はてなキーワード: 通り相場とは
日本では'76年に、フィレス・レーベルの作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかもCDのボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者のインタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証致します。
1958年、17才にして彼は”スター”でした。この後ポップスの歴史を彩ることになるクリスタルズやロネッツ、キャロル・キングやバリー・マン、ビーチ・ボーイズやビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思います。ポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージ・マーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質を理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサーの仕事だ、という常識的な意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点でヒッチコックを捉えるとおもしろい解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります。黒沢さんもそうですね。)
デビュー・アルバム「TEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオ・バージョン>はナント、リード・ボーカルの女の子の声が左で、真ん中がフィルのコーラス、しかも、ところどころリード・ボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。
デビュー前からしてこうなのですから、自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。
SCHOOLもの
のちにブラック・ミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリスト、ギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽は一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分のデビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]
また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者のキー・ワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラス、バイクというスタイルが流行しました。
彼のでデビュー・ソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生のお気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子が自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至の若者のフィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法、スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事なことなのです。
ある程度、あるいはそれ以上の音楽の素養がなければミュージシャンや作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロックの時代でした。子供が技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供が子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽の単純化に拍車をかけました。ジャズが豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズが大人の音楽で、背景はナイトクラブと女性とお酒が似合いましたが、子供の音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。
麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角-ストリート・コーナーが似合ったわけです。
それにくらべて土地の広大な中西部や西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本のロックのサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器は感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽の素養は必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギター・インストゥルメンタル>でした。これは、楽器を感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズの単純化がロックとすれば、これはさらに、ロックの単純化で、その極致であったわけです。
これが<ガレージ・サウンド>の正体でしたが、この時代に呼応するかのように、新しく生まれた現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージや居間などでの<ホーム・レコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモ・テープのような、ある意味では乱暴
チャートに登場するようになり、まさに音楽の大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスもバディ・ホリーもデビュー曲は地方の、オヤジさんが社長、オカミさんが専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。
それまでの録音は、演奏者と録音技師はガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師が演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホーム・レコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンドの母体となるのです。
スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時から、スタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢は最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウル・ミュージックの追求というのは、スターにありがちな<後付け>である、と私は考えています)。
このホーム・レコーディングが、実は<スペクター・サウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり、大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハル・ブレインのドラム>、整理は<J・ニッチェのアレンジ>、単純化は<L・レビンのミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクター・サウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。
この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターもギター少年でした。本名のフィル・ハーヴェイとしてインスト・レコードも発表しています。また'58、'59年はインスト・ロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンク・レイ、そしてジョニーとハリケーンズ、サント&ジョニー、サンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムはデビュー前の彼です)、そして極め付きはギター・インストの王者、デュアン・エディーの登場でした。
日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドのユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バット・マン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇のインスト・テーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージ・マーチン楽団の「リンゴのテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャー兼プロデューサーがレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオで仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクター・サウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。
シルはこの時すでにスペクターがプロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルがナント「BE MY GIRL!」。
スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム(佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターがポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。
例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます。
シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッションを見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナント<ベース・ドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベース・ドラムのイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。
エディーのスタジオは1トラックのテープ・レコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンドの秘密であった水道管やドラム缶をエコーに使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいます)スペクターが興味を持たなかったはずはありません。
そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンドの製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットやアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初に評価された人なのです。
~
中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています。
その後シルは、スペクターをプロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークのリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代の代表的なコンビがレノン&マッカートニーとすれば、’50年代はリーバー&ストラーの時代で、ロック・ビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクターの学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供やプロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位を確立したのがこの二人なのです。
スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングのヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....
ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクター・サウンド>への引金になったと、私は思います。その手法でプロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクター・サウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初の作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルドン出版社の代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムのフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルはドラマーのゲイリー・チェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。
この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクター・サウンドを作ったのはやはり彼なのです。
この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクターの時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。
また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。
世界とどこかでつながっていたい気持ち。でも完全につながっているんじゃなくて、安全なところに隠れて、そっと伺い見るような、そんなのを望んでいる。誰かが話しかけてきたら逃げてしまうだろう。いや、そんな気取られることすら嫌だ。そっと、屋上の物陰とか、屋根裏の隙間からとか。
ぼくは出て行っていいのかな。挨拶をしたり、話しかけたりしていいのかな。ぼくのような出来損ないが。
【LIVE】東京・新宿駅前ライブカメラ Shinjuku, Tokyo JAPAN - YouTube
あの新宿南口は、何度も行ったり来たり出たり入ったりしたところ。高校生の頃からおなじみの場所。予備校の帰りとか、入試日のチキンライス弁当とか。
受験の弁当を駅の西口コンコースの階段の広い踊り場にある売店で買って、いつも唐揚げとチキンライスの弁当で。30年以上前のこと。
ほんとうに、ぼくはどうしてこんなに無駄に回り道ばかりしているんだろうか。それとも回り道じゃなくて彷徨っているだけなのか。目的地すら知らない。もしかしたらずっと東の彼方に見える海峡の向こう、もしくは夜の黒い平原の彼方の光の粒に向かっているつもりなんだろうか。
降る雨が窓ガラスに降りかかり、細く開けた窓枠の横の隙間から右手を肘まで出して、手には何か棒状で平らなもの、たとえば定規とか持って、バスのワイパーになったつもりで動かす。扇形に。5歳、6歳のぼくだ。
あの頃、目的地なんて知らなくて、そんなものなくても平気で。でも、毎日親から叱られるのは嫌だった。脚を持たれて逆さにぶら下げられたり、床の上を引きずり回されたり。お母さんはいつも寝ていて、話しかけても叱られるだけで、そして仕事から帰ってきたお父さんに告げ口して、同じことでお父さんから叱られて、それも毎日1時間、2時間、立ちっぱなしで。晩ご飯を食べながらお父さんは叱り、食べ終えても叱り。
知らないおじさんおばさんのくせに。
家の前の石段で苔の盛り上がりを撫でたり、側溝の流れに揺れるご飯粒と、白くなったミミズの死骸の生臭さをかいだりしていた頃。自分のつま先よりも大きな石が転がる砂利道を歩いて、道端のコンクリ製のゴミ箱の中をのぞき込んだりしていた頃。台所の電灯の笠のスイッチを回す「キュッ」という音で夜がやってきていた頃。
ぼくはずっとあの町で過ごしたかったのに。あそこが一番素敵だったのに。寝台特急とサンドイッチと、そして車窓から射し込む朝日とコーヒーの匂いで騙されるようにして、知らない町、知らない大人のところに連れてこられた。そして、学期途中から入った幼稚園の初日、園庭の遊びの途中に他の子に触られて吃驚して、ぼくはその女の子を叩いて、そしてぼく自身が泣き出した。
通園バッグのパイピングは、ぼくの噛み痕ですぐにぼろぼろになった。ワイシャツも、吊りズボンも、蝶ネクタイも、カンカン帽も嫌いだった。
小学校も知らない町だった。卒業するまで、両手指は深爪のままだった。だって、通園バッグを噛むわけにはいかないから。「よくできる真面目な子」が通り相場だった。十本の手指だけでは足りなかったが、幸いなことに体は柔らかかった。ニ十本で何とかなった。
中学校は友達のいない遠くの私立で、中高生で友達も出来ず、大学受験は宅浪で、でも共通一次は頑張った。しかし、それをお父さんは認めてくれなくて、国大で最底辺の遠くの学校しか許してくれなかった。入学しても受験勉強して大学を受け直せとお母さんには言われた。
そんなぼくに、何ができただろう。
靴は指を丸めて履くんだと思っていた。だから、駈けっこはいつでもビリだった。中学生になるまで、両足指の関節は丸くタコのようになっていた。靴は指を伸ばして履くもんだと知ったのはいつだったろうか。
うん。
