといった生命体における衰えを示す外的要因などは「恋」においてはマイナスに働く可能性があるが、結婚という人生における一大契約の礎たる「愛」の理屈の前には無力である。
「恋」の期間を過ぎた者は、新たなパートナー、つまり次の「恋」のアテがないのならば、「愛」の運用について前向きに考えるのが社会的かつ精神的に賢明と言えるであろう。
※ 言うまでもないことだが、子供のいない夫婦が存在的に悪であるという趣旨ではない。「恋」「愛」は脳の機能、「出産」は精子と卵子、子宮の機能である。
仕事のやり過ぎでナチュラルハイになってる人を見るのは辛い。そして、接するのはめんどくさい。
酒のチカラも借りずにハイになってしまうことの、何が問題かって、ハイ状態が覚めると、ロウ状態に突入しちゃうこと。
ロウに入らず、ニュートラルで止まるのって、難しい。やっぱ反動が来る。
ロウになると、働く意欲が失せたり、ハイ状態だった時に、意外と何もできてなかったことに気付いて更にロウになったり。
とにかくロクなことがない。ロウから戻れず、辞めたり倒れたりした人も知ってる。
そういう俺も経験者だけど。
俺の場合、転職することで、ハイ&ロウの生活から抜け出せた気がする。
というより、めっちゃ意識してる。ハイになりそうな自分を、ロウになりそうな自分を抑えてる。
失敗したとき凹みやすい人は、成功したとき浮かれやすい。俺がそうだったから。
今は、成功しても失敗しても、余韻を残さないようにしてる。
仕事してる俺が、俺の全てじゃない。
まあ、仕事に追われたり追ったりしまくった20代を経ての開き直りなのかもしれんが。
週末、何して過ごした?
俺は仕事についてばかり考えてた。厭な月曜、厭な仕事が俺を待っている。そのことばかり考えて、週末は体が動かない。何か楽しいことをしても、それが終わると仕事を思い出して、落差に打ちひしがれる。いろいろ言われているが、渡部美樹は仕事と生きることがイコールだからこんな悩みはないんだろうな。凡俗は意に沿わない仕事ばかりで、自分を仕事に合わせるために必死なんだよ。
転職しても解決しそうにない。そう考えると働くことが厭になる。金さえあれば働かなくていいのに。
一年くらい前に「ネットからの収入が月100万を超えたので、思いを吐露したい。」とか書いた者です。
http://anond.hatelabo.jp/20120603083800
あれから特に何をすることもなかったのですがバンバン増え続け、現在月収が300万を超えました。やったー。
そこで判明したのですが、月収って本当ある一定を超えたら幸福感にはほぼ貢献しない。ビックリするほど貢献しない。
幸福感、超絶低い。
つか、そもそもお金が増えたらイコール幸せってのが間違ってるんだろうな。
多分、そういうもんではない。
欲しいもんも大して無いしなー。
車欲しいとか思ってたけど、実際に買う段になると「選ぶのが面倒」って思ってしまう。
そもそも大して欲しいもんでもなかったんだろう。
美味しいもん食おうっつっても、1500円のランチで十分美味しいし。
そして、特にモテるようになったとかもない。今までと変わらない。普通だ。
ただ、緊張感がなくなってる。危機感というか、そういうのがない。
ある程度の緊張感や危機感ってのも人生の大切なスパイスとして必要な気がするが、それのためにわざわざ危険なことをするのも面倒だ。
今思ったけど、「面倒」ってのがキーワードだな。
欲が薄れた気もする。「手に入らない」と思うと、それに対する欲が強くなるんだろうけど、「金払えば手に入るだろ」って思った瞬間、結構どうでもよくなる。
逆に金で手に入らないモノ。友人とか恋人とか。こういうのは欲しいな。俺、彼女もいないし友達少ないんです。
なんか、月収が増えたことによってさらに友人とか恋人が作りにくくなった感がある。
「金ありすぎて、人生つまんないんですよー」とか言ったって、自慢話にしか聞こえないしね。
まぁ、実際自慢話ってのもあるけど。2割くらいは。
生きてる実感みたいなのが、超薄い。
現実感がない。ボーっとする。周りが皆バカに見える。
何がどうなってんだか。
承認欲求と自己実現欲求か。あと、根本的に社会的欲求も薄い気がするなぁ。
こんな風になりたくて頑張っていたわけではないんだが。
やり方を間違えたか。
自分が特に何もしなくてもうまく回る仕組み作りを徹底して、人も雇わない。
今は、たまーに仕組みがうまく回ってるかチェックするだけの簡単なお仕事だ。完璧だ。
一ヶ月の実働は3時間程度。これで300万超えだから時給100万か。ワロタな。クソみたいだ。
そういう仕組みを作ってうまくいったら夢のようだなーって昔は思ってたけど、実際うまくいってもたいして幸せにはならなかった。これだから人生はわからない。
なんか面白い漫画でもないかなー。漫画喫茶に漫画でも読みにいこうかな。
審査を厳格化するから、「本当に必要な人たち」まで審査ではねられてしまうというのはイコールではないのでは?
審査が厳格化するなら、行政手続きは大変になるけど、厳格化してるんだから、ほんとうに必要な人こそ審査を通るだろ。
厳格化ってのは、厳しい顔して睨み返すとか、恫喝して審査をさせないとかそういう意味じゃないぜ? それは厳格化じゃねぇ。恫喝化だ。威嚇してどうする。
厳格化というのは、条件を設けて、定量的に審査していくということだ。
今は、審査が厳格なんじゃなく、恫喝化してるから、ゴリ押しの人が不正に受給して、弱い人が受けられないってのが起きてるんだろ。恫喝してどうすんだよ。
乙武と店長どっちが悪いのかという話はコミュニケーションの問題で当事者間の揉め事なので言及する必要はない。
それでもこの揉め事がそもそもなぜ起こったかという原因を考えるに
今回の一件を見れば明らかだが、交渉するということは交渉に失敗して被害を受けるリスクを負うということだ。
健常者には不要な交渉を求められる社会は、結局障碍者ゆえに不当なリスクを背負わせられる社会とイコールなのだ。
そしてその不当なリスクは交渉を持ちかけられた健常者の側も背負うことになる。
本件で学ぶべき教訓はこれだ。
車椅子に対応していない建物が日本にある限り、同様の揉め事はいつでも起こりうる。
健常者障碍者含め日本人全員でババ抜きを繰り返しているようなものだ。
根本的な原因は放置したまま現場の人間の交渉能力に依存し、そこで発生した問題の責任の所在も個人に求める。
なるほど、一部の人間が今回の炎上を「いかにも日本的だ」と揶揄する理由もわからないではない。
今回の炎上はより建設的な議論の後、日本のバリアフリー化の一石として役立ててほしい。
炎上は生ける死なり。
なお、こういった日本のバリアフリーに対する認識の遅れが早期発見できず、炎上を面白がってブコメしていたことを心より恥じる。
財全五郎
稼ぐ気のない女とは結婚したくない
http://anond.hatelabo.jp/20130513065304
は、
http://anond.hatelabo.jp/20130512145428
を批判しているわけだが、批判された先の記事の何を批判しているのかと言えば、
・「共働き希望」の男をそのまま、「働けなくなった妻を見捨てる夫」とイコールで結んでいるところ。
・切迫流産で退職を迫られた例をすべての女性に適用して、女性を働きたくても働けない場合もある性であると規定しているところ。
そもそも働きたくても健康などで働けない場合があるのは男女同じことであって(頻度は異なるかも知れないが)、それを働けないから離婚だというのでは(そもそも現行法では精神疾患の場合を除いてこの理由による離婚を認めていない)それは共稼ぎとか専業主婦容認とかに関係がない、その人個人の性格的な問題である。
もし共働き希望=配偶者を見捨てる人なら、共稼ぎの場合であっても、女側は男は働くことを前提にしているのだから、男もまた疾患等々の理由で「働けなくなる場合」もあることを踏まえれば、男が働くことを当然と見ているその女の視線は配偶者を見捨てる人のものなのではないか。
特に専業主婦を容認しろというのは、共稼ぎ要求(男も働け)ですらないわけである。男が働け、私の分の負荷も最初から背負えということでしかないのである。
実際には共稼ぎを要求する夫であっても、健康等々の理由で、妻が働けなくなればじゃあしょうがないよね、となるのが大部分だ。
専業主婦であっても夫が働けなくなれば、夫と離婚するという選択をするのではなく(繰り返すがこれを理由としての離婚は当事者同士の同意がなければ法は容認していないが)、じゃあ私が働きますとなるのがほとんどだろう。助け合うのが家族なんだから。