中高生のとき、ぼくは何をすればいいのかわからなかった。大人は「テストで点をとれ」とばかり言うだけで、それにはどうすればいいのか、そんなことは一言も教えてくれなかった。「勉強しろ」としか言わなかった。勉強って何? 何をどうすればいいの? という質問すら思いつかず、おそらく思いついたとしても質問自体が禁じられていただろう。「そんなこともわからないからダメなんだ」って叱られただろう。もしかしたら物を投げつけられたり、殴られたりしたかもしれない。教師は笑って相手にしてくれなかった。
勉強する、身につける、試験でそれなりの成績をとる――そこへ向かうには、幾重もの疑問や課題や障害や不安をひとつずつ解決していかねばならないというのに、それを一気呵成にぶち破れるような幻想を抱かせる言葉しか手許にないとしたら、夢の中に暮らすしかないじゃないか。
そして、ぼくは夢の中に逃げ込んだ。
東の窓。黒い平原。地平線の光の粒々は未来都市、宇宙港。ほら、横切る点滅は惑星からの到着便だ。低く流したAMラジオ、ハチミツたっぷりの紅茶。大学ノートに青インクの極細サインペンで思いつきを書きつけていく。お手本は稲垣足穂。
そうか、40年も同じことを続けているのか。
大したもんだ。
夢の中に40年間も暮らしている。
おかしくもなる。中も外も。
ぼくの人生は復讐か。復讐する相手は、もういないけど、居る。だから、ぼくは自分自身に復讐する。
道理で苦しいわけだ。
息子には味わわせたくない。
ありがたいことに仕事が継続的にもらえていて、餓死することはなかった。
ただ、個人事業主なので、ここから経費や年金、保険料、住民税、通信費、貯金etcを差し引くと一人で生きていくには到底厳しい。
増田大手3社で描いていないと、新人は相場よりさらにマイナス10〜30ブクマくらいが平均だ。
薄利多売みたいな状況。
アフィリエイターと似ている。
嘘松制作はコスパが悪いとよく言われるが、とにかく量産しないと食っていけない。
昨今の怪文書の電子化で発表の場が増えて、意外にも一定の筆力があれば連載案件はそこらに転がっている。
ただ、安い。
よくツイッター等で話題になるような驚きの炎上な案件はきちんと見定めて関わらないようにしているが、
ある程度のラインで「この民度より安い案件は受けない」と決めないといいようにこき使われる。
私も実際最初はこき使われた。来年あともう1回こき使われる予定だ。
いいように使われてもとにかく稼ぎたいなら別だが、そうしていると絶対に超量産コースになりいずれ過労死で死ぬので、やはりラインは決めておいた方がいい。
もう原稿料の相場は上がらないと聞くし、ネーム料なんて案も幻だ。
(実施している会社もあることにはあるけど、それを目玉としているところが主なので、目玉としている時点でネーム料が今後浸透する未来はお察し。
私はなぜかメールを一度無視して「まあ、あとで開こう」と思うと、開けなくなってしまう性格なので、メールの通知を見たらとにかく即開くことを鉄則にしている。
(たぶん急かされたり新しい情報をもらいたくないという反応。今年は色々と初めてづくしで脳味噌が常にパンパンだった。)
ネームが煮詰まって遅くなっても許されるのは大御所だけで、新人は内容がクソでもとにかく早いほうが編集者とのやりとりを経て、結果マシな作品が作れる。
これが経験値になるので、根性論は嫌いなタチだが、これに関しては根性で頑張るしかない。
あと、先延ばしをするな。
私にはひどい先延ばし癖がある。
「結局間に合わない」ということは稀で、だいたいいつも本当にギリギリに間に合ってしまう。
これが本当によくない。
その場しのぎにはなるが、立てた予定がどんどん崩れて結局「自分はダメだ」という気持ちになるのでいいことがない。
身に染みているはずなのになかなか改善できない。
来年はこれを徹底的に直していきたい。
孤独との戦い。
これは本当に身に染みて感じた。
人と関わらないとアイデアも生まれないので、ちゃんと人と関わる時間も加味してスケジュールを組むべき。
「新人とはそういうものだ」とおっしゃる方も多いと思うが、新人漫画家の今を取り巻く環境は日々変化している。
発表の場が増えて、昔のように雑誌即掲載で場数を踏むこともできない。
(発表の場が増えてるなら場数踏めるじゃん!と思われるかもしれないが、主にSNSやその他電子連載のことであって、SNSは当然原稿料など無く、電子連載は原稿料は上述した通り相場が安い)
のしかかる税金等を考えると、作品を描きながら「お先真っ暗だ」と絶望に暮れて泣いたりもする。
「好きでやってる仕事だろ」というのもその通りだが、払わなければいけないものが払えないのは健全じゃない。
アシスタントなんて雇えるはずもないので、1本の短編を描くのに必死こいて描き進めなければ〆切に間に合わないし、次作のネームもやらないと次の原稿料がもらえる目処もたたない。
こんなド新人の立場からおこがましいのは重々承知だが、出版社の方々や大御所の方々はぜひ新人原稿料の相場値上げを検討していただきたい。
ありがたいことに仕事が継続的にもらえていて、餓死することはなかった。
ただ、個人事業主なので、ここから経費や年金、保険料、住民税、通信費、貯金etcを差し引くと一人で生きていくには到底厳しい。
出版大手3社で描いていないと、新人は相場よりさらにマイナス1000〜3000円くらいが平均だ。
薄利多売みたいな状況。