それを何をとち狂ったのか、
http://anond.hatelabo.jp/20130513222533
こっちはあたかも「そういう場合でも離婚してはならない」と言っているかのように解釈したようだが、基本的な読解力、理解力、知識もないくせに何かひとこと脊髄反射で言いたがる人がマスダには常駐しているのが問題だね。
ほとんどの場合は、家族なんだから健康を害して働けなくなったとしても相手を見捨てはしないということであって、それは共稼ぎを要求している男だって同じことだ。
で、ブックマークの、
ricoasax
元のますだのひとがなんで稼ぐ気がない女ってことになってるのかが意味わからん。半身不随云々みたいな話だしてるけど、どっちも「働けなくなった配偶者を見捨てるひととは結婚したくない」って言ってるだけじゃん
skgctom, nenesan0102, suo0, namelesscult
の何が頭が悪いかと言えば、元記事が批判しているのは、最初の元記事が、「共稼ぎを要求する=働けなくなった配偶者を見捨てる」という設定をしていることであって、それで言うなら、最初から男性側に働くことを要求しているあんたはなんなんだよと言っているのに、最初の元記事の内容さえ読めていない点。
バカだねえ。
最初の元記事では、長期入院を理由に"遠回し"に退職を迫られた例を持ち出して、(すべての女性が)働きたくても働けない場合もある性、と規定しているがそんなことは男でも普通にあるんだよ。で、男の場合は、ほとんどの場合は、遠回しに言われたくらいじゃやめない。媚びてもへつらってもやめない。それがどれだけストレスでもやめない。
なぜなら自分が辞めたら家族を養えなくなるから。せめて共稼ぎだったら、一呼吸おく余裕もあるかも知れないけど、専業主婦がいるような家庭だったら、過労死しようがプライドをずたずたにされようがやめられないなんてのは当たり前のようにごろごろある話。
繰り返すけど、最初の元記事は、男も働いて家計を支える責任を分担してね、という話ですらなく、女の責任こみで全部男が背負えよ(家計については)、という話。生きる糧を得ると言う点で、健康や状況に問題がないなら、妻も働いて責任をシェアしてよと要求することが不当なんだとすれば、じゃあ、シェアもせずに相手に寄り掛かろうとしているそちらの立場はどうなんだという話ですよ。
それは一方的に女性を「絶対に働きたくても働けない場合もある性」と規定しなければ(そして男性を働きたいなら働ける性と規定しなければ)理屈が通らない話だけども、その規定が嘘だ、と言っている。
まして、
cake_holl1515
「名は体を表す」ともいうし、実際キレイな字だったら、その字を見た人の印象は決して悪いものではないと思う。
ただ、それだけ―字が綺麗というだけで性格が良いとは必ずしも言えない。
逆に、汚い字であれば、例え高学歴の人であっても印象はあまり良くない。
それは地頭が良く学力があっても本質的な部分が伴っていない、すなわち性格面が捻くれてるという風に見えてしまうから、
やはり字の丁寧さは大事だと思う。その人の印象によるが、少なくともキレイな字を見て悪い印象を持つという事はないと思う。
汚い字はやっぱり親の教育の問題だとか、地の文が出来てないだとか、熱意が伝わって来ない。
多少稚拙であっても、丁寧に書こうとする意志が見られれば、例え汚くても丁寧さが見えてくる。
綺麗さっていうのは、丁寧さも大事だけど、走り書きでない事が望ましい。
一字一句丁寧にというけど、やはり履歴書の場合書き疲れることもしばしばある。
走り書きって特に締切間近等で急いでいるから、そのようになってしまう。
第三者から見て、走り書きっていうのはすぐ分かるし、急いで書いたというのはその人の性格がせっかちだとか、締切ギリギリということで優柔不断だとか
と見られがちだ。それはそうだ。履歴書を書いている人のその時の気持ちと、履歴書を見る審査員(採用担当者)の目や経験や勘では一致しないからだ。
良い印象を持たれるためには、例えば採用される人の決め手というのは、面接等でいうと第一印象が大事だということがとりわけ挙げられるが、
履歴書一つを見ても、やはりそこだけを見て次の選考を考えるわけだから、見た目の第一印象で躓くのは可哀想だ。
履歴書はその為人を知る上で最も大事なパーソナルデータであり、名刺代わりでもある。
それだけに手書き履歴書の綺麗さがその為人を表すというのは正しいと私は思う。
勿論、昨今は応募者の増加によって企業側が効率性を重視してパソコン上からのエントリーシートで応募する事を推奨しているが、
手書き履歴書が駄目って訳ではないし、たまに手書き履歴書で送ってくる人がいると、とりあえず会ってみようかという気持ちになるものだ。
そういう例は極めて稀のケースだけど、逆に審査側の被雇用者の性格を知る術が効率化によって失われたから、手書き履歴書の存在がありがたいと感じる審査員(採用担当者)も少なくない。面接回数が多いというのはイコール会社が効率化を優先するあまり、古き良き手書き履歴書の意義を見失って本当にその人が会社に入りたいのかという部分が見れなくなったためである。つまり、効率化によって手間が増えたということだ。
案外、パソコン等によるESで回す会社は大きい割に小さい性格の会社だと思う。
問題は、採用する側の為人だろう。その意味では、ESを導入している会社は損をしていると思う。
しかし、手抜きによって、手書きの有難味に気付かされるとは何とも皮肉な話ではないか。
手抜きを効率化としている時点で、多くはその皮肉にも気付いていないのだろうが。
はてな村の大勢は、大学に行かない奴はDQNかカス扱いなのかな、世の中の半分の高校生は大学行ってねえけど。
http://anond.hatelabo.jp/20130422122633
----------
奨学金の特に貸与型の件だけど、もうきれい事で誤魔化すの止めようぜ。
次のパターンは、不幸になるだけだ。
昔は、次のパターンも含めて、全部で4つの大学生が楽しく麻雀でもやりながら将来の話が出来てた。
今は、ドラ息子羨みながら、サラリーマンで苦労する、なんてことにはならねえよ。
取り立てて特殊技能もない、高等教育が受けたかったわけでもない、そんな「大学時代は、バイトリーダーをしてました」みたいなヤツは、もう就職できねえよ。
正確には、就職できるヤツが激減した結果、そういうやつは単なる確率であぶれるし、それをどうにかする方法は、もう無い。
運を天に任せて就職できるかどうかでサイコロ振るには、莫大な借金背負ってまで大学に行く価値はないよ。
だから、貸与型の問題は、まんま、行く必要のないヤツが就職への切符だと思って何となく大学に来て、勉強もしねえで4年遊んでる問題とイコールだよ。
最近は女子会をホモソーシャルとする話も出ていますよ。本来の用法ではありませんが。
http://am-our.com/love/63/2341/
その一文では「同性愛回避のために、女性を欲する」という意味合いになりますが、持論ですか?