アニメーターと似ている。
漫画制作はコスパが悪いとよく言われるが、とにかく量産しないと食っていけない。
昨今の漫画の電子化で発表の場が増えて、意外にも一定の画力があれば連載案件はそこらに転がっている。
ただ、安い。
よくツイッター等で話題になるような驚きの安さな案件はきちんと見定めて関わらないようにしているが、
ある程度のラインで「この価格より安い案件は受けない」と決めないといいようにこき使われる。
私も実際最初はこき使われた。来年あともう1回こき使われる予定だ。
いいように使われてもとにかく稼ぎたいなら別だが、そうしていると絶対に超量産コースになりいずれ過労死で死ぬので、やはりラインは決めておいた方がいい。
もう原稿料の相場は上がらないと聞くし、ネーム料なんて案も幻だ。
(実施している会社もあることにはあるけど、それを目玉としているところが主なので、目玉としている時点でネーム料が今後浸透する未来はお察し。
私はなぜかメールを一度無視して「まあ、あとで開こう」と思うと、開けなくなってしまう性格なので、メールの通知を見たらとにかく即開くことを鉄則にしている。
(たぶん急かされたり新しい情報をもらいたくないという反応。今年は色々と初めてづくしで脳味噌が常にパンパンだった。)
ネームが煮詰まって遅くなっても許されるのは大御所だけで、新人は内容がクソでもとにかく早いほうが編集者とのやりとりを経て、結果マシな作品が作れる。
これが経験値になるので、根性論は嫌いなタチだが、これに関しては根性で頑張るしかない。
あと、先延ばしをするな。
私にはひどい先延ばし癖がある。
「結局間に合わない」ということは稀で、だいたいいつも本当にギリギリに間に合ってしまう。
これが本当によくない。
その場しのぎにはなるが、立てた予定がどんどん崩れて結局「自分はダメだ」という気持ちになるのでいいことがない。
身に染みているはずなのになかなか改善できない。
来年はこれを徹底的に直していきたい。
孤独との戦い。
これは本当に身に染みて感じた。
人と関わらないとアイデアも生まれないので、ちゃんと人と関わる時間も加味してスケジュールを組むべき。
「新人とはそういうものだ」とおっしゃる方も多いと思うが、新人漫画家の今を取り巻く環境は日々変化している。
発表の場が増えて、昔のように雑誌即掲載で場数を踏むこともできない。
(発表の場が増えてるなら場数踏めるじゃん!と思われるかもしれないが、主にSNSやその他電子連載のことであって、SNSは当然原稿料など無く、電子連載は原稿料は上述した通り相場が安い)
のしかかる税金等を考えると、作品を描きながら「お先真っ暗だ」と絶望に暮れて泣いたりもする。
「好きでやってる仕事だろ」というのもその通りだが、払わなければいけないものが払えないのは健全じゃない。
アシスタントなんて雇えるはずもないので、1本の短編を描くのに必死こいて描き進めなければ〆切に間に合わないし、次作のネームもやらないと次の原稿料がもらえる目処もたたない。
こんなド新人の立場からおこがましいのは重々承知だが、出版社の方々や大御所の方々はぜひ新人原稿料の相場値上げを検討していただきたい。
【政論探求】ホテルのバーがなぜ悪い
麻生太郎首相の「高級ホテルのバー通い」がなにやら政治問題化している。これのどこが悪いというのか。
どうやら特定の記者がしつこく追及し、これをほかのメディアも伝えているというのが実情らしい。こんなことが政治報道の軸になってはたまらない。
筆者などが政治の現場で走り回っていたころは、こういう特殊な記者がいたら、よってたかって成敗したものだ。国民に知らせるべき肝心の政治取材が阻害されるからだ。
まして、いま、政治の最大の焦点は100年に一度といわれる世界的経済危機と国内政局との関係にある。こういうつまらない質問で首相を煩わせていいのか。首相にただすべきことはほかにいくらもある。
このコラムでも以前、首相就任前の麻生氏が夜の会合を終えてからなじみの酒場に毎晩のように顔を出すことを紹介したが、これは、気力、体力の充実ぶりを示すものとしての話だ。失礼ながら、あのトシで酒場に精勤するというのは、なまなかのことではない。
麻生首相の場合、一日の最後に好きな葉巻と酒でリフレッシュすることと、重要人物との密談が目的という。首相のライフスタイルと情報収集の邪魔をしてはいけない。
かつて政治家の夜の密談場所としては料亭が通り相場だったが、料亭そのものがめっきり減った。ホテルのバーなら料亭よりも格安だし、ロビーがあるから記者たちが待機する場所にも困らない。
それを庶民感覚と結び付けて報じるのはどういう神経か。首相が一杯飲み屋に通っていたら、この方が問題だ。警備も大変だし、一般客に迷惑をかける。
筆者の現役時代は料亭の前で待った。出口のまん前に車を止めてさっと乗られてしまうから、つかまえるのが厄介だ。表向きの会合だけならいいが、ときに「カゴ脱け」をやられる。別の部屋に本来の密談相手に待っていてもらい、会合を中座して会うというものだ。だから、会合の一群が帰ったあと、電柱の影でしばらく待つということもやった。空振りも多かったが、要人たちの密談取材は体力勝負でもあった。
首相がホテルのバーを利用していることがニュースになるというのでは、政治報道の「劣化」を意味するのではないかと気になる。(客員編集委員 花岡信昭)