女性の交換はホモソーシャルを強化したが、ホモフォビアだから女性に走るのではない。
もともとは「男性の友情や連帯感、同胞意識(社会的絆)」を説明するために、ホモソーシャルの概念があった。
これはあくまでも社会的に「男性支配社会のなかで(絆を維持する手段として)女性は貨幣価値のように扱われる」と説かれたジェンダー論であって
社会や組織を継続する目的で、女性の存在が手段として扱われていることを説明したものです。
その成立要件としてホモフォビアとミソジニーをあげていますが、イコール「友情が強すぎて同性愛にならないために女性と付きあう」ではない。
たしかに、エッセイストならともかく、小説作家やスポーツ選手の経歴についての知識と「好き」はイコールじゃないね。
「こういう台詞/登場人物が良かった」とか、「他の力士よりも闘志あふれるプレーでわくわくする」とかを語れれば、じゅうぶん好きって言えるんじゃないかな。
昔のままのほうが良かったのでは?という話は 科学技術を進化させなくても良かったのでは?という話とイコールじゃないだろ。
小規模のウイニー的商業方法のまま科学を進化させることは出来ただろ。
一極集中や大規模化したのは”資本主義”の影響で合って”科学”の影響ではない。
原発が不要だとは思わないが、こんだけの数が必要とは思わない。これだけの数を必要としたのは”政治的理由”であって”科学的根拠”はないだろ。
0か1かで、昔のほうが良かった=”科学が発展しない”というのは、なんか、同じような反成長的な考え方だよ。思考停止してる。
別段、資本主義が悪いと言っているわけではなく”資本主義”や”政治的理由”で起きていることを”科学”が理由であるかのように言わないでくれ。区別してくれ。
えーと、要するに恵まれてて最初から東大が眼中にない人ってことでいいの?
「もう許嫁も決まってるし、在学中は好きにして良いって言われてるの」とウチの大学で哲学にのめりこんでたお嬢様とか(哲学系なら京大狙えたんじゃねって聞いたら「京大とか無理、受験大変だし実家から遠いし」だってよ)、逆に両親祖父母医者(か看護師)で医学部受験で5浪して最終的には私立歯学部行ったという知り合いの弟さんとかそういうの?
前者は山の手の内側におうちがあって他にも別宅があるとかいう噂だし、後者は5浪後に私立という時点で恵まれてると見なせると思うけど、いずれも「恵まれてたけど東大じゃない」人々ですぜ。
あとはこういうタイプかな。単純に受験ゲームの戦略ミスっちゃった人。
ttp://anond.hatelabo.jp/20090319210926
全員「東大くらい寝てても入れるようになんないとおかしい」程度に「恵まれて」いると考えられるけど、実際には東大に寝てて入ったりしてない。
というか、前二者にはそれぞれ自分の目的や目標があって、それに応じて大学や学部を選んでいる(そして東大はその大学・学部として選ばれていない)ので、むしろ「東大に寝てても入れるようになってる」方がおかしいと言えます。
「男性の性欲が10代半ばがピークというのは、いかにも早すぎる」。
日本社会を前提に考えれば、社会人として生計を立てられる20代後半ないし30代前半に性欲ピークになれば
「万事うまく行く」のだが、そうなってないのは何故?
思うに、太古の昔、日本が縄文時代とかには、人類の平均寿命なんて、20~30年程度で、
中には60歳まで生きる個体もあっただろうが、天然痘とか結核とかで、20歳程度で早世していた個体も多かった、と思う。
そうなると、性欲のピークが20~30歳だと、いかにも都合悪い。
早世しないうちに、さっさと子を作る、さっさと性欲MAXになる、それが人類繁殖には最適だったんだろう。
また、当時子供を育てる能力というのは、つまるところ狩りをして食料をゲットする能力だったから、
体力がピークになる20歳の時点で、子供が5歳程度になるのが丁度良かったんだろう。
という理屈が成り立つかどうかだよなぁ。
残念ながら、「定期的に餌をやる」のはイコール「飼う」という行為そのもの、その本質を為す部分であって、それならば、「飼う」ことにまつわる責任だけ免れようというのは難しいと思う。逆に言えば、それ以外の部分なら、責任なしに成り立つとは思うんだけどね。
たとえば
・「かわいがる」という行為だけする → 多分誰も文句言わない、というか、普通にみんなやる。
・「愛でたり写真撮ったり」という行為だけする → まあ、好きにしろよ、という感じ。
・「避妊手術」だけする → 獣医がボランティアで……多分、感謝されてもよいと思う。猫嫌いの人は「手術のあと放置すんな」とか言いそうだけど、言い返せると思う。
・「しつけ」だけする → これも、可能ならば感謝されてしかるべき。
・「定期的に餌をやってかわいがる。医療行為もできる範囲で」だけする → ちょwwwwwwテラ無責任wwww
…となるのは、やっぱり仕方ないと思うのよ。
http://anond.hatelabo.jp/20130321172616
元増田です。はてブでたくさんコメントがついてたので少し補足を。
●まず前提として
・俺は別に教師とかではないです。
・肯定される体罰はない派です。
・体罰教師を擁護するつもりはまったくないし、刑事罰を含め然るべき処罰を受けるべきだと思う。
・「殴っていい」とも文中でもまったく言ってない。
設計されるべきは「体罰を行った教師が然るべき罰を受けるシステム」なのか「体罰ができる限り起こりにくいシステム」なのか。たぶんそりゃ両方なんだけど実際一部のブコメの様に前者にしか興味がない層が多いように見えるな、と感じていたので書いてみた次第でした。
「体罰振るった奴を抹殺するシステム」は「不当に傷つけられる子供が発生しにくいシステム」とはそもそもイコールではない。抹殺するなとはまったく言わないけど叩けるのは現行犯だけなのでそれってつまり常に子供が殴られた後だよね。
結局、防犯対策なんかも「犯罪者予備軍がいる前提」で考えられている。体罰もそれと同じような考え方でアプローチした方がうまくいくんじゃないのってだけの話で。教師って仕事も結局は誰かがやらなくちゃならないんだから、じゃあ誰でもできるようにはまた言い過ぎだけど、そっちの方を目指すべきなんじゃないの。
「それはよくわかんねぇから他人に任せた。暴力教師の始末はこっちに任せとけ。」ってスタンスならもう何も言うことないけどさ。「教育なんて難しい問題は丸投げする。ただし何かあったら全力で叩くから自己責任でしっかりな。」も同時に言っちゃってるけどそれってどうなの。
これってもしかすると日本人のお客様根性が根深いみたいな話の延長なのかもしれない。繰り返すが俺は教師でもなんでもないです。
最後に、どうしても批判コメを相手にした書き方になってしまいましたが、内容汲んで頂けてるっぽいコメントも多くありがとうございました。またなんかあったら釣ります。
言いたいことはタイトルの通り。
情報ツールの使い方など人それぞれ好きにやっていればいいと言われればそれまでだが、下記の記事を読んで遂に増田に書くことにした。
Googleリーダーの終了で、困るのはたった1~2%のユーザーかも?!
著者はインターネットマーケティングのコンサルを生業としているとのことだが、それでこんな話しているとか大丈夫なのかと少し心配になった。ユーザーが複数のツールを併用しながら情報を収集しているとどうして想像できないのだろうか不思議だ。
私はGoogleReaderにこのブログを登録しているが、確かに私も彼のブログにRSS経由でアクセスしたことはほとんどない。しかし、これは私にRSSが不要であるということを意味しない。単に彼の記事はRSSを見るより先に他のソーシャルから流れてきて読み終えてしまうからだ。このように他のアクセス流入元を確保している情報発信者にとっては確かにRSSなど時代遅れで不要なものなのかもしれない。
しかし、世の情報発信者がすべてそのようなタイプかと言えば決してそうではない。すばらしい情報を発信できる人間と情報発信を効率的に行うことが得意な人間はイコールではない。本当にブログに書くだけで満足してしまいソーシャルなどでの交流を欲しない人間もいれば、半年に一度思い出したように書く人間もいる。そしてそういう人間の書いた文章がどうしようもなく面白いということがしばしばある。
私はそのようなブログを見落とさないためにも今後もRSSかそれに類似したサービスを使い続けたいと思う。そして、彼らの文章に大いなる感動を覚えた後、余計なお世話なのかもしれないが彼らにいつか日の目が当たることを夢見てはてなブックマークに追加する。私のような楽しみをインターネットに求めている人間もまた決して少なくはないだろうとも私は信じている。
最後に、これは至極個人的な偏見になるが件のブロガーのように本気でRSSのようなサービスを不要とする人間は今ネット上で流行っているホットな情報さえ押さえていればそれでいいというやや軽薄な人間だと私には思えてならない。あるいはマーケターとはまさにそこを押さえることこそが仕事なのかもしれないが。